如来の眼差しのもとで
 
                   医 師 志慶眞(しげま) 文 雄(ふみお)
1948年、沖縄県生まれ。愛媛大学工学部に入学。広島大学大学院に進学し、素粒子物理を研究。32歳で広島大学医学部に再入学。歎異抄の会で細川巌師に遇い聞法を始める。医学部卒業後、琉球大学医学部小児科に入局。1992年、沖縄で小児科医院を開業し、病院の二階に浄土真宗の開法道場を開く。2004年、NHKラジオ深夜便「こころの時代」に出演。現在、生死の問題を中心に仏教読書会、仏教講演会を開催。機関誌『まなざし』発行(不定期)。
                   ききて 金 光  寿 郎
 
ナレーター:  今日は、「如来の眼差しのもとで」というテーマで、沖縄県うるま市の小児科医志慶真文雄さんにお話しいただきます。志慶真さんは、一九四八年(昭和二十三年)のお生れ、十歳の夏、日ごろから好きだった満天の星空を見上げていたとき、「お前は地上から必ず消える」という言葉が浮かんで、頭から消えなくなりました。この問題が解決した現在の心境を伺います。聞き手は金光寿郎ディレクターです。
 

 
金光:  今日は、「如来の眼差しのもとで」ということで、私たちは如来さんの働きによって生かされているという理屈は聞いてるいるんですけれども、それで理屈で考えるとその通りだなと思いながら、毎日お話なんか聞くと、これでいいんだろうか、こう考えたらどうだろうか、とつい考える、分別する癖がついているわけですが、志慶真先生も、もっと若い頃というか、二十代の前半ぐらいまでは、いろんな教えがあっても全部古臭い仏教なんかダメだというんで撥ね除けていらっしゃったというようなことを、この前も伺ったんですけれども、その時に撥ね除ける基準というのは何かあったんですか?
 
志慶眞:  結局人間が死んでいくというのは、どんな思想とか、思いを持ってきても超えられないんで、その苦しみとか、悲しさを紛らわせるために人間が作り上げたものじゃないか。そういうものでは、自分の死んでいくとか、生死の問題は超えられない。あるいは逆に言えば、そういうものでは誤魔化されないぞと、そういう思いがあってですね。だからいろんな哲学とか、いろんな宗教の教えとか、そういうものが説かれるのを素直に受け取ることができなかったんです。僕は、物理やって、素粒子とか、天文をやれば、もうちょっと人間がこの世に生まれてきて死んでいくとか、宇宙の成り立ちとかということが少しわかれば、自分の生死(しようじ)の問題に決着がつくかもしれないという思いがあったんですけど、最終的には科学というのは分別で、その分別で自分の生死の問題は超えられないということに、また行き詰まってしまったんですね。
 
金光:  ちょっと一足飛びになるかもしれないんですけれども、その中で奥さんとご結婚なさったりして、仏教の、殊にお念仏の世界、阿弥陀さんによって生かされている世界の話を聞かれて、私、そのお話の中でですね、「世界は一つだけだと、それまで思っていたのが、一つではない、二つだという。そういうことを書いているのを見て、あるいはそういう解釈をされているのを聞いてびっくりした」とおっしゃってますね。これはどういうことなんですか?
 
志慶眞:  我々は、ものを見るときにですね、いろんなものが周囲に―自分とか、あるいは木とか、あるいは他の人とか―いろんなものが周囲に自分とは無関係にあって、そのあとでそれとの関係を結びつけて、世界を構築すると。そういうものの認識でずーっと生きてきたわけですよ。ところが私がものとして本当に自分とは別に客観的にあるということが、それ前提にしているけど、それが本当に正しいのかどうか。本来は分別できない、全部が繋がった世界が本来の世界で、その中に関係性があるから、関係性を見つけることによって構築された世界の方がむしろ正しいかもしれない。だから「われ―それ」として、物を分別してみているときの自分と、そうじゃなくて、もともとはすべてのものがつながっていて、そこから関係性を見ているときの自分とは、「われ―なんじ」という関係性の世界の「我」は全然違う世界を言っているんじゃないか。だからむしろこの方が正しいじゃないかと。分別してものを見るということは、そういう世界ということは、つまり自分と周囲のものとを分けて見る私というのは、世界は一つなんですね。
 
