鈴木大拙の妙好人観
 
               福知山公立大学客員教授 菊 藤(きくふじ)  明 道(あけみち)
1936年京都府に生まれる。1973年龍谷大学大学院文学研究科博士課程(真宗学専攻)満期退学。龍谷大学非常勤講師・京都短期大学教授を経て、京都創成大学経営情報学部教授(宗教学・倫理学)・京都短期大学名誉教授・浄土真宗本願寺派明覚寺住職。
               き き て       金 光  寿 郎
 
 
ナレーター:  今日は、「鈴木大拙の妙好人観」というテーマで、福知山公立大学客員教授の菊藤明道さんにお話しいただきます。聞き手は金光寿郎ディレクターです。
 

 
金光:  菊藤先生は、ずいぶんお若い頃から妙好人、これは『観無量寿経(かんむりようじゆきよう)』というお経に出て、阿弥陀如来さんのご恩を仰ぎ、本当に信頼・信ずる人を褒めて「妙好人」だとか、いろんな呼び方をされたようですけれども、非常に篤信の信者のことをおっしゃっているようですが、その妙好人について若い頃から研究なさったようですが、これはいつごろからどういう形で入られましたですか?
 
菊藤:  私は、浄土真宗本願寺派のお寺の長男として生まれまして、竜谷大学で真宗学を学ばしていただいて、そして三十五歳ぐらいから六十七、八歳まで竜谷大学で真宗学を講義さしていただいたんですが、そのほとんどは、特に前半は『教行信証(きようぎようしんしよう)』とか、あるいは蓮如(れんによ)上人のいろんな御聖教(おしようぎよう)とか、そういうものを講義さしていただいてきました。やはり理論としては一応いろんな勉強させてもらいましたが、どうも理屈を超えた阿弥陀さんのお慈悲をそのままに喜んでお念仏・感謝のひぐらしを送られた一般の市井(しせい)の人たち、名もないおじいちゃんおばあちゃんが随分お念仏を喜んで、そういう姿に惹かれまして妙好人研究という、特に煩悩を抱えながらお念仏の花を咲かされたそういうありがたい方に惹かれまして、妙好人研究に入ったということでございます。
 
金光:  そのたくさんの妙好人の中で、特に心惹かれた方というのは何人かいらっしゃいますでしょうか。
 
菊藤:  これは江戸時代、中期から後期にかけまして仰誓(ごうせい)とか僧純(そうじゆん)とかいう方が、『妙好人伝』というものを作られまして、百五十人ぐらいの妙好人のお話をまとめておられる。それを読みました時に、仰誓さんが一番最初に『妙好人伝』を書かれたのは、大和の清九郎(せいくろう)という方でした。これは本当に木樵(きこり)をしたり、人から雇われたりした普通のおじいさんですけども、大変な喜びでお慈悲の中に生き、苦難の人生を生きていかれて、周囲の人々からも「本当にありがたい、本当にもう生き如来様だ」というふうに、みんなから慕われた方の伝記が載っておりましてですね、それで大和吉野まで行きまして、いろいろと調査をさしていただきました。それからまた鈴木大拙(すずきだいせつ)先生が讃岐の庄松(しようま)という、これはまた普通のおじいさんですけども。阿弥陀様のお慈悲の中で感謝してひぐらしをされた讃岐の庄松という、『庄松ありのままの記』というのが残っておりまして、大拙先生もこれを非常に大事に喜ばれて、「宗教経験の事実」というこれはサブタイトルについておりまして、「庄松を中心として」という、讃岐の庄松のことを中心に書かれております。それからまたちょっと晩年になりましたら、今度は石見(いわみ)の浅原才市(あさはらさいち)という―この方は、いわゆる下駄作りの大工さん、おじいさんでしたけれども、六十四歳ごろから非常に多くの念仏詩というんですか、湧いて出るんですね、仕事しながらお念仏の歌が次々沸いて出ると。生涯におそらく七千首から一万首ぐらいまで作られると思うんですが、特に大拙先生は、その晩年は庄松から浅原才市の歌に没頭されて、今ロンドンにおられます大拙先生の直弟子の佐藤平(さとうたいら)先生が、最晩年に本当に地元まで行って、この才市さんのことを調べてですね、そして大拙先生の名のもとに『浅原才市集』という立派な本を出されました。多くの才市さんの歌が載っておりますが、これは大拙先生が亡くなった次の昭和四十二年に出版されておる。そんなことを大変心を惹かれまして、大拙先生に至り着いたというようなことでございます。
 
金光:  鈴木大拙という方は、私なんか聞いておるところだと、どっちかというと禅仏教をアメリカとかヨーロッパに伝えるのに随分功績があって、その禅仏教を中心に若い頃から修行された鈴木大拙先生が、妙好人という、いわば他力という、他力宗と言われておりますそのお念仏のほうのことに、浄土真宗の親鸞聖人の教えのほうに近づかられた、そこのところは菊藤先生はその辺はどういうふうにお考えでございましょうか?
 
