平和をつくる道
 
                  曹洞宗長楽寺住職 峯 岸(みねぎし)  正 典(しようてん)
昭和28年群馬県生まれ。上智大学で哲学を学んだ後、愛媛県新居浜市、瑞応寺専門僧堂、楢崎一光老師のもとで修行。昭和57年からは聖オッテリエン大修道院にてベネディクト会修道生活を体験。昭和60年、群馬県・弘誓山長楽寺二十七世として晋山。大本山永平寺国際部講師、曹洞宗特派布教師等を歴任。宗教間対話研究所を開くに至る。その間、国内外にて坐禅指導、講演活動にいそしむ。                  き き て    鈴 木  健 次
 
ナレーター:  今日は、「平和をつくる道」と題して、群馬県の曹洞宗長楽寺(ちようらくじ)の住職峯岸正典さんにお話を伺います。峯岸さんは、二○○六年長楽寺に宗教間対話研究所を創設、さまざまな宗教の相互理解を促進して、世界平和に貢献することを目的として、仏教だけではなく、キリスト教、イスラーム、神道の聖職者や研究者などを招いて、毎月東京で研究会を続けています。聞き手は鈴木健次ディレクターです。
 

 
鈴木:  峯岸さんは、禅宗のお寺にお生れになって、それなのにカトリック系の大学イエズス会の上智(じようち)大学に進学されておりますね。ちょっと珍しい選択じゃないかと思うんですが。
 
峯岸:  少しライフヒストリーがありまして、小学生の低学年の頃、檀家さんがお寺に始まる時に、あまり若くは無いけども、歳とってもいないという位の女性の方から、にこやかに「将来はお坊さんになって、私たちの面倒をみてね」と言われまして、それが初めて〈あ、僕はお坊さんに期待されているのか〉という思いが生まれまして、だけどお寺で育ったからといって、そのままお坊さんになっていいのかどうか。お坊さんは法話する人ですから、法を説く人が、先祖伝来のこの教えでいいんだという確信がないといけないだろうと思うんです。ここのところいろんな宗教があって、いろんな思想がある。キリスト教の人はおそらくキリスト教が一番正しいと思っているだろうし、イスラームの人はイスラームが一番正しいと思っているだろうと。そうすると、一番正しいものはいくつもあるのか。あるいは一つが正しくて、あとが間違っているのか。あるいはそれぞれ違ったものを表現しあっているのに、同じ一つのものでも別の角度から表現しあっているに過ぎないのか。それをよく自分で確かめなくてはいけないという思いが生まれまして、考え方の筋道を間違ってはいけないと。そのためには哲学の勉強をしておいた方がいいだろうと思う時期にですね、たまたま哲学というのはヨーロッパの文化から出てきているもので、ヨーロッパの文化の根っこというのは、古代ギリシャ風の合理的な考え方と、ユダヤキリスト教の宗教的な伝統であるということを知りまして、古代ギリシャ風の合理的な考え方であったら、本を読んでも合理的であるわけですから学べるかも知れないけれども、ユダヤキリスト教の宗教的伝統というのは、お寺で育ってましたから、宗教というのは本を読んだだけで分かるものではないと。かえって間違って理解してしまう心配もあると。だから宗教を学ぶには、それに順じて生きている人たちから学ばないと誤解してしまう心配があるという思いを持っていたところに、たまたまヨーロッパから宣教師で来られた方々が哲学を講じていらっしゃるところがあるということで、上智大学に進んだわけです。
 
鈴木:  結果的にはその選択は良かったとお考えになっていますか?
 
