慈覚大師円仁の足跡をたどって
 
                テンプル大学ジャパンキャンパス講師 阿南 ヴァージニア・史代
一九四四年、米国生まれ。一九七○年に日本国籍を取得。夫君は外交官・前駐中国日本大使阿南惟茂氏。夫とともに北京に三回駐在。アジア学(東アジア史、地理学専攻)によって修士号を取得し、日本のテンプル大学で中国史を教える。
            き き て          上 野  重 喜
 
ナレーター:  今日は、「慈覚大師(じかくだいし)円仁(えんにん)の足跡をたどって」と題しまして、テンプル大学ジャパンキャンパス講師阿南(あなみ)・ヴァージニア・史代(ふみよ)さんにお話頂きます。円仁は、都が京に移った年、七九四年、今の栃木県に生まれ、八三八年から十年にわたり中国唐の各地を旅し、旅の記録『入唐求法巡礼行記(につとうぐほうじゆんれいこうき)』入唐(につとう)―唐に入って、求法(ぐほう)―法を求める、巡礼行記―巡礼の旅行記。『入唐求法巡礼行記』を書き、比叡山延暦寺で天台座主(てんだいざす)も務めました。阿南・ヴァージニア・史代は、この円仁の旅の跡を、三十年以上にわたって丹念に訪ね歩いていらっしゃいます。阿南・ヴァージニア・史代さんに、上野重喜ディレクターがお話を伺います。
 

 
上野:  今日は、慈覚大師円仁の中国への旅について、阿南・ヴァージニア・史代にお伺いするんですけれども、先ず自己紹介をちょっとお願いできますか。
 
阿南:  はい。私、四十四年前に、アメリカ・ニューオリンズ(ルイジアナ州)から東京の方へまいりまして、主人と結婚して、日本国籍を取りました。先ず阿南・ヴァージニアだったんですけども、「史代(ふみよ)」は、主人が付けた名前で、誰も私を「史代さん」と呼んだ人はいませんので、バージニアの渾名は「ジニー」です。「ジニー」をどうぞ使ってください。短いです。
 
上野:  じゃ、今日は、「ジニーさん」と呼ばして頂いて、よろしくお願い致します。
 
阿南:  ありがとうございます。
 
上野:  ジニーさんは、円仁慈覚大師、この円仁の研究を長くやっていらっしゃるんですね。この円仁との関わりはどこから?
 
阿南:  私の専門は中国史で、大学時代に円仁日記を―『入唐求法巡礼行記』を英語で読みました。それは前のライシャワー(エドウィン・オールドファザー・ライシャワー:アメリカの東洋史研究者。ハーバード大学教授。1955年(昭和30年)から1963年(昭和38年)までハーバード燕京研究所所長、1961年(昭和36年)から1966年(昭和41年)まで、駐日アメリカ大使を務めた: 1910-1990)大使が漢文から英訳にしました。そしてそれを大学で読んでとっても刺激を受けまして、その時から円仁の旅に興味をもっていました。
 
上野:  このライシャワー先生が初めて英訳されて、円仁のことを広く世界に、
 
阿南:  そうですね。そしてフランス語も韓国語も、現代の日本語と中国版も、今出ています。そしてあれも七万字、四巻ですね。勿論漢文で書き残しましたんです。円仁日記の中に、一般庶民の生活が描いているんですね。それは千二百年前の人々の生活が、こういうことでした、ということを正確な資料と思いましたんです。そして中国の揚州近くに入って、山東省(さんとうしよう)と五台山(ごだいさん)、それは山西省(さんせいしよう)と陝西省(せんせいしよう)、長安、また揚州(ようしゆう)の方へ戻って、山東省から日本へ帰りました長い旅でした。
 
上野:  ちょっと地図で直線距離だけで見ても、四千キロから五千キロほどですから、実際に歩いた距離はほんとに一万キロに近くと思われるくらいですね。
 
阿南:  そうですね。最後に帰りの船を探すのに大変でした。仏教弾圧の最中で、行ったり来たりしましたので、けっこうそれも時間かかりましたんですね。
 
上野:  この円仁が旅した唐の道を、ジニーさんご自身は、自らほんとに丹念に歩かれて、『円仁慈覚大師の足跡を訪ねて―今よみがえる唐代中国の旅』という素晴らしい本を出版されております。これも日本語と英語と中国語と、素晴らしいご本でございますが、写真も豊富で、この写真もご自身で撮ってこられたんですね。
 