金光:  自分が、じたばたしてもしなくても、なんら変わりなく一つの世界が動いていくと。
 
志慶眞:  そういう具合に思ってるわけなんですね。
 
金光:  そうですね。
 
志慶眞:  そういう具合に思っているわけですね。人間は生まれた時から。なんでかというと、人間は生まれた時から分別の身を生きているから。私は生まれたときに物を分別して認識するけれども、じゃあ私が生まれたもともとの世界も分別された世界かというと、僕は、それは「一如(いちによ)の世界」だ。「分別を超えた世界だ」と。でも生まれる時に見失ってしもうてる。だから僕は生まれたときに、分別の身を持って生まれることが、「生・老・病・死」の「生苦(しようく)」だと思うんですよ。だからこの分別は煩悩を引き起こすわけですね。好きとか嫌いとか、あれが欲しいこれが欲しいとかですね、上下とか、そういうもともと生まれた時の分別の身しか生きていないから、我々はずっとやっている分別を超えた世界というのは、結局わからないままでスタートした。
 
金光:  わからないということに気がつく、気がつかないか、が大きな分かれ目のような気がするんですが、その場合はどういうふうなところでそこの問題に気付かれたわけですか?
 
志慶眞:  だからその人間がそういう分別でしか生きていないということを、その世界を超えた「無分別の世界」というものに初めて人類で気づいたのは、僕は、「釈尊だ」と思うんです。釈尊はそれを感得した時に、こういうことは普通の一般の人に話しても、分別しか生きていない人にいくら話してもわからないじゃないかと思ってためらったわけですよね。しかしそれは耳あるものは聞くだろう、眼あるものは見えるだろうという「梵天勧請(ぼんてんかんじよう)」の話があって、初めて五比丘(ごびく)(釈迦が成道して(悟りを開いて)最初に弟子となった五人の修行者)に話をするわけですよ。それに初めて気づいた人が釈尊だと思うんですよ。なんでかと言ったら、釈尊は悟りを開いたときに、「ダルマが至り届いた。不死(ふし)が得られた」というんですね。ダルマがいて、私が何かを掴んだというたら、向こうの方が私に明らかに変転したわけです。そして不死が得られたと。私は、釈尊もそうですけど、悟りを開くまで生老病死の生死(しようじ)する命を、分別した命をずーっと生きていたわけです。生まれては死んでいく。釈尊は、その生死を超えた世界を初めて感得したわけですね。だからあの「不死」というのは、「不生不死(ふしようふし)」なんです。「不生不滅(ふしようふめつ)」なんです。
 
金光:  生まれない、だから死なない。
 
志慶眞:  それを我々からすると、例えば「無量寿の命」とか、その私の分別を超えた大きな大きな世界を、実は釈尊は感得した。でもそれは言葉にならない世界を感得してしまったんで、言葉にすること自体が分別になってしまうんで、でも言葉にしないと届けることができないから、言葉として説かれたのがダルマだと思うんですよ。だから初めて人類の中で「無分別」相がない―無相(むそう)というんですかね、それに気づいたのが、僕は釈尊だと思うんです。
 
金光:  「無相」というのは、姿のない形のない世界。
 
志慶眞:  我々はあれもこれも、相があると思っている―有相(うそう)。ところが本来のものは、 「一如の世界」というのは、相のない世界なんですね。
 
金光:  私、何年か前か詳しいことを覚えていませんけれども、かなり前に最初に志慶真先生にお話を伺ったときですね、志慶真先生が話を聞いていらっしゃった広島大学の仏教会かなんかで話をされた
 
