歩いて歩いて、いま一遍に学ぶこと
 
                   広島経済大学教授 岡 本(おかもと)  貞 雄(さだお)
                   き き て    上 野  重 喜
 
ナレーター:  今日は、「歩いて歩いて、いま一遍(いつぺん)に学ぶこと」と題しまして、広島経済大学教授岡本貞雄さんにお話頂きます。一遍は、十三世紀鎌倉時代、四国伊予(いよ)(ほぼ現在の愛媛県)の豪族河野家(こうのけ)の出身、後に出家して念仏信仰に目覚め、三十六歳の頃から五十一歳で亡くなるまで、寺も持たず、家もない一介の僧侶として各地を旅し、独自の念仏信仰を広め、「捨聖(すてひじり)」とも呼ばれています。この一遍に惹かれ、岡本さんは、自らも歩くこと、実践することをモットーに、長年学生を連れて地元広島を初め、沖縄への慰霊の旅を続け、その記録を残していらっしゃいます。岡本貞雄さんに、上野重喜ディレクターがお話を伺います。
 

 
上野:  今日は、岡本貞雄先生に、「歩いて歩いて、いま一遍に学ぶこと」ということで一遍さんのお話を伺うんですけれども、今一遍に傾倒されている、これは何故でございますか?
 
岡本:  私は、高校卒業前ぐらいからズッと坐禅に傾倒しておりまして、いろんな先生方にお世話になったわけですけれども、その先生方とお話をして育てて頂いておる間に仏教の勉強をしてみようかということで、で、仏教をやるんであれば、禅と非常に関係が深いと言われておる一遍上人のことを研究したらどうかな、というふうなお話、いろんな先生方とお話をしている間に出てきたことなんです。ですから一遍上人の開かれました時宗(じしゆう)の感覚とはちょっと違うんですけれども、昔から言われております禅と一遍上人の関係を、どうなのかな、それがわかりたいな、というような、そういう気持ちが自分を駆り立てたんじゃないかなというふうに思いますね。
 
上野:  そうしますと、岡本先生、仏教全般にご造詣が深いんですけれども、先ず仏教とのご縁は、禅の修行から始められたということですか。
 
岡本:  はい。正式には修行というふうに申し上げると、ほんとに僧堂に入って修行されている方に失礼に当たるかと思うんですけれども、広島に仏通寺(ぶつつうじ)というお寺がありまして、そこに藤井虎山(ふじいこざん)(東京都出身。七歳で京都府舞鶴市報恩寺の竹岡松嶺和尚について得度。京都天龍僧堂の高木臺嶽老師、建仁僧堂の竹田黙雷老師に参じた後、佛通僧堂に転錫、山崎益洲老師に嗣法する。昭和26年(1951)、佛通僧堂師家となり、同30年2月、佛通寺派管長に就任:1901-1992)老師という方がおられたんです。その方にご縁がありまして、ご指導頂くようになったのが最初なんです。それで大学へ入って、たまたま日本大学へ進学したんですけども、一年生の教養部が静岡県の三島(みしま)にありまして、三島に龍沢寺(りゆうたくじ)という白隠(はくいん)禅師が再興された古道場、そこに山本玄峰(やまもとげんぽう)(臨済宗僧。和歌山県の人。二一歳で眼を患い、四国遍路途上会った高知の僧山本太玄の弟子となる。京都府円福寺などで学び、静岡県三島の竜沢寺その他を復興、妙心寺派管長。海外布教でも活躍。政財界などに特殊な信者をもっていた:1866-1961)老師という方がおりました。その山本玄峰老師のことを書かれた本を何冊か読んでおったんですね。それでなんと自分の下宿のところから歩いて三十分ぐらいのところにお寺があったんですね。これはご縁があるんだということで、お訪ねしたんです。そうすると当時まだ大学一年生ですから、そういう学生を、老師が、「おっ、あがれ」と言われて、上げてくださいまして、お話してくださった。そういうふうなことでだんだん育てて頂いたのが経過なんです。
 
上野:  そうしますと、一番最初は高校生の頃ですか、藤井虎山老師に会われた。そのきっかけはどういうことだったんでしょうか?
 
