日本仏教総合研究学会前会長。著書に「勧進と破戒の中世史」「中世律宗と死の文化」「鎌倉新仏教の誕生」ほか。
                  き き て  成 田  由 美
 
ナレーター:  今日は、「葬式仏教≠見直す」と題して、山形大学教授の松尾剛次さんにお話頂きます。松尾さんは、宗教史がご専門で、鎌倉時代の仏教の研究を進める中で、民衆救済のために活動した奈良西大寺の叡尊(えいぞん)(鎌倉時代中期の真言律宗の僧。謚号は興正菩薩(こうしようぼさつ)。戒律を復興し、奈良西大寺を復興した僧として知られる:1201-1290)、鎌倉極楽寺の忍性(にんしよう)(鎌倉時代の律宗(真言律宗)の僧:1217-1303)等の教団に注目するようになります。叡尊等の教団が行った活動の一つが、死者を送る葬儀でした。実はそれまで僧侶が葬式を執り行うのは一般的ではありませんでした。六世紀に日本に伝わった仏教は、鎮護(ちんご)国家の教えとなりました。僧侶たちは鎮護国家(天下泰平・玉体〈天皇〉安穏)の祈祷を行い、そのために穢れに触れることを避けなければなりませんでした。穢れの最たるものである死を避けるために、僧侶が葬儀に関わることはなかったのです。その一方で、平安末期から鎌倉時代にかけて、相次ぐ戦乱や天災のために、多くの人が亡くなり、弔いを行ってほしいという人々の願いも強くなっていきます。人々のために当時のタブーを破り、葬儀を執り行った律宗、禅宗、浄土宗などの僧侶たちについてお話頂きます。聞き手は成田由美ディレクターです。
 

 
成田:  今日は、山形大学教授の松尾剛次さんにお越し頂いてお話を伺います。よろしくお願い致します。今日は、「葬式仏教」ということをテーマにお話を伺いたいと思うんですが、「葬式仏教」というのは、今使われている言葉としては、そんなに良いイメージの言葉ではないんですけれども、敢えて「葬式仏教について」ということで、お話をされるというのは、どういう意味があるんでしょう?
 
松尾:  「葬式仏教」という言葉は、高い葬儀料や戒名料(かいみようりよう)などに頼り、人々の救済願望に応えていない日本の僧侶に対する批判、あるいは揶揄(やゆ)の言葉として使われてきました。いわば葬式仏法化した日本仏教は、仏教の堕落した姿と考えられていたのです。しかし一方で、東日本大震災をきっかけにして、葬式―葬ることの重要性が見直されているわけであります。歴史的にみますと、葬式仏教の誕生は、日本の仏教にとって革新的なことであったと、そういうことを今日はお話したいと考えています。
 
成田:  「葬式仏教は革新的であった」というのは、どういうことなんでしょうか?
 