阿南:  はい。円仁は、四十歳を越えて、高僧であるんですね。どうして中国(唐)へ行きたかったのか。その理由が、特に天台宗の中で、密教とかいろんなわからないことがけっこうありましたんですね。円仁は唐でどうしても豊富に知識をもっている一番偉いお坊さんから学びたいと、自分自身でいろんな方を訪ねたいと思いました。もともとは天台山に行きたいと思ったんです。ところが自分が位が高すぎて留学僧として認められないで、結局一応遣唐使と一緒に唐に渡りましたんですが、何ヶ月後にもう大使と一緒に帰らなければならない。それで日記の最初の部分は、どうしても中国で残りたいという必死な思いが書き残されています。
 
上野:  中国にどうしても残りたいと、
 
阿南:  そうです。
 
上野:  非常に位が高かったために、普通の学生の留学のように、簡単にはあちこち行けなかったんですね。
 
阿南:  そうです。そして結局遣唐使が最後に山東省から日本へ戻る時に、円仁と弟子二人と手伝いさんの四人が船に乗らなかった。今からみると、一行から離れて残留というという形になりました。
 
上野:  途中で抜け出す、脱走者というふうに。
 
阿南:  そうです。危ない形になりまして、そして円仁さんとそのグループたちは、ほんとに地元の人たちに大変お世話になりました。特に海岸沿いに住んでいた韓国半島からその当時中国に移民しました新羅人(しらぎじん)という人々はそこに住んでいて、円仁たちを助けてあげたんですね。円仁たちが船から逃げて、八ヶ月ぐらい新羅人のお寺に住んでいました。そしてそのお寺の坊さんたいが、円仁さんに「もう天台山の方へ行くのは止めてください。一回Noと言われたら、もう一度頼むことはできません。その代わりに聖地の五台山と長安の都に偉いお坊さんがいますので、あそこでいろいろお勉強に行ったらどうですか。そういう許可を頼んだらどうですか」という忠告を受けましたので、円仁たちはその通りにやっと許可を貰って、住んでいた山東省から五台山まで四十四日間、一日三十キロぐらい歩き続けました。それも私も同じようにその旅もしました、足と車で。
 
上野:  大変でしたね。
 
阿南:  そうです。
 
上野:  そうすると、新羅の人たちに助けて貰って、そのアドバイスで天台山ではなくて、五台山と長安向かった。むしろこの五台山と長安の方が天台山よりも奥地にありますから、大変な旅だったでしょう。
 
阿南:  大変な旅だったですね。
 
上野:  この円仁は、最初中国へ来た時も、随分船が難破したりして、なんか二回は失敗して、三度目にやっと。
 
阿南:  やっと。
 
上野:  それだけ円仁の情熱は大きかったんですが、その跡をジニーさんご自身も実際に丹念に辿られた。
 
阿南:  円仁さんの日記と一緒に歩くのは楽しいことは、そのほんとに書いているところと、実際にその場所に行けば、書かれているのとまったく同じ眺めを眺めることもできますし、同じところで船で渡ることもできるし、同じ時期だと同じ花が咲いているんですね。円仁さんの日記の中にそういう詳しいことも書いてあるので、ほんとに唐の時代と同じように歩くことができます。
 
上野:  そして勿論今はあれから千二百年経っていますから、どうも中国も随分変わりましたけれども、それでもやっぱり随分山の奥の方にはいらっしゃるんですが、円仁と同じような風景もありますか?
 
阿南:  はい。風景もあります。そしてもう一つ楽しいことは、円仁はどこに行っても穀物の値段を書き残しているんです。それは今の中国の経済史を研究する人たちには大変な資料になります。例えばある町では、お米または粟はいくらでした。そしてもう一つの村へ行くと、これはいくらでしたと。ほんとに地方経済とか、その都市によっての経済、大変ないい資料になります。そして毎日お昼はどこで食べました。夜はどこで泊まりました。その主人の名前と態度まで書いてあるんですね。大体はみな親切で、時々今日のホストはケチでした、または礼儀を知らない、と書いてあることもありますので、それも面白いですね。
 