菊藤:  鈴木大拙先生は、ご存知のように石川―加賀の国に西田幾多郎(にしだきたろう)先生と一緒に、同じ年に生まれて、そして金沢の第四高等学校から東京大学の哲学科、専科に学ばれて、生涯親友として交あわれたんですけど、お二人とも参禅をされておる。禅の体験というものをされて、西田先生は哲学、鈴木先生は仏教というふうに道は二つ別れたんですけども、その根底にあるものは、やはりこの宗教経験というものが非常に大事であるということを、その点を重視されたようでございます。大拙先生は、明治二十五年に鎌倉の円覚寺に釈宗演(しやくそうえん)老師がおられまして、その宗演老師に参禅されて、二十四歳の時でしたかね、「大拙」という名前をもらわれて、それから二十六、七歳で見性されておる。まぁ一つの臨済宗の禅の悟りを開かれまして、そしてその後アメリカの方へ行かれまして、自由思想家のポール・ケーラスのオープン・コート社の編集員として十一年間されまして、いろいろ研究されました。それで大拙先生は、『華厳経』とか、『涅槃経』とか、『楞伽経(りようがきよう)』とか、そういう大乗経典を、最後は『金剛経』の研究をされまして、いわゆる「即非の論理」という、A=非A=A(AはAだというのは、AはAでない、ゆえに、AはAである。となる。つまり、一旦Aを否定しておいて、そのうえで改めてAを肯定する、というような論理構造になっている。これは、通常の分別知の論理から見れば、非合理そのものでしかない。しかし、その非合理が禅の立場から見れば非合理ではなくなる。むしろ、こう捉えることで、物事の本質がわかってくる、そう考えるというのである)というような、そういう否定を通した絶対肯定の世界を生み出された。それでそこにやっぱり宗教―禅というものの自らの心の内に仏心を見出して、そして無心の世界といいましょうか、あるいは「放下・はなち」全部解き放つという、そしていわゆるすべてのものに生かされているという、そういう禅の経験を持ってずっと来られまして、それでヨーロッパ・アメリカあたりに禅を広められた。これは間違いのない大きな業績であったと思います。ところがそこに学習院の教授を辞めて、大正十年頃、五十一歳頃ですね、大谷大学の教授に招かれて行かれまして、やはりその当時大谷大学には曽我量深(そがりようじん)とか、金子大栄(かねこだいえい)とか、赤沼智善(あかぬまちぜん)とか、そういう非常に優れた真宗の学者がおられまして、いろんな真宗のことを学ばれたと。そして昭和十八年には七十三歳頃ですけども、さっき申しました『宗教経験の事実』この中でそれこそおじいさんである一介の名もない修行を何もしていないおじいさんである庄松―この方が大変ありがたい境地達しておられたので、こういうことをおっしゃっています。「口称伝承も及ばない、そういうものがあるんだ。あるいは法然上人の再来だ」ということで、それから昭和十九年には本当に戦争の末期でしたけども、『日本的霊性』これは西田幾多郎氏が非常に高く評価されたわけですけども、それをもって日本的霊性の具現者としての妙好人について述べられておられます。また昭和二十一年六月には、『日本的霊性的自覚』というような本も出されました。それから昭和二十二年十一月には、『日本の霊性化』という。それから昭和二十三年間、七十八歳の年に妙好人浅原才市の歌を本格的に論じられた思想化し体系化された、そういう書物を出版しておられます。そういう中で結局人間というものは、知性的な分別―善悪とか、賢愚とか、浄穢、そして美醜、そういう二元対立を超えた霊性的な自覚においてこそ、人間は闘争や抗争や戦争を避ける唯一の道があるということを力強く述べられて、没後五十年の今日に至るまで大拙先生の願いは本当に声なき声として、私には聞こえるわけでございます。
 
