イスラームという生き方I現代の争いはどう生まれたか
 
                京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科教授・
                同付属ハダーリー・イスラーム弁明研究聖典長 小 杉(こすぎ)  泰(やすし)
            立命館大学授業担当講師       小 杉(こすぎ)  麻李亜(まりあ)
 
ナレーター:  シリーズ「イスラームという生き方」。イスラームの聖典「クルアーン」の一節を紹介しながら、イスラーム教徒ムスリムたちの生き方を十二回にわたって読み解いていきます。第十回は「現代の争いはどう生まれたか」と題してお送りします。お話は京都大学大学院教授小杉泰さん、そして立命館大学授業担当講師小杉麻李亜さんです。
 
小杉:  今回は、なぜ近現代に入ってからイスラーム世界で多くの紛争や対立が生まれているのか、という問題を考えてみたいと思います。宗教は、本来は人生にプラスの意義付けを与え、心に平安をもたらすものです。このシリーズでもイスラームという生き方が、楽天的で幸せな暮らしを作る仕組みについて、いろいろと触れてきました。その一方でメディアでは、イスラーム世界に関わる悲劇的な争いのニュースがしきりと流されています。宗教としてのイスラームは、そのような紛争にどう関わっているのでしょうか。まず、パレスチナ人の悲劇をお話したいと思います。今から七十年前の一九四八年、パレスチナにイスラエルが建国され、多くのパレスチナ人が故郷の土地を逐われました。以来イスラエルとアラブ諸国との間で戦争が何度も起き、パレスチナ問題は現代のイスラーム世界にとって解決を要する最大の課題の一つであり続けています。パレスチナ紛争の理由はたくさんありますが、根本にあるのは、ヨーロッパからいわゆる「ユダヤ人問題」がこの地に輸出されたことです。しかも他の地域―ヨーロッパですね―その問題が現地パレスチナの人には理解できない形で持ち込まれ、紛争は複雑になりました。輸出されたのは、一言で言えば民族差別の問題です。ヨーロッパでは、前近代十八世紀くらいまで、ユダヤ差別は「ユダヤ教徒」に対する宗教差別でした。つまりキリスト教徒とユダヤ教徒を区別していたわけです。フランス革命以降、十九世紀になると人間を宗教で区別するのではなく、民族で区分けする考え方が広がりました。民族を単位とするこの考え方に基づくならば、例えばフランスに住むユダヤ教徒は、キリスト教徒と合わせて全員が「フランス人」とみなすのが正しい立場になります。ところが十九世紀のヨーロッパで民族意識が広がってもユダヤ差別は続きました。差別がなくならないため、ユダヤ教徒の中には、「自分たちはユダヤ民族なんだ。フランス人が国を持っているの同じように、自分たちの国を持たない限り、差別は続く」という考えも生まれました。彼らは聖書の中で、かつてイスラエルの民が国を持っていたパレスチナに現代のユダヤ国家を作ろうと唱えました。エルサレムにある「シオンの丘」に還ろうというスローガンから「シオン主義(シオニズム)」と呼ばれる考え方が生まれたのです。これに対して「差別解消の努力を続けて、ヨーロッパ各国の市民となるのが良い」という考え方があります。これを「同化主義」と言います。ユダヤ教徒もそれぞれの国に同化するという考え方です。ユダヤ教徒といえどもヨーロッパの住民、長らくヨーロッパに暮らしてきたわけですから、パレスチナの土地は聖書の中での親しみはあっても、実際には遠い外国です。その為長らく同化主義が主流で、パレスチナに移住しようというシオニズムはさほど人気がありませんでした。これが激変したのは、ドイツでナチ政権ができてからです。ナチ政権は「ユダヤ人のいないヨーロッパ」を目指して彼らを追い出そうとしました。第二世界大戦の後半になると、戦況が悪くなって、追い出す能力がなくなり、ユダヤ人虐殺の道に走ったことは承知の通りです。ナチス・ドイツのような追い出し政策に直面しては、同化主義はもはや無理になります。このためシオニズムが勢いを持ち、パレスチナ移住が増えました。ユダヤ人が移住した先のパレスチナは、アラブ人が住むイスラーム社会です。それまではムスリム、キリスト教徒、ユダヤ教徒が共存していました。