神父の私が実践している仏教の瞑想法
 
             イエズス会霊性センター「せせらぎ」所長 柳 田(やなぎだ)  敏 洋(としひろ)
1952年、京都市生まれ。京都大学工学部、同大学院修士課程修了。協和発酵技術研究所勤務を経て、1983年、イエズス会に入会。1991年、司祭叙階。その後米国、カナダで霊操指導コースを研修。現在、イエズス会修練長、エリザベス音楽大学理事、上智大学非常勤講師、およびインド政府公認ヨーガ・インストラクター。
             き き て             鈴 木  健 次
 
ナレーター:  今日は、「神父の私が実践している仏教の瞑想法」と題して、イエズス会霊性センター「せせらぎ」所長柳田敏洋さんにお話を伺います。柳田さんは、一九五二年のお生まれ。京都大学大学院工学研究科の修士課程を修了後、民間企業に技術研究員として勤務した後、一九八三年にカトリックのイエズス会に入会、改めて上智大学大学院哲学専攻課程と神学専攻課程で学ばれました。一九九一年にカトリック司祭となり、アメリカとカナダでイエズス会の瞑想法、霊操の指導コース研修を受けて、帰国後、瞑想指導に当たったこられました。聞き手は鈴木健次ディレクターです。
 

 
鈴木:  柳田さんが所長をしていらっしゃるイエズス会霊性センター「せせらぎ」というところは、どういうお仕事なんですか?
 
柳田:  これはですね、私、イエズス会の司祭ですので、イエズス会の霊性に基づく修練や祈りを指導するところなんです。修道者や信者、そしてシスターたちのための八日間のコースというのが主なんですけども、それ以外にも三十日間するものとか、あるいは日帰りとか、一泊、二泊、三泊といったものもいろいろプログラムに入れています。
 
鈴木:  では、プロのためでもあり、求道者のためでもあると。
 
柳田:  そうですね。今頃は一般の方、つまりキリスト教の施設として作られたものですけども、一般の方とか、最近は仏教の方とかもお出でになっておられますね。
 
鈴木:  イエズス会の瞑想というと、我々の日常から遠いような感じもないわけではないんですけれども、柳田さんはもともと京都大学の大学院の工学研究科という理科系の学問を収められて、普通民間会社で技術研究員として働いておられたということですが、どうしてそんな人生の大転換を決心されたんでしょうか?
 
柳田:  私の祖母がもともとカトリックでして、私、三代目の信者ということで、カトリックの場合は、幼児洗礼というのがありますので、生まれて二ヶ月目に洗礼を受けまして、そしてカトリックの信徒として大きくなってきて、それで大学院を出て、民間会社に勤めるようになったんですが、やっぱり働きはじめて三年目ぐらいから、自分の人生一回限りなので、できたら終わりが近づいた時に悔いのない生き方をしたいというふうに強く感じるようになって、じゃあその悔いのない生き方とはどういう生き方かというようなところを見ていたときに、〈あ、私は信仰なしに生きることができない。そして、信仰を中途半端にするんじゃなくて、本当に徹底して究めるような人生を生きたい〉と感ずるようになって、これがきっかけになって、たまたま私は山口県で働いていたんですが、その時に相談した神父様がイエズス会の神父様で、イエズス会がいいなというふうに魅力を感じて、ということなんです。
 
鈴木:  山口は、もともとザビエルのいったところでもあり、イエズス会と関係が深いですね。
 
柳田:  そうですね。ずーっと歴史的に見ても、大内氏が主導権を握っていたときに、ザビエルが訪れて、そして布教の許可をもらったという。すごく歴史的にも由緒ある地というところで、私がイエズス会への道を感じたというのは、今振り返ると何かこれもご縁かなというふうに思っていますけれども。
 
鈴木:  私は、若い時にフランス文学をやりましてね、フランス語でイエズス会士のことをゼスイット(Jesuite)といいますね。そうすると、イエズス会士という訳は、二番目は「偽善者」と書いてあるんです。
 
柳田:  はい、そうですね。
 
鈴木:  モリエールの劇なんかでは、イメージがよくないですけれども、三十代の中ごろローマのイエズス会本部へ行って、宗教団体ですけれども、機能的で、そして人によっては服ですね、普通の人のような形で仕事をしていらっしゃるんでびっくりしたことがあります。
 