岡本:  私自身が、父親が転勤族で、小学校四回変わっております。その前の幼稚園も二年目に変わりまして、今で言う不登校ですね、それで幼稚園中退と。挫折を味わっています。そうすると、やはり小学校四回も変わると落ち着ける場所がないんですね。中学校へ入ってからも、自分の中では一箇所に落ち着くということがないんです。そういうふうな気持ちがあって、何か心の故郷というようなものを求めたんじゃないかなと。もっと心の深いところで落ち着ける場所というものがあるんじゃないかなというふうなことを、内々に感じておったんだろうと思うんです。そういう時に私の従兄弟がおりまして、禅に非常に傾倒しておったもので、その従兄弟が連れて行ってくれたのが最初なんです。で、行きますと、藤井虎山老師がほんとに喜ばれて、「おぉっ、お前は儂によく似ておる。しっかり頑張りなさい」とおっしゃって頂いたのが最初のご縁なんです。ですから藤井虎山老師が一番お世話になった老師ですけどね。私が学生時代、東京であまり裕福な生活ではないですから―学生ですからね、それでご自分がご苦労されたということもあって、私にそれを見られるかも知りませんけども、よくお金を送ってきてくださってですね、「本を一冊送ってくれ」と。まあ千円、二千円の本なんですけども、一万円札が入っておりましてね、「これはもう君の勉学の足しにしなさい」ということ、よくありましたですね。
 
上野:  そういう虎山老師のやり方と言いますか、お金を送って露骨に援助するというんじゃなくて、そういう温かい思いやりがある。岡本先生は、お生まれは広島で、戦後のお生まれでございますよね。ですから原爆そのものはご存知ないんですけれども、お生まれになったのは?
 
岡本:  昭和二十七年なんですけれども、昔、戦時中までは練兵所(れんぺいしよ)のあったところに家がありまして、そこで生まれました。ですから原爆ドームから二百メートルぐらいでしょうか、離れた場所なんですけども。母親は広島の端の方できのこ雲の中にいたんですけれども。
 
上野:  原爆をご体験なんですね。
 
岡本:  そうです。今ほとんど語りたがりませんけれども、やっぱり非常に大変なものを目撃しているようですね。時々何回か話をしてくれましたけども、「川べりにズラッとご遺体を並べたんだ」とかという話は、聞いたことがありますけども、そういうふうなのもひょっとしたら私の中で、何にかの力になっているのかも知れませんですね。
 
上野:  そしてお父様の軍隊経験もおありなんですね。
 
岡本:  はい。予科練で、もう半年も長引いていたら特攻隊で突っ込んでいたと思います。
 
上野:  そしてそういったいろいろな経緯があって、藤井虎山老師とのご縁があったんですけども、藤井虎山老師、そして三島の龍沢寺では、山本玄峰老師がご存命だったんですか?
 
岡本:  玄峰老師は、昭和三十六年にお亡くなりになっていまして、私は昭和四十七年に行きましたので、中川宋淵(なかがわそうえん)(臨済宗の禅僧。俳人としても知られた。山本玄峰に師事し、昭和26年(1951年)、その跡を継いで三島市の龍沢寺に住し、多くの弟子を育成した:1907-1984)老師と鈴木宗忠(すずきそうちゆう)老師がおられて、鈴木宗忠老師に一応お寺お譲りになるという時だったんですけども、お二人とも元気でして、非常に可愛がって頂きました。藤井虎山老師に最初に照見して弟子入りの儀式をするんですけれども、その時におっしゃったのは、「禅は気長にやらないとダメなんだ。道楽という言葉があるだろう。道を楽しむと書く。そのつもりで続けないと見えてこない。味がわからない」ということを教えて頂きましたですね。やっぱりそのことが結局ずっと続いていったんだろうと思うんですけれども。宗淵老師は、大自然と一体になっているような世界を表現されるんですね。俳句も素晴らしいですけども、側によってお話を聞きますと、ほんとに周りを包み込まれるような大きなものを感じさせて頂きましたですね。雨が降っているんですね、そうすると、「雨音も一つひとつの音から禅の世界に入れるんだよ」というようなことを教えて頂いたのを覚えています。
 
