イスラームという生き方G人間の価値は何に由来するか
 
                京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科教授・
                同付属ハダーリー・イスラーム弁明研究聖典長 小 杉(こすぎ)  泰(やすし)
            立命館大学授業担当講師       小 杉(こすぎ)  麻李亜(まりあ)
 
ナレーター:  シリーズ「イスラームという生き方」。イスラームの聖典「クルアーン」の一節を紹介しながら、イスラーム教徒ムスリムたちの生き方を十二回にわたって読み解いていきます。第八回は「人間の価値は何に由来するか」と題してお送りします。お話は京都大学大学院教授小杉泰さん、そして立命館大学授業担当講師小杉麻李亜さんです。
 
小杉:  私は昔エジプトに留学してましたけれども、その頃よく話を交わしていた知り合いにファトヒーさんという人がいました。ファトヒーさんはビルの門番をやってるおじさんで、アラビア語では「バゥワーブ」、バーブ(門)ですね、扉とかの守り手と言う意味なんですけれども、今風に言うとどうでしょう、「守衛」と言うんでしょかね、守衛さんですけれども、でも家族と一緒にビルに住みこんでるんですね、門番の人たちは。そして昼間も日が暮れてからもビルの入口脇に椅子を置いて、陣取っているという、そういう人です。ファトヒーは、私の友人が住んでるビルの門番だったのでうよく話をしてたんですが、ある時彼の隣に座って話し込んでいると、「人間とは何か」という話題になりました。ファトヒーさんは、「人間はみな同じ」と言うんですね。「誰もがアーダム(アダム)。アーダムというのは、アラビア語でアダムとイブのアダムのことですけども、人類の祖ですね。「誰もがアーダムの子供として、神に創られたのだから」といいます。ファトヒーさんは伝統的な長い服を着て、頭にはターバンと言う出で立ちの真面目なムスリムなんです。彼が人種も民族も関係ないと言うその根拠はシンプルで、「アッラーは土からアーダムをお創りになった。だから、土の種類と同じだけ、人の肌には種類があっても当然なんだ」というんです。ファトヒーさん自身、ナイル川上流の上エジプト地方出身のヌビア系の方で肌の色は異常に濃い褐色なんですね。日本人が見ると黒人かなっていう感じです。エジプト人は古代からナイル渓谷に住む人々たちがいて、そこへいろんな時代に外から到来した人々が混じりあって出来上がってます。ですからほとんど白に近い感じの肌の方もいれば、真っ黒な方もいて、褐色にもいろいろ種類があるんですね。日本語で「肌色」と言いますけど、そういう言葉成立しないわけです、いろいろあって。それが当たり前なので、エジプト人で互いの肌の色を気にする人はいません。ファトヒーさんの「肌の色は土の色で、人は皆同じ」という言葉は、エジプトの日常生活と合致するもので非常に強い説得性がありました。イスラームは宗教として、人間の価値や人生の意義を語りかけます。そもそも人間は立派で偉い存在なのか。だから謙虚さを学び、威張ったりせずに生きなさい、というのでしょうか。それとも人間はむなしい存在、卑小な存在なので、それにめげずに一生懸命生きなさい、ということなのでしょうか。今回は人間はなぜ尊いと言えるのかという問題を考えてみたいと思います。まず「ナフス」という言葉に注目します。「ナフス」には、「魂」という意味と「自分」「己(おのれ)」「自己」という意味があり、両方が重なって人間そのものを指しています。人間が創造されたことについて、クルアーンは次のように述べています。「女性章」の第一節です。
 
人びとよ、汝らの主を畏れなさい。かれ(アッラー)は一つのナフス(魂・自己)から汝ら(人類)を創った。そのナフスからその配偶者を創り、彼ら二人から多くの男性と多くの女性を(世界に)広めた。
 
この章句では神による人間の創造について、まず一つの魂があり、配偶者ができて互いに補う二つとなり、そこから多数の男女が生じる、と人類が展開する様子が順序だてて述べられています。クルアーンによれば人間の魂に三つの状態があるとされます。一番目は「命令するナフス」です。クルアーンのユースフ章五十三節には、「まことに魂は、悪を命じるものです」と書いてあります。悪を命じるというのは、己の欲望のままに振る舞うということなんですね。ちなみに、この身勝手な自己と戦うというのが、本来のジハードという考え方です。ジハードというのは、今は「聖戦」聖なる戦いと訳されること多いんですけども、欲望にあふれた自我の中での戦いは克己心(こつきしん)ということですから、これはむやみと自分が正しいと主張する戦いではないんですね。二番目の状態は、クルアーンの「復活章」二節にある「非難するナフス」ですね。これは信仰があり、善を信じるけれど、ついつい欲望に負けてしまう段階「ああ、またやってしまった!」と反省して、自分を非難し、責め立てるそういう魂です。確かに後悔したり、自分に文句を言い続けてしまうような心の状態は、私たちも誰でも覚えがあるんではないでしょうか。三番目は、心が平安となり安寧の状態に達した「安らいだナフス」というものです。クルアーンの「暁章」二十七説に述べられています。エジプトの友人アフマド氏が、かつてよく「イスラームとは帰依して、安心を得るという意味なんだから、安らぎの状態が目標です」と言っていました。ナフスの三つの状態のうち、どれが人間の基本なのでしょうか。クルアーンはこんなことも言っています。「無花果(いちじく)章」の四〜六節です。
 
