もう一人の自分と
 
                きぼうのいえ理事長 山 本(やまもと)  雅 基(まさき)
一九六三年生まれ。東京台東区の「山谷」地区にあるホスピス「きぼうのいえ」施設長。一九八五年日航機墜落事故ニュースに接したことをきかっけに聖職者を志し、一九三五年上智大学神学部を卒業。大学卒業後「NPO法人ファミリーハウス」の事務局長を務める。二○○一年「ホームレスのためのホスピスを建てたい」と考え、看護師の妻とともに活動開始。二○○二年在宅ホスピスケア対応型集合住宅「きぼうのいえ」を開設。
                き き て     浅 井  靖 子
 
ナレーター:  「宗教の時間」です。今日は、「もう一人の自分と」と題して、「きぼうのいえ」理事長の山本雅基さんにお話を伺います。「きぼうのいえ」は、東京山谷(さんや)地区に作られた在宅型のホスピスです。余命に限りがあることを告げられたホームレスや身寄りがなく行き場を失った人たちの家として、その人生を最期まで見守る場となってきました。聞いては浅井靖子ディレクターです。
 
浅井:  今、「きぼうのいえ」の最上階にある礼拝場にお邪魔しているんですけれども、祭壇の両脇にたくさんのお写真がありますね。悴(かじか)んでいらっしゃるようなお写真があったり、おどけたようなお顔があったり、いろいろみなさんの写真がありますけれども、これまでにここで何人の方を見送りになられたんでしょうか?
 
山本:  はい。間もなくまる十年が経ちますけれども、その間に百六十四人という方を看取ってまいりましたね。月数で割りますと、二ヶ月に三人というような感じで天国へ見送っているという、そういう事態です。
 
浅井:  みなさん、この山谷地区の中で長い間暮らしてこられた方で、
 
山本:  ほとんどがそうですね。日本の第二次世界大戦後の復興を、自分の肉体の労働を通して下支えしてきたという方たちの終(つい)の棲家として「きぼうのいえ」が選ばれて使われているということになると思います。
 
浅井:  入居者の方々というのは、この「きぼうのいえ」をご自身の家として、ここで在宅の医療であるとかを受けて、そして身の周りのことについてはスタッフの方々の手助けを受けて生活をする。
 
山本:  そうです。
 
浅井:  みなさんにとっては、この場はどういう場なんでしょうか?
 
山本:  もう一度自分の人生をやり直すとしたら、こんなふうにいきたいな、というふうな生き方を、もう一度やり直すという。限られた時間かも知れませんけれども、そこで過ごすなかで、自分の今生(こんじよう)の命を、どう幕引きしていくかということに真っ正面から向かい合う場所だということが言えるかと思いますね。
 
浅井:  それぞれいろんなご事情を抱えていらっしゃる方がいると思うんですけれども。
 
山本:  そうですね。思い出深い人の話を一つ、二つして見ようかと思うんですけれども、ある方は、知っている人は知っているという形の731部隊(731部隊(ななさんいちぶたい)は、第二次世界大戦期の大日本帝国陸軍に存在した研究機関のひとつ。正式名称は関東軍防疫給水部本部で、731部隊の名は、その秘匿名称(通称号)である満州第七三一部隊の略。このような通称号は日本陸軍の全部隊に付与されていた。満州に拠点をおいて、防疫給水の名のとおり兵士の感染症予防や、そのための衛生的な給水体制の研究を主任務とすると同時に、細菌戦に使用する生物兵器の研究・開発機関でもあった。そのために人体実験や、生物兵器の実戦的使用を行っていたとされている)にいた方、こういう方もいましたね。終戦後は箝口令(かんこうれい)が布かれたらしく、「自分がその部隊にいたことを絶対に言うな。言ったら、命はどうなるか保証はできないぞ」と言われて、まったく沈黙の人生を歩んできたと。他には、例えば山谷の中で、ホームレスをしていた人なんですけれども、この方はもともと銀座の創作料理屋の料理人だったそうです。肺癌だったんですが、「きぼうのいえ」に来るようになりました。それからもう少し話をするとすれば、第二次世界大戦中は東南アジアを転戦していた人がいます。その人は、敗戦後は、闇の世界、いわゆるヤクザの世界で生きてきたという人がいます。その方が認知症になってきて、よく泣くようになったんですね。で、「どうして泣いているの?」と言ったら、「儂は生き残ってしまって申し訳ない。次に会う時には靖国で、と言って別れたんだ。なのに、彼らのような若き青年将校たちが、ある者は沈められ、ある者は撃ち落とされて命を落として逝った。それなのに、私のようなヤクザ者が生き残ってしまって大変申し訳ない。そこで自分としては今度来る七夕の短冊には、〈真っ黒だった人生を真っ白にしたい〉と書いてください」というようなことをいう人がいたりしたんですね。
 
