生きる力を支えるもの
 
                  ホスピスチャプレン 沼 野(ぬまの)  尚 美(なおみ)
1956年、大阪市生まれ。武庫川女子大学薬学部卒業。神戸ルーテル神学校修士課程修了。米国ゴンザガ大学宗教部宣教コース修了。ケンシントン大学大学院行動科学研究科修士課程修了(心理学・カウンセリング専攻)。病院薬剤師から病院チャプレンとカウンセラーに転職。チャプレンとしては淀川キリスト教病院、姫路聖マリア病院などに勤務の後、カウンセラーとしては日本バプテスト病院などを経て、現在、宝塚市立病院緩和ケア病棟、神戸中央病院にてチャプレンとカウンセラーを兼職。京都ノートルダム女子大学非常勤講師。
                  き き て     金 光  寿 郎
 
ナレーター:  今日は、「生きる力を支えるもの」というテーマで、神戸中央病院など、いくつもの病院のホスピスチャプレンやカウンセラーとして、長い間人々の心のケアに携わってきた沼野直美さんにお話しいただきます。聞き手は金光ディレクターです。
 

 
金光:  よく亡くなる時の亡くなり方と、それまでの生き方とは共通しているとこがあるとかということを聞くんですけれども、沼野さんの場合は、もうほぼ三十年近くもそういう亡くなる方の最期のところを付き合っていらっしゃって、その人のいろんな生き方、あるいは亡くなり方、しかも心のケアをずーっとなさっていらっしゃるわけですから、いろんな方の亡くなり方なんかもご存知だと思うんですけれども、その中でこういうふうに自分も亡くなりたいなと言いますか、見事だなと、例えばですねこういうふうに生きた方が、こういうふうに亡くなられる。それはご本人が亡くなられた後、私の印象に強く残っていますというような、例えば一例としてそういうケースがあればその辺からは話を聞かせていただこうかなと思うんですが。
 
沼野:  あるご婦人が入院されていた時に、抱えておられる症状が、あまり軽いものではなかったんですね。普通の患者さんだと、「もう私死なせてください」みたいなことをおっしゃるのに、その人はいつも同じように生活をなさって、愚痴ひとつなくて、私はある時に、「まぁどうしてそういうふうにいられるんですか?」っていうふうにお尋ねをしたら、「私はちょうど良い人生をもらいました」っていうふうにおっしゃったんです。「それはどういう意味ですか?」というふうに伺うと、「私にとってちょうどいい主人を、私はいただけた。ちょうどいい子供たちを、私は授かった」。それはですね、最高の主人を私は伴侶として持ちました、というふうにおっしゃっているわけではなくて、ご主人様に対してもいろんな思われることはいっぱいおありだったと思いますし、子供さんに対しても、いろんな課題を抱えておられたという事実はあったんですけれども、「私に対してちょうどよかった」というふうにおっしゃったんですね。その次にですね、「私はちょうどいい病気をいただきました」と。この癌という病で余命がいくばくもないという情報までお知りになっておられる方が、その病気に対して「ちょうどいい病気をいただいた」なんていうふうな言葉を、私は今まで聞いたことがなくて、そしてその抱えている様々な症状ですね、「私にとってちょうど良い症状をいただいております」というふうにおっしゃった。あの言葉は忘れることができないですね。そして、こういう生き方、つまり私たちは人生において、いつも何かと比べてしまう。比べながら「どうして私はこうなの」と、いつも卑下をする。自分の恵まれていることを数えるというよりも、自分の足りないところを数え上げて不満を持つと。そういう人生を送っておられるんではなく、この方はご病気になる前から、自分の人生というものを、何かと比べるんではなくて、自分にとってちょうど良いサイズであって、それは自分にとって十分に感謝できるものであるというふうな生き方をしてこられたからこそ、この病の最期の日々にこういう言葉をおっしゃることができたんじゃないかな、というふうに思ったときに、私もこういう生き方ができたらいいな、というふうに思いました。
 