柳田:  なるほど。もともとイエズス会で、創立者がスペイン人のロヨラの聖イグナチオという人で、いわゆる貴族出身で騎士のような道を歩んでいたんですが、その途中で戦争で足を負傷した時に、キリストに仕えたいというふうに全く百八十度変わっちゃったんですね。その時に人々の魂を救いたいというふうに熱い思いに駆られて、人々の魂を救うためだったら、どんな仕事でも、あるいはそういう人々に近づくために必要だったら普通の人が着るような服も含めて、人々に近づくことができるような生活とかですね、あるいは修道院のスタイルとかというようなことを考えて、まぁこれが今もまだ続いているということですね。ですからそういったところは非常にイエズス会のある種の魅力かなと思っていますけれども。
 
鈴木:  ロヨラという人は、日本語にも訳されておりますけれども『霊操』という瞑想の指導書―手引書というんでしょうか―書かれていますが、イエズス会の方皆さん霊操に従って瞑想的な修行というのをされるわけですか?
 
柳田:  そうですね。ですからもともとこの創立者のロヨラの聖イグナチオの霊的な体験を自分と同じように働く人が同じ心を持って働いてもらいたいという、ロヨラの聖イグナチオのこの考えから、彼自身が『黙想指南書』というものを編み出して、これをいま私たちは「霊操」つまり霊魂を調えるという。
 
鈴木:  「そう」は、車の「操縦」の「操」という字ですね?
 
柳田:  「体操」の「操」という字と考えていただいてもいいかと思いますが、魂を調える道というふうな、そういうふうなもので、これを三十日間で行うという、そういうふうな修行の体系を、彼が編み出して、それはもうイエズス会に入ってくる人が必ず行わなければいけない霊的修行というふうな位置づけになっています。そしてその中味はは、一日に五回、一回一時間祈っていくというふうなことで、四つの週というふうに分かれていまして、第一の週では、自分の罪深さを認め、神の愛によって清めていただく。そして清められた私がイエス・キリストに従う道を聖書を通して祈っていく。そういうふうがところから、さらにイエスは十字架でご自分を捧げて死なれて、というふうな、そういうことなので自分も覚悟を持ってイエスに徹底して最後まで従うということで、第三週では、イエスの受難と死を祈り、そして聖書では、三日後にイエスは蘇ったという復活を信じていますから、第四週というのがあって、最後に覚悟を決めて、イエスとともに自我に死んだ私が、神の命に再び目覚めて、復活のキリストと共に世に出て働くという。そういうふうなすごく霊的にダイナミックなプロセスを経させるというのが三十日間の霊操というものなんですね。
 
鈴木:  柳田さんは、特にイエズス会の中でも瞑想の指導者というのが神父としての主なお仕事で、これまで過ごしていらっしたというふうに言ってもいいんでしょうかね。
 
柳田:  そうですね。養成が終わった後、アメリカやカナダで勉強させてもらったんですが、その時に「あなたは、イエズス会に入会する人たちに授ける三十日間の霊操を指導する人になりなさい」ということで、戻ってきて、およそ十一年間ですね、いわゆる小僧の雲水修行みたいなものになるんですが、イエズス会の修練院というそういうところで働いていて、イエズス会の門を叩いてくる若い人たちに三十日間の霊操というのを授けていました。
 
鈴木:  ロヨラの作ったメソッド―瞑想というのは、いろんな執着とか、心のこだわりというものを消していってですね、物事にとらわれない心を養うというのが大きな目標かと思うんですけれども、口でいうと簡単ですが、なかなか人間そう簡単に執着心を捨てる、エゴを捨てるなんていうことはできないんではないかと、俗人である私は思うんですが。
 
柳田:  いや、実は俗人でない修道者司祭でも同じような問題を抱えるということにだんだんと私も気付くようになっていったということですね。申し上げたように、「霊操」というのは、自分の魂を見つめて、乱れた愛着から離れて神のみ旨(むね)を知り、そして自分を調えていく道、こんなふうにもいうことができます。これを乱れた愛着から離れて、自分の心を離脱させていくというのは、「不偏心(ふへんしん)」という言葉で言い表したりするんですが、
 
