イスラームという生き方J楽園の緑、火獄の炎
 
                京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科教授・
                同付属ハダーリー・イスラーム弁明研究聖典長 小 杉(こすぎ)  泰(やすし)
            立命館大学授業担当講師       小 杉(こすぎ)  麻李亜(まりあ)
 
ナレーター:  シリーズ「イスラームという生き方」。イスラームの聖典「クルアーン」の一節を紹介しながら、イスラーム教徒ムスリムたちの生き方を十二回にわたって読み解いていきます。第十一回は「楽園の緑、火獄の炎」と題してお送りします。お話は京都大学大学院教授小杉泰さん、そして立命館大学授業担当講師小杉麻李亜さんです。
 
小杉:  ある時私が、カイロで知人たちと雑談に興じていると、「幸せな死とはどのようなものか」という真面目な話題となったことがあります。四十代のナビールさんが、父親から聞いた話として、マッカ巡礼中に亡くなった人の例を出して言いました。「その人はカアバ聖殿で礼拝をしていて平伏礼をしていたんだ」。この平伏礼というのは、床に額をつけて、神への絶対帰依を現す動作です。ところが、他の人が礼拝を終えても、その人は額を床につけたままだったというのです。周りの人が不審に思って確かめると、すでにこと切れていました。ナビールさんは、この例を称えて、「命が終わるその瞬間までアッラーに仕えていたということ。礼拝をしていて心安らかな死そのものですよね」と言います。私は、日本での事情を話しました。日本では、癌、心臓、脳のいずれかの疾患で亡くなる人が多く、その場合に、癌は嫌だという人と、逆に癌は急死しないので、死ぬ前に心の準備ができる点が良いという説もあるいうことを紹介しました。ところがこの「心の準備」という考え方が、なかなかわかってもらえなかったんです。「人間が必ず死ぬのは最初から決まっていること。死が近づいてから準備をするのでは、宗教がある意味がないでしょう。宗教はいかに死ぬかを教える」とエジプトではよく耳にしたんです。それは良い死を迎えるために宗教があり、そのために生きてる間の教えがある。死ぬ時を終着点と見据えた上での人生と思うのがイスラムの教え、そういう信念が感じられました。人は死ぬ。そのことを日本では、子供に教えるのはかわいそうと考えがちです。肉親の死から子ども遠ざけたり、死の意味を曖昧にしたりもします。しかしイスラームでは、子供の頃からこのことを教えるんです。クルアーンには全部で百十四の章がありますけれども、短い章が最後の方にたくさん配列されていて、子供にクルアーンの朗唱を教えるときは、この短いのを暗誦させます。そのような章句を後から数えると、十四番目、ほとんど一番最後の方になるわけですけど、そこに世界の終わりとともに審判の日が来て、人間の来世での行き先が分かれるということが説かれています。「戦慄の日章」―「戦慄の日」というのは、世界が終わるという意味ですね―この章の四から一一節にこうあります。
 
その日[終末の日]、人間は飛び散る蛾(が)のようであり、[重い]山々は梳(す)かれた羊毛のように[軽々と舞い散るものと]なる。そして[審判の際に善行によって]秤(はかり)が重い者は、満ち足りた暮らしに入る。秤の軽い者は、その郷(さと)は奈落(ならく)であろう。それが何であるか、汝にわからせるものは何か。[それは]灼熱(しやくねつ)の炎。
 