浅井:  その方は、何故そういう自分の中の「白くして欲しい」という、そこまで至ることができたんでしょうか?
 
山本:  確かに来た頃は、やはりやくざの面影というものを充分に持っていた方なんですよ。ですから私たちは、この方を正直言って、怖がっていました。ところがこちらから積極的に積極的に温かい風を送っていく。それが彼にとっては人生の中になかったことみたいですよね。
 
浅井:  それまでの人生の中で、
 
山本:  やはり力と権力によって、そしてなし得たことの悪の大きさによって評価されていくという。それがヤクザの世界だったろうと思うんですけども、そうではなくて、「あなたが出した微笑み一つ、それは私たちにとって嬉しいんですよ。強い言葉でいうことが、私たちにとっては嬉しいことではないんです」というような、そういうことを繰り返し繰り返しその温かい春風のように当てていった時に、その人の雰囲気がふっと変わる瞬間なんですね。そういうことになっていくということが、「きぼうのいえ」でのケアの特色で、だからここが医療施設ではなくて、やはりその人が生き直す場所であるということについては、私はやっぱり疑うべきことではないなというふうに思っております。
 
浅井:  ある意味で人生の辛いものを抱えながら生きて来られた方が、最期の時にここで自分の人生をどうするかという、そこを支えていらっしゃる。
 
山本:  そうですね。「きぼうのいえ」は、確かにケアをする家であると。今「cure」という言葉が「治療」という意味することに対して、「care」というのは、私なりに言えば、「配慮」と言っていいと思うんですね。そして「きぼうのいえ」は、配慮の極点を目指しているということです。そして「ケア」と言っても、身体的ケアだけではなくて、精神的ケアや、スピリチュアルケア(霊的ケア)と言われるものですね、こういったことをどの程度まで踏み込んでできるかということが、そこのホスピスの深みと言いますかね、それを決定していくんではないかなというふうに思っています。
 
浅井:  そもそもこの山谷地区にホスピスを作ろうというふうに志されたのは、どんなところからだったんでしょう?
 
山本:  そうですね。話が長くなってしまうけど、そこを端折って端折って話をすれば、一九八五年に日航機のジャンボジェット機が群馬県御巣鷹山(おすたかやま)に墜落したという事件がありました。その時に私は、まだ十代の終わりぐらいだったですかね、その時私はテレビを見て、悲惨な状況が映し出されていくのを見て心痛めていたんですね。私自身も心の安定を失っていて、精神科から貰った薬を飲んでいたという状態だったんですね。そうしてフッと画面を見ると、そこにある若い青年が、「○○子が死んじゃったよ!」と言って叫んでいるのがスピーカーから流れてきた。その時に、僕はドーンと背中を突き飛ばされたような感じがしました。そして丹田にドンと落ちるものを感じたんですね。それは何だったかというと、こういう台詞ですね。「君は人生のどん底に突き落とされたような人々と共に、そういう人たちのために生きるのが、君の人生のミッション(使命)になるんだ」という、そういうある種啓示的な経験をしたということから始まってくると思います。そして私は、その後クリスチャンになり、聖職者を目指して、上智大学の神学部へ入るんですけども。
 
