信じるということ
 
                    上智大学教授 雨 宮(あめみや)  慧(さとし)
一九四三年、東京都生まれ。上智大学卒業。同大哲学修士終了。バチカン市国教皇庁聖書研究所聖書学修士修了。日本カトリック神学会所属。カトリック東京教区司祭。真生会館聖書センター編集責任者。専門分野は聖書学。著書は「旧約聖書を読み解く」「正・続旧約聖書のこころ」「聖書に聞く」ほか。
                    き き て  大 福  由 喜
 
ナレーター: 今日は、「信じるということ」と題して、上智大学教授の雨宮慧さんにお話を伺います。雨宮さんは、一九四三年東京に生まれました。カトリック司祭としての活動と共に、長年にわたり、旧約、新約聖書の研究をしてこられました。もともとヘブライ語、ギリシャ語で書かれていた聖書を、原語の意味を一つずつ掘り下げ、聖書に語られている人間の姿を深く読み解いていらっしゃいます。今回は、キリスト教でもっとも重要とされる復活祭の季節を迎え、「信じること」をテーマとして、雨宮さん自身がどのように信仰の道を歩まれてきたのか。キリスト教において、信じるとはどういうことか。お話を伺いました。聞き手は大福由喜(おおふくゆき)ディレクターです。
 

 
大福:  どうぞよろしくお願いします。キリスト教では最も大事な日とされる、イエスが甦った日とされる日ですけれども、最初に率直な質問としてなんですけれども、雨宮さんは、その復活というものを信じていらっしゃいますか?
 
雨宮:  はい。「信じている」と言っていいと思うんですね。ただしそうでなければ困るとか、そうであってほしい、という意味での信じるということだと思います。聖書を読んでいますと、いろいろな箇所に復活のことが書かれているわけですけれども、事実がどうであったのか、というのはよくわからないということだと思います。しかしイエスが甦って、神さまの支配が死の世界にまで及んだ、ということを強く述べていることは確かですから、そうであってほしい、というふうに考えます。
 
大福:  今お話頂いたことも含めまして、今日は、「信じるということ」について伺ってまいりたいと思うんですが、先ずはキリスト教という宗教に出会うまでのことをちょっとお聞きしていきたいと思っておりまして、宗教という生きるあり方のことだとするならば、雨宮さんにとってはいつ頃から生きることについてお考えになり始めたんでしょうか?
 
雨宮:  そうですね。私の家には神棚もなければ、仏壇もありませんでした。私の父親はまったく無宗教で、そういう中で育っていますからね、信仰なんていうのはまったくわからなかったですね。わからない、というよりも、そういうものがある、ということも理解できないと言いますかね、中学生の終わり頃から何故生きているのかな、ということを考えるようになった、ということがあると思います。
 
大福:  思春期の問いと言いますか、自分というもののあり方に?
 
雨宮:  そうでしょうね。何をしたらいいんだろうとか、そういうことと関係していったかなと思います。その頃阿部次郎(哲学者、評論家。朝日新聞の夏目漱石主宰による〈朝日文芸欄〉などにも執筆し、安倍能成らとの合著《影と声》につづき、内的生活の記録である《三太郎の日記》によって読者に広く迎えられた:1883‐1959)の『三太郎の日記』とか、そういったものを読むようになりました。人生をどう生きたらいいのか。そういう問いに真っ正面から取り組もうとしている本だと思いますね。何か惹かれるものがあったんでしょうね。それは真剣さみたいなものなんでしょうかね。
 
大福:  本をこう読み進んでいく中で、もともとの問いというものは何か深めていきたいという思いにはなられたんですか?
 
