われ独り尊し―唯我独尊の真意を聞く―
 
                 今治市・善照寺住職 真 城(ましろ)  義 麿(よしまろ)
一九五三年、愛媛県に生まれる。一九七八年、大谷大学大学院修士課程修了。一九九七―二○一一年、大谷中・高等学校校長。真宗大谷派善照寺住職。著書に『親鸞聖人は何を求められたのか』『みんなが安心して生きられる世界』『危機にある子どもたち:宗教教育の本質を問う』ほか。
 
ナレーター:  「唯我独尊(ゆいがどくそん)」という言葉は、「ただわれ独り尊し」と読まれることが多いのですが、今日は「ただわれ独りにして尊し」と読んでいる、愛媛県今治市(いまばりし)の善照寺(ぜんしようじ)住職真城義麿さんに、「唯我独尊」という言葉の真意についてお話を頂きます。真城さんは、一九五三年(昭和二十八年)のお生まれ。長年京都の大谷中学高校で教諭や校長を務めていた方です。聞き手は金光寿郎ディレクターです。
 

 
金光:  今日は、「唯我独尊」という言葉は、一般的な日本語の会話でも使われますけれども、もとは「天上天下(てんじようてんげ)唯我独尊」というか、宇宙の中で自分が一番尊いというふうに、普通は理解されているんではないかと思いますが、先生のお書きになったり、あるいはお話になった記録をちょっと拝見しますと、「生まれ独りにして、独りだけでも尊いんだ」と。「われ独りだけで尊い」というと、比較して他の人よりも自分が偉いんだ、立派なんだ、という意味ではなくなるんではないかという気がするんですが、その「唯我独尊」を、「われ独りにして尊し」というふうに、お読みになったのは、なんかきっかけがあるんでしょうか。
 
真城:  そうですね。私は、ずっと子どもたちに話をするということを長くしておりましたので、子どもたちに、「あなたは生まれた時から、存在そのものが尊いんだよ」ということを、どう伝えるかということを考えている時に、この「唯我独尊」というのを、「われ独りにして尊し」という読み方、つまりこの「独尊」の「独」というのは、今の言葉で言えば、「付加価値を付けなくっても」ということです。「何も足さなくても、何も引かなくても、ありのままそのままで」という意味で、「独」というのを考えようと。そして、「唯我」というのも、「掛け替えのないあなたなんだ。もう歴史上も、あるいは現在地球上どこを探しても、あなたの代わりはないんだ」という意味で、「掛け替えのなさ」ということと、そして「存在そのものが尊いのである」。つまり条件付きで人間が尊くなるのではないんだ」ということを、先ず子どもたちには伝えたい。その「尊い」ということがベースになった上で、そこでまた自分なりの素晴らしいものを発揮してくれるのは、勿論大事なことなんですけれども、「もし与えられた条件を満たすことができなくとも、あなたは尊いのである、ということを、失ってほしくない」と。そういう辺りが私の原点と言いますか、そういうところからそのように敢えて「独りにして」という読み方をしているということです。
 
金光:  「独りだけでも尊い」ということは、これなかなか納得できにくいというか、偏差値の中では、成績が悪いと自分があの人よりも劣っているとか、運動会でもいつも ラスト走るんだと、どうしても自分は出るのが面白くないとか、自分が尊いというのが、納得しにくい環境もあると思うんですが、その中で自分が尊いというのを、個々の人に納得させるというか、自分自身をそのように気付かせるというのは、これなかなか難しいんじゃありませんか。
 