松尾:  現在は、僧侶と言いますと、葬式に従事する者と思われていますけれども、僧侶は、葬儀に従事するということは、実は平安末期、鎌倉時代の初期に始まり、いわゆる鎌倉仏教者によって葬式仏教が成立するわけであります。「南都六宗(なんとろくしゆう)」(法相宗(ほつそうしゆう)?倶舎宗(くしやしゆう)?三論宗(さんろんしゆう)・成実宗(じようじつしゆう)・華厳宗(けごんしゆう)?律宗(りつしゆう))とか「平安二宗(へいあんにしゆう)」(天台宗・真言宗)と言われる旧仏教ですね。奈良・平安時代の仏教の基本的な担い手たちというのは、実は官僚僧(かんりようそう)―官僧(かんそう)であったわけです。彼らは、天皇から出家を許可され、俗人の官位、官職に当たる僧位・僧官を授与されるような僧侶たちでありました。官僧は、衣食住の保証などの特権がある一方で、活動上の制約があって、とりわけ国家祭祀(さいし)従事のために穢れを避けるという義務がありました。その穢れの最たるものが死体から生ずる死穢(しえ)というもので、死体に触れ、死体に同座(どうざ)することによって、死穢に触れると考えられてきました。死穢に触れますと、三十日間の法要などに参加出来ず、精進潔斎(しようじんけつさい)して家に籠もる義務が生じたわけです。で、それはどうしてかというと、死穢は伝染すると考えられたからです。それ故に官僧たちは、原則的に葬式には従事しなかったというわけであります。即ち葬式仏教などでは決してなかった。勿論十世紀以後には、天皇や貴族の葬儀などの僧侶たちが関与するようになったわけですけれども、それは例外的であったわけです。じゃ庶民はどうであったかと言いますと、庶民は葬地―町や村の外れに連れて行かれて、そこでお棺に入れたままで、あるいは土に埋められてほっとかれる。あるいは河原(かわら)に捨てられるというような、そういう風葬(ふうそう)とか遺棄葬(いきそう)と言われる葬送の仕方ですけど、そういうのが一般的であったわけです。しかし源平の争乱や、あるいは天災、飢饉などが相次ぐ中で、僧侶によってきちんと弔って貰いたいという、そういう需要が高まってきました。そのことは平安末、鎌倉期には、その葬送を望む庶民と、それに応えるために、先ほどいった死穢のタブーを犯す僧侶の話が、説話集にたくさん見られるようになります。例えば鴨長明の編著と言われる『発心集(ほつしんしゆう)』それは一二一六年以前の成立と考えられていますけれども、「ある僧侶が日吉(ひえ)神社に百日参拝の願を掛けたが、八十余日目の参拝の帰り道で、亡くなった母親の葬送ができずに泣いている独り身の女性に出会った。あわれに思って葬送してやった後で、次の日の暁に穢れを憚(はばか)りつつ日吉神社を参拝したところ、日吉神が現れて僧の慈悲をほめて、参拝を認めた」と、そういうような話が書いてあります。即ち葬式を望む人の存在と、慈悲のために穢れを憚らずに葬式を行う僧侶。言い換えれば、慈悲のために穢れ忌避(きひ)のタブーを敢えて犯す僧侶の出現がわかるわけであります。こうした話は、『八幡愚童訓(はちまんぐどうくん)』これは鎌倉時代の後期に成立したものですし、『沙石集(しやせきしゆう)』これは一二八三年に成立したものなんですけど、そういった説話集にも見えるわけであります。もう一例挙げておきますけど、例えば『八幡愚童訓』の下巻の第三話では、
 
最近、京都から仲蓮房(ちゆうれんぼう)という僧が、当宮(石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう))に参詣した。その際、鳥羽(とば)の小家(小さな家)の前で、若い女人が激しく泣きながら立っていた。その様子には、悲しみの様があまりに見えたので、仲蓮房は、そばに立ち寄って「何事を嘆いておられるのですか」と尋ねた。女性は、「私の母が、今朝亡くなったが、この身は女人で、独り身なので葬送の地に送る力もない。少しの財貨もないので他人に依頼するすべもない。どうしようもないので、家を出て来たばかりである」と答えた。誠に心中かわいそうに思えて、「私にまかせなさい、葬送の地に運んで葬儀をしてあげましょう」と言って、家の中へ入って母親の死体を背に負うて、葬地へ運び葬儀を行った。この女人の喜ぶことは、尋常ではなかった。
そこで、仲蓮房が思うに、慈悲の心を持って、はからずも穢れに触れてしまったことは神慮(しんりよ)恐れ有ることだ。だからといって、今月の社参を欠くのも無念である。どのようにすべきか案じていたが、とにかく恐れつつ参詣し、内廊はやはり憚りがあると思って、外廊に通夜した際に、夢に宝殿の中から、黒衣の僧がお出になられて、籬(まがき)のもとへ召し寄せて、「あの女人は余りに嘆いていたので、かえすがえすも神妙に死体を運んで葬送を行った。私もあそこにいたのだ」と示された。誠にこうした不浄はどうして御忌むべきであろうか。人を哀れむことは是清浄の心であり、汚穢の恐れはないのだ。
 