雨宮:  ありましたね。ですから大学を選ぶ時に、哲学を勉強しようと思いましたですね。哲学を勉強すると、きっともう少しハッキリしてくるんだろうなあと思いました。キリスト教の大学に入ったわけですけれども、神様にはまったく興味はなかったですね。ただホイヴェルス(ヘルマン・ホイヴェルス神父。イエズス会所属のドイツ人宣教師、哲学者、教育者、作家、劇作家。1923年に来日し、1937年から1940年まで第2代上智大学学長を務めた:1890-1977)という神父さんなんですけれども、ドイツの方なんですが、必修の授業でして、取らざるを得なかったんですけれども、神父さんにお目に掛かって―真ん中に大きな柱のある教室、私もその一人だったんですが、教室の柱の裏側に隠れるようにこう座っていたわけです。神父さんが入って来られて、「向こう側の方、光は曲がりません。もう少しこちらに出てください」とおっしゃったんですよね。面白いことをいう人だなと思って。もう一つは、何故この人はこんなに眼が綺麗なんだろうという、そのことが印象に残りましたですね。そして三年生ぐらいになっていたんだと思いますが、ホイヴェルスさんのところに行って、いろんな話を聞くようになったんですね。まだ聖書の話はほとんど興味はなくて、信仰なんていうことは、その当時私にはまったくわからなかったんじゃないでしょうかね。理詰めで考えるみたいなところに興味があったんでしょうね。神父さんのお話そのものは、決して理詰めというよりは、直感的に鋭くパッと述べるようなお話なんですけれどもね。哲学者についてほんとに簡単にお話になった。そのお話が面白かったですね。非常に印象的だったのは、「神さまはイエス・キリストを送ってくださる前に、ソクラテスを送ってくださいました」というようなお話なんですよ。ちょっとわかりにくいかと思うんですが、多分ソクラテスと言えば、まあ理性を用いてこう考えるというタイプなわけですよね。イエス・キリストというのは、神から物事を考えていく発想なんでしょうかね。だから哲学の必要性みたいなことを、そのようにおっしゃったんじゃないんでしょうかね。でももう一つには、哲学では答えはありませんよ、ということも言おうとしているのかなと思いますけれどもね。
 
大福:  その哲学を志しておられた雨宮青年としては、どうだったんでしょう?
 
雨宮:  そうですね。その頃そんなに考えていたわけではないんですけれどもね。ただ哲学を勉強しても、それなりに詰め将棋のような面白さをあったんですけれども、タマネギの皮を?くみたいなもんで、どんどん?いていくと何もなくなっちゃいますよね。そういう感じが何か哲学にはありましたね。だから人間が理性を使っていろいろ考えていっても、究極のところまでは行き着かない、と言った方がいいでしょうかね、ということがあるような気がします。それで私は哲学をやれば何故生きるのか、というのがわかったんだけども、これどうなっているんだろうと思っていましたね。
 
大福:  そうしますと、ホイヴェルス神父さんとの出会いというのは、先ず信仰というものに出会う?
 
雨宮:  第一歩だったんでしょうね。ホイヴェルス神父さんからは、何と言ったらいいのかな、私にとっては実に柔らかく信仰を教えてくださったような気が致しますよね。ですから今でも覚えている言葉の一つなんですが、「雀がサッと電線に止まります。何と不思議なことでしょう」とおっしゃったんですね。勿論私まだ洗礼なんて受けていませんでしたから、「いやぁ、あれは別に不思議じゃない。自然現象だろう」と思っていましたけれども、でも覚えているわけですから、何か残ったんでしょうね。
 
大福:  今、思え返してみた時に、その言葉の意味というのはどういうふうに?
 
雨宮:  そうですね。例えば神学校で生活している時に、教会の手伝いとか何かで、夕食の時間に遅れてしまうわけですよね。そうすると、保温器の中に食事が置かれているわけです。保温器から取り出して大きな食堂で一人こう食べるわけですよね。食べる物そのものは同じわけですよね。おかずも何から何まで。しかしみんなと一緒に食べる時とは、確かに味が違うんですよね。あるいはこう言ってもいいかも知れませんね。恋人からプレゼントされた万年筆と自分で買った万年筆、まったく同じ万年筆だとしますよね。だけれども恋人から貰った万年筆の方が遙かに大事に思えるだろうと思うんですよね。そういう感覚というのは、人間の中にあると思うんですよね。だから雀がサッと電線に止まってしまうからくりを、解き明かしてしまうことのできる日がきっと来るだろうと思うんですよ。それ自然現象として見ても全然かまわないわけですけれども、しかしそこに何かある不思議な力が働いている、ということを見た方が面白くなって、と言いますかね、豊かになる、と言ってもいいかも知れませんね。そういうことがあるような気がするんですよ。それが信仰の世界なんじゃないでしょうかね。
 