真城:  そうですね。現代人のものの考え方の中で、どうしても我々は、「尊い」ということも、「誰よりも」「誰かより」という、そういう比べるということがベースに、考える以外に考えたことがないというようなところにあると思うんです。ですけれども、この「尊い」ということは、何かを成し遂げたということを―「する、できる」ような問題ではないんだ、ということですね。つまり「ある」という存在の問題なんだと。能力の問題ではないんだと。あるいは成果の問題ではないんだ、という辺りで、先ず安心してほしいということですね。「自分が、いのちあるということに安心してほしい」。親鸞聖人が、お「正信偈(しようしんげ)」の一行目に、「帰命無量寿如来(きみようむりようじゆによらい)」という、こういうことですけども、「阿弥陀仏」が「無量仏」とこう言われるんですけども、「無量」ということが、今私たちが目の前にしているさまざまなことを考える時の、とっても大事なキーワードになるんではないかなと思っています。つまり仏様の世界、あるいは人間の本当の尊さということを突き詰めた時には、量ではないのだと。「無量」というのは、よく「無限」とか、「限りが無い」というふうに言われますけども、私はそういうふうに思わない―それもあるんですけれども―量の世界ではないんだ、ということですね。「量らない、数えない、計算しない、駆け引きしない」、それは当然比べないことになる。ですから「無量」ということが、我々がすぐあらゆることを数字にして、先ほどの偏差値とか、今病気かどうかを確かめるのも数字だけなんですね。あるいは「豊かさ」も、貨幣という数字でしかみるものの見方がなくなってしまって、貨幣ということの量でいえば、十分でないけれども、生き生きと生きていく人たちがたくさんいらっしゃったにも関わらず、貨幣というたった一つの物差しで、それを分けてしまう社会のことを「格差社会」と呼ぶんだろうと思います。そんなことも含めて、一番根本のところにあるのは、「無量という世界があるんだよ」ということを、子どもたち、あるいはみなさん方に気付いてほしいと言いますか、仏様がそういう世界を見付けてくださったんだと。そして我々も、量の世界で生きていることは確かなんだけども、量の世界で行き詰まったとしても、「無量の世界で安心できるということが与えられているんだ」ということですね。
 
金光:  そこのところに気付くために、やっぱり自分というものを、もう一度外に、自分の足りないところを外に求めるだけではなくて、自分というものをもう一度みる目を持つようにしないと、そこのところにはなかなか届きにくいんじゃないかという気がするんですが、考えてみると、自分というのは、自分で生まれてこようと思って生まれた自分ではないし、死ぬ時も―自分で自分を殺す人もいらっしゃいますけれども―概ねほとんどの人は、自分が死のうと思わないのに、いつのまにか死ぬ時期がくると、ちゃんと死の方へ迎えて頂くという、そういう自分の思いの届かないところで、生まれたり死んだり、日々の出来事にしたって、自分の思い通りにならないところで生きているという現実があるんですが、そこの、そういう自分であることに気が付くと、比較しないで、独りで生まれて、独りで知らないうちに死んでいく世界というのは、どうも私なんか無限の世界に続いているんじゃないかという気がするんですが、なんかその辺のところが、独りで尊いという世界に気付く一つのポイントになるのかなと、私は勝手にそんなことを思っているんですが、その自分というものについて、先生はどんなふうにお考えでございましょうか。
 
真城:  そうですね。仏教の基本的な常識ですけれども、「ブッダ」というのは、目が覚めたとか、気が付いたということですね。ということは、我々は、ブッダになっていない。ブッダじゃない、というわけですから、気付いていない、ということなんですね。あるいは本当のことがわかっていない、という。ですから私たちは、「私」という主語の前に、「わかっていない」というのがくっつくんですね。そこに立てば、もっとわかりたい、もっと知りたい。我々はわかっているというところで、自分のわかっている世界の中に引き寄せて、分類したり、整理したり、理由付けをしたり、説明をしたりというわかり方で、納得しようとするわけですけども、「もうわかっていないんだ、というところに立つ」ということですね。親鸞聖人が、「愚禿(ぐとく)」と名乗られた「愚(ぐ)」というのは、「知能」の意味というのではなくって、「わかっていない」というところを正直に表明される、と言いますかね。ですから、もっと知りたい、もっとわかりたい、もっと聞きたいということが、いのちある限り続いていくと。ですからどうも一時期流行った「自分探しの旅」というようなことが、それは自分で納得できる物語をただ作ろうとしているだけのように思います。そうではなくって、どこまでも自己を観るために、例えば自己の外見を見たければ鏡が必要なわけですけれども、じゃ、私たちが自分自身を観るための鏡を、どこにどう持つのかと言った時に、例えば善導(ぜんどう)大師の、「経教(きようきよう)はこれを喩うるに鏡の如し(お経や教えのことばは、私を写しだす鏡である)」というような、今の無量ということもそうなんですけども、「無量」という言葉に触れて、〈あ、そうだったのか。自分は量の世界でしか生きていなかったな。私は、量にしか関心を持っていなかったな。あるいは量に振り回されながら生きておったな〉と。量の世界というのは、必ず増えたか、減ったか、どっちが多いかという世界ですから、必ずこれまた比較の世界になって、比較の世界は、自分より明らかに低位の人、いわば劣った人が居なければ満足できないというような厄介なものを含んでおりますから、そういうことから私たちが解放されるためにも、無量ということがとっても大事だと思います。それからもう一つ、自分をこう見つめるという時に、これも仏教で一番最初に教えてくださる「縁起」ということでありまして、自分より先に関係があるんだということなんですね。ですから自分を見つめたければ、関係をみないといけないということだと思います。そういうところで、関係の中で生まれてきて、関係の中で育てられて、今も関係の中で生きているという。今頃急に「絆」と言い始めたというようなことではなくて、既に我々が説明の付かないほどのひろやかな世界で、いろんな関係を複雑に持っている。その中で生きているということで、関係をどう見ていくのか。関係を通して、自分をどう見ていくのか、ということではないのかなと思うわけです。
 