こうなっています。人間の生涯には常にふたりの天使が付き添っていて、右側の天使はその人の善行―善い行いを記録し、左側の天使は、悪い行いを記録すると。でこのイスラムの教えでは、一生のすべての記録が審判の日に秤に載せられて、善い方が重いか、悪い方が重いかが判断される、とこういうことなんです。こういう章句を幼い頃から耳にして、暗誦していると言うのをみると、宗教的な世界観が心に染み込むこともよくわかります。イスラームにも來世という観念があります。私たちが生まれる前の前世という考え方はありませんので、イスラームでは、現世と來世。唯一で全能の神が世界、つまり現世をつくり、そこでの行いによって、人間は来世での暮らしが決まるという考え方です。世界の終末が来た後に、人間は審判を受けて、その結果行き先が二つに分かれるとされます。つまり緑の楽園か火獄(かごく)。火獄というのは、燃える火に地獄の獄と書いて「火獄」と呼びますけれども、「楽園」か「火獄」という考えです。まず楽園についてクルアーンは次のように描いています。「巡礼章」の二十三節、
 
まことにアッラーは信仰し善行にいそしむ者たちを、その下をいくつもの川が流れる楽園にお入れになる。彼らはそこで黄金の腕輪と真珠を着け、そこでの彼らの衣服は絹である。
 
イスラームでは、男性が黄金と絹を用いることは禁じられていますので、これが来世での贅沢の一つであることがわかります。また「楽園の下をいくつもの川が流れる」という表現は、クルアーンに幾度も出てきます。そして川には水が流れているばかりではありません。「ムハンマド章」十五節には、次のように述べられています。
 
信仰深き者達に用意された楽園はどのようなものか。そこにはいつもきれいな水の流れる川、そして味の変わらないミルクの川、飲む者に美味な酒の川、純粋な蜜の川がある。彼らのためにあらゆる果実と、彼らの主からのお赦しがある。
 
楽園に「美酒の川」美味しいお酒の川があるということは少し驚きです。この川のお酒は、頭も痛くならず、酔いも残らないとされて、現世のお酒とは異なっています。それでも酒は酒ですので、イスラームが飲酒を禁じているのは有名ですから、ちょっと驚きますけれども、イスラームの考えでは、酩酊(めいてい)作用はいけないけれども、お酒自体が悪いわけではないということが、ここからわかります。「楽園」は木々が茂り、緑豊かなだけではなく、苦しみや危険が一切無いというのが、クルアーンの描く楽園です。そして楽園の反対は火獄です。火獄もクルアーンに何度も登場します。「雌牛章」の二○六節には次のようにあります。
 
「神を畏(おそ)れよ」と言われても、高慢さがその者をとらえ、[かえって]罪に走らせる。その者の取り分は火獄である。
 
また「至高者章」一一―一二節では、次のように言われています。
 
卑劣な者は[教えを]避け続ける。彼は巨大な炎に焼かれるであろう。
 
このような火獄は、神を否定し、悪行をなした人びとへの懲罰の地として描かれています。クルアーンは、繰り返し、神を信じて善をなす者には楽園、その反対の者には火獄が用意されていると警告しています。楽園が報奨であるならば、火獄も現世での行いの応報であることになります。その一方で火や炎で焼くのは、浄化を意味しているという解釈もあります。炎が魂の悪しきものを焼却し続け、浄化し続けると言うんです。楽園にも火獄にも様々な名称、呼び名があります。永遠の楽園は「エデンの園」、「フィルダウスの園」「永住の楽園」「悦楽園」「平安の館」「定住の館」などと呼ばれます。こうした名前を聞くと、ムスリムは安住や平和な生活を想像します。火獄にも様々な名前ありますが、その意味するところはすべて激しい火の種類で、日本語で訳すなら「火獄」「業火」「猛火」「火炎」などとなります。日本語では、こうした文字を見ると、そこから炎の激しさが想像されます。一方アラビア語は、こうした言葉を音で聞く者の耳を通して様々な炎の責め苦を想像させる仕組みになっています。このシリーズの第二回で、日本語は、文字を重視する文化「ロゴセントリック」。アラビア語は、音を重視する文化「フォノセントリック」ということを紹介いたしました。ロゴセントリックの「ロゴ」は図案や記号を指し、こうした文化では視覚芸術が発達します。仏教では極楽や地獄を描いた絵もたくさんあります。これと違い、アラビア語は、「声」乃至(ないし)は「音」を重視します。クルアーンは、文字で読むのではなく、声に出して朗誦する啓典です。イスラームでは実は終末や来世などの不可視の世界を絵に描くことも、偶像崇拝と同じように禁じられています。そして絵画表現の代わりに、イスラームでは、クルアーンの章句を唱え、耳からその情景を聞いて、一人ひとりが自分の心の中でイマジネーションを働かせることが求められるんです。それは聞く人の想像力。その人が生きている時代に合った想像力が発動される仕組みとも言えます。それ故、現在でもクルアーンの章句を聞くムスリムは、来世の実在を感じることができるのではないでしょうか。このシリーズで解明しようと掲げた課題の一つは、先進国では世俗が進んで、宗教が弱まっているのに、イスラーム圏では宗教が復興してるのはなぜかということでした。音として伝えられるからこそ、時代を超えて説得力を持つという側面があるのかもしれないと思います。
ここで娘・麻李亜に、イスラームの来世観や死生観を、現代のムスリムがどのように受け止めているのか、インタビューで伝えてもらいたいと思います。
 