大福:  それはほんとに論理的に解き明かそうと思っていた答えとは全然違うものに出会われたという。
 
雨宮:  そういうことだと思いますね。いつから信仰が始まったかというのは、凄く難しいような気がするんですよ、私の場合特に。ここから信仰が始まったというようなことはなかなか言えないような気がして、徐々にそういうように考えるようになった、ということだと思うんですけれども。人生生きている限り、何かいろいろな問題にぶつかりますよね。思わん出来事にぶつかったりもしますよね。しかもそれは例えばアブラハム(イスラエル民族の始祖。前二千年頃の人。その人格は信仰の厚いイスラエル人の典型とされ、パウロは、信仰によって義をされるものの模範としている)の信仰の模範として語られることの多いアブラハムの歩みを見ても、貧しい時は貧しいなりに、豊かな時に豊なりに必ず問題にぶつかっているわけですよね。問題にぶつかった時に、自分の惨めさというか、みすぼらしさのようなものを示してしまうこともあるわけですよね。だから多分人間にとって最も大事な問題は、「何において自分自身を確かにさせるか」という問題だと思うんですよね。「信じる」と訳すんですけれども、旧約聖書の方で「信じる」言葉の語根を見ていくと、「確かである」という言葉からきている言葉なんですね。その動詞形から考えて、多分意味は、「自分自身を確かにさせる」という意味だと思います。それが「信じる」と訳されるわけなんですけれども。英語でも、「believe」という言葉の後に、「in」を付ける場合がありますよね―「in」がない場合もありますけれども。ヘブライ語でも、「in」に当たる前置詞が続くわけです。だから例えば「創世記」の十五章の六節になりますかね、「アブラムは主を信じた」という表現があるんですけれども、それを直訳すると「アブラムは主の中で自分自身を確かにさせた」ということになると思います。つまり生きて限りさまざまな困難、問題、課題にぶつかっていくわけですから、「何において自分自身を確かにさせるか」ということが、最も大事な問題ということになるんだと思うんです。富において、あるいは社会的な評価において、自分自身を確かにさせる、という生き方もあると思うんですよね。しかし富にしても、社会的な評価にしても、必ず自分を確かにさせるものとは言えない場合だってあり得ますよね。だからつまり富を信じているに過ぎないわけです。過ぎない、というのは、ちょっと言葉が悪かも知れないんですが。だから「人間は、実は何かを信じて生きている」ということなんだと思います。アブラムが選んだのは、主の言葉であった、ということなんだと思います。それが自分自身を確かにさせること、ということだと思います。
 
大福:  では、「信じる」ということについて、聖書にはどのように書かれているんでしょうか?
 
雨宮:  そうですね。自分の力を信じる、と言いますかね、考えていることの危険性と言いますかね、その話として、やっぱりペトロの裏切りの話があるかなと思います。先ずイエスが最後の晩餐を終わって、ゲツセマネの園に向かう途中、突然こんなことを語り掛けるんですね。その部分から読んでみたいと思うんですが、
 
そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。
『わたしは羊飼いを打つ。
すると、羊の群れは散ってしまう』
と書いてあるからだ。しかし、わたしは復活した後(のち)、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」するとペトロが、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と言った。イエスは言われた。「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」ペトロは、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言った。弟子たちも皆、同じように言った。
(「マタイによる福音書」二十六章三一節〜三五節)
 