金光:  今おっしゃったことを、表現を換えていうと、これは先生のご本で拝見したんですが、「私のいのちだと思っているけれども、本当はいのちの私ではないか」とおっしゃっている。その辺の「私のいのち」というのが、「いのちの私」になると、自分の見方が全然逆転しているんじゃないかと思うんですが、その辺はどういうことなんでしょうか。
 
真城:  これは単純に人間が生まれてくる時は、いのちそのものが生まれてくるのであった、あるいはいのちの塊が出てくるのであった。後から私というのができあがっていくんだと思うんですね。にも関わらず、ある段階から、できあがった私が、いわば自分の母体であるいのちを私有化していくというか、コントロール下に置くような錯覚を持ってしまって、「いのちの私」としか言いようのなかった筈のものを、いつのまにか当然のように「私のいのち」というふうに思い始めてしまう。そうすると、そこから出られなくなってしまう。
 
金光:  そこのところが要するに、無明(むみよう)というか、自分のいのちに気が付かない。いのちをおっぽり出して自分独りで勝手に動いている。それがよくわかっていない生き方だということになるわけですね。
 
真城:  そうです。ですから、そのいのちが本当に数えることも、説明することも付かないほどの長い歴史の結果でもあります。そこにはもう無限の縁があるわけですね。ということもありますし、しかもそのいのちがこの私として出てきてくださったということも、いわば私がいのちに選ばれたということかも知れませんし、いのちが私という姿をとって出てくださったということかも知れませんけれども、しかし一遍できてしまったこの私というものは、できてしまった限りは、どこまでも自己主張と言いますか、私中心でなければ気が済まないものを抱えておりまして、見ること、学んだこと、出会うこと、すべてを私の都合というところでみていき、判断し動いていくということだと思うんですね。
 
金光:  そこで難しいですね。「自立」というと、自分の都合で、自分でこうこう、自分はこうしなければいけないんだ、こうすべきだ。自分はそう思う、というのが自立だと思われるとすると、そういう外との関係みたいなものを無視してしまうことになるんではないかと。こう自立とともに生きる共存というのは、どう関係するのかなという、その辺の兼ね合いみたいなのが難しいんではないかという気がちょっとしたんですが、その辺はどう考えればいいんでしょうか。
 
真城:  そうですね。関係というのは、植物で言えば、大地のようなものであって、それ無しには自立ということはあり得ないんだと思うんですね。
 
金光:  でも無明というのは、そのことに気が付いていない。
 
真城:  気がついていない。ですから大地の上にいのちとして生まれてきた、ということにも関わらず、大地を忘れて、私というところだけで立とうというて藻掻いているのが私たちではないのかなと。
 
金光:  ということは、本当の自立というのは、自分が大地の上に生かされているということに気が付くところに本当の自立が成立すると。
 
真城:  そうですね。根を張るというか、大地との関係というものをきちっと大事にできた時に、自立ということも成り立つんではないかと思います。
 
金光:  よく誤解されている言葉に、「他力本願」「本願他力」というのを、「人任せ」というふうに、一般に理解している人もいるようですけれども、そういう「自立」と「本願他力・他力本願」との関係は、これはどういうことになるでしょうか。
 
真城:  そうですね。先ほど言いました、「大地」のようなことだと思うんです、その本願という世界はですね。何を成し遂げたとか、何ができたとか、あるいはどういう地位を獲得したとか、ということを一切問わずに、どんな時の自分も支えられていると言いますか、包まれていると言いますか、そういう世界が本願という世界だと思うんですね。ですから「他力」というと、「他の力」と思いますけれども、それは「他」というのは、自分ではない。つまり自分と他人というような「他」ではないということなんですね。ですから、「自」とか「他」とかという考え方そのことから出ると言いますかね、ということだと思います。もっとひろやかで伸びやかな大きな世界に安心できるベースがあって、その上で自分の与えられた環境、条件、あるいは自分の与えられた能力、資質の中でできることを惜しまずに一生懸命やるということになっていけばいいのかなと思うんですね。
 
