聖書によむ「人生の歩み」E結婚・家庭
 
         関西学院大学名誉教授・東京女子大学元学長 船 本(ふなもと)  弘 毅(ひろき)
ゥなる崇高な書物も及ばぬほどに私の生命の根源を養ってくれたし、人間についての愉快な経験は地上を私の庭園に変えてくれたのである。
 
書物に生きた哲学者ブーバーの言葉だけに深い意味を持っています。私は、この言葉によって、私自身が変えられたという思いを、今も持っています。今月は、人間の出会いとしての「結婚・家庭」ということを中心に、人間の生活について考えてみたいと思います。ギリシャの思想には、人間半身説というのがありました。人間は男か女かとして存在するけれども、それは半身に過ぎず、良い異性の半身と出会って一体となることによって、本来的な一人の人間になるという考え方であります。人は互いに自分の半身である異性を求め合うというんです。この考え方は、男女の関係の一面を巧みに表現していることは認められますけれども、半身に出会わなければ不完全な人間、一人前ではないということになってしまいます。聖書は、そのような考え方をもっていません。人間は神の像―イマゴ・デイ(神のかたち、の意)を持ち、神と特別な関係にあるものとして、男として、あるいは女として造られ、それぞれ独立した一個の人格として完成されていると語っています。創世記は、神はアダムを創造されたが、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」と言われて、エバが創造されたと記しています。ここで「良くない」と訳されている語は、意図、目的、理想などに照らしてみて相応しくない。合致していないということを意味する言葉ですから、聖書は、人間が独りでいることは創造の目的に適っていないというのです。それは、人は、独りでは寂しいとか、周りに他人がいた方が良いとか、そういうことをいうのではなく、神は、人間とは孤立して存在するものではなく、本来愛の交わりの中で、他者と共に生きるものであることを望まれた、ということを意味しています。「助ける者」というのも誤解されて、女は男より一段低いものか、あるいは脇役的な存在であると考えられたりすることがありますが、ここで用いられている原語は、「エーゼル」というヘブライ語であり、これは「助け」という名詞から来ています。そして旧約聖書では、単に神ご自身を指すものとして用いられることが多い言葉であります。有名な詩編一二一編は、
 
目を上げて わたしは山々を仰ぐ
わたしの助けはどこから来るのか
私の助けは来る
天地を造られた主のもとから
 
と詠っていますが、この「助け」は「エーゼル」という語が使われています。ですから「助ける者」というのは、助手とか補助者という意味ではなく、共に生きる相手、掛け替えのない人格的存在としての相手、ということを意味しています。神は「彼に合う助ける者」を見付けるために、多くの動物を造り、彼の前に連れて来たけれども、相応しい者はいなかった。そこで神は、最後に人を深い眠りに就かせ、肋骨(あばらぼね)の一部を抜き取り、女を創造された。そして彼の元へ行くと、人は、
 
ついに、これこそ
わたしの骨の骨、
わたしの肉の肉
これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう
まさに、男(イシュ)から取られたものだから
 
と言い、
 
そして二人は「一体となる」
 
と記されています。二人は「ひとつの肉」になったのです。ヘブライ語の「肉」(バーサール)は、ギリシャ語の「肉」(サルクス)のように、精神と肉体といった二元論では考えられておらず、それは人間の実存そのものを指す言葉ですから、聖書では、男と女は単に肉体的に必要なのではなく、互いに肉体と精神を含めた全人的な交わりにおいて互いに必要な存在であり、真の助け手であるというんです。人間は神によって創造され、備えられ、与えられた相手として、互いに愛し合い、尊重しあって共に生きる者とされるのです。
 
