テレホン法話にこめた親心
 
                   西光寺住職 蓮 下(はすした)  義 昭(ぎしよう)
 
ナレーター:  今日は、「テレホン法話にこめた親心」と題しまして、和歌山県海南市(かいなんし)にある西光寺(さいこうじ)住職蓮下義昭さんにお話を頂きます。蓮下さんは、二十三年ほど前から「こころの電話」という三分間のテレホン法話を、翌年からは「ヤングこころの電話」を始めました。テレホン法話で、蓮下さんは、仏教の難しい用語をできるだけ使わず、折々の社会の出来事、読んだ本のことなどを織り込みながら話を続け、法話の数は両方合わせて二千回を超えています。「こころの電話」「ヤングこころの電話」を通して一番伝えたいことは、子どもを思う親の心だと言います。一番身近な親と子の間柄なのに、親の心の内を理解して貰えない、伝えることができない。また子どもの心もなかなか伝わらないという方も多いのではないでしょうか。蓮下さんは、自分を育ててくれた親の気持ちが、歳を重ねるうちに少しずつわかるようになってきたと言います。蓮下義昭さんは、一九三○年(昭和五年)、和歌山県海南市生まれ。中学、高校の教師を務めました。今は文化教室や地元の高齢者施設での講話も続けています。それでは、「テレホン法話にこめた親心」、和歌山県海南市の西光寺住職蓮下義昭さんです。
 