金光:  やっぱり自立と共存というのは、切り離してしまうものではなくて、その全体がいのちの働きのうえに現れているわけですから、その辺で実際の我が身の上で、それをどう判断するかというのは、やはり一種の訓練と言いますが、そういうものが必要になるということなんでしょうか。
 
真城:  そうですね。僕もある友だちが、「心配するより心を配れ」という。
 
金光:  面白い言葉ですね。
 
真城:  おっしゃったのを聞いて、今瞬間にそう思ったんですけれども、仏教ではもっとも理想的な境地のことを「涅槃(ねはん)」と呼んだり、あるいは「浄土」と呼んだりするわけですけれども、本来そういう世界かも知れないんですけども、そこに「私」というのが主人公として登場すると、つまりもともと主従の優劣も上下もない世界に、何がそれを持ち込んでくるのかというと、やっぱり「私」というもんだと思うんですね。その「私に気がつけよ」というのが、仏法・仏教だと思います。ですけども、我々はそれに気が付かないままですね、私の請求が充足された時に、〈よしよし〉と思うことで生きているわけですね。ですけども、これも少し冷静にみれば、勝ちたいという時に、勝ったというのはですね、負けを誰かに押し付けたということですね。儲かったというのは、損を誰かに押し付けたということなんですね。
 
金光:  そういう葛藤の中で我々毎日暮らしているわけですけれども、そういう中で自分自身を尊しと思える、それの「独りでも尊し」と思える、その世界はどうやって気付くことができるのか。いろんな先達の方いらっしゃるわけですけれども、教育界で有名なことだ思うんですが、東井良雄(とういよしお)(教育者、浄土真宗僧侶。 兵庫県豊岡の浄土真宗の東光寺に生まれる。1932年(昭和7年)に姫路師範学校を卒業した。小学校教師として奉職、多くの著作を著す:1912-1991)先生に、「根を養えば樹は自ら育つ」という言葉がありますけれども、現代はその辺の基盤のとこが脱けているんじゃないかと思うんですが、その辺はどうでしょう?
 
真城:  この頃これがちょっと困ったなと思っていることの一つが、家庭の形態です。親子では伝わらないことがある、とこの頃思います。お爺ちゃんお婆ちゃんから孫にしか伝わらない大事なことがあるんじゃないかと。それは親子というのは、どうしても利害と言いますか、良い子に育てないといけないとか、ダメなことはダメと教えなければいけないとかという世界なんですけれども、お爺ちゃんお婆ちゃんが孫を見る目というのは、上手くいっている時も、いっていなくっても、無条件に可愛いんですね。失敗しようが、しまいが、つまり出来たらとか、成し遂げたらと、そういう条件を付けずに認めてくださる、喜んでくださる、存在を喜んでくださる。そういうところで、そういう安心感の上で何かが、例えばよくわからないままお念仏の前にお爺ちゃんお婆ちゃんと一緒に座っていたとか、ちっちゃい時に、手を引かれてお寺へ行ったけど、今から考えたって、あれ何だったのか、何にもわからんと。わからんけれども、何かがじわっとこう入っている何かがあるんじゃないのか、というようなことですね。それが生活のさまざま、いろんなことを経験している間に、〈ああ、あの時まったくわからなかったけれども、今もよく説明はできないけれども、大事な何かが、あれかな〉みたいなことがやっぱりあるんじゃないのかなと。そして私たちは、勉強したり、いろいろ知識が付いたりすると、わかるということを積み重ねていこうとするわけですけれども、わかるというのは、自分の今持っている知識の構成の中のどっかに収めるということで、それを超えたことについては発想の中にないわけですよね。ですから「道を求める」とか言いますけれども、その求めた先のことは想像が付かないんですよね。念仏を唱えたらどうなるのかというのは、念仏する前にはまったくわからない話だと思います。予想が付かないんですね。それを何とか予想を付けようとするのが我々ですけれども、そうではなくって、やっている間に、〈あ、こういう世界があるんだな〉ということに出会って初めて気が付くということがあると思いますね。親鸞という方も、法然上人に教えて貰ったことは、知識としては全部ご存知のことばっかりだったと思います。それが法然上人という一つの人格と言いますか、生活というものを通して、人間というものを通して、〈これって本当なんだ〉という、出会って初めて自分が求めていたことに気が付く世界というのがあるんだと思いますね。
 