峯岸:  どこの大学に行っても、息苦しかったところはたくさんあると思いますけれども、良かったと思うことは、神父様方との接触の中で、真の宗教者の条件ということに三つ気がつきました。一つは、明るいということ。暗いというのは、私たちの言葉でいうと、まだ底が抜けていない。それから二番目は、相手が浮かない顔をしているときに、「今日もどうかしましたか?」と声をかける積極的な優しさがあるということ。三番目は、他人には寛容であっても、自分の信心、信仰に関しては厳しいということを学ばしていただきまして、これは大変よかったと思っております。それから神父様の中で、坐禅を一生懸命実践されている方もいらっしゃいましたし、それからヨーロッパのいわゆる伝統的な考え方にも近づくことができて、それもよかったと思っております。その後修行道場に行きまして、
 
鈴木:  修行道場というのは、禅宗の修行道場ですね?
 
峯岸:  そうですね。学校を終えて禅の修行道場に行きまして、 二つ学んだことがありまして、一つは、道に親切ということは、道に厳しいということだと。
 
鈴木:  仏の道ということですか?
 
峯岸:  そうですね。もう一つは、真の宗教者の四番目の条件として、無限の厳しさと無限の優しさを兼ね備えているということを感じました。ですから、キリスト教のほうの方でも立派な方がいらっしゃる。仏教の方でも立派な方がいらっしゃる。そうすると、立派な方がよって立つ基盤というのも否定はできなくなる。だからどっちかが正しくて、後は間違っているのかというようなあれやこれかという問題意識から、先祖伝来の仏教でいいんだという落ち着きも必要なんだけども、だけどどっかであれもこれもという立場が構築されなければいけないという思いになりました。それで修行道場のお師匠様の日常生活に接しておりましたら、お坊さんというのは、お釈迦様に憧れ、お釈迦様のように生きたいという願い、誓いを立てて努力していく人たちのことをお坊さんというのだなとわかりまして、それでお坊さんの道を歩む決心、私たちの言葉で「安心」と書いて「あんじん」と読みますけれども、決心がついて、そちらの方向に進むようになりました。まだ自分の勉強は不十分だということで、もう一回大学院に戻って勉強をさせてもらいました。
 
鈴木:  上智大学の大学院ですね。
 
峯岸:  はい。
 
鈴木:  ヨーロッパの修道院なんかにいらっしゃったのはその時ですか?
 
峯岸:  大学院に戻りました時に、第一回東西霊性交流という修道院でヨーロッパのカトリックの修道院に禅のお坊さん達が受け入れられて、三週間の生活を体験してローマに集まって自分たちの体験を分かち合い、それから最後に時のヨハネ・パウロ二世と一見して、日本に帰ってくるという計画がありまして、それに参加することができまして、私は当時西ドイツの聖オッテリエン大修道院というところで修道生活を体験さしていただきました。
 
鈴木:  ヨハネ・パウロル二世に実際にお目にかかられた、
 
峯岸:  はい。十回お会いしています。
 
鈴木:  十回も。
 
峯岸:  はい。
 
鈴木:  どちらからも優れた人から影響を受けたというお話ですけれども、私の個人的なことで恐縮ですけど、私の父親は教会のオルガニストで、もちろん洗礼を受けていましたが、母親は洗礼を受けていないんですね。子供の時から教会には行きましたけども、今はそれほどストレートに言わないんですが、要するにキリストというぶどうの木につながっていなければ枯れるだけだと。キリスト教を信じなければ救われないというとね、自分の母親は、それじゃどうなっちゃうんだという、物凄くそのことは今でも解決したわけではないですけれども、気になって、なかなか素直な気持ちで信仰に入るということができなかったんですが、キリスト教、特にそういう傾向が強いと思いますが、どの宗教でも自分の所では救われるという立場が強いですね。そういう中でキリスト教、特にカトリックにも目を配り、仏教、禅宗にも目を配ってずーっとやってこられたというのは矛盾はお感じになられないでしょうか?
 