上野:  それほど中川宗淵老師というのは、そういう非常に大きな方、周りを包み込むような方だったんですね。
 
岡本:  そうですね。包み込むというか、中心におられて、そこへみんなが集まってくるような感じだったというふうに、私は記憶しております。
 
上野:  そういう素晴らしい方々とのお出会いがあったんですけれども、今日のテーマは、「歩いて歩いて、いま一遍に学ぶこと」ということですが、この「歩いて歩いて」ですけれども、岡本先生は、学生時代に三島から東京へ移られて、その後この宗淵老師のところへ東京から三島まで歩いて参禅されたことがあるそうですね。
 
岡本:  正式な参禅ではないんですけれども、お寺へ行かせて頂いてお話を伺いするということですね。山岡鉄舟(やまおかてつしゆう)(幕末の幕臣、明治時代の政治家、思想家。剣・禅・書の達人としても知られる:1836-1888)が東京から三島まで歩いて参禅に通われたという話がありましたんで、そういう方がおられるんであれば、歩くことなら私にもできますんで、やってみようということで、やってみたんですけどもね。
 
上野:  東京から三島まで距離はどのくらいございますか?
 
岡本:  百二十キロですね。ただ小田原までは平坦な土地なんです。それから箱根越えが四十キロありますんで、これはちょっと大変だったと記憶しております。
 
上野:  それにしても百二十キロは大変な距離で、箱根駅伝は毎年私ども目にしますけれども、あの山をさらに越えて向こう渡られたわけでございますね。それで「歩いて歩いて」ということで、その頃からもうそうした実践というんですか、頭の中で学問するというよりも、自ら実践するというのが岡本先生の主義のように思われますけれども。
 
岡本:  学問とその実践というものを分けて考える気はないんですけれども、私の興味の方向が身体で覚える―「体得」という言葉が使われる方がありますけれども―やっぱり身体で覚えたことは忘れないんじゃないか。それで自分のものになるような気がするんですね。あまり私、成績がよかった方ではありませんので、学問の方は自信はありませんけれども、身体を使うことであればできるんじゃないかなという気がありました。
 
上野:  そうした身体を使うということと、一遍上人を信奉されているという点とは関係ございますか。
 
岡本:  そうですね。やはり一遍上人も全国を歩いて遊行(ゆぎよう)された方ですから、歩くことの意味というのは、私なりにわかっている気はしますが、ただそういうことを申し上げると、一遍上人が、「お前、何を言っているか」とお叱りになるかも知れませんけどもね。一歩一歩なんですね。これには飛び越えるということはないんですよ。必ず将棋の歩ですけども、一つひとつしか進めないわけですから、その中で見えるものがあると思います。この前作ったキャッチフレーズに、「歩く早さでいのちを見つめる」というのを作ったことがあるんですけれども、その早さというのが、けっこう人間とって、いろんなことがそこにわかる可能性というものをもっているんじゃないかなという気がします。一遍上人は、そういうふうなものをご確認されながら歩かれたのかも知れないな、という気がしますし、またそういうふうに一歩一歩ということで、これ「一」ということに拘ると、一人ひとりということでもあるんですよね。時宗は中世に大変大きな教団になりましたけれども、一遍上人は、お一人ひとりというところに、ご自分では思いを持たれていたんじゃないでしょうか。一遍上人の研究を、大正大学の大学院で始めさせて頂いたんです。先生方に非常にお世話になって育てて頂いたんですけども、やっぱり本で学ぶ、先生から授業で学ぶ、それだけではどうもわからんなと。「わからんな」というと、先生に失礼なんですけれども、自分としては、一遍上人の本心―一番の元のところを知りたいなという気がありまして、やっぱり一遍上人が歩かれたところを歩いてみようということで、大学院の二年の時ですけども、大阪の天王寺から高野山を経て、熊野三山(くまのさんざん)(「熊野本宮大社(くまのほんぐうたいしや)」「熊野速玉大社(くまのはやたまたいしや)」「熊野那智大社(くまのなちたいしや)」の3社を「熊野三山」という)那智の滝のところまで歩いて行ったんです。歩いたのは八月―一番暑い時期なんですけども、道路が四十度ぐらいになるか、熱を持ちますんで、暑い中歩くわけですけど、とにかく歩き切らないことには目的が達成できませんので歩こうと。疲れても何しようと歩こうということで歩いたんです。夏ですから夕方夕立がくるんですね。そうすると身体も熱をもっていますから、その熱を奪え取るんですね。そうすると、この暑い夏に風邪引くんです。風邪を引くと熱がでますですね。勿論ふらふらになるわけですね。ふらふらだけども、一遍さんは歩かれているんだから歩かなくちゃ、ということで歩いていたんですね。そうするともうダメかなという気になるんですね。「止めよう」という気にならないのが、この辺が何か導かれているということだろうと思うんですけども、ともかく歩こうと。歩いて自分の意識がなくなって倒れたら、そこでお終いと。それは倒れたのは自分の意思じゃないから、そこで自分の目的が達成できなくても諦めがつくと。そこまではやろうということで歩いていたんですね。そうすると、ダメかなと思いましたけれども、その時フッと自分の身体を押してくれているものがあるんですよ。別に後ろに人がいるわけじゃないんですよ。だけど自分の身体を何か温かいものが押してくれている。その時に〈あ、自分一人で歩いているんじゃない。これ私を生あらしめている何か目に見えないけど、大きなものが私を包んでくれている。それが応援してくれているんだな〉というのを気付いた経験がありました。おそらくなんかそういうものに憑かれるようにパッと歩く。そういう歩き方を一遍上人がされたんかなという気も、その時に思いましたけどね。その経験は、私、ずっと持ち続けております。それがあるんで学生にも「歩け」ということが言えるわけなんですけどね。
 