そこへ「ユダヤ人」という民族の移住が始まったわけです。アラビア語でいう「ヤフード」というのはユダヤ教徒を指します。それを「ユダヤ人」という民族として理解する人は、当時も今もアラブ人にはほとんどいません。アラブ人の世界はやはり宗教の認識が非常に強いんですね。そうしますと、パレスチナなどのアラブ地域には、アラビア語を話す人々がいて、彼らの宗教がイスラーム、キリスト教、ユダヤ教に分かれていたということになります。ところがそれはヨーロッパと考え方が違いますから、民族と宗教のずれが生じて、ここからボタンのかけ違いが始まったわけです。二十世紀前半のパレスチナの住民たちは、仏教は共存できると思っていました。しかし民族問題、この場合はユダヤ民族の国をつくるということになりますが、こういう民族問題は領土の取り合いを含みます。民族問題としてのユダヤ人問題がヨーロッパから持ち込まれたとは知りませんから、パレスチナの住民は単純にここは自分たちの故郷、何世紀もずっと住んでいるのだから、外国から来た人たちに取られるはずはないと思っていました。またパレスチナ人はヨーロッパで人類史上かつてないユダヤ人虐殺が起きたことをよく知りませんでした。そのため戦後にその虐殺の事実が明るみに出てから、欧米諸国がそれに対する懺悔や同情心から建国されたばかりのイスラエルを支持した事情もあるパレスチナ人にはよくわかりませんでした。知人のパレスチナ人がしばしば私にこう言っていました。「ユダヤ教徒がヨーロッパで酷い目に遭ったのは同情に値するけど、その弁済は酷い目に遭わせた加害者がするべきでしょう。どうして第三者のパレスチナ人に弁済の責任を押し付けるのでしょうか」そういうふうに憤りを語っていました。彼は根気よく国際社会に訴え続ければ、「それがいかにも無法なことかいつかわかってもらえる」と信じていたようですが、そうではありませんでした。彼が私にそう熱心に語っていたのは、パレスチナ喪失、つまりイスラエル建国から三十年ほどたった頃のことでしたが、さらに四十年たちました。そうした今も状況は良くなっていません。むしろ国際社会の保守化が進み、正義を求める声にあまり耳を貸さなくなったという印象もあります。既存の国家を守ることを前提として、国家の利益が優先されています。グローバル化はそんな国家のあり方に変更を迫ってはいますが、こちらも経済的利害が優先なので、正義を求めるパレスチナ人の声は届かなくなっています。パレスチナ人の悲劇は、ヨーロッパと国際社会が、人類史上かつてなかった理不尽さを、彼らの頭上に落としてきたのに、その理不尽さがなぜ起こるのか理解できないまま、藻掻かざるを得なかった点にあるように思います。パレスチナの古代から続く聖都市エルサレムのことです。エルサレムは三つの宗教―ユダヤ教、キリスト教、イスラームの聖地であり、ムスリムにとって預言者ムハンマドと関わる大切な場所です。ムハンマドは聖地マッカとエルサレムを一晩で往復したという物語が伝わっています。クルアーンは次のように述べていま。
 
称えあれ、しもべ[ムハンマド]を一夜にして[マッカの]聖なるモスクから[エルサレムの]遠方のモスクまで旅させた方。かれ[アッラー]はその[遠方のモスクの]周囲を祝福し、彼[ムハンマド]にわが徴(しるし)を見せるようにした。(夜の旅章一節)
 
「わが徴(しるし)」というのは、アッラーの徴ということですね。この場合の「遠方のモスク」というのは建造物でありません。当時はまだモスクはないんですね。ですからモスクの意味は、「礼拝する場所」額を額ずいてお祈りする場所という意味で、ムハンマドはそこから七層の天に昇り、先達の預言者たちに会ったと語っています。彼の言行録であるハディースによれば、ムハンマドは天使ジブリールに連れられて天に昇り、まずアーダム(アダム)は人類の祖であると同時に、最初の預言者とされています。アダムやヨセフ、ヨハネ、イラスと、そして最後にはムーサー(モーセ)、それからイブラーヒーム(アブラハム)と第一の天から第七の天までそれぞれで先達の預言者たちに歓迎されたといいます。このエルサレムに行って天に昇る物語は、聞いてわかるように、ムハンマドがアブラハムに発する一神教の系譜に属していることを示しています。天に昇る出発点となった「岩」は、地上と天が最も近い場所とされています。