浅井:  神学部で司祭を目指すんですね。
 
山本:  司祭を目指すんですね。ところがそこの大学の授業の中で、宿題が出ましてね、「神様の教えが届いていない、キリストの教えが届いていないようなところへ行って、そこで一緒に働いて、そしてレポートを書きなさい」ということなんです。そこで働いたのは、昔は水商売の、どちらかというとお金がない人が行くようなところで働いたんですけれども、そこで私は、この人たちはおそらく教会に来ることはないんじゃないか、というふうに思ったんですね。私は、思ったのは、教会の中に留まるのではなくて、外へ出て行って、貧しい人、心病める人、教会に行くことができない人と共に一緒に歩んでいくことだった、ということを気付いて、それによって司祭になることを止めた。そしてやがてそれは山谷へという道へ繋がっていくんですね。この山谷へ来ることによって、「ほんとに神なんかいるもんか。神も仏もあるものか」というような人とたくさん出会いました。その人を「きぼうのいえ」では積極的に受け入れて、私は今仕事をしているということになるかと思いますね。
 
浅井:  先ほど「ケア」というのは、ここでは「配慮」。ケアというと、普通「介護」とか、そういうふうに訳されますけれども、ここでは「配慮」と。それはどういう?
 
山本:  そうなんですよね。ですから一般の「介護施設」という表現、僕はとても受け入れられないんですけれども、例えば食事介助、入浴介助とか、お手洗いの介助とかということが非常に重要視されて、それは出来ているかどうかということが問題になりますけども、その三つの極点を繰り返し繰り返し、それをその日一日中やってきたって誰も迷惑ですよ。我々は日常のその行為を行っていて、ある時点時点で、あ、ちょっとお手洗いへ行きたくなったな、と言って行くわけです。そこで上手く介助して貰えれば、その後の日常のいろんな、日常の動作が上手く行っていくわけですね。あるいは一つのコミュニケーションを取るとか、そういうことが上手く行っていくというわけで、その三つの点だけが、キュッとこう強調されてしまって、それしか行っていないような施設に見えてしまうんだけど、そうではない。我々はお互いコミュニケーションを取るんだと。例えばナラティブセラピー(Narrative therapy:社会構成主義やポストモダンの影響を受けて練磨されつつある、現代精神医学で用いられている精神療法の一つ。治療者とクライエントの対等性を旨とし、クライエントの自主性に任せて自由に記憶を語らせることによって、単なる症状の除去から人生観の転換に至るまで、幅広い改善を起こさせることを目的とするもの)というところの話を聞く者は、聞く人がいるからこそ語られる物語があるとかですね。それからアクティブリスニングと言いまして、積極的に聞く。それは普通にいう「傾聴(けいちよう)」よりももうちょっと積極的かも知れません。「う〜ん、それどうしたの?」というふうにね。そしてそれによってその入居者の人が自己開示をしていく。これとっても意味が深いことだと思います。自己開示をしていくというようなね。そういうプロセスの中で、私たちは自分たちのケア、配慮の中心として占めていますから、その他の、いわゆる介護施設的なというような、そういうニュアンスというのは大事なことだけれども、それを最重要視するのではなくて、ちょっとそれよりも別のところに最重要視点があるんだよということを言っておきたいと思います。
 
浅井:  「介護」というと、介護する側、される側がある。してあげる人と、して貰う人といるイメージがどうしてもありますけど、配慮というと?
 
山本:  フラットですよね。結局立ち位置が違うんですよね。
 
浅井:  立場はそれぞれ違う。
 
山本:  ここのスタッフと入居者さんというような、そういう立場は違います。それから病気をしているか、それから病気じゃないかというところも違います。それからもっているバックグランドも違います。そういった点があるにも関わらず、我々がフラットな立場でお互いが向き合うという点ではとても大切なことであるわけですね。だからお互いが向き合うスタート地点において、きちっと向き合って、そして用意ドンができるようになるということがとても大切なこと。例えばうちなんかでは、ちょっとこれは言うのは恥ずかしいんですけども、あまり入居者の人が「くそ婆!くそ婆!」とこういってくるもんだから、それで怒ったうちのボランティアの人が、「なんだくそ爺!」と言って言い返している。それを聞いた時に、そんなことは患者さまに、あるいは入居者さまにいう話ではないということかも知れませんけども、改めてその二人が、両者が、これから歩んでいく人生の途上の同じスタート地点に立ったという点では、とても大切な発言なんですね。
 
浅井:  その心の中に怒りや悲しみを抱え込んでいる方々を支えるというのは、簡単ではないと思うんですね。「積極的に聴いていくんだ」とおっしゃいましたけども、それは「じゃ、あなたの話聞きますよ」という形で側に座っているという、そういうことをなさるという意味ですか?
 
