聖書によむ「人生の歩み」Fこの世・国家
 
         関西学院大学名誉教授・東京女子大学元学長 船 本(ふなもと)  弘 毅(ひろき)
 
ナレーター:  聖書によむ「人生の歩み」その第七回「この世・国家」。お話は関西学院大学名誉教授で東京女子大学元学長の船本弘毅さんです。
 
船本:  時代は今激しく動いており、世界の未来の大きく関係する出来事や問題が次々と起きています。その中で最近世界中の関心と注目を集めたのは、スコットランドの独立か否かを決める住民投票だったと思います。スコットランドのセントアンドリュースで研究の時を過ごした私にとっては、文字通り余所事ではなく、親しい友人や知人たちの顔を思い浮かべながら、彼は賛成派だろうな、しかし彼は反対派かななど考えて、落ち着かない日を過ごしました。結果はご存知の通り、有権者の八十五パーセントが投票し、独立賛成が一六一万七九八九票、独立反対が二百万一九二六票、四五対五五という結果で、スコットランドは連合王国に留まることになりました。双方の住民の意思の表された投票結果を冷静に受け止めて、また新しい歩みを始めたところに、勿論これから解決を迫られる多くの困難な課題はあるとしても、成熟した民主的国家と住民の姿には心打たれました。そして国の行く手を住民投票が決めるという今回の出来事は、改めて私たちに「国家」あるいは「この世」という問題を提示したように思います。聖書に聞きつつご一緒にこの問題を、今月は考えてみたいと思います。既に繰り返しお話してきたように、聖書は天と地を創造し、人間を創造して、いのちあるものとしてくださったという創造の信仰をもっています。神は創造主であり、世界と人間は神の被造物であるという考えは、聖書の根底をなすものと言います。言葉を換えれば、世界と人間は、その存在の根拠を神にもち、創造の意図に沿って存在することを求められているということになります。しかし現実の世界は、創造主の意図に背いて、自然は破壊され、神の創造の秩序が犯され失われた世界になっています。それにも関わらず、この世は滅び行くゆく罪の世界であるにも関わらず、なお神の支配下に置かれていること、そして神はイエス・キリストによってこの世を救い、この世をご自身と和解させてくださったと、聖書は告げています。
 
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである
 
という、イエスの福音が私たちを包んでいるのです。世界は、かつても今も、神の愛の中にあるというこを、聖書は主張しています。「とかくこの世は住みにくい」と、漱石は語っていますが、この世を生きることは決して容易ではありません。どのようにこの世と関わり、どのように生きればよいのでしょうか。イエスは十二弟子を各地に派遣して働かせられましたが、その時こう言われたと聖書は告げています。
 
わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。(マタ一○・十六)
 