峯岸:  そこで一つ救われていることは、私たちの宗祖道元禅師が、「教えに関してとや かく言ってはいけない。その教えに従って生きている人たちの修行、生活の仕方が深いか、浅いかを見なさい」とおっしゃっているんです。そういう点で、私がご縁をいただきました聖オッテリエン大修道院の修道士の人たちの生き方というのは、やはり素晴らしい生き方であったと思います。それで修道院の修道士の徳目と、その古い禅のお坊さんの徳目というのが重なるところがありまして、そういう点でも教義は違いますけれども、求める生き方というのは似ているという感じは強く持ちました。
 
鈴木:  私、だいぶ以前になりますけれども、瀬戸内寂聴(せとうちじやくちよう)さんにお話を伺ったことがあ るんですが、その時に「山に登る道は複数あっても、頂上は一つだ」と。これは遠藤周作(えんどうしゆうさく)さんの言葉だというふうに思っておりましたら、「それを初めに言ったのは私だ」と瀬戸内さんはおっしゃいましたけれども、よくさまざまな宗教と、その到達点というようなことで、山の譬え話というのを聞きますが、峯岸さんはこの宗教を山に例える、山登りに例えるという譬え話をどんなふうに受け止めていらっしゃいますか?
 
峯岸:  先ほど鈴木さんがおっしゃった「この教会の教えでないと救われない」というと、例えば自分の周りに他の信仰を持っている人がいると、自分は信者さんであっても、つらい気持ちがあると思うんですが、古くは「教会の外に救いなし」とキリスト教の中ではおっしゃっておられた。それは第二バチカン公会議以降解釈を変えていますけれども、山に例えていうと、「頂上にたどり着く道はこの道しかない」というのが一つの立場で、伝統的にはこの立場をもっていらっしゃったと思います。それから次に、「麓には道はたくさんあると。だけど麓のたくさんある道は最終的にはこの道につながってきて、頂上に行けるのはこの道しかない」と。
 
鈴木:  今までは自分の信ずる宗教の道が、結局は中心になっていて、
 
峯岸:  そうですね。
 
鈴木:  相手の宗教、相手の信仰を認めるけれども、それは自分たちの言ってみれば王道につながってくる道だというふうな考え方、
 
峯岸:  準備段階の宗教という。それからさらにですね「頂上に行く道はたくさんある」という立場も考え方として出てきましたけれども、それはそれでそうであったらいいんですけれども、「いっぺんに複数の道を登ることはできない」という言葉があります。 最近はみんな一つの山しか考えていないけど、そうじゃなくて山がたくさんあるんだと。でその山に登る道を一つの山の道しか登れないんだと。登ったら頂上からの風景はみんな似ているという。山に登る道はたくさんあるという立場が、また違った個々にローカルな山があって、そこに道があるんだという考え方も出てきましたけど、だけどそれもみんな同じ地球の山ではないかと。いうと、もう一回ですね多元的な立場に戻ってくるかもしれないんですけれども、そこは実証されていないんですね。だから、だったらいいなぁという考え方だと思いますけれども、そこら辺がこれからどういう思索の展開を経ていくのか興味深いとこだと思いますけどね。
 
鈴木:  非常にグローバル化というようなことで、民族が大移動ですよね―難民とかそういうこともありますし。そうすると、自分たちの文化、特に宗教とは全く違った背景を持った人たちと一緒に暮らさざるを得ない。そういう現実がありますから、「山は一つじゃなかった」というような発想がですね、そういうところから発生してくるんだろうと思いますが、非常に現代的な問題だと思いますね。峯岸さんは、ドイツからお帰りになった後だと思いますが、十年以上も前になりますか、ご自分でお寺に「宗教間対話研究所」というのを設けられて、毎月ですかね、研究会を東京でやっていらっしゃる。大変な精力的なお仕事だと思うんですが、これはどういうお考えからお始めになったんでしょうか? 今の山の例えとも非常に関係があるだろうと思うんですけれども。
 