と書いてあります。要するに身寄りのない貧しい女性が、母親の葬儀をできずに困っていると、石清水八幡宮に参詣する途中であった僧侶が、葬儀をしてやり、神慮を憚りつつ八幡宮に参詣すると、慈悲を尊ぶ八幡神が賞賛し、穢れなきものにするという話です。これは母親の葬送などができない女性と、その希望に応える僧侶の話であります。とりわけ石清水八幡宮の神が、「人を哀れむことは是清浄の心であり、汚穢の恐れはない」という論理を主張している点は特に注目されます。『沙石集』巻一第四話では、大和三輪(やまとみわ)の常観坊(じようかんぼう)という上人の話を載せています。
 
上人は慈悲深い人であった。密教を専門としていた。ある時、ただ一人で吉野に参詣しようとしたところ、道のそばで幼い子供三人が泣いていた。事情を聞くと、一二、三歳くらいの女の子が、母親が病気で死に、父親も遠くに行って居ないので、悲しくて泣いているのだと言った。上人は、哀れに思って、母親の死体を都合の良い野辺(のべ)に運んで、さっそく弔った。そのあとで、三輪に帰ろうとしたが、体がこわばって動かない。そこで、「禁忌(きんき)の厳しい吉野参詣の途中で、死穢に触れた神罰であろう」と、大いに驚きながらも、試しに吉野に向かおうとすると体はすぐに動いた。そこで、吉野神の意志は参詣せよ、というのであろうと考え参詣したが、別の煩いはなかった。しかし死穢に触れた身を憚って、遙か遠くの木の下で、念誦し、法施(ほうせ)を施した。ところが、ちょうど神楽(かぐら)を舞っていた巫女(ふじよ)(神の使い)が、近づいて来て、「この程、あなたを待っていたのに、どうして遅いのですか。私は死穢を忌まず、慈悲をこそ貴ぶのです」と述べて、上人の袖を引いて、拝殿にまで連れていった。上人は忝(かたじけ)なく、貴く覚え、感激のあまりに、黒染(すみぞ)めのそでを濡らすほどであった。
 
と、こうした話にも葬式を望む人々の存在と、慈悲のために穢れを憚らず、葬式を行う僧侶の存在、言い換えれば慈悲のために穢れ、禁忌のタブーを敢えて犯す僧侶の出現がわかります。実にそうした願いに応え、組織として葬送に従事し、教団を形成したのが、鎌倉仏教の僧たちであった。後で述べますけど、遁世僧(とんせいそう)たちの教団であったわけです。
 
成田:  お坊さんは、神社にお詣りするというのがきっかけで、家族を失って悲しむ庶民に出会い、そしてその死穢を憚りながらも葬儀の儀式を行う。そうすると、神の使いが現れて、その死穢はないというふうに、いろいろな形でメッセージを送ってくる。そのようなたくさんの説話が伝えられたというのは、実際にこの通りの出来事ではなくて、そういうお願いしますということがあったかも知れないというふうに、可能性ですけども考えられるでしょうか?
 