山本:  それは違いますよね。それはまるでなんかカウンセリング研究所みたいなところに来て貰って、「さあ、あなた話してください。自分の悩み」みたいな感じなんだけども、そういうのはおかしいと思うんです。もっと日常の中にしっかりと、良い意味で埋没していると言いますか、地につけていけないと思うんです。
 
浅井:  例えばどんなことを?
 
山本:  だからゴミ箱からその人の「今日元気だった」と言って、朝ゴミを集める担当の人の人が行って、「おはよう」とかと言っているうちに、そんなことを繰り返す。あるいはタンスに洋服など洗濯物をしまっていくことを毎日繰り返されていくというところにね、「ある時さ、俺もいろんなことがあってよ」とかと始まってくるわけね。「実はさ、俺は女房が居ているんだけども、逃げられちゃってさ」みたいな話が出てくるわけですよ。「えっ、そんなことあったの。大変だったね」とか、「俺も金持ち逃げされてさ、会社潰しちゃったよ」とかね、そんな話が出てきたということもあるわけです。そういうことが積み重なっていくうちに、お互いがわかり合いてくる。お互いの普通に見えている顔が見えてくるというだけではなくて、その人の後ろ側ですよね。どんな人として生活してきて、今どうしてここにいるのか、っていうところの、その人の立体的な、三次元的な人間像が見えてくるというところが凄くいいことなんじゃないかなと思うんですね。前にうちにいた大学生の女の子は、洗濯物をこう畳んでいたんですよ。みんなで畳んでいたんですね、事務所で。そうしたら、「あ、これ、ここでやっていてもしょうがないから、何々さんの部屋へ行ってやってくる」と言って、そしてその人のお部屋に行っていろんな人の洗濯物を畳んでいたんですね。そこで分かち合う。同じ空気を分かち合う。shareするという感覚こそが、この家というものの確立にとても大事なもんだ、ということを感じ取ったようですね。それからその洗濯物にかこつけて他のことをいうならば、持ち物がわからなくなってしまった洗濯物があるわけですね。
 
浅井:  誰のものかわからない。
 
山本:  わからないと。それで何となく洋服を手に取って、太陽に透かして見るような感じで、「こんな色合いだったら彼かな?」とか、「誰だろうね?」なんて言っていた時に、「ちょっと貸して見て」と言って、うちのスタッフが手に取って、その洋服の匂いを嗅いだんですよね。「あ、これはやっぱり何々さんのだ」とかとこう言うんですよね。体臭でわかるんですよね。「きぼうのいえ」って、このようにこの人の匂いの一つまで慈しみを持って受け止めるんだなという。その感性が芽吹いているというところに、私は日常の中にふっと垣間見せる「きぼうのいえ」の、介護ではなくて、配慮としてのケアというものの一つの現れを見ることができるだろうと思っています。それを僕たちは大切にしています。
 