 
麻李亜:  小杉麻李亜です。今日は、以前にも出演してくださったシリア人の研究者で、今京都にお住まいのハシャン・アンマールさんにお話を伺いします。アンマールさん、よろしくお願いします。
 
アンマール:  よろしくお願いします。
 
麻李亜:  アンマールさんは、シリアのアレッポご出身ですよね。シリアは内戦状態で、アレッポは特に激しい戦闘が繰り広げられた街ですけども、アンマールさんのご両親やご兄弟・親戚というのは、今どちらにいらっしゃるんでしょうか?
 
アンマール:  今はばらばらなんですけど。両親は、エジプトに今住んでいますし、兄弟たちもエジプトにいる人が妹がいるし、そしてトルコにもいます。両親は、最初は出てこなかった、アレッポから。
 
麻李亜:  シリアを離れずにずっとシリアに留まった人もいますか?
 
アンマール:  勿論、最近まで、去年まで親戚がいたんですけど、政府が入った時もしょうがなくて、みんな出ました。
 
麻李亜:  シリアに留まった方で、亡くなった方もいらっしゃるんですか?
 
アンマール:  もちろんあの今、内戦のせいで、誰の家族でも必ず失った人はいます。私の家族だったら、一番近いのは従兄弟。戦っているんではないし、何の関係もない。意見は反対側でも、政府側でもない。にも関わらず亡くなった。
 
麻李亜:  アンマールさんの従兄弟の方はお若い方だったんですね。
 
アンマール:  三十七歳で。
 
麻李亜:  同じくらいの年頃で。アンマールさんは、シリア内戦が始まった時に、日本に留学してこられたわけですよね。どういった経緯で日本に来ることになったんですか?
 
アンマール:  高校時代までずっとアレッポで住んでいましたけど、大学時代はダマスカスの大学で勉強しましたので、ダマスカスに行って、ずっとそこに住んでいたんですけど、ダマスカスはけっこうデモが多かったんです。そのデモに対しての被害―友達とかいろんな人逮捕されたり、政府から被害を受けて、アレッポに住んでいる両親は非常に心配だったし、どうしてもシリアから離れた場所に行ってほしい。だからしょうがなくて、日本に親戚が住んでいますので、一度日本に来て、様子を見てから、また後で話しましょう。出るときに、もちろん二日間ぐらいアレッポに戻って、みんなにさようならと言って、またダマスカスに戻って日本に来ました。
 
麻李亜:  遠くの国である日本に来て、シリアの状態をニュースなんかで見たりしたんですか?
 