金光:  私もこれまでいろんな方にお会いしてお話を聞かせていただいているんですが、比叡山で戦後第一回の千日回峰行を実行された葉上照澄(はがみしようちよう)さんという方からですね、「仏教には自力はないよ。全部他力だよ」ということをおっしゃっていたのを思い出したんですが、今度菊藤先生にお話を伺うので、その浅原才市のものをちょっと拝見しておりますと、浅原才市に、
 
さいち(才市)よい。へ。
たりき(他力)を き(聞)かせんかへ。
へ。たりき(他力)、じりき(自力)はありません、
ただ いただくばかり
 
というのがありますし、それからこういうのも面白いなと思ったんですが、
 
ぐち(愚痴)が、で(出)たでた、またでた。
でたよ、なむあみだぶと、
つろをて(同伴して)、でたよ。
機法一体、これがこと。
横目ふらずに、これを楽しむ。
ごおん(御恩)うれしや、なむあみだぶつ。
 
あるいはまた
 
機法一体
ざんぎ(慚愧)とかんぎ(歓喜)
これが六字のあみだぶつ
 
まあ「機」というのは、人間のことで、「法」というのは法則、ダルマということなんでしょうけども、パーリ語では「ダンマ」とかいうらしいけども、まあそういう法と阿弥陀如来さんと人間とが一体であるということを言っているんで、煩悩とそのお念仏とは離ればなれじゃないんだということもおっしゃっている。そうすると葉上さんが、「仏教には自力はないよ」とおっしゃったのは、ああいう難行―千日回峰行なんかなさった方が、それができたのもそのおかげ様だ、おかげだということをまぁ言外におっしゃっているわけですが、その辺のところになってくると、自力他力の区別はないというふうに考えてよろしいんでしょうか?
 
菊藤:  はい。真宗では親鸞聖人は、比叡山で二十年、それこそ九(ここの)つで出家して二十九歳までこのいわゆる常行堂の堂僧として、天台僧として修行されまして、そして六角堂で百日参籠の後に法然上人に会われて、そして本当に阿弥陀様のお慈悲に救われたと。それを『教行信証』には、第十九番、一生懸命努力して、善を積んで浄土に往生するという道。それから二十願、一生懸命お念仏を唱えてですねその功徳によって浄土へお念仏する道。そして最後は第十八願という世界ですね。絶対他力の世界へ行かれた。十九番、二十番はやっぱり自力の諸行であり、自力の念仏であって、そこではまだ十分大拙さんの言葉で言えば、霊性的自覚に達していないと。そして十八願の絶対他力の世界へ入ってこそ、初めて人間の本当の姿がわかってくる。またこの世で如来さまと出会うことができるということを説かれましたが、禅の方では自分で悟りを開く。それは自力なんだというふうに言われますけれども、それはやっぱり一生懸命修行を通して自分を見つめて、そして無心になると。あるいは「放下(ほうげ)」という言葉がありますけども、自分を解き放ってみると、あらゆるものに生かされておったという。そういうことがあるやに聞いております。私も三十代ぐらいに葉上照澄先生の、その今おっしゃっていただきました講演を聞いておりましてね、やっぱり千日回峰行をしたが、「自分の足で歩いたんじゃなしに、仏様が自分の足を一歩一歩前へ後ろから押し進めてくださった」という。それは非常に印象深いですね。講演を竜谷大学で聞きまして、今それを思い出しておりましたか、やっぱり才市さんも、
 
才市には
自力も他力もありません
一面他力 なむあみだぶつ
 
これは大拙先生もいろんなところに引っ張って喜んでおられます。自力とか他力とかという言葉は、教学の上では必要なんでしょうけども、ある面の分別でありまして、その二つに分けるその本(もと)はやっぱり阿弥陀様の、あるいは釈尊の悟りである大智と大悲であると。大智即大悲。大拙先生はほんとにこの人類を救うのは大智即大悲―大慈悲の実践以外にはないんだということを、亡くなるまで言われましたし、私の心にはそれがものすごく今の響いて、今の闘争やら対立、戦争、そういうお互いが厳しく対立するのは非常に愚かなことであると。やっぱりそれば二元論に立って、善悪や賢いだ愚かである、綺麗だ汚いだと、高いだ低いだ、左だ右だという分別をするのが人間の妄念でしょうけども、それを二つに分けるのは仕方がないとして、その根底にある二つに分かれる前の霊性的な一つの悟りの世界を、一人一人が目覚めて、大慈悲の心をもって処していけば、戦争なんかなくなっていくんだということをおっしゃっておりますので、大変そこは私にとってもありがたいところでございます。
 