上野:  そんな面白い日記を読みながら、ジニーさんは円仁の跡を訪ねられたんですね。
 
阿南:  はい。
 
上野:  ジニーさんが、本を読まれたのは学生時代ですけど、円仁の跡を辿る旅を始められたのも、もう随分古いんですね。
 
阿南:  そうです。八十三年あたりから。一九八三年頃の中国では、外国人は自由に旅できません。有名なところ、例えば長安とか、揚州とか、そういうところだったら許可が出て訪ねることができました。そして九十年代と、また二○○一年中国に住みましたので、その時はもう中国はどこへ行っても自由に行かれますので、小さな村まで調べることができましたね。最初に大きな有名なところです。
 
上野:  しかし一九八三年から、今もう二○一四年ですから、三十年以上中国を訪ねたんですね。
 
阿南:  ほとんど毎年円仁の旅をどこかでします。
 
上野:  それでジニーさんのご主人の阿南惟茂(あなみこれしげ)さまは、外務省にお勤めだったんで、中国に三回お勤めになる。そして最後は日本の中国の大使になられた。それも非常にラッキーでございましたですね。
 
阿南:  そうですね。恥ずかしいですけれども、私が中国へ行くんだったら、主人は大使だったんですから、「私個人の車を買いたい」と言ったんですね。「ジープを買いたい」と。最初は反対しましたんですけれど、結局ジープを買って、車が入りにくいところでも、ジープを使って円仁の旅をしましたんです。
 
上野:  しかもジニーさんを知っている方は、非常にジニーさんは足が達者で、非常に山の上までどんどん歩かれるということでしたが。
 
阿南:  そうです。何か目的があれば、足が速いです。普通山登りしたくないんです。円仁が五台山に着いたら、その日記の深さが変わりますですね。仏教のことを深く、いろんなことに学んだことを詳しく書いてあるし、やっぱり刺激を受けましたんですね、円仁さんは。例えば初めて念仏を耳にしました。初めて台密声明を耳にしました。初めて常行三昧を見ました。初めていろんな行(ぎよう)を拝見することができました。そして大勢の人たちが一緒に食事をしましたんですね。そういう千僧斎供養というような形を、円仁さんもそこで参加することもできました。偉いお坊さんといろんな質問もできましたし、答えも日記に書いてあります。
 
上野:  大変そこで勉強されたんですね。
 
阿南:  そうです。ほんとに宗教的に深い。日記を読むと、急にトーンが変わりました。こう興奮して五台山の素晴らしさと、いろんな先生たちからいろんなことを教わって、ほんとに「文殊菩薩の世界に入りました」と書いているんですね。五台山で特別の風景も見ました。例えば五色雲ですね。よくそれは仏教の中でそういう言い方がありますけれども、実際に五台山で、円仁さんが中国人と一緒にそれを見ましたんですね。非常に宗教的に深い気持ちに、言葉の中で興奮して書いてあります。実は私は、一九八六年、一人で五台山に行きましたんです。東の台に登りました。
 
上野:  五台山は、「東・西・南・北」と「中」の五つがあるんですね。
 
阿南:  五つの台ですね。私も朝の四時頃登って、陽が出るまでに、私もそういう五色雲みたいなもの見ましたんですね。多分その刺激を受けて、私、こういう円仁日記を歩くことを決心したということは、一つの決まりだったと思いましたですね。
 
上野:  そういう特別の体験をされた。
 
阿南:  そう体験だったんですね。ちょっとビックリしましたけどね。私も八回ぐらい五台山へ行きまして、大体毎回一つの台だけは歩くんです。そして、
 
上野:  歩くと言っても、なんか三千メートルもあるような山なんでしょう?
 
阿南:  そうですね。近いですね。それで北台、一番高いものも自分の足で登りました。ただ今はそうじゃないんです。勿論歩きたいんだったら歩くことができますが、今は世界遺産になりまして、一日五つの台歩くんじゃなくて、車のツアーがあります。一日で五台を廻ることができます。全部ロードになりましたので。円仁の行った時に、多分二五○ぐらいの寺院がありましたが、今は四十ぐらいに今少しずつ修復して文化大革命の時にほとんど壊されて、その八六年に行った時に、五つぐらいのものがもう修復しているところだったんですね。今はもうブームですね。どこに行っても古いものを修復して新しい建物を見ることがたくさんあります。
 