アンマール:  はい。それからほぼ毎日一日中ニュースを見ていたんです。日本に来た最初の頃は、シリアに住んでいるかのように。まあその時私は全然日本語何も分からないし、アラブのニュースを聞いたりして、SNSとか、いろんなソーシャルメディア見たり聞いたり。もう帰りたいと思ったこともあります。だけど、時間とともに非常に複雑になりました。この日本から見ていて切なくなる状態しかないです。
 
麻李亜:  ニュースを見ていて、どんどん状態が悪くなるから、自分も帰って何かしたいと思っても、
 
アンマール:  もちろん。戻ったら非常に両親は辛くなるので、こういう辛い思いさせたくない。
 
麻李亜:  両親は、自分たちが状態の悪いシリアにいてても、アンマールさんだけは別の場所にいてほしい。
 
アンマール:  はい。
 
麻李亜:  すごく辛いですね。
 
アンマール:  こういう安全な場所にいても、シリア人の私だけではなくて、シリア人どこでも今、欧米でもどこで離れても、生きている場所に幸せにいけないですよ。
 
麻李亜:  幸せになれない。
 
アンマール:  なれない。なぜかというと、ずっとこういう辛い思い出と一緒に住んでいるから。だから楽しめない。安全場所と言っても、心は別の場所に離れて…
 
麻李亜:  非常にこう理不尽、自分たちは悪くもなんともない理由で、非常にそういう辛い目に遭っているときに、宗教―アンマールさんの場合は、イスラームなんですけど、宗教っていうのは心の支えになったりするんでしょうか?
 
アンマール:  もちろん。宗教なしでは非常にさらに辛くなります。宗教の考えでも、イスラームの考えだと、この世を今生きている世界で起きているものはすべて「試練」です。試練として考えたら、善いことでも悪いことでも、クルアーンで書かれている悪いことだけではなくて、善いことでも試練になります。例えばお金で恵まれた時にこれ試練です。これどうやって使うのか。この世界で、來世で判断されているんですけど、なのでこの世界と來世との関係、非常に密接な関係があります。例えばシリアの事例をとっているんですけど、被害を受けた人と、被害を与えた人、そして犠牲になった人とその周りの人、この三つがクルアーンでも書かれている。例えば被害を与える人、空爆している人とか、クルアーンで「悪を行った者は、本当に永遠の懲罰を受ける」。そしてそれに対して犠牲になった人―「死んだと思ってはならない。いや、彼らは主の御許で扶養されて生きている」。そしてこの周りの、例えば犠牲になった人の家族、非常に辛いということも試練として、イスラーム考え方です。「よく堪え忍ぶものは、本当に限りない報奨を受ける」ということです。だからこういう三つの関係のある人、来世にちゃんとした裁くというような、行われているので、だから非常に納得いく話になります。そういう繋がりなしでも非常に世界で非常に分かりづらいこと、今こういう空爆やっている人とか、殺したり、もしこの世で裁きなしで終わったら、どうなるか。だから犠牲になった人は、どうやってこの自分の…
 
麻李亜:  辛くて乗り越えられないですよね。
 
アンマール:  だからこの繋がりは非常に大事です、イスラームの考えでは。
 
麻李亜:  なるほど。この世だけで見るというのは、人間の見方なわけですよね。神様の目線で見たら、この世というのは実は來世と地続きになっていて、來世でどういう人生を送れるかということの試練になっているということですよね。そのことを考えることで、少しバランスがとれた見方になるというか、納得がいくということですよね。アンマールさんがとても苦しいときのクルアーンの章句というのはありますか?
 
アンマール:  はい。あります。たくさんありますけども、一番好きな章は、まずアラビア語で、(アラビア語で唱える)これは日本語で、「本当に困難と共に安楽はあり。本当に困難と共に安楽はある」。そしてもう一つこの章句は、離婚の話を語っているんですけど、最後の部分で次のように言います。(アラビア語で唱える)これは日本語で、「おそらくアッラーは、この後で新しい時代を引き起こされるであろう」。
 
麻李亜:  これはそれぞれどういう意味として、アンマールさんは受け取っているんでしょうか?
 