 
蓮下:  みなさん、お元気でいらっしゃいますか。私、二十三年ほど前から、「こころの電話」という三分間の短い電話で聞いて頂ける法話を続けさせて頂いています。「テレホン法話」と言います。あちらこちらでもなさっています。一年ほど後で、中学生のお子さんをお持ちのお母さんが、「家の子にも聞かせている」とおっしゃいました。それでは若い人の生きる支えになってくれるような、また仏教の言葉をあまり使わない話をしたいと思って「ヤングこころの電話」を始めました。お陰様で今まで両方合わせて二千回ほどお話をさせて頂きました。およそ四万回ほどご利用くださいました。ほんとに有り難いことです。さてその話の内容は、その時々の世の中の出来事や読んだ本、聞いた話、またお釈迦さまや法然さま、親鸞さまという、そんな立派な方々のお言葉などをお話致しました。今までのを振り返りますと、その中でも親心についてお話させて頂いたのが多かったようです。昔から「子を持って知る親の恩」とよく言いますが、私は、子を持ったぐらいでは、親心の温かさ、有り難さはわからないように思います。私の父親は、往生してもう四十年経ちます。母は二十五年経ちます。私の今の年齢は、母が亡くなった時の年齢と同じになりました。父が亡くなった歳まで、後わずかです。この頃しきりに親が懐かしくなってきました。ともかくも世の中に親のいないお方はいらっしゃいません。親心は誰もが共通に味わって頂ける話でないでしょうか。そういうわけで、私は親心を多く話したのだと思います。それから浄土真宗、世間ではよく門徒と呼ばれている親鸞という方を仰いでいる、そういう信者の方は、阿弥陀さまのことを「親様(おやさま)」と親しんで呼んでいました。「阿弥陀親様」と呼んでいました。昔純粋な信者さんたちは、仏様を本当の親のようなお方と讃えたのであります。この世の親は、いのちに限りがありますが、阿弥陀親様は限りない親心を持ってすべてのものを救うとおっしゃっていらっしゃる。だから「親様」と言ったのでしょう。さて私事で恐縮ですがお聞きください。私の父は、明治十九年、ちょうど今から百二十二年前に、浄土宗の寺に生まれて、この浄土真宗の西光寺へ養子に入りました。そして男の子が誕生し、義信(よしのぶ)と名を付けました。その子の母親は若くして亡くなりました。そして後添(のちぞい)に来た妻もまた亡くなって、その女性との間に子どもは無く、私の父親は一人子の成長を頼みに、このこじんまりした寺の住職と小学校の教員を兼ねて暮らしていました。義信というその子どもが、成長するのを頼りに生きていたのです。やがて寺も継いでくれるだろうと期待していたのです。その子どもは、私の地方に初めて出来た中学校に一期生として入りました。その頃は、旧制中学と言って、四年で卒業するのでした。さて、あと半年経てば、その中学校の第一期生として卒業という前の年の夏頃から、その子どもは身体を壊していました。そして十一月四日亡くなってしまいました。大正十五年のことです。仏教では、亡くなることを「往生する」と申しますから、十八歳で往生したのです。その子を始め、その母たちの命を奪ったのは、結核という当時恐れられていた病でした。特別に効く薬というのは無くて、綺麗な空気の所で栄養を身に付けて自然に治るのを待つ。 これがただ一つの治療法でありました。この義信君の罹った結核は、喉を冒しました。一番大切な栄養が喉で遮られて、胃まで行かなかったのです。父はよく言いました。「喉頭結核でなぁ、可愛そうなもんやったよ」。父は涙声で語るのでした。日に日に痩せて行き、熱も高くなっていく、その子どもでした。学校の勤め帰りに、父は氷を買って来て、子どもの額を冷やすのですが、「持って帰るまでに、氷は随分溶けていた」と、悲しそうにいつも語りました。父が残した日記帳には、「自分の人生は終わった」などと書いていました。そして父は後継ぎも失い、私の母になる人と三度目の結婚をしました。母は農家の娘でした。年齢も二十歳以上離れていた母が、この寺に来てくれたのは、仏様の縁がそうさせてくれたのではないかと思うのです。と言いますのは、母の生まれた村は、真宗の熱心な家でした。母が持って来た大きなものが一つあります。何よりも父が願っていたのは丈夫な人でした。そして母はその丈夫な身体を持って来ました。もう一つ持ってきたものがあります。それは「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」でした。「念仏」と言われます。その念仏を身に付けて寺に嫁いで来たのです。母の生まれた家がすぐ寺の近くだったので、幼い時から祖父母や親に連れて貰って寺に通ったと聞いています。さて昭和五年、私はこの世にいのちを頂きました。父は亡くなったその子の名前の一字「義(よし)」を上に付け、「昭和」の一字「昭(しよう)」を下に付けてくれました。私の下に四人の弟や妹が生まれ、やっとこの家にも子どもの賑やかな声が響いたのです。父はよく働いてくれました。父も母も美味しいものは、私たち子どもの方へ回してくれました。「すき焼きの肉は子どもに寄せてやり」こんな句を詠んだことがあります。貧しいなか、親の愛情をいっぱい受けて、子どもは育つのです。小学校に勤めながら、休みの日には近くの寺々へ話をさせて貰えに行くという父の生活でした。とても元気だったので、八十頃まで自転車で近所の家にお詣りをしたのですが、その父は八十二歳で往生しました。父が亡くなって非常に寂しくなりました。そんなある日、あるお爺さんが私の寺へ訪ねて来ました。いろいろ昔のことをこの人から聞いた中に、こんな話がありました。「あの頃なぁ、あんたのお父さんは、気が変になっていると言われていたよ」というのです。何だろう? 「あの頃というて、いつですか?」「あの義信さんが亡くなった頃や。ブツブツ言いながら歩いているって、みんな噂していたよ」とこう言うのです。私の父親は、私の他に私の弟や妹のこともありますから、遠慮をしてその亡くなった子のことはあまり語らなかったのです。寺の墓地に小さい墓があります。その墓の表に「○○義信南無阿弥陀仏」と彫っています。「南無阿弥陀仏」は、その子が病床(びようしよう)で―病の床で父に筆を持たせて貰って書いた字でしょう。「○○義信」は父親が愛情いっぱいに書いた墓の正面の文字です。父親はよく言いました。「儂の命日は忘れてもよいぞ。あの子の命日には詣ってやってくれよ」と。さて、この私というと、あの亡くなった兄が卒業できなかった中学に入り、お蔭で卒業しました。そして中学校に居てる間に戦争が終わりました。それまで敵国であったアメリカが、日米親善という仲の良い国になったのです。私は呆れました。大人というものは、こんなに簡単に変われるものかと思いました。あの戦争で私を大事にしてくれた中学校の先生の何人もが、戦場に行って帰らなかったのです。私は中学校を出ると、経済的な理由もあって、土地の大学に行きました。それも経済学部を選びました。私はジャーナリストになって、真実を知って、それを伝えるという希望を持っていたのです。大学に入って、そのことを勉強致しました。そして卒業間際に父に連れられて、ある新聞社を受けることになり、その健康診断の時です。なんと私は、「結核の初期」と言われたのです。父親は最初の子どもをその病気で失い、また今私もその病気に罹ったことをどんなに悲しんだことでしょう。父はそんなことをそぶりにも見せず、ニコニコと「ゆっくり養生するように」と言ってくれたのです。私は家で半年ほど療養しました。私はその結核の養生を家の中でずっと母親の介護を受けてしました。私の兄弟の一番下の妹が、生まれつきの小児マヒでした。それで十三歳で亡くなるまで、母親はスプーンでその子にミルクを運び、おむつを替えて暮らしていましたが、母親は忙しい寺の仕事の合間に、その子の世話と私の世話を加えて、とても大変だったと思いますが、一言もそのことについて泣き言も苦情も言いませんでした。しかし私は、そんな父や母に対して、別に感謝もしていなかったのです。やがてその頃、世の中に結核に対する特効薬が売り出されたのです。私は、その特効薬のお蔭で回復しました。そして一年遅れて卒業致しました。そして新聞記者になるのをやめて、教員になる道を進みました。父が亡くなった後、私は忙しい学校の仕事、寺の務めの間に、なんとなく寺の本棚にある『歎異抄(たんにしよう)』という本を読み始めました。その頃大阪で金子大栄(かねこだいえい)(明治〜昭和期に活躍した真宗大谷派僧侶、仏教思想家:1881-1976)という先生が、『歎異抄』のお話をされていると聞いて通ったことを思います。さて、ある日、私は、ふとあの時、あの訪ねて来た人が、「お父さんが気が変になったらしい。何かいつもぶつぶつ言っている」という言葉を、それをいつも気になっていたのですが、それはこれに違いないと思う一節に出遇いました。それはこういう一節です。
 