随分思い切った言葉だと思います。この場合狼は残忍で貪欲な動物であり、イエスの弟子たちを迫害するものという意味に使われており、一方羊は素直で無防備な動物、迷いやすく羊飼いの導きを必要とするものという意味で用いられていると言ってよいと思います。だからあなた方は、この世にあっては蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい、と主は言葉を続けられたのです。蛇は聖書では知恵があり賢いが、ずる賢くて、機をうかがうに聡(さと)い動物とされています。フランシスコ会訳聖書は、「さて神である主が造られた野のすべての動物のうちで、蛇が最も狡猾であった」と訳しています。それに対して鳩は、柔和、善意の表象であり、わざと人を刺激したりすることのない動物と考えられていました。有名な「ノアの洪水物語」では、オリーブの葉をくわえて箱舟に帰って来た鳩は、神と人間との和解・平和を表すものとして描かれています。イエスは、弟子たちをこの世に派遣するにあたって、「蛇」と「鳩」という相対立し、矛盾するように見える二つの特質を兼ね備えよ、と勧められたのです。何故でしょうか。聖書に即して考えてみたいと思います。先ず第一に注目したいのは、イエスが弟子たちを「遣わす」と言われたことです。彼は自分の力や意思で出て行くのではなく、神によって送り出されるのです。困難の待ち受ける務めであるとしても、そこには主の守りと支えが背後にあったのです。イスラエルの民の歴史は苦難に満ちていましたが、それを導き励ましたのは預言者たちでした。預言者は、人々の喜びそうな甘い言葉を語ったのではなくて、神への忠誠を人々に求め、人間の罪を鋭く指摘しましたから、人々からは煙たがられたり、恐れられたり、時には憎しみを持たれる存在でありました。ですから預言者の歩みは多くある場合、孤独を強いられました。しかも彼らは自ら進んで預言者になったのではなく、神の召しによって預言者としての務めを担わされたのでした。弟子たちは、イエスによって召され遣わされる者たちでした。第二に注目したいことは、蛇のように賢くあること、鳩のように素直であることが、二者択一として命じられているのではない、ということです。賢さをあきらめて、素直さだけのお人好しの歩みをする、あるいは逆に素直さを捨てて、世の中を要領よく立ち回る歩みのどちらかを選びなさいと言われたのではないということです。しかもここで心しなければならないのは、イエスはただ人生の生き方の技術・手法を問題にしておられるのではないということです。そうではなくて、信仰によって生きるキリスト者の歩みが問題とされているのです。第三に注目したいことは、主は弟子たちにみ言葉を携えて、この世に派遣される。あなたたちは、常に主の言葉のうちに留まるようにと勧められておられるというこおです。み言葉と共に進む。み言葉によって生きることがここでは強く求められています。自分の思いや力によって、み言葉の示す道を超えることは許されないのです。信仰によって生きるということは、主の言葉によって導かれる歩みなのです。パウロは、キリストに会って生きることと、この世の関係を「ローマ信徒への手紙」の十二章で明確にこう語っています。
 
こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献(ささ)げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣(なら)ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。(ローマ書十二章一―二)
 