浅井:  そういうことをお互いに無理なく少しずつ知り合いながら、入居者の方々がご自身の人生を振り返る機会にもなっていることですね。
 
山本:  そうですね。それによって、僕はとても重要なキーワードと思うんだけども、「和解」と言いますかね、「自分自身の人生と和解する」ということがとても大事になってくる。結局入ってきた時は、「神も仏もあるものか」という気持ちで入って来た人が、やがてうちのスタッフとの関係をもってプラスの方に回り出す。そして自分の人生を回顧すると言いますかね、顧(かえり)みていくということが始まっていく。そしてだんだん最初は些細なことから始まるかも知れませんけども、だんだん増えていくんですね。そして「俺には、妻が居てね。でも凄く悪いことをしてしまってよ。もとは俺謝りたいんだ」というようなことも出てくるかも知れない。それから「実は娘が居てさ。もう生きていれば三十五ぐらいだよ」なんていう話が出てきて、「あなたのお父さんですよ、なんて出て行けるもんじゃないしな」。そんなことを言って、「でも会いたい」。そして「俺は、ほんとに妻や親父とお袋に迷惑をかけたよな。もう墓に入っちまって言葉を交わすこともできないけれども、そこに死ぬ前に一度でいいから、手を合わせてご供養したいもんだよ」というようなことをいうようになっていくということが、やっぱり和解のプロセスになっていく。うちにいた人の中でこんな人がいましたよ。やっぱり最初来た時は、もう言いまくって、薬の時間が五分遅れただけでも、わぁっと怒っていたような人が、ある時に「おはようございます」「ありがとうございます」というふうになっちゃったんですね。そしてここの礼拝堂で起きたことなんだけど、「肩をポンと叩かれた」と言うんですね。何者かわからない者にですよ。そうしたら「何されたの?」と言ったら、そういう意味では「神・仏を」という表現する人ではなかったんです。関西弁の人なんだけど、「なんていいますか、私より高次元らしき者が私に触れましてな。〈お前は大丈夫や〉というんですわ」と言うんです。その時は、「お前は大丈夫や、って、それあなた病気は治ったこと?」「いや、病気は治りしまへんね。ただ治らないけど、〈お前、命は大丈夫や〉ということを、私は言われたという感じをしますよ」というふうなことを言って、それからどんどんどんどん変わっていってね、いろんな本を読み漁り、そしていろんな人と会話をし、喜び、笑い。これは僕たちが思う以上に、彼にとっては大革命だと思いますよ。彼の中には、安寧な気持ちというのが芽生えてきて、自分の人生を穏やかに過ごすことということが入ってくるんだと思いますね。それから今まで怒鳴り散らしていた人が、ある時突然に、「私はもう怒るのは止めました。怒るのは疲れるんですよ。それよりも人に感謝を得る方がよっぽど嬉しいです」というようなことをいうようなことになってきた。これは大きな大革命ですよ。
 
浅井:  大きな波乱人生の中を生きて来られた方が、一つの安寧に向かって、
 
山本:  着々と進んでいくと言いますかね。そういうことが、「きぼうのいえ」は、単なる介護施設ではなく、そして医療中心的な看護ケア病棟でもなく、在宅の形で何気ない四十坪のほんとに吹けば飛ぶような大きさかも知れないけれども、その中で一六四人という魂の中で起きてきた事件ということからすれば、それは凄い大きなもの、事件だと言っていいと思うんですよ。
 
浅井:  そういうような日々を十年送って来られたわけですけど、山本さんご自身の中でも変わっていくというような転機があったんでしょうか?
 
山本:  転機もありました。それは実は私は、昨年カトリック信者であるにも関わらずなんだけども、離婚しているんですよ。人生の中では、私の中でとっても大事にしていた人で、添え遂げたいと思うような人だったんです。ですけども彼女といつの間にか感情的な距離、心の距離ができてしまって、そして彼女にもっと理解できる人が出てきたらしく、家を突然出て行ってしまったんですね。その時に、私は泣いて泣いて、そして十日間酒を浴びるように飲んで、そして彼女の名前を呼んで、そして泣き暮らしました。そうしているうちに、山谷の人たちの噂が変わってきたんですよ。「社長」ってみんな呼ぶんですけども、「社長の奥さんが男つくって逃げたらしい」みたいなことを言われて、これ一種のスキャンダルになったわけですね。スキャンダルなんだけれども、でも山谷のおじさんたちって、みんなそういうような経験を過去にしているわけですよね。僕にとって山谷のおじさんたちは、ともすれば二人称、あるいは場合によっては三人称―「あの人たち」みたいなね。
 
浅井:  自分とは少し距離があるということ?
 