峯岸:  ドイツの修道院で素晴らしい経験をして戻ってきて、大学を終えてからですね、またもう一回修道院に戻って、西洋の修道生活を体験するとともに、神学の一端を大学で学ばしていただくというような経験をもちまして、帰ってきてズーッと蔭で宗教間交流とか宗教間対話のお手伝いをしていたんですけれども、日本で大きな国際的な宗教学の大会が開かれた時に、その時のメーンテーマの一つに、「対話」という項目がありまして、これやっぱり今の時代の一つのキーワードなんだろうと思うことと、それから当時ズッと関係がありました日本のあるカトリックの修道院に招待されまして、「カトリックの修道院が日本に根付くためにはどういう方向を意識したらいいのか」というようなお尋ねがありまして、その話し合いの時になりましたら、大事な話し合いをするための部屋があるんですけれども、そこにみんな正装で入ってきまして、中から鍵を閉めるんですね。それで私の話を聞いてくださって、質疑応答があった。その時に、彼らはこれだけ本気で私の話を聞こうとしてくださっているのならば、もうそろそろ暖簾を下ろしてもいいんじゃないのかと思いまして、それで「宗教間対話研究所」という暖簾を出しました。私のお寺にみなさん来ていただくのもいいんですけれども、距離がありますから、私が東京に行って、皆さんに東京に集まってもらった方が効率的なので、月に一遍東京で勉強会さしていただくという形を取るようになりました。
 
鈴木:  さまざまな宗教の宗教者、あるいはさまざまな宗教の研究家が講師として毎回招かれて、講師だった人が次は今度聴講者になって受けるというような非常に熱心な集会が続いているというふうに聞いておりますけれども、具体的にどんなような活動なんでしょうか?
 
峯岸:  これ私が感謝しているのは、講師を務めてくださる先生が来てくださる。それからお話を聞きに皆さんが集まってくださるということで会が成り立っておりますので、その二つのことに大変感謝しております。
 
鈴木:  今まで何回ぐらいになりました?
 
峯岸:  もうすぐ百二十回になります。振り返ってみますと、三分の一ぐらいが仏教、 三分の一ぐらいがキリスト教、三分の一ぐらいがイスラームなんですけれども、その他に神道とか、ユダヤ教とか、宗教全般とか、いろんな立場の方々からご講義をいただいております。目指しているところは、世の中にいろいろな宗教、いろいろな考え方があるけれども、それらにこう近づいて、そして内在的理解を深めることにおいて、今のさまざまな社会の軋轢を是正していく道が見つかるのではないかということを目指してみなさんと一緒に勉強さしていただいております。
 
鈴木:  峯岸さんご自身、宗教間対話研究所でお話しされたこともあると思いますけれども、そこに限らずヨーロッパ中心に度々宗教者の国際会議で講演などされておりますが、そのご活動についても少しお話を伺いたいと思んですけども。
 
峯岸:  永平寺に国際部が出来て間もなくの頃、一九八六年に、時のヨハネ・パウロ二世がイタリアのアッシジで世界中の宗教者を招待して「平和の祈りの集(つど)い」を開きました。私は公式随行員としてアッシジに伺ったんですけども、その翌年からその時の精神を受け継いでヨーロッパ各地で巡礼として平和の祈りの集いを開こうというカトリックの在家の団体がありまして、「聖エジディオ共同体」と言いますけども、聖エジディオ共同体がヨーロッパ各地を順々と会場にして平和の祈りの集いを開いてきました。私もその中のメンバーの人たちと親しかったもんですから、時に応じてその会合に参加して宗教間対話、それから異なった宗教同士の話し合いというものの大切さを学んできましたから、そういったことも日本で宗教間対話研究所を開く一つのきっかけにはなったと思いますけども、聖エジディオ共同体がそういう集いを始めてから、ちょうど去年で三十周年で、去年はまた最初の出発点であるアッシジに戻りました。今年はドイツのミュンスターというところでそういう集いがありました。で仲良くなって来ておるものですから、やはり仏教徒として、「ここはちょっと理解しづらい、ここは少し問題があるのではないか」ということを率直に指摘するということが、私は共に道を求める上で親切なことだと思っておりますので、最近は横綱の胸を借りるつもりでストレートにこちらの思いを伝えて、そして至らないところはまた向こうからのコメントをいただいて直していくということを念頭において、いろいろな問いかけをしております。
 