上野:  歩くことによって、初めて知る、初めてわかること。
 
岡本:  ぎりぎりのところまで、自分が追い詰められてわかったことですね。ですから禅でいう悟りの体験もひょっとしたら同じようなことかも知れませんけども、私としては生かされているという気持ち、これはその後の自分の生き方を決めたというふうに思います。
 
上野:  一遍上人、ほんとに歩いて歩いて一生を過ごされた方でございますね。
 
岡本:  そうですね。当時河野家もちょっと没落したようなところもあったりして、最初半生(はんせい)というか、若い時にはいろいろおありになって、大変な時期があったんでしょうけども、そういう中でパッと切り替わった時期があるんですね。
 
上野:  そういうまさに一遍上人の歩く、身体で実践する生き方ですけれども、同時に一遍は、「捨聖」とも言われますね。すべてを捨てる、これも大事なことで。
 
岡本:  歩くということは、捨てないとできないんですよ。持っていたら歩けないんですよ。多分おそらくそこのところでの兼ね合いがあったんだろうと思うんです。お寺で生活なさっていると、やはり物は集まってくるんです。特に立派な和尚さんであればあるほど、檀家、信者の人は物を持ってきますし、またなんか託されることもあるし、溜まっていくんですね。そうすると、溜まるとやはりそこで動きが鈍くなってしまう。歩くためには持っていたらいけないんですね。だからそれで「捨聖」という言葉も出るし、またそれを主義にされたんだろうと思うんですけどね。
 
上野:  そういう実践の人、身体で実践する人でございますけれども、岡本先生ご自身、大学で教えるに際して、この「歩く」ということ、そしてまた一方では岡本先生のゼミでは坐禅をされたり、あるいはさまざまな戦争体験を、あるいは広島の体験をお聞きになったり、何よりも沖縄を学生さんと共に長年歩いていらっしゃるそうですね。
 
岡本:  今年で八度目になるんですけれども、毎年沖縄へ広島からまいりまして、三日間は、水と栄養補助食品―乾パンのようなものなんですけども、そういうものだけですべて歩き通します。
 
上野:  ほとんど三日間、じゃ、乾パンと水ぐらいで、ほとんど食事らしい食事なしですね。
 
岡本:  ほとんどじゃなくて、すべてそうなんです。
 
上野:  三日間、
 
岡本:  はい。
 
上野:  よく今の学生さん、それに堪えられますね。
 
岡本:  そうですね。やっぱり沖縄のもつ意味を歩いている間に考えるんだろうと思うんですね。そうすると「食」というものがどういうものか。またひいてはその奥にある「いのち」というものがどういうものかというところに、やっぱり学生は学生なりに感じるところがあるんだろうと思うんです。そうするとやっぱり歩き切りますし、食事で文句言う学生は、表だってはいませんね。
 