山本:  として、映っていたというふしがなくはないんです。だけれども、「あそこの社長が、奥さん大変なことになって、今ひとりぽっちだって」という話がズーッと伝わっていくと、山谷のおじさんたち、僕のところへ寄って来てさ、夕方一人でご飯作るその買い物に出掛ける途中で、「山本さん、ファイト!」とかね、それから「頑張りましょう!頑張って生きていきましょう!」とかっていうふうな、そんな言葉をほんとによく受けるようになっちゃったの。
 
浅井:  ただ同じ体験をしなければ近づけないということであると、なかなか大変だなというか、限界があるような気もするんですけれども。
 
山本:  そうですよね。だから「体験主義」って言いますかね、そういうものにはやっぱり限界があると思いますよね。子どもを亡くした人にとっての悲しみというものは、自分の子どもを亡くさなければ理解できないのか、ということになってしまうし、今回の東北の大震災においても、津波に遭った人の苦しみは、自分が津波に遭わないと理解できないのか、ということになってしまったら、これはどうどう巡りですよね。いつまでたってもその人の理解を自分の中に取り組むことができない、ということになってしまうんですけれども、そうではなくて、やはり「共感性」という贈り物、これは多分は私たちの遺伝子の中に組み込まれた神様からの大きな贈り物だと思うんです。「共感性」という贈り物を与えられている。そうだということに気付いた時に、自分はその人の悲しみに同化させて一緒に泣くことができるんです。そこに僕たちは、言葉として「一・五人称」という言葉に入れ込んでいくわけです。
 
浅井:  「一・五人称」というのは?
 
山本:  どういうことかと言ったら、「僕とあなた」というのは、やっぱり他人ですよね。そこにやっぱり感受性が強くて、その人と一致するようなところが強くなってきた時に、例えば男女の間であれば、結婚しましょう、ということになるかも知れない。友情の持っている人同士だったならば、そこに強固な友としての感情が生涯通じて結ばれるかも知れない。そのようにして人間が結ばれていく中に、私とあなたとの間のその一・五という地点に私たちは立つということが可能になっていくのではないか。だから、「あなた」というのを見ている時は、やっぱりあなたでしか過ぎないんですよ。「あなたが死ぬのは悲しい」とかという、例えば「堪えられない」と言った時に、例えばこんな言葉を言ったとしましょう。「できることなら、代わってやりたかった」とかね、そんな言葉が出てきた時に、その人は既に一・五の地点に立っているんですよね。だから僕は、一人称・二人称・三人称というものがあるとすれば、「一・五」というところに人類が一致していく、ほんとに一致していくためのキーワードがあるんじゃないかなというふうに思いますね。僕は、できれば自分の苦しみを持って、その二人称から一・五人称になって、そして山谷の人たちと同じ気持ちになって、自分に与えられた共感性という、そういうものを駆使しながら、彼らの悲しみに一致していって、そしてこの一生を使い切ることができればというふうに思っています。ただ四十坪のホスピスから始まった自分の営み、そして一・五人ということを考えに至ったというような、私とあなたとの間にある、もう一人の自分という考え方から、だんだんスタートしていって、「貰え泣き」という言葉がよくありますけども、やっぱり一緒に泣いてしまう。それからその人がやってしまったおかしな喜劇のようなお話を聞いて、一緒に腹を抱えて笑うということもあるんですけども、そういうことを経験すること自体が、我々の大きな一つの情緒の広がりをもった集合意識的な存在に広がりをもっていくと言いますか、
 
浅井:  一つの人間であるような、
 
山本:  全体として一つの人間であるような、そういう感性というものをもっていくというようなことが凄く大事で、やっぱり「きぼうのいえ」は「きぼうのいえ丸」という一つの大きな船であり、そこに住んでいる人たちは他人でもなく、我々が大きな集合の意識の集まりとして「きぼうのいえ丸」というのに繋がっていく。そして「ホスピス」という言葉が持つもの、それはどういうことかというと、人間という―ヒューマンですね―ヒューマンが生と死の橋を渡るというもっとも聖なるタイミングですよね。そこを渡るというところにおいて神仏との関わりというものを含んでくる。そこに私は、だんだんに広がっていく聖地のイメージと言いますか、そういうものを持つわけですね。広がったところで、私たちは最終的に神・仏、そういうものに出会うかも知れないという、私は思っておりますね。
 
浅井:  どうもありがとうございました。
 
     これは、平成二十六年八月二十四日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」で放送されたものである