まことにわれ(アッラー)は、人間をもっともよき形に創造した。次いで、彼らをもっとも下層へと落とした。ただ、信仰して善行をおこなう者たちを除いて。彼らには、限りない報奨がある。
 
とこうなっています。創造された時から人間がよい形をしている、という言葉から性善説、人間はそもそも善であることがわかります。ただし欲望のままに振る舞うのであれば低いところへと堕落してしまう。そこで克己心によって、人間としてよい生き方をしないといけないというのが、イスラームの人間観です。ここで少し興味深いのは、キリスト教でいう「原罪」という観念がイスラームには全くないことです。キリスト教とイスラームは姉妹宗教ですけど、そこは大きく違うんですね。「原罪」とは神に創造されたアダムとイブ、この二人が誘惑に負けて禁断の木の実を食べ楽園を追われてしまったことから来ています。その時の罪が人類に継承されている、とキリスト教では考えているわけですね。しかしムスリムは、二人が過ちを犯して、「原罪が生じた」というふうには思いません。むしろ過ちを犯したあと、悔い改めて赦されたんだと。そこが地上における人類のスタートだと考えています。これはあくまで自己肯定を基本とするイスラームらしい認識だと思います。十九世紀以降、世界中に宗教と科学は矛盾するとの見方が広がりました。イスラーム世界もその影響からは逃れられません。十九世紀のヨーロッパで生まれた進化論を考えてみたいと思うんですが、これは人間は単細胞生物から進化を遂げ、適者生存の長い歴史を経て、ついに霊長類の頂点に達したという見方です。これはイスラームの「人間は神に創られ、当初から人間だから尊いんだ」という人間観とはぶつかります。進化論だと、人間が偉いのは単細胞から人間に上り詰めたからで、最初から人間だからというわけではありません。キリスト教世界でも、進化論は、聖書に基づく「神による人類の創造」という教義とぶつかり、多くの論争を呼んできました。アメリカでは今でも、学校教育の中で進化論と創造論を教えることの是非が、しばしば裁判で争われています。イスラーム諸国でも、学校教育の場で進化論の扱いが問題となってきました。昔、大学で化学を専攻していたエジプト人女性が、「進化論って、学校で教わった後、先生が、これは間違いだけどねって説明するの」と言っていたのを思い出します。宗教と科学の対立は、進化論より前に天文学で起きました。「天動説」と「地動説」。太陽が地球の周りを回っているのか、地球が太陽の周りを回っているのか、という対立です。キリスト教会はかつて「天動説」を教義とし、コペルニクスやガリレオなどの天文学者が地動説を唱えると弾圧しました。宗教と科学が対立したわけですね。しかし、のちに天動説は地動説によって覆され、科学が宗教に対する勝利を収めたということになっています。でも、これは西欧の話ですね。イスラームではこうした対立や宗教と科学の間の勝ち負けというような問題は起きませんでした。イスラーム天文学の記録も天動説だったのですが、地動説を唱える学者もいましたし、大地が丸いか平かという点でも、どちらの説もありました。ただ西欧と違って教会制度がなく、天文学的な知識ついて正当な教義というものが決められたことはなかったのです。イスラーム圏では、天文学については天文学者が、「これが真理だ」と合意したことが科学的真理とされます。科学のどの分野でもそうなんですね。他の分野の学者、例えば神学者とか法学者は、科学には口を出さないというのが原則です。専門家の学説に依拠するのがイスラーム科学の基本的な姿勢なんです。ムスリムは天動説と地動説、どちらを信じてるのでしょうか。クルアーンはこんなふうに述べています。「ユーヌス章」の五節では、
 