金光:  だから「地獄は一定すみかぞかし」とおそろしいこともおっしゃっているんですけれども、それは「地獄は一定すみかぞかし」とおっしゃっていらっしゃる方が、間違いなく浄土との繋がりはあるんだということをおっしゃっている。これは分けて考えると地獄と浄土は全然別の世界のように思いますけれども、親鸞聖人の中では別々じゃないんですね。
 
真城:  別々でないというか、「わかっていない」と言いますか、「できない私」というところに立つということですね。そうすると、自分が出来る、出来ないで判断される世界で言えば、「できない私」ですから、地獄しか行く場所がない。ですけれども、「できない私」であれば、純粋にその本願力、他力にお任せができる世界が開かれてくるんですね。我々は、どうしても頑張れるだけ頑張って、足らなかったら仏さんよろしくお願いしますという信仰の仕方になるんですけれども、それがもう自分はどうにもこうにもならん私だと。わかりもしないし、出来もしないし、ということを本気で引き受けた時にですね、その私を尊いと呼び掛けてくださっている仏様がいらっしゃったんだと。そしてそのお前だからこそ絶対に救いの手から漏らすことはないと、約束してくださっている仏様がいらっしゃっていたんだということを、感動と言いますか、共感と言いますか、そういう耳で聞いて頭でわかるというわかり方ではなくって、体現されたというか、感じられたんではないかと思うんですね。
 
金光:  有名な言葉で、お釈迦様が亡くなられる前に、「お釈迦様が亡くなられたら、どうすればいいんでしょうか」と、阿難尊者が聞いた時に、「自分を頼りにしなさい」というのと、「法を頼りにしなさい」。「自帰依・法帰依」とか「自灯明・法灯明」とも言われますけれども、「自分」というのと、「法」というのは別々ではなくて、しかも今のお話でいうと、法は法だから私はこうだと思ってわかるんじゃなくて、自分というのは、法に生かされている世界にいるんだという実感の上で、どこへ行こうと、私は法のままに、如来様のままにという、もうちょっと意識を超えた深い世界へちゃんと繋がったところでの発言というふうに承る方が、どうもお釈迦様がおっしゃった「自帰依」「法帰依」の真意に近いのかなと。さっきのお話を伺いながらそのように思ったんですが、仏教というのはその辺のところを大事にしてきたということなんでしょうか。
 
真城:  そう思いますね。やはり自分を見つめるということと、法に気付くことだと思います。自分を見つめるというところを突き詰めていくと、単純な言葉で言えば、「ごめんなさい」というところに行き着くと思うんですね。「十分ではありません。申し訳ない。できていません。わかっていません。人を傷つけ、自分を傷つけて生きてきました」というところになる。「法帰依」という、その「法」というものを、ずっとみていこうとすると、これは主語も何にもない「ありがとう」というような世界なんだと思うんです。私たちは、どうしても最初「頑張ります」から始まってですね、それが頑張れなくなると「お願いします」という段階になって、それも十分にならないと、今度は「お任せします」と言うんだけれども、「お任せします」と言っていても、その「私が」というのから出られなくて、私がこんだけ任せているのに、そっちのやり方悪いんじゃないか、ということでどうしても出ちゃうんですね。それも通用しない私だということがハッキリして、初めて何にも無しの「ありがとう」という世界になるんじゃないのかなと思います。ですから私、子どもたちには、「自灯明・法灯明という世界は、「ごめんなさい」と「ありがとう」が同時にある世界であって、そういうのをお念仏というんだよ」みたいな話をするんですけれども。
 
金光:  それが我が身が、そういうところで生かされているということに気付くと、それこそ「唯我独尊」ということが、独りにして尊い存在だということが、なんとか達観できる、そういうことになるでしょうか。
 
真城:  そうだと思います。もう既に尊い身を頂いておったんだということなんだと思いますね。但し残念ながら私たちは、自分を尊く生きようとしていないんです。いつもは自分を貶(おとし)め安物にし、デスカウントしながら生きているんじゃないかと。人から言われると腹立つんですけど、自分のことは言い分けしながら、低くても認めれよ、というところで生きている。ですから本当に「あなたは尊い」と仏様から呼び掛けられているということに出会ったら、もう恥ずかしくって、もう居り場がないようなことになると思いますけれども。もう「ごめんなさい」「すみません」「ありがとう」という、それだけになっていくんじゃないか。そのうえで教えられた関係条件の中で、できることを一生懸命でやらせて頂きます、ということじゃないかなと、そんなふうに思います。
 
金光:  どうもありがとうございました。
 
     これは、平成二十六年八月十七日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」で放送されたものである