志慶眞:  仏教青年会で、
 
金光:  細川巌(ほそかわいわお)先生(福岡教育大学名誉教授)のお話、その細川巌先生と細川先生の話を聞いていらっしゃった関真和(せきまさかず)(小学校教師)先生ですね、そのお二人が共に癌にかかっていて、余命宣告を受けていらっしゃって、そう長くないというところでの交換された手紙、それを読まれたときにですね、ここに自分がこれまで悩んだのを解決できる世界があると、志慶真先生が感得なさったとかということを伺って非常に印象が残っているんですが、その世界はやっぱり不死の世界、そこに書いてあるのは繋がった世界という。阿弥陀さんの世界というのは、その世界ということなんでしょうか?
 
志慶眞:  そうですね。手紙の中で細川先生が、「生きるも南無阿弥陀仏、死ぬも南無阿弥陀仏ただこのこと一つ」と。だからそういう私の思いを超えた、どの人もこの大きな命の世界を生きているんだ。僕はですね、人間は分別しかないと思っているんです。これが我々が宗教とか仏教をわからないのは、分別を自分で超えられると、どこかで思っている。分別しかないんだけど、超えられると思っていること自体が分別なんです。文字にしたり、言葉にすること自体も分別なんです。龍樹(りゆうじゆ)菩薩(インド仏教の僧:150-250年頃)はその限界をわきまえていて、そういう具合に分別でしかものを語れないという、表現できない、それを「仮名(けみよう)」といった。限界があるけれども、言葉なしには何も表現できない。だから言葉によってとりあえず名付けることも「仮名」と言う。言葉の「月」は、月そのものではない。「月」という言葉は月そのものを差す指でしかない。指は月ではない。
 
金光:  仮の名前と書いて「仮名(けみよう)」。名前だけのもんで、実体ではないと。
 
志慶眞:  無分別のものを分別できた我々は人に伝えることができない。そういう手立てということを「仮名」といったんですよ。だから我々がなかなか仏教の世界とか、そういううなずけないのは、分別のみでしかないのに、分別を超えた世界、分別でしか生きていないのに、自分の中に無分別がわかると思っていること、
 
金光:  もっと真剣にやれば、
 
志慶眞:  結局分別しかない。僕は、そういうことを表現するために、自分の中に煩悩があるとずーっと生きてきたわけです。煩悩でないところに真実を理解できるものがあると思っていた。僕が、その往復書簡で〈あ、なるほど〉と思ったのは、実は私は百パーセントの煩悩の身でしかない。その表現を届ける為、僕は煩悩に名前をつけたのを渡したんだと。そうすると、百パーセントなんです。でももしそれがうなずけたら、私はこの世の中を分別できない世界を、どこまで行っても分別でしか理解していない。表現できない。だから一切のものは人間の概念とか表現とか文字を超えている。その世界が実は本当だというのは、私は百パーセント分別だということがうなずけた時に、その裏返しとして表現されるわけですよ。だから無分別がわかったときには、百パーセント分別だということがわかった時に、実はそれを超えた世界を我々は生かされているんだと。そういううなずき方しかわからないんですね。その時に、私を超えた世界というのは、無分別の世界をですね、分別している私がわかるわけはない。そうすると、無分別のものが分別になる以外に、私とコンタクトすることができないわけです。だって分別しか生きていないものが、無分別わかるはずがない。だから無分別が分別になる以外にない。「無分別の世界」のことを、「一如(いちによ)」とか、「真如(しんによ)」とか、「法性法身(ほつしようほつしん)」とかいうわけですね。それが分別になることを実は「大悲方便(だいひほうべん)」という。人間の分別は「虚妄分別(こもうふんべつ)」―虚妄というのは、虚に妄念の妄ですね。人間の分別が「虚妄分別」だけど、仏さんの方が分別しか生きていない人間にアクセスするためには、向こうが分別になる以外にない。それが「大悲(だいひ)」なんです。それなんでかわからんけど、仏様の一如の世界、そういう働きを持っている。それは我々も一如から誕生したから、相互にそこに響き合うもの、実は持っているんじゃないかと思うんですけど。その一如のものが分別になることを、それを「方便法身(ほうべんほつしん)」という。その方便法身の姿を「浄土」とか、「南無阿弥陀仏」という。それが我々にどう働くかというと、「汝大きな世界に還れ」と喚びかけているわけです。その言葉が「南無阿弥陀仏」なんです。だから向こうの方が、無分別が分別になることによって、我々は分別して生きていないものが、初めて〈ああ、なるほど。そういうことなのか〉と頷くわけです。
 