「この世に倣ってはなりません」と訳された言葉は、この世に「同化するな」という意味の言葉です。オックスフォード大学とケンブリッジ大学が共同で翻訳した『New English Bible』という聖書がありました。さらに改訂が加えられて『Revised English Bible』として今発行されていますが、英語の聖書の中ではもっとも権威がありますが、この聖書のこの箇所を明確に表すように訳してみれば、「この現在の今生きている世界の型にもはや合わせてはいけない」。これは私たちの生きている世界の型はまり込んでしまってはいけない、ということになるでしょうか。非常に解りやすい訳だと思います。自分の利益を追い求め、この世の風潮に身を委ねて生きるのではなくて、心を新たにして善いことのために自分を献げていきなさいと語っているんです。しかしこのことは、この世を敵視して、この世と関わりをもつことを恐れて孤立して生きることを勧めているのでないことも、私たちは注意をしなければなりません。この世は悪の世界であり、罪の世界であると決め込んで、ただ自分の信仰を清く正しく守ろうとすることが、キリスト者の理想の姿であると、聖書は考えているのでは決してありません。パウロは、伝道者として、生涯をそのために献げた人でしたが、天幕作りをして自分の生計を立てようとしていました。彼は積極的にこの世と関わり、この世の人たちと共に働き、交わり生きることを勧めています。この世は神の創造された世であり、罪から救い出され、今も神の守りの中にあるのですから、私たちは一人ひとりこの世に生き、この世の生活を通して神を愛し、人を愛して生きることが求められています。この世に埋没せず、正しく批判する目を持ちつつ、この世に真の意味で仕えて生きるところに信仰者の歩みがあると言えるのです。第二次世界大戦の渦中に、ドイツの地で、主に順(したが)って生きる道を厳しく追及したボンヘッファーという人が、現代世界は「成人した世界だ」と定義したことは有名であります。彼は、昔のように神に頼り、信仰さえ持っていれば、神が必ず助けてくださると考えていた時代とは異なり、現在の世界は人間の力によって生み出した科学、技術によって、人間は自立的な世界を造り上げ、神の力に頼ることなくして生きられる成人した世界、人間中心の世俗の世界を生み出したと、彼は考えたのです。「世俗化」という言葉は本来、「時代」とか「世代」を意味するラテン語の「saeculum」に由来する言葉であり、宗教的・教会的世界とは区別された意味での「この世」を意味するものとして用いられるようになりました。ですから今日一般的には、「世俗化」とは、宗教性が解消していく過程を指すものとして用いられており、その意味では現代世界は、世俗の世界であり、成人した世界、自立した世界になったことは否定できないと思います。ボンヘッファーは、現代世界をこのように冷静に分析をして、もはや神が何でも解決し、神を持ち出せば、すべてが解決されるという時代ではなくなったが、そのことは誤った神観念から私たちを自由にし、また過去の伝統や習慣や因習などの柵(しがらみ)から人間を自由にしてくれたという積極面のあることに注目をして、人間は自分自身の歩みを、自由に、自らの責任において選び取って生きるものとなった、と主張したのです。ボンヘッファーは、生来伝統に縛られた時代は、不自由ではあったが、一面極めて安全に守られた歩みであった。しかし自立的に自己責任で生きるということは厳しい面を持っており、人間は自由の与える喜びと恐ろしさの中で、イエスの語られた蛇のような賢さと、鳩のような素直さを兼ね備えて生きることが求められていることを明らかにしたのでした。ですから私たちは第一に、この世に忠実であることが求められていると思います。イエスの語られたタラントンのたとえ話は大変有名ですが、主人は僕(しもべ)たちに、五タラントン、二タラントン、一タラントンを預けて旅に出しました。そして五タラントン預かった者と二タラントン預かった者は、それぞれ預かったものを働かせて、その実りを持って主人の前に出た時に、主人は、「忠実な良き僕(しもべ)だ。よくやった。お前は忠実であったから、多くのものを管理させよう」と、まったく同じ言葉で二人を誉めています。「ルカによる福音書」に出てくる「不正な管理人のたとえ」話というのがありますけども、その中では、「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている」と語り、この世の子らの忠実な真剣な生き方を評価しておられます。第二に、この世に責任を担うことは、私たちには求められていると思います。日本では退任の挨拶などで「大過なく過ごすことができました」という言葉を用います。勿論ここには謙遜の意味があるでしょうし、自分を助けてくれた多くの人々への感謝の思いを込められているのですから、良い挨拶の言葉なのですけれども、聖書は、ただ落ち度なく生きるのみではなくて、より良き世界を求めて、自分に与えられた賜物を十分に生かして生きることを勧めています。かつて国連事務総長を務め、紛争解決のためコンゴに向かう途上で飛行機事故のために殉職したダグ・ハマーショルドという人がいました。彼は、今も多くの人々に覚えられており、惜しまれた人ですが、彼は激しい務めの合間に日記を記しておりました。そして彼はその日記の中に、「自分は自分のなり得る者になっているだろうか。このことが問題だ」と記しています。第三に、注意しなければならないことは、この世に忠実であり、この世の責任を担うことに力を注ぐことによって、自らをこの世に埋没してはならない。この世の虜になってはならないということです。この世に埋没し、この世を偶像化する危険から自由でなければならないのです。主の言葉に立ち、神を神として歩むことを見失ってはならないと、聖書は私たちに告げています。一番最初に申し上げましたように、スコットランドの独立を問うた住民投票は、改めて私たちの目を、国・国家に向けさせてくれたと思うんです。自分たちの国の将来を、自分たちで選び取る投票に、八十五パーセントの人々が参加し、その結果を自分たちの選びとして冷静に受け止めたことは、注目に値する出来事であったと思います。私たちは、この世界で、私たちであれば、具体的には日本という国の国民として生きています。そのことは当然政治と深く関わりつつ、生きるということになるわけです。イエスの生涯と教え記録した福音書は、イエスとユダヤ教の指導者との間で国家との関わりについて、興味ある出来事があったことを記しています。それは税金の問題を巡って、カイザルのものと神のものが論議された時点でした。「マルコによる福音書」の十二章十三節から十四節はこう記しています。
 
さて、人々は、イエスの言葉じりをとらえて陥(おとしい)れようとして、ファリサイ派やヘドロ派の人を数人イエスのところに遣わした。彼らは来て、イエスに言った。「先生、わたしたいは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。ところで、皇帝に税金を納めるの、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか。」
 