結婚について考えたいと思います。互いに「助ける者」として創造された男と女の関係は、結婚において、具体的に共同の歩みを生きる者となり、すべてを共にして生きる者となります。結婚は極めて大事な私人的な事柄でありつつ、同時に社会的側面をもっています。それは個人の事柄でありつつ、神の創造の秩序の一つであると考えられているのです。ただここで注意しなければならないのは、聖書は、結婚は大切なこととして尊重しながら、それが人生の最終的目的であるとは考えていない、ということです。人は、男として、あるいは女として完成された存在であり、良き相手に出会って結婚に至ることが喜ばしく、また自然なことであるとしても、結婚しないで、一人で生きることもまた神の御心に適う意味ある生き方だと理解しているのです。戦後の日本において、特に青年たちの読書会などで広く読まれた書物の一つに、カール・バイトの『キリスト教倫理』という本がありました。これはバルトの代表作である『教会教義学』第三巻の中から編集翻訳されたものですが、「交わりにおける自由」という書物の中で、結婚の問題が取り上げられ、結婚は男と女の問題の領域の中心であり、頂上であることを認めつつも、結婚を絶対視することに警告を発し、結婚の非中心化をなさねばならないと述べています。自分の選び取った道として、生涯を独身で過ごす男女あり、結婚後相手を失って一人で過ごす人があり、結婚を解消して独自の歩みをする人があり、人生にはさまざまな「ひとり」の生活があるのです。人間が、男と女として存在することは、すべての人に当てはまる基本的なことですが、結婚生活を営むか、否かは、あるいは一人で他者と協力し合い、共同の交わりの中で生きるか否かは、その人が選び取ることを許されている固有のことであると言えます。日本では、近年結婚しない人が急速に増えています。そこにはさまざまな理由が考えられますが、結婚の問題を考えるのと同様に、一人で生きるということを真剣に考えることは、現代の大切な課題となっているということができると思います。イエスは、ファリサイ派の人たちの質問に答えて、結婚について次のように明確に語られました。
 
天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。( マルコ福音書一○・六ー九)
 
結婚とは、一人の男と一人の女の出会いが、ただ一度の出会いとして固定され、二人が部分的にではなく、その全存在にわたって共同の生活を営むことです。成人した男女が、それぞれ独立の人格として、自らの自由と責任において配偶者を選び、そこで二人の新しい生活が始まるのです。ですから、結婚は親のためではなく、親の決めたことでもなく、自分でなした愛の選択であり決断でなければならないと、イエスは言われたのです。「父母を離れて」というのは、親子の縁を切って独立するということでは勿論ありません。生涯切ることのできない親子や兄弟の関係であっても、その自然の結合関係がはっきりと断ち切られて、二人の新しい関係が打ち立てられ、そこからまた新しい親子や兄弟姉妹との関係が打ち立てられるのが結婚生活であります。「一体となる」というのは、単に身体的関係だけを指すのではなく、心や意志や感情、また相手の人格などすべてを含めた全人的な一体関係における一つが、結婚生活における一つであることを意味しています。ですから夫婦はその身体において、心情において、互いに選び取って、自己の相手を受け入れて共同の生活を営むのですから、それはまさに「我と汝」の関係なのです。結婚生活は言うまでのなく、順調な時だけではなく、逆風に悩まされることもあるでしょう。喜びもあり、悲しみもあり、健康な時も病める時もあり、不信に陥ることもあるでしょう。しかしその中でただ批判しあったり逃げ出したりするのではなく、そのすべてを二人で共に担い合って生きるのが結婚生活です。結婚という人間の行為、自然な本能的な行為を、キリスト者は信仰において受け止め、神の召しと導きのもとに生きることを求められます。自分たちの愛の選びでありながら、そこに神の不思議な導きがあることを認め、神によって合わせられたものとして、畏れと感謝をもって受け止めるところにキリスト教的結婚観の特色があると言います。現代社会では、結婚生活の多様化や乱れが問題になっています。そこには人間のエゴがあり、欲望があり、性の乱れがあり、愛の欠如といった問題があります。責任を伴わない同棲生活や離婚も増え続けています。キリスト教は、ただ理想を説いたり一面的に禁欲を押し付けたり裁くのではありませんが、神の創造の秩序の中にある結婚という視点から、乱れや自己中心性に対して、反省を迫ったり、現代における結婚のあり方を真剣に追求することが求められていると思います。キリスト者にとっては、生きることが、神の御心を問いつつなされねばならないのと同じように、結婚生活という極めて私的なこともまた信仰の証(あかし)という課題を担っていることを忘れてはならないと思います。結婚ということを考える時、私はいつもボンヘッファーが獄中で書いた結婚式のための説教を思い出さずにはいられません。この説教は、一九四三年五月に獄中から送られたものですが、彼が投獄されてからあまり日が経っていない頃ですから、彼自身のさまざまな思いがそこに込められていたと思われます。しかしキリスト教の結婚観を考える上で非常に貴重な文章だと、私は思っています。説教はこんな言葉で始まります。
 
新郎新婦は結婚の日を、比べることもできない勝利感をいだいて喜び祝う当然の権利を持っています。あらゆる困難・抵抗・支障・疑念・躊躇を―気にせずに聞き流すというのではなく―それらと誠実に直面して克服した時、それは確かによいことです。・・・ここであまりに性急に、しかも熱狂的に、神の意志とか神の導きとかについて語るのは、適当ではありません。
 