金光:  今のお話を聞いていると、この煩悩の塊にわかるわけがないということを教えてくださっている。
 
志慶眞:  そうです。それが法の働き。自分の思いでわからないんですね。我々はさっき言った分別でものを見るから、「われ―それ」という分別の世界を生きているわけです。その分別の世界の「我」を生きている。でも仏さんの方からは、「われ―なんじ」という呼びかけになる。私は、「われ―なんじ」とずーっと呼ばれているけど、その「汝」という呼びかけをですね、「それ」に顛落(てんらく)さしてずーっと聞いている。だからわからないわけですよ。いつでも「それ」にしてしまうから。僕はその「それ」にした一番のあれが、例えば「こんなことで誤魔化されんぞ」と。「こういうものでは理解できないぞ」とか、そういう具合にして喚びかけを、これが浄土真宗で「汝」という呼びかけ。「南無阿弥陀仏を呪文とどう違うの。理解できないよ」とか、「わからないよ」とかね、逆に言えば、それを「南無とは何か」「阿弥陀とは何か」。根掘り葉掘り分別で分析して理解しようとしている。でもその「汝」という喚びかけは、人間の方の分別を超えたものだから、私の分別でいくらやってもわからないわけですよ。でも人間はそこからしか出発できないから、〈こんなものではどうにもならないぞ〉という思いを抱えながら、〈分かりたい〉という思いの中で歩むわけです。でも「汝」という僕は、実はそうしている浅ましい自分の分別で物事を理解しようとしているちっぽけな自分を教えてくれるもんだと。それを僕は、「生きるもなんまんだぶつ、死ぬもなんまんだぶつ」。これはなんまんだぶつが何かということを超えてですね、大きな大きな生死を超えた命をあなたは生きているんじゃないの。その「汝」という呼びかけが、「それ」に顛落さして聞いていたのを、「汝」と聞こえた時に、初めてその「汝を生きる我」が成立するわけです。それは分別なんだけど、仏さんの方の分別がこれが方便なんです。「大悲方便」ですね。二つ世界があるというのは、もともとの「法性法身」は、「我も汝もない世界」なんですよ。ところが私が今まで生きてきた世界を、「われ―それ」の「我」を生きてきた。だから世界は一つだと。でも仏さんの方から、「実はあなたを超えた大きい世界があるよ」と喚びかけられてうなずく以外に、私の分別のみが大きい世界に頷くということはありえないんで、それを初めて僕は感得したのが釈尊であり、そのずーっと長い歴史の中で、実は「あなたという人はみんな喚ばれているんだよ」と、大きい世界から。それが「われ―なんじ」の「我」を生きるという世界が開かれる。そして気づいてみたら、これが大きいんです。私の「それ」という分別の世界、これはちっぽけな世界。それを超えた大きな世界に実は生かされているんだ。だから私が生まれる前も、今も、死んでからも、私の分別のエゴは生まれて死ぬと思って終わるけれども、実はそれを貫いている大きな法の世界、ダルマの世界、一如の世界が、実は私を根本的に支えていたんだ。これの方が本当だと思えるんですね。なんで分別が役に立つかというと、我々のみが分別を生きているから。分別は役に立つけどすいとらない。なんですいとらないかというと、無分別の世界が我々を生かしているから、分別の世界はすいとらない。でも分別のものを生きているから分別は役に立つんです。みんな役に立つからこの世はそれですんでいるように思ってるけども、吸い取らないからみんなこれで死んでいけないわけですよ。
 