アンマール:  「辛い時と共に必ず何か良い事があります」と言うことで、私の目で見たら、辛いだけ。だけども本当にこれと共に何か良いこと、私にとって良いこともあります。これは一つ。二つは、この辛いことといっても、結局良いことになるかもしれません。そしてさっきの次の章句は、「あなたは知らない。もしアッラーはこの後良いこと起こすかも知れない」という話で。
 
麻李亜:  変な質問なんですけど、日本なんかでよく言われてる言葉でも、「人生苦もあれば、楽もある」みたいな、友達とかが、私が辛い目に遭っていても、いやいやまた良いことあるみたいなこというのとは、おそらく全然違うことだと思うんですよ。そうじゃなかったら、自分の心の支えにならないわけでしょうね。それはやっぱり言ってくれている人を信頼しているからですか?
 
アンマール:  はい。勿論。それからこれはそもそも誰が言っているかというと、イスラーム教徒として信仰して、これは私を作った存在をそうおっしゃっているんで、それだから信じています。こういう複雑な存在を創ったそういう存在をそういうおっしゃっているので、必ずそういうです。
 
麻李亜:  自分たちのような、人間のような複雑なものを創った神様が、「そうなる」と言ってくれたら、「それはそうだろうと。そうなるだろうと思える」ということですよね。アンマールさんが、大事であったり近しい人、失ってしまったり、とても悲しい思いをする時っていうのがあると思うんですけど、そういう時には、どんなクルアーンの章句を唱えるんでしょうか?
 
アンマール:  はい。死の物語だけではなくて、この世界この世の物語全部まとめて表す章句で、アラビア語をまず読んで、日本語で言います。(アラビア語で唱える)日本語でいうと、「誰でもみんな死を味わうのである。だが復活の日には、あなた方は十分に報いられるであろう。またこの日、業火(ごうか)から遠ざけられた者は、楽園に入れられ、確実にすべての願いは叶う。この世の生活は偽りの快楽に過ぎない」ということです。これはもし誰か失ったら、一番おさえる章句になります。何故かというと、誰でもどれぐらい生きていても死にます。だけど本当に成功はこの世ではなくて、來世に決まる。そして最後にこの生活、この世は全部偽りの快楽に過ぎない、ということで、だから本当にこの世を纏めた話なので、非常に役に立つ、こういう時に非常に役に立つ章句です。
 
麻李亜:  アンマールさん、今日はたくさんお話聞かせてくださってありがとうございました。
 
アンマール:  こちらこそ、ありがとうございました。
 

 
小杉:   イスラームという生き方、その第十一回は、「楽園の緑、火獄の炎」と題してお伝えしています。イスラームでは、死はどのようなものでしょうか。誰かが亡くなったとの訃報に接すると、ムスリムが最初に唱えるのは、「まことに我らはアッラーのものにして、かれへと還りゆく」という言葉です。これはクルアーンの章句に立脚しています。「雌牛章」の一五六節に、次のようにあります。
 