ボンヘッファーは、結婚に至るまでの、あらゆる困難を自分たちで誠実に対峙(たいじ)し、乗り越えてきたことに、先ず注意し、そのことを大切にするように勧めています。安易に神のお蔭というのではなく、それは二人の決断であり選びであったことを確認することを強く勧めているのです。そして、その上で、「あなた方は今日、自分たちの行為に対する責任を信頼に満ちて我が身に負うのです。また同じように信頼に満ちて今日、その責任を神の御手に委ねてよいわけですし、事実、そうするだろうと思います」と語ります。今この時代に信仰をもつということは何を意味するのか。このことを生涯追い続けたボンヘッファーの考え方、生き方が、ここに明確に示されていると言えると思います。そして彼は、結婚の意味を次のように説明しています。
 
神は、あなたがたの結婚生活を導かれる。結婚生活は、あなたがた相互の愛以上のものです。それはもっと高い尊厳と力を持っています。というのは、結婚は神の聖なる定めであり、それによって神が人類を世の終わりまで保持しようと欲しておられるからです。
 
そしてさらに彼は、
 
神はあなたがたの結婚生活の基礎としてあなたがたにキリストをプレゼントされます。『キリストもわたしたちを受け入れて下さったように、あなたがたも互に受け入れて、神の栄光をあらわすべきである(ローマの信徒への手紙十五章七節)』。一言で言えば、あなたがたの多くの罪が赦されている、その赦しの中でいっしょに生きなさい、ということです。それなしにはいかなる人間の交わりも、ましていかなる結婚も決して長続きするものではありません。互いに相手に対して権利を主張せず、互いに相手を批判したり裁いたりせず、互いに相手を見くださず、決して相手に責任を押し付けず、あるがままに相手を受け入れて、日々、そして心の底から赦し合いなさい」(『ボンヘッファー獄中書簡集』)
 
と語っているのです。人間は神によって生かされている者として、結婚における出会いを心から感謝して、互いに愛し、互いに尊重し合い、互いに慰めゆるし合って、神をほめたたえつつ共に生きるのが結婚生活の真実な姿であると、聖書は語っています。
 
次に家庭について考えてみたいと思います。結婚して家庭を持つということは、人は自分だけの歩みだけでなく、妻との生活、子供を育てる生活といった新しい課題を担うことになります。親は子どもを与えられることによって、新しい関係を持つことになり、その関係の広がり深まりと共に成長することにもなります。しかしごく自然に親は子どもを愛し、子どもは親が好きで甘えて信頼して成長するという関係が、近年かなり変わってきているように思われます。親による幼児虐待があり、虐めの問題も深刻になっています。父親はほとんど子どもと接する時間がないということも珍しくはありません。離婚に伴う子どもの問題、一人で子どもを育てるシングル・マザーの問題など、家庭をめぐる問題は、今とても大きな問題になってきています。聖書には、「家族」という言葉が九十回、「家庭」という語は七回出てきますから、これは大切な意味を持っていることは明らかであり、「家族」という言葉が、聖書に最初に出てくるのは、「創世記」の六章から十章に語られている、いわゆる「ノアの物語」であります。神は創造された世界の中で、人間が増えると共に悪も増し、人々が悪いことばかり心に思い計っているのを見て、心を痛めて四十日四十夜雨を降らせて世界を一新しようとされるのですが、ノアは正しい人であったので、ノアとその家族、また動物たちを生き残らせるために箱舟を作ることを命じられたという物語です。
 
主はノアに言われた。
「さあ、あなたとあなたの家族はみな箱舟に入りなさい。山の上に神の命じられた通りの箱舟をノアが作ると、神はその箱舟の中にノアとその家族、また動物たちを番(つがい)で入れることを命じられました。そして大雨、大洪水が起きますが、神は箱舟の中のノアとその家族たちを心に留められた」
 
と聖書は記しています。水が引くと、神はノアに箱舟から出ることを命じ、次のように言われました。
 
神はノアに仰せになった。
「さあ、あなたもあなたの妻も、息子も嫁も、皆一緒に箱舟から出なさい。すべて肉なるもののうちからあなたのもとに来たすべての動物、鳥も家畜も地を這うものも一緒に連れ出し、地に群がり、地上で子を産み、増えるようにしなさい。」(創世記八・十五ー一七)
 
このノアの物語は、新約聖書のヘブライ人への手紙では、次のように理解されています。
 
信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神のお告げを受けたとき、恐れかしこみながら、自分の家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世界を罪に定め、また信仰に基づく義を継ぐ者となりました。(ヘブライ人への手紙十一・七)
 