上野:  そうして三日間歩かれるわけですが、かなりの距離を歩かれることになりますね。
 
岡本:  そうですね。三日間で長い時で六十キロぐらい歩くでしょうか。
 
上野:  いろいろ戦跡を訪ねて、慰霊の旅でもありますね。
 
岡本:  はい。慰霊碑がありましたら、そこにお詣りして、もし汚れているようであれば掃除させて頂いて、そうやって次の目的地へ歩くようにしています。
 
上野:  そしていろいろ当時の戦争体験をお持ちの方にお話を聞いていらっしゃるんですね。
 
岡本:  はい。これは沖縄も広島も同じなんですけども、私の師匠の藤井虎山老師から、「いのちを見つめる」というテーマを与えられておりまして、これは私の生涯のテーマとして活動しているんですけども、その一環なんですね。戦争体験となりますと、命の究極のやりとりですから、それを学生と一緒に学ぶことによって、自分自身にも振り返るし、また社会というもの、世界というものがどうあるべきか。どのように我々は生きていけばいいんだろうかということを考える一番のきっかけになるというふうに考えてやっております。最初にたまたまなんですけれども、お会いしたのが中山きく先生と言われる―白梅学徒隊の方なんですけどもね―その方のお話の中に、これは八重瀬(やえせ)という場所がありまして、陸軍の野戦病院があったところなんですよ。そこでお話されていた中に、「もし霊というものが見えるならば、その八重瀬のところから摩文仁(まぶに)、それから喜屋武(きやん)半島一帯、足の踏み場もないほどの霊がいます」。霊というものは見えないわけですけども、そう言われた時に、動けなくなったですね。学生の中でやはりショックで、普通に動くことができなくなっておりました。
 
上野:  歩く一つひとつの道に、かつては犠牲になった方々の遺体があったということですね。
 
岡本:  そういうことですね。そういうふうなところを歩かして頂くことによって感じ取れるものがあるんですね。
 
上野:  その白梅学徒隊の中山さんは女性の方ですね。
 
岡本:  はい。元白梅学徒隊員(1945(昭和20)年3月6日から6月4日まで、「学徒勤労動員令」により陸軍第二十四師団第一野戦病院の従軍補助看護婦として沖縄戦に従軍した沖縄県立第二高等女学校の生徒で編成された学徒隊。46名が動員され、17名が戦死。学徒隊以外の生徒と教師を合わせ66名が戦死した)です。
 
上野:  大変な体験をなさったわけですね。
 
岡本:  そうです。「ひめゆり学徒隊」とか、沖縄の高等女学校は、それぞれ全部最上級生は従軍補助看護婦として徴用されていたわけでして、そこで戦禍にどうしても巻き込まれますから、大変な数の方がお亡くなりになっていますね。で、彼女たちは―女子学徒隊の生き残りの方は、友だちのことを何とかして後世に伝えたい。特に「若い人に、こういう人たちがいたんですよ」ということを伝えたいという気持ちで、いまだに頑張っておるんです。後、現地でお話がお出来になる方は数人になられていると言われているんですけど、「ほんとにここの場所に負傷兵が運ばれて来ますと、そこで先ず見きわめをする」と言われるんですね、その場所で。で、「助かる見込みのある人は、壕の中へ連れて入って手術します。そうでない人はそこまで連れて来られても捨てて置かれる。そういう場所なんです」というお話をその場でされるわけです。目の前にそういう場所がある。手術場壕では、軍医によって切り落とされた手足を、女子学徒隊の方が、壕の外の艦砲射撃で大きな孔が開いているその孔へ、棄てにいく作業をする。そうすると、助かる可能性のある人の足や手を持って棄てに行くと、その側にもうSOS状態になって困り掛けているような方から声を掛けられる。「僕たちはいつ治療して貰えるんですか?」と。そうすると、「待ってください。もうすぐですよ」というようなことを言われて、「看護をする振りをした」というふうにおっしゃっていましたけどね。「だけど、そうやって死んで逝かれる人をこう見送らざるを得なかった」という話をその場でお聞きするわけですよ。そうすると、もう木がこんもり茂ったところですからね、普通の病院という感じじゃないですね。そんなところでそういうふうな命のやりとりがあった。これを学生もお聞きし、私もお聞きしたわけですけども、そうするとやはり感じるものがありますですね。これは戦争反対とか、そういうふうなレベルのことじゃないんです。もっと深いところでのいのちというものが、どういうものなのか。生きていくというのはどういうことなのか、ということまで考えさせられる内容だったと思います。
 