松尾:  この時代になってきますと、たくさんそういうことをやるお坊さんたちが出てきたわけです。当初は多分散発的と言いましょうか、組織的なものではなくて、パラパラとそういう人たちが出てきたわけです。鎌倉時代(1180-1333)になってきますと、特に法然という人を嚆矢(こうし)として、浄土宗とか、あるいは禅宗、あるいは律宗などですね、教団が成立してきます。つまりそうした教団は、組織として、そういうようなものも行うようになるんですけども、注目すべきことは、彼らが官僧ではなかったということです。遁世僧というふうに呼ばれる僧侶たちであったということですね。つまり官僧たちは、原則的に穢れ禁忌という、そういう義務を負っていたわけですから、組織と言いますか、制度として、そういうことをやることは難しかった。ところが官僧を辞めた人たち、あるいは官僧でない―私僧(しそう)と言った方がいいんでしょうかね―そういう私僧である遁世僧と呼ばれた人たちは、そうした官僧の制約から自由となったわけですね。ですから仏教をバックボーンとして、庶民―正確には私は個人だと考えているんですけども―貴族にも救済活動の手を述べますので、そういう個人救済活動を行っていきます。この遁世僧たちが、葬送に主体的に組織として従事し、葬送に関わるシステムを樹立していくと。彼らによって、まさに現在の石造りの墓みたいな、そういう石造墓などがたくさん生み出されていくわけであります。従来この仏教史と言いますと、祖師たちの思想が注目されがちでありますけども、私はその官僧がどのような夢とか理想を語ったかというよりも、実際にどういう救済活動をしたかに注目をしています。従来はほとんど注目されてこなかった奈良の西大寺の叡尊とか、鎌倉極楽寺の忍性等を中核とする教団に注目しているわけですが、彼らはブッダが定めたという規則である戒律を重視し、人々に戒律護持を勧めたので、律宗―真言密教も遵守しましたので、真言律宗と呼ばれましたけども、そういう教団を打ち立ててきました。叡尊らの教団は、十万を超える信者を有し、当時禅宗と共に日本を代表する教団だったわけです。そうした彼らも遁世僧であったわけですけども、彼らは一番穢れた存在とされた癩病(らいびよう)患者(ハンセン病患者)―当時は非人と言いました。人にして人に非ざる存在として厳しい差別をされていた癩病(らいびよう)患者の救済、そういうものも積極的に組織として行ってきます。それが朝廷や幕府の支持を受けて、そのために支持を受けて巨大な教団化していたわけですけどね。浄土宗や禅宗、律宗などの教団が、組織としてやっていくわけですけども、それぞれ死穢というものを乗り越える論理を生み出し、葬儀や法施を行ってきます。例えば律宗の場合は、「清浄の戒は汚染なし」という論理を出すわけですね。即ち私たちは、常日頃厳しい戒律を守っている、だから穢れることはないんだと。あるいは浄土宗の場合は、「南無阿弥陀仏」を唱えれば、すべての人が極楽に往生できると言ったわけですけども、「往生人に穢れ無し」と言うんですね。ですから死体を前にしても、往生した人は穢れがないんだ。そういう論理を持って葬儀を行っていく。ですからまさに仏の救いを、すべての人にもたらそうとする大乗仏教の大事な仕事として、葬式仏教が誕生した。だからこそ、そういう意味で、革命的な、革新的なことであったと、私は考えているんですね。
 
成田:  つまり人々が、葬儀というものを単なる儀式ではなくて、とても大事なこととして求めている時代だったということですよね。それに応えたと。時代はずっと下りまして、東日本大震災の時に弔いの意味というのがやはり見直されたんではないかと思うんですけども。
 
松尾:  先ほどの東日本大震災によって、二万を超える人々が亡くなったわけですけども、二○一一年の十一月十九日のニュースによりますと、「気仙沼(けせんぬま)市内の仮の埋葬―土葬して最後まで残っていた三人の遺体が火葬された。これで宮城県内の仮に土葬されていた遺体は無くなった」ということが書いてあったんですけども、東日本大震災では、多数の死者が出たために、火葬が追いつかなくて、鄭重な葬儀もしないで、仮の埋葬が行われたと。この仮の土葬を巡っては、できるだけ早く火葬し、きちんとした葬儀を望む遺族との間でいざこざが起こったことで、日本において正式な葬送として、火葬というものが如何に一般化しているか、こう思い知らされたものでありますけれども、また被災地では、津波によって貴重な人命のみならず、仏壇、位牌、墓、寺院までも無くして、死者のみならず、先祖の弔いや供養を如何に行ったらよいかというのが、問題となった時期すらもあります。新聞報道の記事によりますと、「東北地域で檀家の多い寺院では、仏画を貼った厚紙を木製の台座に立てて、簡易型の仏壇を檀信徒に配った」と、こう伝えています。「また仏画を印刷した名刺大のお守りカードも、地元の寺院を通じて配った」と言っています。即ちそれによって、祈りたくても、仏壇とか位牌がないという、その信者の願いに応えようとしたわけですね。特に注意を引いたのは、宮城県で結成された「心の相談室」の記事ですけれども、室長で、医者の岡部健(おかべたけし)さんによると、「津波で肉親を亡くした人々には、医療だけでは遺族の心を支えられず、祈る心や宗教性を持ったケアが必要だとする」発言がなされていた点でありますけれども、ついこの間までは、仏教式の葬儀の是非が議論され、葬儀に依拠した日本仏教は、いわば役立たずの穀潰しのように批判されることもあったわけであります。しかしながらこの東日本大震災を経て見えてきたものは、死者と向き合い、きちんとした葬儀やケアの心の重要性が再認識されてきた。
 