鈴木:  「へん」は「偏る」、
 
柳田:  そうですね。ですから偏らない心。じゃ、偏るのは何かというと、神のみというふうなことですね。ですから具体的にはイグナチオもこの『霊操』という本の中で、長く生きることにも、短くしか生きないことにも、健康にも病気にも、富にも貧しさにも、名誉にも不名誉にも偏らない。その心が「不偏心」偏らない心だ、というふうに言っていて、本当にエゴを超えた心で神のみ旨生きる。ここに本当に自分の魂を調える道がある、というふうに考えていて、それは本当に素晴らしいと思うんですが、でも三十日間この霊操というのをしていたら、非常に心が深まって、そういうふうに離脱したかのように感じるんですけれども―実感としてですね。でもそれが終わって現実の生活とかに戻っていくと、あるいは自分が任されている仕事に戻っていく中で、だんだん消え去っていたはずのエゴがまた頭をムクムクともたげてくる。こういうふうな問題に気づくようになって、そしてイエズス会の場合は、三十日間の霊操をするんですが、その後は毎年八日間の霊操の短縮版というのをするということが義務としてなされていて、それも毎年やっていくんですが、その時にその八日間の中で心は深まるんですけれども、やっぱりそこから普段の生活や自分の与えられている教会での仕事とか、あるいは学校での教える仕事とかをしていく中で、やっぱりまたエゴが頭をもたげてくるというふうなことを痛感するようになって、これはどうしたもんか、というふうなことがすごく私にとって悩みになっていたということなんです、実は。
 
鈴木:  実際に瞑想の生活をされた中で、逆にそういう疑問を深められた、というお話を非常に正直なお話で興味深く今うかがっていたんですが、これはしかし、そう簡単に解決できないと思うんですが、今もそういうお仕事をずーっと続けていらっしゃるということは、一つの突破口を得られたというふうに考えてよろしいんでしょうかね。
 
柳田:  そうですね。実はなかなか〈どうしたもんか〉というふうに悩んでいたところ、二○○二年から隔年でインドのイエズス会の修道院に滞在をする。そういうふうなイベントが始まってですね、そこで若い日本人のイエズス会の修道者を連れて一ヶ月間共同生活をインドのイエズス会の修道院でするということを始めるようになってですね、毎朝五時に起きて、五時半から三十分間ヨーガをしていたんですね。このヨーガが私にとってまた突破するための入り口になったということですね。向こうのインド人の修道者と一緒にこのヨーガをしていたらだんだんとですね、〈あ、これは体による祈りだ〉というふうに気づくようになったんですね。体操と似ているところもあるんですが、一定のポーズをとって静止する。それが静止運動という形でヨーガの特徴でもあるんですが、こういうふうにして一つの形をとって、そして自分の体を見つめていると、自分の体の営みというものが、頭を超えて私を全く無条件に受け入れて支えてくれているという、こういうふうな実感を持つようになって、実はキリスト教の場合は、イエスが教えた「無償・無条件の愛」これをギリシア語で「アガペー」といいますが、その愛を生きるような人になっていくということ、これがすごく目指すところなんですね。それを阻んでいるのが「エゴ」ということで、それを悩みの種としていたんですけども、でもふと気がつくと、「体にもエゴがない」。どんなに怠け者でも、どんなに立派な人でも、どんなに不埒な考えを持つ人でも、どんなに徳の高い考えを持っている人でも、全く関係なく、体はその人を無条件に生かそうとつとめてくれている、無言のうちに。こういうふうな気づきをヨーガをしている中で気づいてですね、つまり心や頭は神を求めて止まないのに、体はすでに神を覚っている。こういうふうな感覚を持つようになったんですね。これが突破のきっかけということになったかと、振り返って思いますね。
 
鈴木:  よく日本語でですね、「体で覚える」なんていますね。
 
柳田:  はい。
 
鈴木:  今のお話で、心と頭でそれまでの瞑想を続けてこられて、もう一つ体で覚えるというか、体の姿勢というものを重視して、瞑想をするというようなことの大切さに気づかれたというふうにいってもいいんでしょうか。
 