上野:  そういった証言を、既に八回にわたって沖縄へ行って聞いていらっしゃって、さらにこれからもお続けになるんですね。
 
岡本:  そうですね。今証言を五冊に纏めているんですけども、それぞれの学徒隊で纏めているんですけども、もう二冊出して完結させたいなと。すべて女子学徒隊の記録を―まあ一部ですけど、残していったものを世に残せたら、まあ女子学徒隊の方々のことを本土の人間も忘れていませんよという、そういうメッセージにはなるじゃないかなと思って、これからずっと頑張ろうというふうに言っているんですけども。
 
上野:  そして沖縄の貴重な記録を残し続けていらっしゃるんですが、実際にここは広島ですけども、広島の原爆体験、そして呉とか軍港がありまして、そういったところの戦争体験、そういったことを一方ではなさっているんですね。
 
岡本:  はい。同じようにいのちを見つめるという私からすれば、その一つひとつのことがすべて同じテーマの一環としてやらせて頂いて、広島では「広島を学ぶ」という形で、三日間ですけども―これは座学も入れてなんですけども、いろんなところを歩いて、被爆者の話を聞いたり、呉でしたら、海軍の関係でいろいろご苦労なさった方、特攻隊に行かれた方の話というようなものもお聞きして纏めるという作業をしております。呉に大之木(おおのぎ)(英雄)さんという方がおられるんです。この方は学徒動員で出られて零戦に乗られていたんですね。学徒出陣で。仲間が特攻で沖縄で戦死されているんですね。その方がやはり仲間のことは語り継がなくちゃいけないという気持ちがおありになるんでしょう、学生にお話してくださったわけです。そうすると学生は震え立つんですね。「鳥肌が立つ」という言葉がありますけども、そういう表現を一人二人じゃないです、多くの学生がするんですね。そうすると、学生の中にそういうものを感じ取る力がある。だから力が出てくるためには、そういうものに触れさせる必要があるんだろうなと思います。それのきっかけになるものが、広島にはたくさんまだ残っているということだと思うんです。ですからそれを如何に我々は大切にちゃんと残していくか、記録していくか、という作業は、どうしてもやらなくちゃいけないことだろうというふうに考えて、あまり大それたことはできませんけども、少しずつでもさせて頂くようにしております。
 
上野:  その根底に流れているのは、岡本先生が、藤井虎山老師に学ばれた「いのちを見つめて」という一つの大きなテーマで、
 
岡本:  「いのちを見つめる」ということでやっておるんですけどもね。
 
上野:  それは一遍の「歩いて歩いて」の捨聖の心とも通じるんでしょうね。
 
岡本:  そこにどうしても行かざるを得ないですよね。結局「歩いて歩いて」ということは、そぎ落としてそぎ落として最後に残るものという意味を持ちますから、そころところで、我々は自分のいのち、また大いなるもののいのち、そういうものに気付くわけですね。そのきっかけになるのはやっぱり一遍上人の生き方そのものだというふうに、私は考えております。一遍上人は、「捨聖」という言葉で言われるわけですけども、今「断捨離(だんしやり)」(不要なモノなどの数を減らし、生活や人生に調和をもたらそうとする生活術や処世術のこと)とかいう言葉がございますね、ものを上手に捨てるんだと。捨てて、じゃどうするの? そうするとやっぱりまた良い物を買おうとされるんですね。あってもいいと思うんですよ。あってもいいけども、そのものに流される、支配されるんじゃなくて、そういうものを使いきれる力というものを、人間は持つべきだろうと。そうでないのに持つとその物に押しつぶされてしまう。今の世の中というのは、押しつぶさせている部分というのがあるんじゃないでしょうか。それでその物に対する欲望が過度に出てまいります。嫉みとか、そういうものを一遍上人は捨ててしまい、と言われていると思うんですね。
 
上野:  どうも有り難うございました。
 
     これは、平成二十六年八月三日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」で放送されたものである