その岩を被ってドームが今建っています。黄金に輝く「岩のドーム」は、七世紀の終わりに完成しました。イスラーム建築としては最初期のもので、外壁にはビザンツ(東ローマ帝国)風の美しいモザイクとアラビア文様、流麗な書体でクルアーンの章句が書かれています。この岩の場所は、古代ユダヤの王であり、イスラームから見ると預言者でもあるソロモンが建てたエルサレム神殿の最も聖なる場所の跡にあると言われています。聖書的な世界とクルアーン的な世界が繋がっていることがわかりますね。イスラーム国家が最初にパレスチナを手に入れたのは、預言者ムハンマドが亡くなって間もなくの七世紀半ばのことです。当時エルサレムを支配していたキリスト教国のビザンツ帝国軍をイスラーム軍が破り、エルサレムは講和条約のもとでイスラームの支配下に入りました。講話の内容は、キリスト教側の自治権や財産保全などを含むもので、そのものイスラームの歴史の中で宗教共存の原型とみなされるようになりました。この講話でムスリムは、パレスチナが恒久的にイスラームの主権下に入ったと考えるようになり、以降パレスチナに定住を続けてきました。そしてキリスト教徒、ユダヤ教徒もこの地で共存して来たのです。十二世紀になり西欧から十字軍が押し寄せて来て、二世紀近く深刻な対立期もありましたが、パレスチナでの宗教共存ついては、平和な時代の方が遥かに長かったと言えます。エルサレムを見ると、三つの宗教の共存の仕組みがわかります今日「旧市街」と呼ばれている所には、ユダヤ教、キリスト教、イスラームの聖地が集中しています。ユダヤ教の聖地は、いわゆる「嘆きの壁」です。これは古代の神殿がローマに破壊された跡に残った「西側の壁」で、ユダヤ教徒はこの壁で祈りを捧げてきました。彼らはメシア(救世主)の再来による神殿の再建を願って、ここでいろいろと祈りを捧げています。その一方で神殿の跡地そのものには、ユダヤ教徒は神殿が再建されるまで入ってはいけないというのが正統な教義です。というのは、今入ってしまうと神殿のなかの最も聖なる場所を足で踏んでしまうかもしれないからですね。この教義は現在でも守られており、ユダヤ教徒は神殿跡には入らずに壁の外側で祈っています。キリスト教の重要な教会―星墳墓(せいふんぼ)教会があるのは、イエス・キリストが磔にされたゴルゴタの丘の跡地とされています。この場所は古代エルサレムの地図で見ると郊外にあたる地区にあります。そしてムスリムたちは長く放置されていた神殿の跡地に、岩のドームやモスクを建て、礼拝をしているわけです。つまり三つの一神教は同じ神を奉じながらも、重視する聖域や宗教儀礼が違っていて、それにより棲み分けが可能となり、共存を続けてきたわけです。ところがここにナショナリズムが入り込みました。二十世紀になって、ユダヤ民族国家をパレスチナに樹立しようとするシオニズムの運動が起きた時、「パレスチナを取り戻す」というモチーフに、現地のムスリム達は面食らった違いありません。イスラームは七世紀にパレスチナを版図(はんと)に収めましたが、それはビザンツ帝国から奪ったもので、ユダヤ教徒から取ったわけでありません。ましてやビザンツ帝国時代には、ユダヤ教徒はエルサレムに入れなかったわけですから、イスラームがユダヤ教の信教の自由も回復したという意識がムスリム側にはありました。それ以上に彼らが理解できなかったのが、最初の話した「ユダヤ人」という民族概念です。イスラエルが建国されると、それはユダヤ人の国となったのです。パレスチナの現地では、アラビア語を話す人たちの中で、ユダヤ教徒がいなくなって、残ったムスリムとキリスト教徒がアラブ民族主義を採用し、アラブ人という意識を確かめることになりました。今から思うと、アラビア語を共通項として、宗教的には三つの一神教に属するアラブ人という考えが成立すればよかったようにも思えますが、実際にはそうなりませんでした。困ったことにナショナリズムでは、領土に対する主権が問題となります。宗教だけであれば、エルサレムの中で三つの宗教が棲み分けることができますが、「パレスチナやエルサレムは誰のものか?」と問うようになると、対立は深刻になります。一つの地域に国家主権は、一つしか入りませんから、対立は簡単に終わらないものとなってしまいます。
ここで、娘・麻李亜に、エルサレムをめぐる自分の体験を語ってもらいたいと思います。
 