柳田:  そうですね。本当にその通りですね。心では何かエゴが出てきている。自我が出てきているというふうに気づいて、〈あ、じゃ自我を抑えなければ、取り払わなければ〉と思っても、でも結局自我を抑えなければ、取り払わなければ、と思っているのが、またエゴになってきますから、結局堂々巡りですね。ところが、そういうふうな堂々巡りで悩んでいる私の心ですね、〈体は全く無言のうちに支えてくれている、静かに〉。そういうふうなところに気付くと、〈あ、もっと体から学ぶ必要がある〉実はここにすごく大切な祈りの道、霊性の道がある、というふうに気づくようになったということなんですね。
 
鈴木:  「ヨーガ」というのは、もともと宗教的なものから出ているんですか?
 
柳田:  そうですね。非常にヨーガも古く、バラモン教、あるいはヒンドゥー教の中で出てきた精神修行ですね。つまり心はついフラフラしがちなので、心と体を結ぶ道、これもともと「ユッジュ」(「牛馬にくびきをつけて車につなぐ」という意味の動詞)という言葉で言っていたのが、「ヨーガ」というふうなサンスクリット語で「結ぶ」や「つなぐ」を意味する言葉になって、それがいわゆる精神修行の一つの体系としてまとめられていってという、そういうふうな形で非常に深いスピリチュアル(spiritual:霊的であること、霊魂に関するさま)なものを含んでいますね。
 
鈴木:  ということはですね、今やっていらっしゃる霊性センターの「せせらぎ」では、ロヨラの霊操法にヨーガのメソッドに入れていらっしゃるということですか?
 
柳田:  実は今は入れてないんですけども、インドに行くようになって、インド人のイエズス会の神父さんからですね、「仏教由来だけれども、ヴィパッサナー瞑想というのがあって、このヴィパッサナー瞑想がすごくいいから、是非いちど預かりなさい」こういうふうに勧められていて、日本に戻ってからも調べたら、〈あ、これはロヨラの聖イグナチオが編み出した霊操が本当に目指す偏らない心―不偏心をはぐくむのに、とても効果的な方法ではないか、ということを少し予感をしまして、実際体験するチャンスをうかがっていったところなんですね。そうしたら修練院で働く仕事が十一年目で終わって、二○○七年ですね、半年間休暇を貰って、いわゆる「リフレッシュしてきなさい」という、そういうようなことなんですが、その時にこれはいいチャンスだということでインドに再び行って、そこで八日間のヴィパッサナー瞑想というのに預かった。これなかなか大変だったんですが、でも非常に深い私にとっては体験となって、このエゴをどう乗り越えていったらいいのかの突破口を見出したという。こういうふうな私にとっての非常に大きな体験となったんですね。
 
鈴木:  具体的にどんな体験をされたんですか?
 
柳田:  十日間まるまるということなんですけれども、この「大変さ」というのはですね、「徹底している」というところですね。例えば「完全に沈黙をする」というようなこと、これ英語で「ノーブルサイレンス(Noble Silence)」というふうに言ったりしていましたけれども、「聖なる沈黙」と日本語で言われたりしますが、それを完全に外的にも内的にも心を沈黙させるというので、それを実行していくために余計なものを一切預けてから瞑想に入るということが求められます。例えば余計な物というと、筆記用具とか、書籍とか、パスポートとか、財布とか、携帯電話とか、常備薬以外は全てもちろんアルコール類も含めてということで、一切預けてからでないと瞑想に預かることができない。こういうふうな仕組みになっている。私が預かったときには、インドで一番大きなセンターで男性二百五十人ぐらい、女性二百五十人ぐらいですが、完全に男女分かれていて、男性だけのグループでやっていたんですが、そしてそのような厳しさの中で一日十時間ですね、坐禅のような形で大きなホールで瞑想していく。これが一番大変だったところなんですね。朝四時に起きて、四時半から朝食前までに二時間、そして朝食をとって午前中三時間、昼食を軽く摂って、午後に四時、そして夕食もまた軽くとって、夜に一時間半ぐらい、あとそこで講話もあるというような、合わせて十時間以上ですね坐って瞑想するということで、これが身体的に極限まで体験するというような、そういうようなこととして本当に大変でした。
 
鈴木:  カリキュラムは、ちゃんと決まっているわけですか?
 