[忍耐する信徒たちは]彼らに災厄がやってくると、[彼らはアッラーのものにしてかれへと還りゆく]と言う。
 
ここで親しい人の死が「災厄(さいやく)」と呼ばれていることは、とても重要なポイントだと思います。イスラームの教えでは、死は人生の完遂と言う意味を持ちますけれども、残された人にとっては「災厄」と呼ばれるわけです。友人のアフマドさんは、「別離は誰にとっても、辛いことだから」と言っていました。つまり死が悲しいと言うよりも、愛(いと)しい人と引き離されることが最悪だというんですね。彼によれば、死ではなくとも、その人が遠くへ行って、もう会えないという場合、誰でも悲しく辛い思いをするでしょう、といいます。私が彼に、「やがて、楽園で再会できるという思いは、ムスリムにとって希望なのでは?」と聞きますと、彼は、「そう。その希望があるからこそ、アッラーへと還りゆく、と言うのです。でも、今は別離の悲しみが先でしょう」と答えてくれました。茶目っ気のあるアフマドさんは、さらに少し微笑んで言葉を継いでこう言いました。「それに、その人が楽園に行くにしても、私が行けるとは限らないでしょう。楽園でその人にまた会いたいのならば、真面目に生きていかないとね」と言っていました。イスラームでは、葬儀はみなの務めです。ムハンマドの言行録ハディースによれば、病人を見舞うことや、葬儀に参列することは、ムスリムの義務とされています。これは「連帯義務」と呼ばれる種類の義務です。つまりムスリム全員がその務めを果たす義務を負っているのです。誰か一人が実施すれば、他の人の義務は解除されますけれども、万一誰もしなかったならば、全員が罪を犯したことになります。極端に言えば、一人のムスリムが亡くなったのに、誰も葬儀をしなければ、世界中の十七億人が過ちを犯したことになるというのが、この「連帯義務」と言う考え方です。そのためもあって、モスクで葬儀の礼拝が終わって、遺体を墓地に運ぶ時は、参列している人たちが、われもわれもと遺体を担いで行きます。イスラームは土葬です。深く穴を掘って、遺体は、顔がマッカの方角を向くように埋葬されます。埋葬の間、誰かがクルアーンのヤースィーン章を朗誦します。死者のためにヤースィーン章を誦む習慣は、シリーズ第二回で紹介しました。肉体が死んだ後、時として魂がパニックに陥ると言われ、ヤースィーン章は、亡くなった人の魂を落ち着かせる効果があるとされています。そして墓に入った魂を天使が訪れるといいます。天使は三つの質問をします。「あなたの主は誰か」「あなたの宗教は何か」「あなたの預言者は誰か」と聞くのです。ムスリムにとっての正しい答えは、「主はアッラーです」「宗教はイスラームです」「預言者はムハンマドです」ということになります。他の宗教であれば、信徒はそれぞれの教えに従って答えることになります。正しく答えられたムスリムは、審判の日に楽園に行けるような人生を送ったことになります。今回初めに触れたエジプト人との談義の中で、「宗教は、死ぬ時のためにある」との認識は、まさに「この質問に答えられるように生きる」という感覚に支えられているのではないでしょうか。天使との質疑を終えたら、墓の中で審判の日を待つことになります。ムスリムは、その後終末の日が来て、彼らが墓からよみがえらされ、審判を受けると信じています。その審判では、この世での全てが嘘偽りなく、秤に載せられます。その日、ムスリムは、自分を人間としてこの世に送り出してくれた創造主に相まみえることになるのです。ムスリムは、神の前に立たされた時、自分の一生を振り返り、胸を張って、「私は唯一の主に恥じない人生を送ることができました」と誇らしく顔向け出来るようにするために、日々小さな善行を重ね、自分のエゴや自分や他の人を害するような悪への誘惑と戦っているということができます。先ほどアンマールさんも言っていたように、「人生は試練である」というのは、ムスリムに共通する信念です。それと同時に、彼らは、神が正義を貫くと信じています。私たち誰もが知っているように、世の中には不正義や不条理が満ちていて、人間の法や制度だけでは、すべてを埋め合わせることができません。イスラーム世界にも、不条理と思える出来事がたくさんあります。それに対してムスリムたちは、いつの日かすべてが神の前で明らかにされ、自分が耐えたすべての苦難を、神が埋め合わせてくれる。苦しみに見合う以上の報奨をくださると信じています。自分に降りかかった不条理があるわけですが、それに責任がある加害者とか、不正義を見過ごした為政者とかも、そのツケを払うと信じています。悪行が白日のもとに暴かれる日があると知っているから、自分の心を苦しめる重荷を神に預け、自分の心を軽くして生きていくことができるのです。絶対的な正義を可能にする神への信頼があるからこそ、ムスリムがこの世を生きて行く上で、イスラームという生き方に意味があるのではないでしょうか。
 
     これは、平成三十年二月十一日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」に放送されたものである