と書かれています。先ずイエスの言葉なんですが、「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。」つまり「裏切る」ということですよね。それを説明するために、旧約聖書を引用致しました。「わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう」と書いてあるからだ。この旧約引用の「わたし」を、イエスは「神」と捉えたんでしょうね。そして「羊飼いを自分自身」と考えたんでしょうね。「神がイエスを打つ。すると羊の群れ、弟子たちは散ってしまう」と書いてあるからだ。」というふうに書かれています。ですからイエスは、弟子たちがつまずく、ということに気付いたとき、旧約聖書の言葉の成就だ、と説明したわけです。しかしこのペトロたちは、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と言い、イエスが、「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」と述べたのに、ペトロは、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と豪語したわけです。この時点でペトロは確かにこう考えていた、ということでしょうね。しかしご存じ通りに、ペトロは三度にわたって「イエスを知らない」というふうに言ったわけです。そして鶏が鳴くわけですよね。その場面を今読んでみたいと思いますけれども、
 
そのとき、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が鳴いた。ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。
(「マタイによる福音書」二十六章七四節)
 
と書いてあります。つまりペトロは、この実際に裏切る前、絶対に裏切ることなどとはあり得ない。いのちをかけてそれを言う、と考えたわけですけれども、しかし実際には三度にわたって「知らない」と言ったわけです。そうすると、鶏が鳴いたわけですよね。そしてイエスの言葉を思い出した。そして外に出て激しく泣いた。この「泣いた」という表現なんですけれども、ペトロの涙は後悔の涙なのだろうか、ということなんです。勿論後悔の可能性もあるわけなんですけれども、しかし先ほど読んだゲツセマネの園に向かう途中、イエスが語った言葉を、もう一度読みますと、
 
「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。
『わたしは羊飼いを打つ。
すると、羊の群れは散ってしまう』
と書いてあるからだ。
(「マタイによる福音書」二十六章三一節)
 
その後に、イエスはこう加えているんです。
 
しかし、わたしは復活した後(のち)、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」
(「マタイによる福音書」二十六章三二節)
 
と述べています。二番目のイエスの言葉の中に、「あなたがたより先に」という言葉があります。この言葉は、「あなたがたより先に行って、お前たちを待っているぞ」という意味でなければ加える必要がありませんよね。意味がないと言っていいですよね。そうすると、ペトロは、鶏が鳴いた後、思い出した言葉とは、「お前は裏切る」というイエスの言葉ではなくて、裏切られると知っているんだけれども、自分からは関わりを絶とうとせず、「先に行って待っているぞ」と言ったイエスの言葉に初めて気付いた、ということなのではないのか。つまり裏切られても捨てることのできないイエスの愛に気付いて涙が出た、ということであれば、この涙は後悔の涙というよりは、慰めの涙と言ってもよいかも知れないと思います。つまりイエスの愛に、この時点で初めて気付いたんだ、ということですね。多分人間は、ペトロと同じように、自分は裏切らない、とこう強く考えるわけですけれども、実際にはとても弱くて、裏切ってしまう、ということはしばしばあるわけです。その時に裏切られても捨てることのできない愛に目が向くことがあれば、後悔では終わらずに、慰めを受けた、ということになるだろう、ということなわけですね。多分このイエスの死の意味ということは、そこにあるのかな、と思います。裏切られても捨てることのできない愛の象徴ということになるのではないかと思います。
 