柳田:  ええ。そうですね。実はこれは世界中に広がっているサティア・ナラヤン・ゴエンカさんというインド人の方がミャンマーで学ばれたそういうふうなスタイルなんですが、今、世界中にこのセンターがあって、どこでも同じプログラムで、 ということですね。ですからここら辺はすごくメソッドとして確立していると思うんですが、その中味ですね。最初に私が取り組んで―皆さんもそうだったんですが―鼻の出入口での呼吸に伴う皮膚感覚に気付く。これに徹底するということですね。ですから、鼻の出入口で普通に呼吸を―自然な呼吸でしているとき、そんなに感じられないので、そこで意識を集中させて息の流れに伴う微妙な皮膚の感覚、例えば息を少し吸うと冷たく感じるとか、そういったものでだんだんと気づきを深めていくことができるんですが、ここでですね意識の集中力を養うということがあるんですが、いざやってみると、もう二十秒たたないうちにどっかに考えがいっちゃって、「いけない、いけない」ということで、また鼻の出入口へ戻して、これをもう本当に繰り返してやっていく。それだけじゃなくて、じーっと坐っているとですね、すごく足がしびれてくるとか、もう痛みが生じてくるということで、自分なりに、〈あ、これ以上耐えられないな〉というふうに思うと、右足を左足の上に置き変えたりとか、あるいはそれまで胡坐で瞑想していたのを正座型に切り替えるとかですね、いわゆる二十分に一回ぐらい自分の体の状態を見ながら、これを進めていくというふうなことはしていきました。ですから、それなりに覚悟を決めて、一日十時間取り組むということをしていて、足を組み替えるとか、そこら辺は結構自由だったんですが、最初の三日間は鼻の出入口での呼吸に伴う皮膚感覚に徹底して気づくというようなことをしていて、それで集中力を養った後、四日目から体の全体に意識をそれぞれ頭のてっぺんから足先まで四十五カ所に意識を向けていって、そして皮膚の感覚にあるがままに気付くという修行が始まったんですね。その中で四日目から始まったのが相当また私にとって大変で、それはこの一時間はどんなことがあっても最初に取った体の姿勢を一切崩しちゃいけません、変えちゃいけません。そしてこれは目を閉じて意識の集中をはかるというふうな瞑想法なんですが、「いったん閉じた目を一時間どんなことがあっても目を開けちゃいけません」というふうなことが入ってきて、これは大変だったんです。今までは痛みが募ってきたら二十分に一回ぐらい姿勢を変えるということでなんとかしていくことができたんですが、それができないと、痛みがどんどんどんどん強くなってきて、それでそれに対して必死で我慢するとか、その時にですね「腹式呼吸をすると助けになるよ」というふうに言われて、やっていても痛みはどんどん募ってきますから、もう額から脂汗が出てくるとか、もう必死に耐えるというような形でなんとか一時間をこなすことができたんですね。〈あ、なんとかこなせた〉と思ったんですが、もうすぐ恐怖が襲ってきたのが、〈えっ! これを毎日これから一日三回もするのか〉という、そういうような怖ろしさですね。でもその都度その都度覚悟を決めてやっていくとできるということがだんだんと自分なりにも実感できるようになりました。そして、その時にアドバイスされたのが、「痛みに巻き込まれるな。痛みと自分を一つにするな。穏やかな心で痛みを観察せよ、観察せよ」。「観察せよ」は英語で「オブザーブ(observe)」という、そういうような言葉で励ましを受けたんですね。でもそんなふうにして励まされても、痛いものは痛いので我慢するしかないという、耐え難い痛みというようなことをやっぱり毎日体験をしていたんですが、六日目の午後なんですね、同じように「この一時間、体を動かしちゃいけません。目を一切開けちゃいけません、この一時間は」そういうふうな瞑想修行の中で、耐え難い足の痛みがまた感じられたんですが、ふと気が付くと、足に耐え難い痛みがあるのに、心は全く穏やかに痛みという足の状態を静かに見続けている。こういうふうな境地を体験しました。それをして、非常に不思議な境地だったんですが、その時に私が感じたのは、〈えっ!意識というのはこんなにも自由なのか。実際にすごい激しい痛みが足にあるのに、私の心は巻き込まれずに、ただ静かに見つめている〉こういう境地を体験して、意識の人間のこのすごさ、自由の深さというふうなものに気づいたということなんですね。そういうふうなところから、自分が最初の方にですね、〈大変だ大変だ〉というふうに思って脂汗を出していた、こういうふうな体験を振り返ると、痛みが限界に達してくると、いろんな妄想が湧いてきたりする。つまりこれ以上痛みが強くなって、自分の足がやられたらどうしようとかですね、いつまでこの痛みに耐えなければければいけないのか。こういうふうなことを考えた瞬間にですね、痛みが心理的に二倍にも三倍にもなっちゃう、ということなんですね。そこでだんだんとわかってきたのは、この瞑想は、今この瞬間のあるがままの自分の感覚にのみ意識を止めて、静かに気づけ、巻き込まれずに心の距離をとって気付け。こういうふうにしていくと、意識は巻き込まれずに離脱できる。こういうふうな境地を、私体験することができて、それからですね痛みが同じように襲ってくるということがあっても、同じように心をただ静かに見つめるという方にもっていくと、対応できるようになっていった。これが、その後の私のキリスト教の瞑想法というふうなものと結びつけて取り組めるようになっていったターニングポイントというような体験だったんですね。
 