麻李亜:  小杉麻李亜です。今回は、今から十年ほど前、私がエルサレムで遭遇した出来事をお話したいと思います。二十代だった私にとって真正面から向き合うことの難しかったパレスチナの人々の過酷な現実です。ヨルダンの小さな村に住み込み、短期のフィールドワークをしている時のことでした。ヨルダンには、パレスチナから移り住んできた家族がたくさんいます。パレスチナ側は、イスラエルの支配下にあるため、男性、特に若者は、ヨルダン川を越えて往き来することができません。二つの地域を往き来できるのは、年配の女性だけです。その一人に「自分と一緒にパレスチナ側に行ってみる?」と聞かれました。正直誘ってもらえると思わなかったので驚いたし、外の人間には想像することのできないパレスチナの苦渋を見てもらいたいと思ってくれたことが嬉しかったです。彼女がいつも通っている道を体験したいと思い、行くことにしました。実際に行ってみると、それは想像を絶するほど不愉快で、限りなく不便な旅程でした。彼女たちは、パレスチナ人への嫌がらせに満ちた国境の関所を通過するという苦行をこなしていました。お気楽な日本人のバックパッカー(Backpacker:(リュック)を背負って低予算かつ個人で旅行する人のこと)は、検問所にしても、車の乗り換えにしてもすいすいと入国し、すいすいと市内に入っていきます。それはイスラエル人やイスラエルに住む外国人が進むルートです。パレスチナ人達は、そこがもともと父祖の地であるにもかかわらず、気軽に進む外国人たちを横目で見送りながら、何十倍もの時間をかけて苦労しながら進むほかありません。舗装された道路を使えばたった数十分の距離を、道路を使わせてもらえない差別的な扱いのために、山の中の道とも言えない道を、何時間も他のパレスチナ人たちとともにぎゅうぎゅう詰めの車で揺られながら走ります。岩だらけの険しい山をいくつも超えるのは危険で、その上同乗者たちは言われなき苦難の暮らしに皆心が荒んでいます。荒んだ心が普通の状態になってしまい、気持ちがいつも固くなっているのが痛いほど感じられます。故郷へ向かうというのに、笑顔や笑い声は全くありません。イスラエル占領下の西岸地区のほぼ中央に位置するハリール(ヘブロン)を訪ねました。ハリールは、一般的にはヘブロンの名で知られています。その後クドゥス、これはエルサレムのアラビア語名ですが、クドゥスにも行くことになりました。ハリールで住まわせてもらった一族の女性達から、「クドゥスに行けない自分たちの代わりに祈りをしてきてくれ」と口々に、いろいろな祈りの言葉を託されました。一つ特に心が重かったのは、寝たきりのおばあちゃんから「早く死なせてくれと神様に頼んでくれ」と頼まれたことです。私は、他の家族達が、「そんなこと言わずに、おばあちゃん長生きして」と願ってることも知っていたので、おばあちゃんの頼みをエルサレムで神様の近くに行った時に、自分がちゃんと口にできるのか。おばあちゃんの切なる願いをまっとうしていいのかわかりませんでした。それでも移動の自由がある自分が行かないのは悪いと思って引き受けましたが、正直いうと、預かった祈りの言葉は重く、気は進みませんでした。エルサレムでは、東エルサレムの旧市街、岩のドームのあるイスラームの聖域を訪れました。現地の母子―母と娘と一緒でしたが、日本人のテロリストと疑われ、イスラエル兵に聖域の門の検問所で止められました。兵士の指示でムスリムの初老のパレスチナ人男性が呼ばれてきます。男性は慣れたもので、偽装したテロリストでないか確かめるために、「クルアーンの短い章句を暗誦(あんしよう)してみなさい」とか、「イスラームの礼拝の回数を知っているか」などと、私を尋問しました。生まれた時からイスラームと付き合っていれば、すぐに答えられる簡単な質問です。答えを間違える心配はありませんが、間違えたら「テロリスト」にされてしまうので、いつになく緊張しました。その一方で初老の人物は、パレスチナ人であるにもかかわらず、イスラエルの手先になっているわけですから、私は驚いて、その顔を食い入るようにまじまじと観察しました。無事に中に入ることができ、金曜礼拝の後に、天井が高く薄暗いモスクの中であちこちに出来ている女性たちの輪に加わることができました。そのすべてのグループがクルアーンの学習会でした。