金光:  だいたい私なんかも、人間関係の中で、その人に対してイメージを持ってますと、こういうことがしてもらえるんじゃないかと。この人ならこれができるんじゃなかろうかと思うとですね、不足のものが先に出るんです。自分に対してこういうことをしてくれるのは本当にありがたいと思えるかというと、してもらって当たり前。で、してもらえないと不足が出るみたいなのが普通なんですけれども、今おっしゃった方の場合は、自分がどういうふうに考えて、どういうふうに日頃の自分の心をコントロールしているか、その辺をちゃんと心得たところで、ちょうど最適なご主人を得たと。そういう良い方に巡り会えたと言えるのは、これは本人が、相手が素晴らしいということも、もちろんそれもあるんですけれども、それよりもむしろご本人が自分の心というものをずいぶんよく見ていらっしゃる、よく感じていらっしゃる。自分というものは、どういう人間かということを心得たところで生きていらっしゃった。だから病気に対しても、「なんで私に限ってこんな病気に」と思うのが普通でしょうけれども、そういうふうに思わないで、「ちょうどいい病気をいただいた」なんて、ことは素晴らしい生き方ですね。
 
沼野:  そうですね。だいたい私たちの幸せ、そうでない、というものを決定的に決めるものというのは、やっぱり愚痴だと思うんですね。人生の中で思うとおりに行かないことや、自分が欲しいのを、人はたやすく手に入れると。こういうふうなことが毎回毎回人生のいろんな場面で私たちが体験するわけで、自分の不平不満というものを数え上げて生きるか、それともちょうどいい自分の人生に感謝をするか。その二つの生き方が実は最期の日々の生き方にやっぱりつながっているなと。ですからその方が、前向きに感謝をしながら生きておられるお姿は、その当時関わったドクターやナースにも大きな影響を与えました。ですから愚痴を持っておられる方々にお付き合いをするということも、私たちにとってはやっぱりしんどいことでもあるし、そして自分の人生に満足をするというこの行為というこの作業は、人生をかけた大きな作業なんだなというふうに思いましたね。
 
金光:  これは相手を生かすかどうかということにも共通するわけですけれども、相手を変えるのは非常に難しいですよね。
 
沼野:  そうですね。
 
金光:  だからこういうふうに考えていらっしゃると、もっと別の考え方にお立ちになると楽になれるのにというふうなことを、当然いろんなケースをご存知の沼野さんはお感じになると思いますけれども、こうした方がいいなんていうことは言われないわけでしょう?
 
沼野:  そうですね。その人の生き方として受け止める。ですから生き方に良いとか悪いとか、そういうふうな評価をするような考え方はまず持ちません。ですけど、その方がやっぱり生き方によって、自分がやっぱりしんどくなったり、辛くなったり、苦しんでおられる姿というのは、やっぱり見ていて辛いので、そのことにおいてはご本人が望まれれば一緒にお話をしたり…
 
金光:  やはりご本人が辛いときには、「なんとかならんものか」というご相談はされるわけですね、向こうから。
 
沼野:  そうですね。何で自分だけがこんなふうな卑屈な人生を送らなければならなかったかとか、自分がたくさんだまされてきたんだとか、逆に自分がしでかしてきたこと、そして人を騙してきたり、自分は人を裏切ってきた。そういうことに関しても、この世を去る時に、すべての人が同じ思いをしているわけではないでしょうけれども、いわゆるやはりある方々にとっては、良心の呵責みたいなものは働きますし、若干反省する時間というものもやっぱりお持ちでいらっしゃいますので、それを誰かに聞いてもらって、心が許されたり、楽になりたいという気持ちはみなさん持っていらっしゃる。そんな時に、まぁ私どものような職業、または心のケアというものが必要になっているんではないかと思います。
 
金光:  心のケアということですけれども、自分についての悪かったとか、一種のコンプレックスみたいなものが、奥の方にはあると思うんですけれども、そういうのを、例えばチャプレン、あるいはカウンセラーとしての沼野さんのお仕事の中で、自分だけで処理できなくて吐く出す。沼野さんに「こういうことがあったんですよ」と、そういうふうに自分の心の奥にしまっていることを他人に表現すると楽になるもんですか?
 