金光:  それで困ってるわけですね。
 
志慶眞:  困るわけだ。どなたも、だから最終的に困るわけですよ。
 
金光:  これだけ一生懸命やっているのに、何で困るんでしょうみたいなところがあるけれども、それはおっしゃるとおりだな。今出てきた言葉の「われ―それ」とですね、「われ―なんじ」という言葉は、志慶真さんが発明なさった、発見された言葉ではなくて、オーストリア生まれでドイツで、どっちかというとイスラエルの大学で教えたりしたヨーロッパの哲学者ですよね。
 
志慶眞:  マルティン・ブーバー(オーストリア出身のユダヤ系宗教哲学者、社会学者:1878-1965)。
 
金光:  ブーバーですよね。『我と汝』というような本が出ておりまして、志慶真先生がお書きになった自分の体験の中で、そういう今のように非常に論理的にですね、「我とそれ」「我と汝」というふうに分けて解説していただくと、我々もなんとなくわかったというのはおこがましいんですけども、なんとなく近づけるような気がするわけですけれども、マルティン・ブーバーの『我と汝』というのをご覧になって、最初の印象はどういうことだったんですか?
 
志慶眞:  僕はさっき言ったように、「世界が二つある」ということがですね。「世界は一つだ」と思っていたのに、「二つある」と言われて衝撃を受けたわけです、それだけで。世界は人間のとる二つの態度によって二つとなる。一つは、「世界は一つではない。世界は二つある」ということ。もう一つは、人間のとる態度とは別に世界が存在するわけではない。世界は、人間のとる態度による」ということ。「お前が考えている世界は、実は世界の中の一部分を自分の認識で考えているところを世界と言っているんだよ」と。それが非常に大きな衝撃だったんですね。ただ僕はブーバーを研究しようと思ったけど、ブーバーの言っているそういう一つ一つの言葉にですね非常に心揺さぶられて、ずーっとそれに向き合ってきたんですね。ブーバー―僕はものが、「あれ」とか、「それ」とか、「これ」とかあるというのは、これ実は人間の認識の迷妄性なんですけど、ブーバーはそこから出発しないんですよ。「我とそれ」という。「我と汝」という。これを「対応語(たいおうご)」と言っているんですがね。それ以外の「それ」というものはないと言っているんですよ。
 
金光:  それ以外はないと言っているんですか?
 
志慶眞:  この言語は「対応語」でしかね。私とは別に我々は「〈あれ〉も〈これ〉もある」というのは、単独語なんですよ。こういう単独語の世界はそもそもありえないと言って、ブーバーは。唯識はそれを説くんですよ、単独語は。それが人間の分別だというのを。そのことは説かないで、そういう世界はそもそもありえない。私が「それ」とか言っているのは、すでに私が「それ」と言ってるから。
 
金光:  「依他性(いたしよう)」なんて、他によって生起した存在と、唯識で言っているのは、それは人間の分別以外の何ものでもないということですね。
 
志慶眞:  依他性のその関係性の世界から、ブーバーは出発するんですよ。だから私が「あれ」とか「これ」とか言っているのは、すでにしてそう言っている私があるから、それを抜きにしてものがあるということは、この世の中にはありえないというんで、その関係性のことを「対応語(たいおうご)」というんですよ。そこから出発する。「根源語(こんげんご)」が「対応語」であって、対応語は「われ―それ」と「われ―なんじ」の二つだけです。根源語の一つは、〈われ―なんじ〉の対応語である。他の根源語は、〈われ―それ〉の対応語である。〈われ―それ〉の〈それ〉は対象化、分別化、分断化、固定化、物質化された「もの」である。根源語とは、単独語ではなく、対応語である。「われ―それ」を生きる「我」と、「われ汝」を生きる「我」と全く世界が違うんだと。僕はそれは浄土真宗とか仏法にあるから、「われ―それ」というのは、我々が生きている世間は「娑婆(しやば)」ですね。
 