皆が口々にクルアーンを声に出して誦(よ)み、意味の理解を深めるための解説や解釈を勉強しながらから、さらに声に出して誦むことを休むことなく続けています。「男性は?」と尋ねると、女性の一人が外の方を指で示しました。そちらに耳を傾けると、モスクの外で、自分たちパレスチナ人を襲っている不正義を声高に論じる男性の議論と、その周りに広がる人の輪から熱気ある喧騒(けんそう)が聞こえてきました。右の耳で場内に満ちる女性たちの声を聞き、左の耳で外から聞こえてくる男性たちの声を聞きます。たった一つの縁(よすが)は、クルアーンであることが、私にも痛いほどわかりました。このパレスチナの旅で一番心にしみたクルアーンは、エルサレムで泊めてくれたお家のお母さんの朗誦です。彼女は夜明け前のお祈りの時間に、電気のない暗闇の中でコーヒーを作ってくれながら、自分が暗記している最中の長い長い章句を歌うように優しい声で誦み続けていました。不正義に耐え忍ぶためにガチガチになった心と向き合うことは、こちらの心も疲弊します。そんなひび割れと心にエルサレムのお母さんの優しいクルアーンと、電気のない寒い冬の日の温かなコーヒーが沁み渡りました。あの旅から十年が経ちました。当時はパレスチナの人々の姿や、破壊や度を超した嫌がらせが日常となった異常な日々の暮らしが、あまりにショッキングで、あまりに他の土地の暮らしと違いすぎて、うまく自分の中で処理することができませんでした。少しずつあの時見たものを理解することができ始めています。そのひとつは過酷な環境下で、人々がクルアーンを縁(よすが)とするとき、そこでは痛ましいほどの強さが生まれるということです。他の地域でもクルアーンは人々の生活に彩りを与えていますが、彼らはもっと楽天的で、ハッピーな人々です。私自身もフィールドにいない時は、日本でぬくぬく育ってきましたから、この旅で感じたような、それだけが希望であるような過酷な人生を、他では見たことがありません。パレスチナ人は世界中に見捨てられ、数十年を苦難の中で生きてきました。そのような人々にとって、クルアーンは唯一すがることのできるもの、裏切られることのないものです。この旅ほど宗教的な聖典が持つ力を感じたことはありません。容易に言葉にできない不正義の現実の中で、クルアーンが人々の最後の尊厳を支えている様子は、私の心に刻まれたのでした。
 
小杉:  「イスラームという生き方」その第十回は、「現代の争いはどう生まれた」と題してお伝えしています。第二世界大戦後、イスラームを掲げていた国々は、民族自決権に基づく主権国家をつくり、国連に加盟しました。サウジアラビアのように、最初に国連を作った原加盟国の国もあります。それぞれの国が主権を持って国民を守り、他国の干渉を拒むことができるのは良いことです。しかし民族国家は時として領土をめぐって主権が激しくぶつかり合います。例えば一九七一年には、東西パキスタンが分裂し、激しい戦争の末に東パキスタンがバングラデシュとして独立しました。ムスリムの国が別々のナショナリズムを掲げて喧嘩別れしたわけで、イスラーム世界にとって衝撃的で、ウンマ(共同体)の理念にとっても大打撃でした。さらに一九八○年イラン・イラク戦争が起きました。両国ともムスリムの国ですが、イスラーム諸国による調停はうまくいかず、戦争が一九八八年まで続きました。ハディースによれば、ムハンマドはこう述べています。
 
二人のムスリムが剣をもって争うのであれば、殺した者も殺された者も火獄(かごく)で罰される
 
「火獄(かごく)」というのは、いわゆる地獄のことですね。イスラームでは火で焼かれるというイメージが強いので火獄(かごく)というふうに言っています。これを聞いて、弟子が、「片方は殺した者ですから火獄(かごく)の罰は当然かもしれませんけれども、殺された方は何がいけないのでしょう?」と聞いたそうです。すると、ムハンマドは、「そのものも相手を殺そうとしたではないか」と答えたというのです。イスラーム法では、ムスリム同士の争いを固く戒めています。しかしナショナリズムの時代にはこうしたことも起こるようになりました。イスラーム過激派も実はナショナリズムの申し子という面を持っています。パレスチナでも、一九六九年に、それまでアラブ諸国の支援で作った官製組織だったパレスチナ解放機構(PLO)が、ゲリラの集合体に改組されました。