成田:  そう考えますと、葬式仏教と敬遠されていた時には、気が付かなかった弔う側の心というものが、震災をきかっけに再度見直されるようになった、ということだと思うんですけども。
 
松尾:  我々にとって、人間はいろんな種々の通過儀礼を経て人間となって、そして死んでいくわけですけども、誕生と並ぶ死というのは、まさに決定的に重要な通過儀礼なわけですね。その死という通過儀礼を、まさに荘厳に迎えたいという。まさにそれは根源的な願望であろうと考えています。よく死体が刻まれて、ビニール袋に入れられてゴミ箱へ捨てられたとか、そういう話が出てくるんですけども、そういうような話を聞くと、多分多くの人は、悲しい思いをされると思うんですけども、しかし我々は、いくら死体となったとしても、きちんと弔ってほしいという、そういう願いがあるというふうに考えています。葬式仏教というのは、まさにそういう根源的な人間の願望に応えていくのだ。そういうことを強調したいと思います。
 
成田:  日本人は、長らく仏教の考え方に親しんできたということもあって、仏教の中にある死に対する思想というものにも親しんできたと思うんですね。
 
松尾:  やはり仏教は、一つのこれまで果たしてきた重要な役割というのは、いわゆる死の恐怖―我々みんな死に対する恐怖というのはあるんですけど―死の恐怖をどう納得し、超越するかと。それに対するいろんな考え方を出してくれているわけですね。輪廻転生とか極楽往生とか、そういった論理というのは、実はこの生が一回切りのものではなくて、別の世界に生まれ変わるんだ。そういう形で死の恐怖を納得させ、超越させてきた。ですから、そういう仏教の論理というのは、我々に死をやはり受け入れ易くしてくれている、ということは間違いないわけですから、お坊さんは特に―私は僧侶でないんですけども―僧侶の方は、特にそうした役割を自覚して、きちんと葬儀を主催して頂きたいと考えています。
 
成田:  やっぱり死に対して何かの向き合い方を示すというのが、宗教にとっても大事な役割かと思うんですけれども、死穢というものがあって、避けてきたものに向き合おうとされた中世の仏教者、遁世僧たちの勇気というか、信仰心というのは、どこからきたと思いますか?
 
松尾:  大乗仏教というのは、本来自分の悟りだけではなくて、他者も救済しようという仏教なわけですね。ですから仏教を研究し、研究を深めれば深めるほど本来の仏教というのは、何なのか。本来の大乗仏教とは何なのか、というのを自覚したお坊さんたちが出てくるわけですね。ですから例えば、大きくお釈迦様を理想とする人と、阿弥陀如来と言いましょうか、阿弥陀仏を理想となる―釈迦信仰と阿弥陀信仰というのが、中世において流行するんです。釈迦信仰のグループの人たちは、釈迦へ還れという運動を出して、お釈迦様が決めた戒律をきちんと守って、そして民衆を救済しなければいけない。阿弥陀信仰の人たちは、阿弥陀仏の極楽世界というのを理想にして、阿弥陀の信仰を広めようとする。ですからまさにそういう大乗仏教の本来の仏教へ回帰する。そういう運動が鎌倉仏教だったと思うんですけども、そういう人たちは本来の仏教再生を目指していた、ということではないですかね。
 
成田:  弔うということを重要な通過点と考えると、その生きている時間というのもまた違ったものに見えてくるんではないかと思うんですけれども?
 
松尾:  やはり白いものはですね、黒いものを背景にして、くっきりと輪郭が顕わになるんですけども、我々が生きるということ、何のために生きているのかというのは、まさに死というものを背景に据えてみて、初めて生きる意味が顕在化するというか、はっきりと見える時があるんですね。ですからやっぱり私なんかもだんだん還暦を過ぎて、死が近づいてきている。そうすると、まさに今これからの人生をどう生きるかと、かなり考える機会が多くなってきました。ですから多分そういう意味で死についてとか、考えるというのが、とても大事なことではないかと考えています。
 
成田:  今日は、松尾さん、どうもお話をありがとうございました。
 
     これは、平成二十六年九月七日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」で放送されたものである