金光:  その辺の消息を、浅原才市という方はいろんな言葉で表現されているようですが、例えば、
 
世界に自力わなし
わがこころこそ自力なり
自力が他力にしてもろ(貰)
今わあなたともう(申)す念仏
 
あるいは
 
助かるとわ、それは無理よ、
助けてあることの、なむあみだぶつ
 
まぁ「助かる」というのと「悟り」というのは、同じ面を違った角度から表現すると、一方は「悟り」という表現になるし、一方は「助かる」ということになるんですけれども、「助かるとはそれは無理よ」と。人間が自分で自分を助ける、仏さんの力を借りて、自分の力で仏さんの力を借りて、あぁこれで助かったなんて思っているうちは、まだ自力だということで、これはやっぱり体験の強さみたいなものが、そうじゃなければ「助かるとはそれは無理よ」なんていう言葉はなかなか出てこないと思うんですけれども、そういうところを言いながら、しかも
 
これさいち、よろこびわ、
あてにわならぬ、
きゑ(消)てにげるぞ、
にげぬ御慈悲わ、
親の慈悲
 
なんていうことがありまして、やっぱり何か多少そうかと思えると、すぐ喜んで嬉しがるんですけども、喜びはあてにならんという。これも体験の非常に深いとこから出てきた言葉ではないかと思うんですが。浅原才市には、いろんなそういう意味での、いわば体験の深さみたいなとこから出た言葉。これは後世の私たちにとっては非常に参考になる消息であるように思いながら本を読ましていただいたんですが、こう随分いろんな方の研究を長くなさっていらっしゃる菊藤先生は、やっぱりその辺のところはいろんな言葉として残されているのをご覧になっていらっしゃるわけでしょうね。 。
 
菊藤:  はい。浅原才市さんという方は、島根県の今の大田市(おおだし)温泉津町(ゆのつちよう)という、それこそ漁村に生まれて、若い頃三十代からは博多の方へ行ってですね―博多より少し先なんですけども―船大工をされておりました。五十八歳ぐらいまでは船大工をしながらも、その間でいろんなやっぱり聞法生活をしておられまして、随分こう苦労してお説教を聞いたり、いろいろと迷ったり考えたりされまして、そして五十八歳で故郷の温泉津へ帰って、今度は下駄を作る仕事をされまして、浅原履物店というの作って、近くの浄土真宗本願寺派の安楽寺というお寺の住職で梅田謙敬(うめだけんきよう)という、これは大変な学者でありまして、後には本願寺さんの勧学(かんがく)になられた方ですけれども、その方のところへずーっと聞法に行かれて、六十四歳ぐらいの頃から自然に歌が出てきだしたと。それを鉋屑(かんなくず)に書いて、あるいは下駄の歯の板の切れ端に書いて、そしてそれを和尚さんとこに毎朝持って行って見てもらうのが大変楽しみであったと。梅田和尚さんもそれを大変に喜ばれて、「これはノートに記しなさい」ということで、それがもとで沢山なノートを残されまして、それが昔は七十冊ほどあったんですけども、その半数は東京の火災で焼けまして、今三十四、五冊が残っておりますが、それをもう大拙さんは非常に喜ばれて、晩年指示されました佐藤平先生は、晩年はもう本当に才市三昧だったというふうに書いておられますが、やはり普通の阿弥陀さんを向こうに置いて、こちらからなんまんだぶつを唱えるんじゃなしに、その阿弥陀様の方からもう念仏となって私の命となってくださっておると。自分は煩悩しかない。しかし煩悩があるからこそ喜びもある。ちょうど泥池の中に、蓮の種が落ちてパーッと広がって蓮池になるように、煩悩はあるんだけども、煩悩がまんまでこの仏心というか、阿弥陀様のお慈悲を喜ぶ世界が開けていったと、こういうふうに私は非常にそこをありがたく思っております。
 
金光:  なかなか本なんか読んだぐらいじゃとてもそういうところへは近付きにくいような気がするんですが、長年妙好人と言われる方をご研究なさって、そういう方たちがある所までいらっしゃる。それは何か秘訣みたいなものはあるんでしょうか?
 