金光:  「娑婆」の世界を生きているのは、いつも「われ―それ」で、これよくわかりますね。
 
志慶眞:  「われ―なんじ」という一如の世界が我々に呼びかけるその世界のことを「浄土」と。
 
金光:  気がつかない。
 
志慶眞:  わからない。それのことを実は「浄土」といい、向こうから我々に呼ばれているということを「南無阿弥陀仏」という。それの方が実は本当だ。そしてブーバーはやっぱりヨーロッパのユダヤ教のところから来ているもんですから、私から「われ―なんじ」の「われ―なんじと呼べる」という表現の仕方しているんです。キリスト教徒はやっぱり「神よ」といいますよね。だから人間の方から「汝」と呼べるような表現の仕方。あの時代でも、いや人間の方からそういう呼びかけはできないということを言ってる人たちがいたけど、それはそれは少数派であまり取り上げられなかったんです。僕は、浄土真宗からすると、私が「汝」というのは、「それ」でしかないと思っている。私の方から「汝とは呼べない」と思っている。向こうが私に「汝と呼ばれた」ときに、初めて私の中に分別しかないものが、向こうの分別が私の分別の方に至り届いた時に、私の分別が翻すものとして、こっちから汝が出てくる。だけどグーバーは、「私から汝と呼べる世界、これが大切だから、その永遠の汝と呼びましょう」という表現の仕方があるんですよ。だけど我々浄土真宗からすると、人間の方から僕は呼べないと思っている。百パーセント分別のみから出るのは分別でしかない。
 
金光:  それはそう思いますね。
 
志慶眞:  でも百パーセント分別のみがなんでわかるかというと、向こうが、無分別が分別になって「汝」と呼ぶんだから、それで私は私の思いが翻されるわけです。そこに初めて新しい世界が開ける。でも初めは「汝」と呼ばれても、汝を「それ」としてしか聞かないわけです、ずーっと。でもそれをどこかでやっぱり仏法を聞きながら歩むことによって、自分の姿が明らかになってくる。そう言ってる自分に実は問題があるということに気づいたときに、この疑ってる自分に実は問題があるということを、仏法が教えてくれる。その時に初めて自分の疑いが払拭された時に、実は向こうが私を、私の思いとかは、いのちというのは、私の思いを超えたもの。それの方が実は本当だったんです。それが向こうから私が「汝」と呼ばれたって、初めて私から「汝」という言葉が出てくる。そこで初めて「我は汝であり、汝は我」という関係性の世界が開かれる。それがいわゆる「信心」という世界です。呼びかけの世界というのか。今までは分別しているということも、そういうもので自分の人生を構築していたということもわからないで生きてきたわけです。教えに会うことによって、自分が百パーセント煩悩の身だということがうなずけた時に、そうした時に、その私の生きている煩悩の娑婆の世界が、逆に私を教えるものになる。私を知らせるものになる。朝から晩まで「あれが欲しい、これが欲しい、こうだ、ああだ」とかね、そういう分別のみを生きているということがわかる。今まではそれしか根拠の生きる道はなかったけれども、一遍「汝」という呼びかけの世界の方が本当だと思えたときに、それに背を向けて「アレ」とか「コレ」とか言っている自分というものは、もはやそれを根拠にしなくていい世界。今までは根拠にしてきたけど、分別はあるけれども、根拠にしないことは―根拠にすることを「自力(じりき)」というんですね。あるけれども、それをもはや根拠にはしないで、それが私の念仏の中身になる。これの方が本当の世界なんです。我が身の一日の出来事が、我が身を照らす出来事。だから私に起こったいろんな毎日の分別そのもので生きているから、いっぱいいろんなことが起こるわけです。今まではそれを根拠にして生きていて、それをなんとか分別したものに分別をなんとかしたいと思って生きてきたわけです。でもなんともならないものをなんとかしようと、百パーセント分別のみが分別を何とかしようとすることが分別だから、それはだから不可能なんです。そういう浅ましい自分を教えてくれるものとして「法」というものがある。「南無阿弥陀仏」というのがる、「お念仏」があるといただけた時に、我が身に起こるすべてのいろんな出来事がですね、私があれの原動力になるんですね、仏さんに会う。それはよく我々は「こんな俺では」とか卑下(ひげ)しますね。でも「卑下」というのは、実は自分で自分の始末をつけようとする「慢心(まんしん)」だ。でも私を超えて大きな世界があるということがわかったら、自分に起こるそういう一日の出来事をそれで決着をつけるんじゃなくて、仏さんの前に「南無(なむ)」して生きることができる。これを「懺悔(さんげ)」というんですね。懺悔する前には、仏さんの大きな世界がある。大きい世界にどう展開するかというのは、実は宗教の一番の眼目で、みんな「宗教に入る」というけど、僕は違うんです。「宗教に出る」んです。ちっぽけなエゴの中にいる人間が、それを超えた大きな真実の世界に「南無」して見ている世界に出るんですね。
 