上野:  そういう一つの観光地にもなって来たんですね、今。
 
阿南:  なりました。
 
上野:  そしてその聖地を訪ねた後、円仁は唐の都の長安へ行くわけですね。今の陝西省(せんせいしよう)西安(せいあん)ですが。
 
阿南:  はい。五台山から長安までは五十五日間かかりました、円仁の足で。五台山の影響は非常に大きいですけれども、長い目から見ると、長安の先生たちからいろいろ教えて頂き、曼陀羅を写したり、お経を写したり、インドの高僧からサンスクリット学んだり、いろいろ勉強しましたんですね。自分の宗派だけでなくて、違う宗派の先生たちと勉強することができました。そういうように長安で五年間勉強しましたんです。
 
上野:  その勉強の成果を日本へ持って帰ったんですね。
 
阿南:  はい。もう一つ長安の中で、円仁がよく書いているのは、お祭りだったんですね。仏教のお祭りで、女性の方がよく参加するんですね。仏教の活動に参加して、円仁も旅の途中で、尼寺を何回も訪ねて、女性の仏教の活動もよく勉強しましたんですね。日本にはそういうような一般の人たちが参加できるように、女性も参加できるようにということを、日本でも取り入れられたんですね。
 
上野:  そういう仏教の大衆化というんでしょうか、広く貴族だけではなくて、庶民にも広げるという意味でも功績のあった人なんですね、日本に帰ってから。
 
阿南:  特に念仏ですね。一般の人たちは長いお経を勉強したり、それを理解できなくても、念仏を使う場合だったら誰でも称えることができますからね。
 
上野:  鎌倉時代にその念仏が、一つの大きな力になってきますけれども、その魁けですね。
 
阿南:  そうですね。勿論後で念仏を広めた宗派の人たちも、先ず比叡山で勉強しましたですね。
 
上野:  法然とか親鸞とかいうふうな人も比叡山で勉強しているんですね。
 
阿南:  そうです。
 
上野:  ところでその仏教の弾圧ということですが、円仁が唐にいる時に、仏教弾圧というのは起きたんですね、仏教というか宗教弾圧ですね。
 
阿南:  仏教だけじゃなくて、その時は長安は十二パーセントは外国人でした。それも大きいですね。
 
上野:  国際都市ですね。
 
阿南:  そうです。世界で一番大きい都市だったんですね。いろんな宗教がありましたんですね。例えばゾロアスター教、マニ教、ネストリア派キリスト教やイスラム教とか、勿論仏教のいろんな種類の仏教もありましたんですね。そういうところで急に中国の伝統的な宗教でなければ許さないというような動きが五年間ぐらい続きましたんですね。そして長安の中の雰囲気が大変恐ろしくなりましたんですね。円仁日記は、武帝皇帝の勅令によって始まった廃仏毀釈運動の、八四二年から八四五年までの動向を詳しく述べている。初めは道教に肩入れして、仏教僧を侮蔑する様子が示され、次いで仏教行事の全面禁止となり、最後は徹底した仏教弾圧へと発展していく過程がわかる。寺に対して「僧尼外出禁止令」が通達され、山門が閉じられた。八四三年の正月一七日には「すべての僧尼は還俗せよ」という決定的な取締令が発せられた。円仁を含め外国僧にも還俗命令が出たため、円仁はただちに長安を去ることにした。円仁一行が長安を去るとき、彼には少なくとも数人の有力な支援者がいた。州長史(補佐官)辛文cに宛てた紹介状を持参していた。辛文cは円仁の求法を励まし、別れにあたってこう述べた。
「もはやこの国に仏道は存在しません。しかし古来『仏道は東流す』と言われてきました。願わくは、和上には最善を尽くして早く本国に帰り着き、仏道を広められんことを」。
このときの感動はいかばかりであったことか、これは円仁日記のなかでもとりわけ心を打つくだりである。八四七年、ようやく円仁は新羅船に乗って「九月二日、赤山浦から大海へ乗り出した」と書いている。ついに円仁は帰国することができたわけです。
 
上野:  そして日本に帰って、中国で学んだことを広く日本の人たちに教えるわけですね。
 
阿南:  そうですね。日本の仏教の一つのベースを作りましたんですね。台密声明、ある人の話は尺八を紹介し、コンニャクとかお茶の葉っぱも持って帰ったし、いろんな勿論仏教の教えと一般の庶民が仏教に参加するように広く、例えば特に関東と東北の方に広がりました。今円仁の縁のお寺はいろいろな数え方がありますけれど、五百五十から七百ぐらいまでの縁のお寺が今でもあります。
 