菊藤:  そこに「煩悩即菩提」というんでしょうか、煩悩を取ってしまったら歓びの種もありませんから、煩悩があるまんまですべての計らいを、要は計らいですね。私たちはすぐ疑ったり、自分でなんとかしようという、そういう計らい。それはまぁ自力というんでしょうけども―真宗では、それを皆こうそれはいつの間にか消えてしまって、阿弥陀さんのお慈悲の中で本当に安らかにひぐらしをさしていただく。その中で自分の浅ましい機の信心といいましょうか、罪悪臨終の姿が知れますし、またそのまんまで如来さまのお慈悲に今抱かれておると。阿弥陀様のお慈悲の中で今暮らしておるというその喜びがまぁ仏門一体というんでしょうか、機法一体というんでしょうか、それが生活の中に滲み出ておる。そこに救いがあるということをやっぱり大拙さんは見抜かれて、結局人間が救われるのはそういう大智、あるいは大悲心であると。それさえあれば戦争なんかいっぺんになくなるということをおっしゃっておられますね。
 
金光:  他力というと、あなた任せ、人任せみたいにお考えの方もいらっしゃるようですけれども、大拙さんの言葉で、「他力にも工夫がいるぞ」とおっしゃっていたことがあるんだそうですが、やっぱり「工夫が要るぞ」というのは、いわば自力がどこまでいっても取れないということを、どこまでご存知、自分自身が知ることができるかという、そこのところでやっぱり他力には工夫がいるということをおっしゃったと思うんですけども、本当の他力というのは、それこそ機法一体の世界へ行ければ、そこの、あ、そうか、その船に自分は乗っかって、船と自分はバラバラじゃないだというところを実感できると思うんですけれども、まぁそこのところまで行ければ、人間の一番の喜びというか、幸せを感じるでしょうけども、なかなかそこまではこれはどうかななんてすぐ思うもんですから、なかなかそこまでいけないんですけれども、鈴木大拙さんが最後の最晩年に浅原才市を初め、妙好人という人たちのことをずーっと力を込めて紹介されたというのは、菊藤さんはどういうふうにお考えでございましょうか?
 
菊藤:  私も最初はですね、鈴木大拙先生はやっぱり禅の人だという、これは一般的な、しかし禅宗という宗派の学者ではなかったと。もっと根源的なお釈迦様の悟りの世界、それは自利利他の往相(おうそう)還相(げんそう)と言いましょうけども、そういうところに根源があってですね、決して禅だから、あるいは真宗だからという、これは真宗の中にも、あるいは禅の中にも、禅の方にも、大拙先生の禅は本当の臨済ではないとか、真宗の中では大拙先生の真宗は禅的な真宗理解だという、かなり批判があるわけですけども、私にとりましてはそれはあくまでも宗派的な立場から見た感じで、外から見ておると。ところが大拙先生のこの霊性的な自覚の内側を覗いてみると、そういうセクトというんですか、宗派、これはキリスト教さえも、キリスト教の中にも、修道士で、しかも靴を作ったり、全く学問がなくて炊事係をしたような人がありまして、「自分はもう神の中に一緒に暮らしているんだ。神と共に自分は暮らしておる。それだけだ」と言うたことを、大拙先生は、「これは立派な妙好人だ」とはっきりおっしゃっていますね。だからキリスト教であれ、イスラム教であれ、宗教を外から見て、そして二元の対立によって自分の宗教というものをかえって利用してですね、自分の我執を満たそうとすると、これは争いになります。そうでなしにどんな宗教であっても、本当の本の霊性的な自覚に気づけば、そういうものは愚かしいことであったということに気づけば、世界平和はあっという間に実現するんじゃないかと。これは大変難しいことですけども、その願いをもって大拙先生は、九十五年の人生を衆生無辺誓願度(しゆじようむへんせいがんど)と。衆生―生きとし生けるものは限りないけれども、どこまでも済度したいという願いのもとにですね、去年がちょうど没後五十年になるんですけども、今もその声は私は鳴り響いておるというふうに、私はありがたく今も私なりに受け止めさせていただいております。
 
金光:  鈴木先生が亡くなられて五十年経ったわけですけれども、今こそもう一度改めて戦争に利用されない宗教の本来のところを、我々も味わっていかないと、世界はますます混迷の度を深めるんじゃないかと思いながら聞かせていただきました。どうもありがとうございました。
 
     これは、平成二十九年十月二十二日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」に放送されたものである