沼野:  それがね、日本人というのは、自分の恥なる感情を他人に話をすることで楽になるという経験を持っているというのが非常に乏しい国民なんですね。どちらかといえば、そういうことは人様にいうもんじゃないと。自分の心にグッとこめてというふうな国民ですけれども、でも一度そういうふうな信頼を持ってお話をしてみる。もちろんその人に裏切られることなく、しっかりと受け止めてもらえるという体験をしていただくと、その人の生き方も変わります。ですから願わくば、ひとりでグッとこめてというのは非常に日本人にとっては美談に終わるようなお話のようにも聞こえますけれども、私はもっと日本人というのは、カウンセリングという世界の中を、ときには分かち合う。人をもっと信頼をして、自分の気持ちを分かち合うということができる国民になってほしいとともに、それを分かつあわれた方々が、それを本当にご本人の望むような聞き方、またはその聞く態度がそういうふうに持てるようにやっぱり教育をしなければならない。言ってみたけども、裏切られたような気持ちがして、言わなきゃよかったという、こういう思いをさせていることもやっぱり非常に気になりますね。私は聞く側の方としては、「こんなことも生まれて初めてお話をしました」なんていうふうに言っていただいたときには、非常に責任を感じますね。ともに、言うことは出来たんだけど、だけど後で言わなければよかったというふうな気持ちにさせるほど残酷なことはないので、最終的には、「お話をしていただいて楽になりました。ありがとうございました」と言っていただけるように、こちらもやはり十分な配慮ができるものでなければならないというふうに思います。
 
金光:  これ人間誰しも、他で言おうと思って生まれた人は一人もいないわけですね。今日本に生まれている人で、日本に生まれようと思った人もいないわけで。自分から選んで亡くなる人もいますけれども―自分で自死する人もおいでになるですけれども、ほとんどの人は、自分でもっと生きたいと思っているのに、亡くなられる方が多いということは、いわば人間が生まれて生きていくこと自体がですね、人間の自分というものの力を超えるものの働きの上で生きて生かされているという。そこのところまでいけばですね、自分の変な考え方の頑固な塊みたいなものを、そういうものの壊れたとこの方が自由にできる。先ほどの自分の悪かったと思うことを、相手の人―カウンセラーなりチャプレンの人に話が出来るということは、常にその枠が壊れ始めていると言えば言えるのかなという気がするんですが。
 
沼野:  そうですね。そういうことになりますね。
 
金光:  やっぱり自分でしっかりしなきゃいかんと思うことと、そういうふうにチャプレンなり、あるいはカウンセラーの人なりに自分の思いを伝えることによって、土台が広くなるんじゃないかと。そうすると安定する。狭いところでこう掴まえていると、そこの土台がぐらぐらとすると、すぐコケたりひっくり返ったりしなければいけないでしょうけれども、そうでない世界があるということを体験させると随分違ってくるんでしょうね。
 