上野:  例えば山形の立石寺(りつしやくじ)とか、松島の瑞巌寺(ずいがんじ)おか、平泉の中尊寺(ちゆうそんじ)とか、そして青森の恐山(おそれざん)という聖地も、これも全部円仁さんが開いたことになっている。
 
阿南:  全部円仁の関係がありますね。
 
上野:  そしてジニーさんは、これからもどんどん円仁の跡を訪ねて、またいらっしゃるようですが、何度も何度も、
 
阿南:  そうです。今の一番猛烈にやっているプロジェクトは、「円仁グリーンロード」という活動です。実は円仁さんが亡くなった時に、自分の遺言に、「ああいう記念廟とか、そういうものを建てないで、木の一本を植えてください」ということを書き残しました。私もそれをとてもそれはいいことで、中国の円仁がいたところに、木を植えることにしましたんです。長く保つ木を植えて、円仁の通った道を広くして、それだけじゃなくて、地元の人たちの先祖や円仁が大変お世話になりましたので、大変有り難い気持ちで、これもお礼ですよねと言う意味ですね。それだけじゃなくて、今私と、日本と中国の間の友好の交流にもいい意味になります。今二十六箇所木を植える場所になりました。それは地元の人たちはほんとに喜びまして、自分の村が千二百年前に、この日記に名前がそのままありました。みんな喜んでいます。初めて自分の村が歴史に残っているのは、円仁の日記です。
 
上野:  それではジニーさん自身は仏教との関わりは?
 
阿南:  たまたま主人の母は、尼さんだったんですね。薬師寺で得度した母ですので、もうほんとに仏教の出会いはそこから深くなりましたんですね。
 
上野:  ジニーさまのお母様は、
 
阿南:  主人の母
 
上野:  主人のお母様は阿南惟幾(あなみこれちか)(陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。1945年4月に鈴木貫太郎内閣の陸軍大臣に就任した。太平洋戦争末期に降伏への賛否を巡り混乱する政府において戦争継続を主張したが、聖断によるポツダム宣言受諾が決定され、8月15日に自殺した:1887-1945)陸軍大臣、日本の戦争が終わった日、昭和二十年八月十五日、今私たちにとっては終戦の日ですが、この日に自決されて、お亡くなりになった。そのことは私たち日本人の心に深く残っているわけでございますけれども、その奥様(綾子)でいらっしゃるご婦人がその出家されて尼さんになられた。
 
阿南:  そうです。
 
上野:  ご主人を亡くされた時には、まだお子様たちは小さかったんでしょうね。
 
阿南:  そうですね。主人は四歳でした。一応主人は八番目の子どもです。
 
上野:  そのお子さんたちをご主人のお母様は全部お育てになって、そしてお子様たちが成長されてから出家されたんですか?
 
阿南:  そうです。七十歳過ぎて尼さんになりました。
 
上野:  そのお母様から仏教についてジニーさんは学ばれた。
 
阿南:  最初は一緒に住んでいましたね。
 
上野:  お母様の思い出というと如何でしょうか?
 
阿南:  二つのことがあります。一つは母の勤めたお寺は、長野県の蓼科山聖光寺(たてしなしようこうじ)でしたね。私たちは夏もお正月も一緒にお寺で過ごしましたんでしたね。必ず朝のお勤めと夜のお勤めは、特に冬の間の寒い五時頃からそのお経を上げて、もう母の声は凄く深いところから出ている声で、今でも覚えています。もう一つは、私たち最初に中国へ行く前に、八十三年の冬、亡くなる直前に、「是非中国の仏教をよく勉強してください」と母が言いました。それも一つのきっかけだったんですね。
 
上野:  お母様が尼さんになられた。お名前は?
 
阿南:  禅信尼(ぜんしんに)、
 
上野:  その禅信尼様のお言葉が、今もジニーさんの胸に深く残っていて、それも大きな中国仏教を勉強される
 
阿南:  きかっけだったんですね。
 
上野:  今日はどうもありがとうございました。
 

 
ナレーター:  ジニーさんの著書『円仁慈覚大師の足跡を訪ねて』には、「本書を主人の母、禅信尼に捧ぐ」とあります。
 
     これは、平成二十六年七月十三日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」で放送されたものである