慈悲に聖道(しようどう)・浄土のかわりめあり。聖道の慈悲というは、ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし。浄土の慈悲というは、念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもって、おもうがごとく衆生を利益(りやく)するをいうべきなり。
 
『歎異抄』第四章の言葉です。その中の、
 
今生(こんじよう)に、いかに、いとおし不便とおもうとも、存知のごとくたすけがたければ、その慈悲始終なし。
 
という言葉。今の言葉に直しますと、この世でどんなに愛(いと)しい可愛そうだと思っても、思うように助け遂げることは難しいから、人間の慈悲の心は完成しない、というのです。これは親鸞という方の告白です。『歎異抄』の第四章にございます。私は、これに違いない。何かの暮らしの父親が、親鸞という方のこのお言葉を慰めにしたんだ。これを父は繰り返し繰り返し称えたに違いない。そう思いました。その第四章の終わりは、
 
しかれば、念仏もうすのみぞ。すえとおりたる大慈悲心にてそうろうべき
 
とあります。私の父は、子どもを失いました。そして仏様の慈悲心を頂いたのです。私は、これこそ私の父親があの頃ブツブツと独り言を言っていたその言葉に違いないと思いました。「念仏もうすのみぞ。すえとおりたる大慈悲心にてそうろうべき」ということは、南無阿弥陀仏の力で、自分も仏になったら、仏の力であの子をまた抱くことができる、救えることができるという言葉です。「なんまんだぶ、なんまんだぶ」と父はいつもいつも称える人でした。さて、母はとても元気な身体であったのですが、七十七歳で倒れて、三ヶ月ほど病んで亡くなりました。母が生きていた頃、その頃「テレホン法話」というのを、妹の嫁いだところのお寺が始めました。母親は生きていた頃、その「テレホン法話」に耳を傾けてニコニコしていました。私は、〈わずか三分の間に、何が言えるだろう〉と軽んじていたのです。すまないことでした。しかし母が往生して、母が電話を聞いている姿が懐かしく思い出されました。家族に囲まれていても、高齢者というのは、〈いえ、いえ、人間というのは、みんな孤独なんだなあ。夜中でもいつでも聞ける人間の声というのは、あってもいいんだな〉と、そう思いました。私は、早速「こころの電話」という題で「テレホン法話」を始めました。第一回は忘れもしません。昭和六十年八月十二日でした。一九八五年の八月です。その日、あの日航機が群馬県の山の中に落ち、五百二十人の尊い命が失われました。お盆でした。初めてそのお盆に帰って来る我が子を待っていたお家が私の近くにあります。これまで私事を長々とお聞き下さってありがとうございます。親心というのは、一口で申しますと、「片思い」ということでないでしょうか。親の片思いは涙ぐましいことです。しかし私は、「テレホン法話」の中で、親心をお話しました時に、いつも終わりにこんなことを付け加えました。それは「親というのは、子どもの本当の心を知ることが難しい」ということです。親が子の心を知らない。また子どもが親の心を知らない。それが人間の姿でないでしょうか。人間は科学のお蔭で宇宙の果てまで観測ができます。ミクロの世界というウイルスを捉えることができますが、一番近くにすぐ側でいつも一緒に食卓を囲んでいる親と子、兄弟、夫婦、孫たちの心がわからないのです。人間には、それ見抜く知恵がない。そう嘆かれたのは親鸞という方でした。少し難しい言葉で申しますと、「人間は無明(むみよう)である」と申されました。「無」というのは無い、「明」は明るいという漢字で、「明るくない」つまり暗いというのです。人間は賢いようで愚かでもあります。私の「テレホン法話」によく出てくる親心は、この世の父と母の愛情の尊さを話しながら、その後にその限界を悲しく申しました。そして私は申しました。知恵に限りがなく、またどんな私をも知り抜いたうえで、嫌うことも呆れることもしないで助けてやる、救うてやると呼んでくださっている阿弥陀様の親心、阿弥陀親様の親心のことを必ず話しました。実は私は仏様に背いて生きています。仏様を忘れて知ったかぶりで話したりしています。この私を追い掛けて救ってくださるのが、「南無阿弥陀仏」という仏様と聞いています。人間には知り抜く知恵がない。また仮に知っても、どこまでもどこまでも愛おしむ心が果たしてあるかどうか、ということになると、甚だ私は寂しいのです。親も子も仏様に頭を下げて、なるべく穏やかな柔らかい言葉で労り合って生きていくのが大切かと思います。短い私の話を聞いてくださった方が、もう一度あの話を知りたい、聞きたいとおっしゃって、小さな本にして出してくれました。何のお役にもお立たない短い三分間の話をお蔭で続けさせて頂きました。これからもいのちを恵まれる限り続けたいとお思います。これはどこまでも、この私に聞かせている話です。「法話」と名を付けていますが、すべて自分に語っているのです。有り難うございました。
 
     これは、平成二十年三月十六に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」で放送されたものである