鈴木:  今「横綱の胸を借りて」というお話がありましたけども、ヨーロッパに行くと確かにキリスト教は横綱だと思いますが、逆にヨーロッパに度々いらっしゃってですね、ヨーロッパの人が案外自分たちで気がついていないヨーロッパ中心主義というか、キリスト教中心主義みたいなものをお感じになることもあるのかなと思うんですが。
 
峯岸:  若い頃からヨーロッパの勉強もしてきましたし、それからドイツに二年間行っている時は、ミュンヘン大学で仏教のゼミをやるから、ずっとコメンテーター(commentator:注釈者)として出てくれないかというお誘いもありまして、いろんな関わりを持ってきたわけですけども、東大で宗教学を講じている鶴岡賀雄(つるおかよしお)先生という方が、「いろんなテロが起きることの背景の一つに、見えないキリスト教中心主義に苛立っているんだ」というコメントを出されまして、それで私は、〈あ、そうだったのか〉と思ったんですけども、十八世紀以降ですね、産業革命以降、やはり世界の政治経済の中心というのは、ヨーロッパ、アメリカにあったわけですね。そうすると、その政治と経済を支えている考え方の基盤というのは、キリスト教的な考え方ですから、ヨーロッパ、アメリカの方が意識しているかどうかわかりませんけども、やっぱり自分たちの理念が正しいんだ。あるいは自分たちの主張が全世界に広がっていけば、もっと全世界が良くなっていくはずだといった一つの思考の力学があるように思んですけども、それが逆に欧米からすると、ローカルな人たちの気持ちをくみ取り切れない一つの原因になっているかもしれない。そこはやはり欧米化したといえどもローカルである日本人の立場として、「ちょっとここはおかしいんじゃないですか」ということを提言していくということは、逆に彼らにとって親切なことではないかなと。それからまた提言するということによって、向こうから、「いや、そうじゃないよ」と言われることがあったとすれば、それは私たちの学びになりますから、そういう学び合いを深めていくことにおいて、理解を深めていくことにおいて、一つの地球に異なった立場の人たちが一緒に暮らすことのできるその基盤が開かれてくるといいなと思って活動を続けています。
 
鈴木:  確かに宗教間対話というようなことは、グローバル化した現在の世界で非常に大切だということはわかりますし、また宗教間対話的な国際会議の意味もあるとは思っていますけども、一方現実は、例えばイギリスとかドイツとか、多民族化した中でさまざまな自国に流れ込んでくる異民族の宗教なんかも取り入れた宗教教育をやろうというようなことで、ずいぶん複数の視点に立った宗教教育というようなことを、教科書も作ってやったと思んですけども、しかし現実にはそういうヨーロッパの国からIS(Islamic State:イスラム国:2014年6月29日、ISIS(ISIL)の最高指導者アブ・バクル・バグダディが樹立を宣言した国。ISIS(イラク・シリア・イスラム国)が制圧したシリア北部のアレッポからイラク中部のディヤラまでを領土とし、シャリア(イスラム法)に基づく、スンニ派のカリフ(イスラム教開祖・ムハンマドの正統な後継者)制イスラム国家とうたう。バグダディは新しいカリフを自称し、世界中のスンニ派イスラム教徒に忠誠を求めている。しかし、国際社会は独立国家として認めず、近隣イスラム諸国も地域の安全を揺るがす脅威と危険視している)なんかに何百人という単位で志願していく人が出てきている。一体宗教教育でどうやったらいいんだというような反省が今起こっているというようなことを聞きますが、本当にこの宗教間対話とか国際宗教間会議というようなものが平和につながるんだろうかと。これなかなか難しい問題だとは思んですけども。
 