鈴木:  お話をうかがっているだけでも、こちらの足が痛くなるような感じですが、それを客観視できるかどうかというのは、実際やらないと体得できないようなところがあるんだと思いますが、今お話を伺っていると、仏教の中から生まれたヴィパッサナーの瞑想法というのを一つの手段としてキリスト教的な信仰を深めるために活用されている、というふうに言ってもいいんでしょうか。
 
柳田:  そうですね。実はその痛みというのは、すごくネガティブ(negative:消極的、否定的、悲観的)なもので、私たちは普通排除したいと思っていますけれども、イエス・キリストは「隣人愛」ということを教えていて、その隣人の中に、「敵をも愛しなさい。自分を迫害するもののためにも祈りなさい」こういうふうに言っていて、「それは、父なる神が善人にも悪人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせておられるからだ」こういうふうな説明をして、イエス・キリストが伝える神は、全くその人の善さ、問題、悪さというものを超えて存在を無条件に慈しみ受け止められる方だ。こういうふうなことを教えて、そのような神の愛をギリシア語で「アガペー」というふうに言っているんですが、その「アガペー」の神を信じて、あなたもアガペーの愛―無償・無条件の愛を生きなさいよ。これがキリスト教のエッセンス―中心的な教えということなんですけども、でもそれができないので、私はこうやっていて、それを阻んでいるのがエゴだった、ということなんですが。このヴィパッサナー瞑想というのは、「自分の中に生じてくるネガティブな痛みというものも巻き込まれずに、心の距離をとって、あるがままに認め、その存在を受け止めよ」こういうふうな瞑想法だということが分かって、〈あ、これはイエスが言っているんアガペーと同じことじゃないか〉ということですね。つまり自分の中に生じてくるどんな厄介なもの、ひどいもの、取り除く必要があるもの、こういうふうに思えるネガティブなものであっても、それをあるがままに認めよ。こういうふうなイエスのアガペーの愛の教えと全く重なってくる。こういうふうな瞑想修行だ、ということが分かって、あとそれを感覚をそういうふうに見ていくというところから始めて、だんだんと自分の内面に意識を向けて、例えば自分の中に生じてくる怒りのような感情とか、あるいは相手を決めつけるような考えに対しても、同じように巻き込まれずに、心の距離をとってその存在を無条件に認め受け止めていく。こういうふうな修行法だ、ということがわかって、これ本当にイエスが教えている無償・無条件の愛―アガペーを心に育むのにすごく効果的な瞑想法だということを、私実感するようになったということなんですね。私はこれを「キリスト教的ヴィパッサナー瞑想」という言い方でキリスト教の枠の中で、これを特にキリスト教の信者さんたちを中心に手ほどきをしてとても喜ばれているというふうに感じています。
 
鈴木:  大変興味深いお話をありがとうございました。
 
     これは、平成三十年九月二十三日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」に放送されたものである