沼野:  そうですね。そして、いわゆる人間って切羽詰まると、余裕のある時は別なんですけど、「苦しい時の神頼み」なんて言われることにおいては、日本人は超一流だと思いますね。ですからやっぱり何かにすがりたいと思うぐらいのところまで追い詰められてしまうと、自然と人間を超えた力をやっぱり求めざるを得ない。「これを求めますか、求めないですか、どっちでもいいですよ」という、そういう単純なものでなくて、求めざるを得ないと。求めないと生きていけないという。これがご病気の方々にとっては過酷なんですけれども、そこまで追い詰められたからこそのお姿だというふうに思います。ですから、よく奇跡が起こったら、ずいぶんホスピスでよくみなさんお使いになる「ひょっとしたら奇跡が起こってくれたらねえ」なんて、余命一ヶ月二ヶ月と言われている方が、ここでもう本当に大きな奇跡を起こって生きれるようになって欲しいなという、この「奇跡」という言葉をお使いになっておられる方は、現実を逃避したり、現実を否定している人ではないんですね。奇跡ぐらい起こらなきゃ、もうこの現実を変えることが出来ない位の現実の厳しさを知っている人が逆に使っている。ですから、私がたまたまおりますこのホスピスという世界は、そこまで追い込まれておられる方々ということを考えますと、人間以上の力を求めるというこの条件においては非常に整った条件の中にいらっしゃる方と、私は触れ合っているのかもしれません。ただ宗教に頼るというのが、ある人にとるとやっぱり弱い姿。宗教なんかに頼ってみたいな、そういうふうなイメージすらありますので、素直な気持ちで人間以上の神なる存在、そういうものに素直に心を寄せて開くということに関しては、まぁ残念ながらそこまで追い込まれたら、みんなそうなるのかというとそうではない。
 
金光:  そうでしょうね。
 
沼野:  ということになります。
 
金光:  ただ私なんかは、ずいぶんいろんな方のお話を伺っているし、宗派もいろいろな違った方の宗派の違いなんかも感じながらお話を伺ってますと、こういう言い方をされる方があるんですよ。「宗教に入るという。ところが宗教の世界って非常に自由なんだと。宗教というのは束縛じゃないんだと。宗教の世界で本当に我が身が浸るといいますか、その世界に入って生きられると、自由なこんな楽な世界があるのかなぁ」というような言い方をされるんですね。これはキリスト教、仏教を問わず、そういうふうに、宗教というのは人間の一番根本のところで、その人間を超えた力の働きを、日々の我が身の生き方の中で味わうことができるようになると、どうも私なんか想像でいうわけですけれども、非常に楽に生きていらっしゃる。そういう感じがするんですがね。本当は生きている間に、そういう広い世界であるんだということを、自分もその世界に生かされているんだということを知ることが、感じることが、味わうことができれば、生きている意味が変わってくるように感じられるんではなかろうかと想像するんですけどね。
 
沼野:  そう思いますね。そして、やっぱりすべての宗教に共通されていることの一つが、やっぱり「生かされている」というこの関係が、自分が一人でグッとしゃかりきに生きているというのではなく、生かされているということは、ある意味では非常に心地の良いもの、自分の生き方だけで踏ん張るんではなくて、生かされているというこの感触が。ですけども、宗教にはいろんな宗教があって、「これを信じれば、何もあなたに不幸なことが起こりませんよ」というふうに言われることから来る安心感という意味ではなくて、私のバックボーンにしているキリスト教においては、この人生においてたくさんの苦しみがあるはずだということを認めているんですね。むしろイエス・キリストが、このたくさんの苦しみがあるにもかかわらず、その苦しみのある、困難のある人生を、どう生きるかということを教えているのがキリスト教だということを考えますと、「何にも苦しいことがないから安心だよね」と言ってふわふわと自由を楽しむと。自分のエゴのままに好きなことだけをして生きるという、そういうイメージではなくて、苦しみもちゃんとある。困難もたくさんある。いろんなところにいろんな苦しみがあるんだけど、そこをどう生き抜いていくか。そしてどう生かされるのかということを教えていただけるこの宗教というものを、ここには深さがあるなというふうに思います。
 
金光:  私、信心の中にも、思い込む信心もある。この教えだったらこうに違いないと。自分が掴まえているところが良いところだけ掴まえですね、自分の都合の悪いところは掴まえたくないもんですから、思い込みの信心というのは、思い込みの怖いこともあるわけで、そうするとこれはまたもう一度スタート台のところからもう一度歩き直さなければいけないようなことにもなるわけで、ただその辺のところではやっぱりそういう時にどういう方にお会いするか、それによって随分違ってくるんでしょうね。
 