峯岸:  現実に一般の方々が、宗教は異なる、文化は異なるということの中で、異なった文化、異なった民族の出会いの中で大変苦しんでいらっしゃるわけですね。その反映してISに参加する人たちも増えているわけで、その苦しんでいる人達に対して、宗教者と言われる人たちが何もしないでいいのかと。それはやっぱりおかしいんだろうと思んですね。私たちの伝統の中で伝えられている言葉なんですけども、「平和」の「和」という字は、「禾(のぎ)」偏に「口」と書くと。禾偏は稲の束を指していると。お互いに口が開いていると。意味は稲の束を独占しないで、みんなで分かち合って食べれましょうと。例えていうならば、宴会で大きなお皿にお刺身が山盛りに盛られてきたと。おいしそうだな。五切れとってと思ったけども、ふと遠くを見ましたら大勢いるから自分が五つとったらなくなっちゃうと。もっと取りたいなと思っても、二切れとって隣の人に回すというのを「遠慮」というんだと。遠くを慮(おもんばか)る。それから「労(いたわ)る」というのも、自分の心を遠くの人に届けて活かして、その人の気持ちをくみとって、その人がして欲しいようにしてあげるというのが「労る」ということなんだと。つまり自分を閉ざさないで、自分を開いて遠くの人を見るということが和の出発点だと思んですけれども、その遠くとはシリアの人達なのか、レバノンの人たちなのか、ミャンマーからバングラデシュへ逃れているロヒンギャの人たちなのか。あるいは隣のお年寄りなのか。遠くというのは距離じゃなくて、「困っている人たち、危機にある人たち」を遠くと言っていると思うんですね。ですから自分を閉ざさないで、その危機にある人たちに心を開いて、自分の心を届けて、その人達がして欲しいことを汲み取って、そのように努めるということが、宗教にとっても誰にとっても寛容なことで、そういうことのために出来ることは何かというと、「挨拶」という日本語で象徴されるように、自分の心を開いて相手に近付くということだと思いますので、「宗教間対話」というと、言葉がちょっと理解しにくいところもあるかと思んですけども、心を開いて相手に近づいて一緒に幸せに暮らす知恵を開こうとする営みとも言えると思いますね。
 
鈴木:  やっぱりすぐに宗教間対話とか、自分以外の平和というふうには簡単にいかないでしょうけども、さっきおっしゃったように、知らず知らずのうちにキリスト教に限らず、自宗教中心主義ではなくて、それが相手に苛立ちを与えているというようなことを考えますと、心を開いて相手を慮って話し合っていくということの意味がよくわかるような気がいたします。
 
峯岸:  それで今のお言葉でもう少し言わなくちゃいけないと思うことがあるんですけども、宗教教団というのは、その教えが一番正しいと思ってる人たちが集まってくる集団ですから、中に求心力が働くんですね。求心力が働くということは同時に遠心力も働くわけで、その教えに付いていけないというか、外に弾き出されるわけですよ。それはまぁ宗教に限らず、あらゆる組織にとって同じことが言えるわけなんですけども、そういう宗教というのは、私の考えだと、無条件にみんなと仲良くなって一緒に暮らして幸せを築いていこうというベクトルがあると思うんですが、集団となると、宗教の中にそれと相反するようなベクトルが働くと。だから宗教の中に反宗教性が備わってきてしまう。その問題をやっぱり宗教者というのは、自覚して、そして宗教的立場が異なっていても、みんなで一つになれる立場を探していかなくちゃならない。「正しい」という字は、「一」を書いて「止まる」と書くと。それは私たちの修行道場の中では、「こっちが正しい、あっちが間違っているという間は、まだ本当の正しさに到達していないと。それでもって皆が一つにまとまることができるというのが本当の正しさだ」と学んできましたので、それでもってみんなが一つにまとまることのできる理解の一致というのがまだ確立していない。それがやっぱり必要とされている現代の課題の一つではないかというふうに、私は感じて活動しております。
 
鈴木:  ありがとうございました。
 
     これは、平成二十九年十二月十七日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」に放送されたものである