この義の中で、信仰に生きるノアとその家族を救うことを神は決心され、ノアもまた神の命令に従って家族を救うために箱舟を作ったのでした。家族家庭は神の守りの中にあることを聖書は告げています。そしてそれはまた神の創造の秩序の中にあるものですから、両親には子どもを産み育てる責任が与えられています。両親は愛と知識によって子どもを養育する責任があります。家庭の形成は大切な問題です。親になることは大変なことですし、結婚しても子どもが与えられないということもあります。子どもと共に成長する家庭があり、夫婦二人の家庭において、二人が互いに成長し、協力して社会に尽くす歩みもあります。私たちはただ自分の楽しみと利益を求めるのではなくて、家庭生活を通じ、あるいは一人の生活を通して、他者と共に生き、神と人とに仕える歩みを目指したいものです。出会い、結婚、家庭ということを、身近であり、しかし難しい大切な問題として考えてきました。
 
最後に「交わり」ということを考えてみたいと思います。最初にマルティン・ブーバーの言葉を引用しましたが、彼は『我と汝』という名著を著しています。その冒頭の言葉は大変有名です。
 
ひとは世界に対して二つの異なった態度をとる。それに基づいて世界は二つとなる。ひとの態度は、そのひとが語る根源語の二つの異なった性質に基づいて二つとなる。根源語は孤立した語ではない。複合的な語である。根源語の一つは『われ―なんじ』であり、他は『われ―それ』である。われ―なんじにおける『われ』と、われ―それにおける『われ』とは、たとえことばは同じでも意味するところは全く違っているからである。しかもわれは、われだけでは存在し得ない。存在するのは、われ―なんじにおけるわれか、われ―それにおけるわれのみである。
 
人間は、関係の存在であり、他者との関係において生きるものであります。イエスの有名な喩え話である「放蕩息子のたとえ」では、弟が父から自分の財産分け前を貰って遠くに向かって旅立ったとあります。それは「われとそれ」の関係に、自由と希望を託して旅立ったということです。しかしこの弟はそこで挫折し、本心に立ち返った時、父の許へ帰ろうという決心をして、歩んだ道を戻ってきます。それに「我と汝」の関係への復帰であったと言えると思います。人は交わりの中に生きるものであり、人はそれぞれ帰り行くべき故郷、いわば心の故郷を持って生きているということができます。家庭はまさにそれであり、教会の交わりもまたそのような心の故郷であるということができると思います。昨年二○一三年の八月二十八日に、詩人の塔和子(とうかずこ)(1929年、愛媛県に生まれる。1943年、ハンセン病により、国立療養所大島青松園に入園。1951年、同園の赤沢正美氏(歌人)と結婚。1952年、ハンセン病完治。1953年、夫の赤沢氏の影響で短歌を始める。1957年、短歌形式に表現の限界を感じ、自由詩を作り始める:1929-2013)さんが亡くなりました。ハンセン病を病み、十三歳から八十三歳で亡くなるまでの七十年間を瀬戸内海の島で過ごされました。その生活の中で詩を作ることに生き甲斐を感じ、十九冊の詩集をいのちの証として紡ぎ出されました。塔さんと親しい交わりと持ち、励ましを与えてこられた人たちが、『詩人・塔和子追悼集』を出版されました。その書物の題は「いのちを紡ぐ」と付けられました。塔さんの詩の中に「胸の泉に」という心を打つ詩があります。
 
かかわらなければ
この愛しさを知るすべはなかった
この親しさは湧かなかった
この大らかな依存の安らいは得られなかった。
この甘い思いや
さびしい思いも知らなかった
 
人はかかわることからさまざまな思いを知る
子は親とかかわり
親は子とかかわることによって
恋も友情もかかわることから始まって
かかわったが故に起こる
幸や不幸を積み重ねて大きくなり
くり返すことで磨かれ
そして人は
人の間で思いを削り思いをふくらませ
生を綴る
 
ああ
何億の人がいようとも
かかわらなければ路傍の人
私の胸の泉に
枯れ葉いちまいも
落としてはくれない
 
肺腑(はいふ)を衝(つ)く言葉です。人は人の間に生きる存在です。しかし人が他者と関わり、共に生きることは、必ずしも容易なことではありません。コロサイの信徒への手紙は、
 
主はあなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成されるきずなです。また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。
 
と勧めています。わたしたちは小さな、弱い一人ひとりであるとしても、生かされる喜びの中で、家庭を築き、他者と共に生きることを許されています。交わりの中で共に生きる一人でありたいと思います。
 
     これは、平成二十六年九月十四日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」で放送されたものである