金光:  そこに自然に「懺悔」という世界とつながりがあるわけですね。
 
志慶眞:  その場合は、「申しわけありません」とかいいますよね。申し訳ないと思いながらそれを処理しようとしているわけです。処理できないものをですね、百パーセント分別のみを、分別のみを分別で何とかしようとすること自体が分別ですから、分別は超えられないんです。だからその大きな世界に行った時に、実は分別している自分のみがあるということが、私は仏さんに気づきになる。それが私が念仏を頂く場になるわけですね。そうなればですね、分別だということに気づいたときに、その言葉をどう表現しようか。その時に一瞬思ったのが、俺はなんと冷酷無比だろう。仏法も先生もですね、分別で切り刻んで理解しようとする。そういう自分はなんと冷たい心で今まで生きていた。そう思ったときにですね、「生きるもなんまんだぶつ、死ぬもなんまんだぶつ」という、自分の分別を超えた世界。その時に僕は自分の中にその真実があって、自分の中で真実の仏法を掴んで理解しようと思った。
 
金光:  そうなんです。こうやって掴んだら何とかなるだろうというのがどっかにある。
 
志慶眞:  それを払拭するために、ぼくは煩悩に名前を付けたのが「私」と言っている。百パーセント煩悩。ただ私は別の表現で、私は冷たいけれども、この身は日の暖かさを感じる身を持って生まれている。私が暖かくなるんではなくて、冷たいけれども私は日の暖かさを感じる。だから私は冷たいけれども、仏さんの温かさを感ずる身をもって生まれてきた。それはやっぱり私も一如の世界から誕生している。誕生するときに見失って、分別のみを生きているけれども、でも本来は私を生かしている命を、分別の命がけしているんではなくて、無分別の命が私を失うことから、だから日の温かさを感ずるような身を、私は仏さんから賜っているわけです。気づいてみればそれがとても嬉しいわけです。ありがたいわけです。私は分別だけど、分別を超えた世界を、僕は仏法一つということは、もう一回見失った一如の世界を、無分別の世界に出会うことだと。それが仏法を聞くことだと思うんです。
 
金光:  だから「宗教の世界に出られた」ということをおっしゃるんですよ。
 
志慶眞:  そういう大きな世界にね、みんなそこを知らなければ自分の分別一生終わる以外ないじゃないですか。
 
金光:  どうも貴重なお話どうもありがとうございました。
 
     これは、平成三十年一月二十一日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」に放送されたものである