沼野:  そうでしょうね。やっぱりその方が何を言ってくださるのか、どういう励ましをしてくださるのか。または自分の心の中にどういうものが眠っているのか。それをどう引き出してくださるかによって、その方の人生は変わる。ですから元気なうちからもそうですよね。私たちは、どういう生き方とのご縁をもって生きるかによって、大きく言えば生き方そのものが変わる可能性がありますね。ホスピスという世界においては、人生で最期に出会う人たちが、ホスピスで勤務をしているものということになりますので、私のみならず、ドクター、ナース、職員全員が何を語るのか。どう寄り添うのか。それによっても最期の方々の生き方、または今までの生きてきた意味というものが変わってくるんじゃないでしょうか。それを見事に私どもに教えて下さったのが、マザーテレサ(カトリック教会の修道女にして修道会「神の愛の宣教者会」の創立者。またカトリック教会の聖人である:1910-1997)だと思いますね。マザーテレサは、最後に「死を待つ人の家」というのを、インドのカルカッタのスラム街にお作りになられましたけれども、本当に人生に対して何の意味があったのかと思うような、貧しい日々をお送りになって、最期はまぁお体の調子が悪くなって路上に転がるようにして倒れておられる方々一人一人を、この施設に招き入れて、最期に関わる者のぬくもりを加える。その方々のお体に触れたり、話しかけたり、そういうあり方をもってですね、そのお一人お一人が旅立とうとされている貧しき方々を、自分は生まれてきて良かったと、もしお思いになったとしたらどうだろうということです。ですから、どう人と関わるかということに関しては、ホスピスのメンバーというのは、非常に責任がある立場にいるんではないだろうかと。「最期に出会う人々であるという、その自覚を持ちたいね」というふうに日々話し合っています。
 
金光:  考えてみれば、傲慢な言い方かもしれませんけれども、人間というのは生まれた時から死刑宣告されているわけで、いつ死ぬかが分からないだけじゃなかろうかと。だからそういう意味では、本当いうとホスピスに入って、余命宣告をされて、入ったときに初めて死ぬことを考えるよりも、むしろ日常どうせ死ぬんだから、その死ぬということを考えると、生きる意味を考えざるを得ないところがあると思う。その辺のところを生きる意味みたいなものは、どういう方向でお話になっていらっしゃいますか? 患者様に。やっぱり生きる意味がないから、「もう早く死にたい」とか、おっしゃるんだと思うんですけれども。
 
沼野:  やっぱり一つは、家族とか人との繋がりですよね。独りぼっちで生きているわけじゃないということに気が付くことの中で、自分の存在の意味というものが、やっぱり人は愛し愛されたい。だから自分を愛してくださる人、自分のことをやっぱり頼りにしてくれる人のことを、はっきりともう一度自分が悲しみや苦しみの中で見えなくなっている時に、それをもう一度確認をするということで、自分の立ち位置、または自分の生きている意味というものを確認できるということがありますよね。それからもう一つは、役割ですよね。自分が病床の中でも何かをやっぱり仕上げる。または何かをすることができる。例えば看護師さんに自分の体験談をお話しすることで、「いろんな学びになりました」と言っていただけるような、自分は最期までお世話を受けるだけじゃなくて、お役に立ちたいというような、その役に立てるものを何か見つけることができるかどうか。それは多くの場合、ご自分の体験をお話ししていただくことだけでも、私たちにとったら、「あなたの存在感の大きさ、ありがたい。また続きをお話し聞かせてくださいね」なんていうふうに申し上げてることがあります。これらは宗教があるとかないとかというレベルではなくて、最終的にはもちろん神様があなたを「生きていなさい」というふうにおっしゃっておられる。そこの意味まで到着できるかどうか。そこまで関心があるかどうかというのは、話は別ということになりますけれども、そこまではまずお話はできるかなと思います。
 