そのゲリラたちの主力は、世俗的なナショナリズムと左派の思想に基づいていました。彼らがハイジャック事件など起こし、国際社会から「テロリスト」と批判されました。当時は「人民解放戦争」などが、彼らのモチーフでした。ところがイスラーム復興が伸張し、社会主義が退潮すると、反帝国主義闘争とか世界革命といっても、人々耳を貸さなくなりました。そこで「ジハード」が唱えられるようになったというわけです。ジハードはもともと「心の中の悪との戦い」「社会を善くする戦い」が主で、「剣のジハード」と呼ばれる戦闘行為は二次的です。考えてみれば、心の中の戦いはすべてのムスリムがやるわけですけど、剣のジハードは、兵士だけがやるわけですから、イスラームの教えは全体に及ぶというふうに考えれば、この心の中の方が当たり前なわけですね。歴史的に見ると、剣のジハードが盛んだったのは、イスラームの大征服があった初期の時代、十字軍やモンゴルの攻撃を受けた時代、あるいはオスマン朝がヨーロッパに攻め入った時代など、世界史上の中でも戦乱期にあたります。そう言えば、二十世紀も戦乱期かもしれません。二度にわたる世界大戦があり、戦後は冷戦時代となりました。パレスチナ問題も冷戦の影響受けて一層こじれました。一九七○年代以降に、反体制派が自分たちの闘争を「ジハード」と呼ぶようになったのは、それが宗教復興という時代の精神に適合して、彼らの目的にかなったからです。自己犠牲を厭わない信仰心を呼び起こすという意味で、武装闘争派にはもってこいでした。分かりやすい例が「自爆攻撃」です。これは自殺のように聞こえるので、「イスラームでは、自殺を禁じているのでは?」という疑問も出てきます。実際イスラーム世界でも、一九九○年代には、自爆が自殺にあたるかどうか議論がありました。結論から言えば、自爆攻撃は「決死攻撃」攻めた人が必ず死んでしまうと意味での決死攻撃によって相手に打撃を与えるのが目的ですから、自分が死ぬこと自体が目的である自殺に当たらないという認識が、今では一般的になっています。要するに武力で圧倒的に劣る側にとって、決死隊の自己犠牲で武器不足を補うという考えなのです。イスラーム世界での問題になるのは、自殺かどうかということよりも、体に爆弾を巻き付けての攻撃が、軍隊相手なのか、市民を標的とするテロなのかということです。イスラーム法学者の多くが、「テロは禁じられている」と断言しています。しかしイスラームを利用しているだけの過激派には、このような言葉は効果はありません。過激派の実体が、宗教色をまとったナショナリズムだとすれば、その毒には根深いものがあるといえます。いろいろな対立や紛争が続く中、どこから融和への道が開けるのでしょうか。二○○一年に起こった九・一一事件、米国同時多発テロ事件の後、いわゆる「西洋とイスラームの対立」を乗り越えようと、「宗教間対話」の試みがたくさん実施されています。宗教間対話は平和に寄与するのでしょうか。宗教間対話の問題に詳しい友人のマジュディー氏の意見を紹介したいと思います。彼は「宗教間対話だけでは全然足りない」と断言しています。というのも、彼によれば「戦争してるのは国家で、宗教ではない」からです。彼は、「宗教間対話はうまく行ってる」と言います。いろいろな宗教者が話し合うのは非常にうまくいっている。「でも平和を求める宗教者がいくら話し合っても、国家の指導者たちが聞かなければ、成果は薄いでしょう」といいます。彼は、「もっと宗教が力を持たなければなりません。テロを起こす人が、やたらとジハードを唱えているようでは、ダメなのです」と強く主張します。彼の言葉では、「ジハードを単に否定するのではなく、逆に彼らからジハードの理念を取り戻す。つまり何が正しいジハードなのか。そもそもは己の心の中の悪と戦うことなんだと。そういうことをきっちりして、自制心を持って世の中を変えていく」そういうことを、彼はいうわけですね。「そこから私たちの再出発があるのです」と言っています。マジュディー氏のいう私たち、つまり穏健派が少しでも多数になることは、地球社会の今後にとって重要なことに違いないと思います。
 
     これは、平成三十年一月十四日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」に放送されたものである