大福:  つまり人間が疑ってしまったり、裏切ってしまったりという心の働きすら受け止めて、
 
雨宮:  そうですね。この前退位なさったベネディクト十六世ですね。まだ学者として教えておられた頃に書かれた本なんですけれども、『キリスト教入門』という本です。その中で、「信仰とは賭である。冒険である」ということを書かれていますよね。「賭」と言うんですから、完全な保証があるわけではないですよね。だけれども「信じる」ということを選ぶということなんだと思うんですよね。だからそれは信じて歩いてみないことには、どうにもならん、ということではないかなと思いますけれどもね。「信じる」ということが、選び、賭ということなわけですから、そこに不安とか疑いとかが、なにがしか残って当たり前だと思うんですよね。それをそのまま受け入れていくことが凄く大事なような気がします。ですから聖書の話でお話しますと、「疑う」と訳している言葉に、実は二つのギリシャ語がありまして、一つは、「ディスタゾー」という動詞なんですね。これは「疑う」と訳されています。もう一つは、「ディアクリノー(=区別する、識別する)」という動詞でして、「ディスタゾー」と同じに訳してしまうので、違いがわかりにくいんですけれども、「ディスタゾー」というのは、「二つに分かれる。心が二つに分かれる」というような意味合いなのかなと思います。その場合には、「二つに分かれた」ということですから、「信じる」部分と「疑う」部分が残る、ということでしょうね。しかし「ディアクリノー」の方なんですけれども、この言葉の場合には、信仰の全否定なんです。何でも疑うということなんですよね。この「ディスタゾー」二つに分かれる、つまり信じるという心も確かにあるんだけれども、「疑う」ということがあっても問題にならない、と書かれている部分が二カ所ある、と言っていいと思うんです。その一カ所の方だけお話をするんですけど、「マタイ福音書」その最後なんです。だからイエスが復活した後ということになりますけれども、
 
さて、十一人の弟子たちはガリラヤ行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。
(「マタイによる福音書」二十八章十六、十七節)
 
ここで「疑う者」と訳している言葉が、「ディスタゾー」という言葉です。「ひれ伏した。しかし、疑う者もいた」と書いてありますから、十一人全員ではないんでしょうけれども、「ひれ伏す」ですから「信じる」と言っていいでしょうね。信じる心もあるんですけれども、疑いもある、という状態が書かれている、と言っていいですよね。しかしその後ですね、「イエスは何故お前たちは疑っているのか」とか、「疑いを晴らせ」というようなことを述べずに、すぐに宣教命令を出しているんですね。「疑う者もいた」と書いた後、次のように続いています。
 
イエスは近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らは父と子と聖霊(せいれい)の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
(「マタイによる福音書」二十八章十八、十九節)
 
この言葉でマタイ福音書は終わっているんですね。ですからこう言っていいでしょうね。疑う者もいたのに、そしてイエスはその事実を多分知っていたと考えていいんだと思うんですが、そのものをも宣教に出しているわけですよね。何故そうなるのか、と考えてみると、宣教というのは、他人に述べ伝えるだけでなくて、実は自分にも述べ伝えているんだ。宣教活動の中で、今までの疑いが、徐々に、ということでしょうけれども、晴れていく、ということがあるんだ、ということではないかと思うんですね。疑いが少しずつ晴れていくために必要なことというのは何かというと、「天と地の一切の権能を授かっているイエスが、いつも共にいる、ということに目を向けていること、これさえあれば必ず疑いが徐々に晴れていくんだ、ということなんではないかと思います。私自分のことを考えて、「ひれ伏した。しかし疑う者もいた」―私のことだ、と思いますね。そう言わざるを得ないような気が致しますよね。疑いがゼロというのは、天国に行かない限りあり得ないんじゃないかな、ということを考えますけどね。だから疑いがあっていい、という言い方はちょっときつすぎるかも知れないんですけれども、疑いがあって自然だ、ということではないかと思います。無理して疑いをなくそうとしないことが第一のような気が致します。多分イエスが一番嫌っているのは、自分の力で救いを手にしようとする生き方なんだと思います。聖書の発想の仕方は、「頑張るな。自然のままに」ということではないかと思います。「自然のまま」といっても、「そのままべったり」という意味ではなくて、先にも申し上げたように、イエスが共にいる、ということを知っているもものの自然のまま、ということなんだと思います。そこに信仰がある、ということだと思います。
 
大福:  それは信じること、そのものというのは、そういうことだという。
 
雨宮:  そういうことでしょうね。
 
大福:  ありがとうございました。
 
     これは、平成二十六年三月三十日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」で放送されたものである