金光:  「家族」という言葉が出ると、例えばさっき先生がおっしゃったマザーテレサの場合は、シスターですから家族がないわけですよね。でも家族はないけれども、インドのああいう貧しい人たち、それこそその食べるものも食べれなくて、倒れてしまっているような人を、ずーっと世話して亡くなるとこまで面倒見ていらっしゃる。そういう世界というのは、家族ではないけれども、彼女の心というのは、そういう人たちの非常に基礎的なといいますか、普通はこの世にどうこうしようなんていうことは考えられなくなっている人たちの世界まで降りるというと、語弊があるかもしれませんけれども、そういう人たちと同じ地平で話をされたり、あるいは付き合いをなさっていらっっしゃる。そこでは家族以上の神様の下での平等性みたいなものが、身にしみて感じていらっしゃるということなんでしょうね。
 
沼野:  やっぱり人というのは、愛されたいと思っていますので、マザーテレサのシスターのみなさんの人への援助というのは、「やっぱりあなたは大切な人なんだよ」と。「あなたは価値のある人なんだよ」ということのメッセージを多く含んだ言動をなさるんだと思いますね。言葉掛けと、そしてときには身体をさすって差し上げたり、必要なものを口に入れて差し上げたり、無言の状態でも一生懸命聞こうとする姿を届け、自分に関心を持ってもらって、自分を大事にされるというのは、家族だからとか、家族でないからとか、というものを超えていけますよね。そして自分が独りぼっちだなと思っていることを、家族がいるから独りぼっちではないというものではなく、愛されているからこそ一人ではないと思える。その作業を、その活動を、たといその方々は特に家族のない方々に対して、ご自分たちの愛を注いでおいでになるように見えます。
 
金光:  今のお話を伺いながら、それが日本では家族でありながら、病人になっても見舞いにも来ないし、という方もいらっしゃるわけで、生物学的には家族のグループであっても、実際はもう別々なんですよね。
 
沼野:  逆にね、今度は家族がいるからこそ余計寂しいという、日本の現実もあるんで、本来家族がいてたら来るべきだろうと。来るべきものが何で来ないという。また別の葛藤と別のご自分の苦しみを持っておられるかもしれない。でも突き進んだら愛されたい。十分に愛されたい。例えば病気になった時に、自分のご主人様が―男の男性の方がご病気になったら、妻に来てほしいですね。子供たちにも来てほしいですね。家族なんだから、ほかならぬ病気の時なんだから、妻が来るのが当たり前だろうと思って待っておられるとこにきて、なかなか来ないと。で、子どもが三人いたはずなのに、なぜ一人しかこないんだと。こういうふうなことになったときにですね、ご本人がどこまでその思いを到達できるかという問題があるんですが、そうしたらなぜ来ないかというふうになってきますと、はっきり申し上げて、病気の時にその奥様や子供たちが、「お父さん大丈夫!」というふうにして、気持ちよく来てくれるように本人が生きなかったという問題がある。それに最期に気づかれて「謝りたい」というふうにおっしゃって、子供たちに来てほしいというふうに。最後の最期の時点に自分の今までのあり方が、結局自分に対して冷たい子供や妻を作ってしまったということ。実際に最期に「ごめんね」っていうところに行こうと思ったら、そのお誘いすら来ないと。ですから、「ごめんね」という言葉は、人生の最期に使うのは、極めて危ない。人生の最期に「ごめんね」と言って、ハッピーエンドにみんなが「お父さん、それでいいよ。大丈夫だよ」というふうに言ってくれるとは限らないので、私からすると、「間に合うごめんね」と「間に合わないごめんね」がありまして、できれば元気のうちから、「ごめんね」と「ありがとう」は使っておこうよ、と。特に家族に対しては、わかっていても「ごめんね」と「ありがとう」は使っておこうよね、というふうには申しあげたいですね。
 
金光:  これはしかし、ホスピスに来ていなくとも、大いに自分の周囲、ありがたみに対する考え方みたいなものをもう一度見直すいいチャンスだなと思いながらお話を聞かせていただきました。ありがとうございました。
 
     これは、平成二十九年十月一日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」に放送されたものである