かれこそは太陽を輝きとし、月を光として、その軌道を定め、汝らが年数(と時)の計算ができるようになさった方である。
 
あるいは、「雷電章」の二節では、
 
かれは太陽と月を(人間に)役立つものとした。いずれも、定められた時まで(軌道を)動き続ける。
 
「ヤースィーン章」四十節では、
 
太陽は決して月に追いつくことがなく、夜が昼の先を越すこともない。すべてが軌道を進み行く。
 
こんなふうに言われています。これを読むと天道説のように思いますが、友人ムハンマド氏によれば、「必ずしもそうではない」というんですね。というのは、彼が言うには、「人間から見れば、クルアーンのいう通りだ」ということなんです。じゃ地動説は何かと言うと、彼は、「神が創ったメカニズムだ」といいます。地球が自転してるから太陽が動いて見えるとか、地球の自転で太陽の陽のあたると朝になるとかということは、星の運行のメカニズムなんだと。彼は、「それは昔から天文学者が、イスラーム圏でもいろいろと研究してきたことだ」というんです。そしてこう言います。「人間にとって大事なのは、その仕組みが人間の暮らしにどんな意味があるかを知ることなんだ」と。つまり自然のメカニズムとそれが持つ人間的な意味や意義は違うということなんですね。さらに彼の言葉を借りると、「メカニズムが何であれ、私たち人間とっては、夜が明けて朝が来るのです。天文学者だって、朝になればうーんと伸びをして、ああ気持ちのいい朝だ、とか言うでしょう。日が昇った時に、ああ地球が自転して明るくなった、なんて誰も言いませんよ」と、彼はこんなふうに言っていました。
 

 
小杉:  イスラームという生き方。その第八回、「人間の価値は何に由来するか」と題してお伝えしています。イスラームには、神を中心とする考え方と人間を中心とする考え方の両面があります。神が巨大な宇宙を創造し、天地の間に人間を創った、という世界観は、神が主人公です。神が世界の所有者であり、主権者なわけですね。同時に、世界の中では、先ほど言いましたように、「神は、太陽と月を(人間に)役立つものとした」と言うように、人間が中心になっています。クルアーンは、「神は人間を地上における代理人とした」と言っています。そうすると、神と人間の関係では、世界も人間も神に従属して、神が中心ですけれども、一旦人間の次元に降りてくると、今度は人間が主人公となるということです。近代科学が盛んになり、イスラーム天文学でも、かつて主流だった天動説は地動説に玉座を譲りましたが、だからといって、こうした神中心と人間中心を合わせた宗教的な世界観がただちに衰えたわけではありません。天道説と地動説の違いは、ムハンマド氏の言うように、一方は宗教的な人間中心の価値観ですし、イスラーム的コスモロジー(cosmology:宇宙論)でありますが、もう一方は、天文学的メカニズム乃至(ないし)は科学的な事実である、というふうに分けることができます。二つはコインの両面のようなもので、両方とも真実ではあるけれども、全く別の役割を持っているということです。進化論の方は、それほど簡単ではありません。二つの人間観というのは、かなり対立面がありますので、それを調和しようとする人々の中には、「神による人間の創造」のメカニズムは進化論なんだ、と言う立場があります。イスラーム世界では、トルコを拠点とする団体がこれを唱えて、世界中のムスリムの間をまわってこの説を広めようとしています。この立場は、神の創造説を守るために、科学としての進化論を認めるということと折衷的な立場です。ただ友人のムハンマド氏は、この説には懐疑的でした。彼は、「進化論には、生存競争という考え方があるから好きになれない」と言っていました。アラビア語では、今でも日常語で、人類を「バニー・アーダム」つまり「アーダムの子どもら(子孫たち)である」というふうに言います。それは人間は神に創られた故に尊い存在であり、神の前で平等と説くイスラームの理念とぴったり合うわけです。クルアーンはこう言っています。「フード章」一一八から一一九節にかけて、
 
もし汝の主(アッラー)がそう望んだのであれば、人類を一つのウンマ(共同体)にしたであろう。彼らは、汝の主が慈悲を与えた者を除いて、みな相異し争っている。そうあるように、かれ(アッラー)は彼らを創造した。
 
と言われています。「部屋章」十三節では、
 
人びとよ、われ(アッラー)は一人の男性と一人の女性から汝らを創り、汝らを諸民族と諸部族となした。汝らが互いに知り合うようにと。アッラーの御許(みもと)でもっとも貴い者は、汝らの中でもっとも(神を)畏(おそ)れる者である。
 
と言われています。ここには、神が「アーダムの子供たち」をわざわざ多数の民族や部族に分けたということ。それは互いが知り合うことが目的である一方、分かれた人々が互いに争うことも現実である、ということが述べられています。しかし、争いに勝った者が勝者と言うわけではありません。究極的には、神を畏れる者、つまり信仰と善行に励む者が貴いとされています。社会的地位が高くて立派そうに見える人よりも、真面目に敬虔(けいけん)に暮らしている市井(しせい)の名もなき人たちの方が実は立派ということが十分にあり得るのです。ここには人間の価値は見た目でも社会的評価でもなく、富や権勢でもないという究極の平等論が表れています。神による人間の創造説と進化論の間の摩擦は、人間観をめぐる思想の問題も含んでいるのです。
 
     これは、平成二十九年十一月十二日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」に放送されたものである