この彼らの言葉じりを捉えようとする質問に対して、イエスはデナリオン銀貨を持ってくることを命じ、「これは誰の肖像か」と問い掛けられました。彼らが「皇帝のものです」と答えると、イエスは「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と答えられたのです。カイザルのものはカイザルへ、と答えることによって、イエスは皇帝に対する国民としての納税の義務をお認めになりました。しかしここで重要なことは、イエスはこの機会を捉えて、「神のものは神へ」と明確に発言されたということです。イエスにおいては、「神のものは神に返す」ということが確立されるところで初めて、「カイザルのものはカイザルへ」ということが成り立つのであって、カイザルは決して神ではない。またカイザルと神とを同一視してはならないという強い主張がなされているのです。換言すれば、私たちはこの世の権威に服することを恐れる必要はなく、またそれを無視したり、軽視したりすべきではないのです。ですから権威への服従は、ただ表面的になされるのではなく、あるいは一応の義務としてなされるのでもなく、そこに隠されている神の意志に対する服従として真心を込めてなされねばならないのです。キリスト者は教会生活において同様、愛においてこの世に仕えるのです。良心に従ってこの世の平和と秩序のために働くのであり、人々のために取りなしをするんです。従って国家権力が、自己を絶対化し、自らを神と称して、国家への屈服迫るようになる時には、キリスト者と教会はそれに対して明確に「否(いな)」を言わねばなりません。キリスト教の歴史が、迫害に対する戦いと殉教の歴史であったことを、私たちは忘れてはなりません。国家と政治に対し、「然(しか)り」と「否(いな)」とを明確に発言できる理性と自由と勇気を持って、キリスト者はこの世に生きているのです。国家や国家権力の問題を考える時、「ローマの信徒への手紙」十三章と、「ヨハネ黙示録」十三章が問題になります。「ローマの信徒への手紙」の十三章では、ローマの権威に従うことが勧められ、「ヨハネ黙示録」十三章では、ローマ帝国は、神を冒涜するサタンの住処(すみか)となっているから抵抗すべきであると勧められています。これは聖書の解釈上大変難しい箇所ですが、聖書が異なる国家観を持っているのではなく、国家や政治の二元的性格・危機的性格が顕わになっているとみるべきだと思います。ローマは、もともとイタリア半島中部にある小さな都市国家でした。伝説によれば、女王レア・シルヴィアが軍神マルスによってロムルスとレムスという双子を産み、二人はティベル河に捨てられましたけれども、長じて勢力争いに勝ったロムルスが、紀元前七五三年にローマの国を創建したと言われています。そのローマは勢力を増し、紀元前五世紀にはイタリア半島中部を支配し、地中海に進出し、アフリカを攻め、ギリシャに代わる世界の支配者になったのでした。政治形態は、王制から共和制を経て、オクタヴィアヌスによって、いわゆるローマ帝政時代に入り、世界史上まれに見る繁栄と強力な軍事力を持つ国家を形成し、皇帝はアウグストゥス(生ける神)と言われるようになりました。このローマ帝国の強大さは、「すべての道はローマに通じる。ローマは一日にしてならず」と言った諺からも推測することができます。政治的・軍事的には並ぶものなき帝国を建設したローマですが、その宗教はきわめて原始的であり素朴であり、独自な宗教は持っていませんでした。ローマ帝国統一後、精神的に国家を統一するために、ローマそのものを神格化して「女神ローマ」(Dea Roma)を祀ろうとしましたが定着せず、やがて皇帝礼拝が行われるようになったと考えられています。そのためローマは、植民地の宗教や外来信仰と対立することなく、きわめて寛大であったようです。「ローマの信徒への手紙」の十三章の一節で、「人は皆、上に立つ権威に従うべきです」と述べた背景には、このような事情がありました。ここでは「国家」と言わず、「権威」という言葉が用いられています。パウロは、上なる権威は神から来るという考えを持ち、権威が具体的な生活の中で、秩序を保ち、正しく機能している限り服従することを勧めたのであります。一方「ヨハネ黙示録」は、ヨハネが小アジアのパトモス島に幽閉されている時に、み霊によって異象を示され、み言葉を聞かされて迫害下にある七つの教会に書き送ったと言われています。そこでは、「迫害に耐えることは、主のみ名のため、証しのため」であり、皇帝礼拝が強要され、自己絶対化をする悪しき権威としてのローマとローマ皇帝に対して抵抗することが勧められたのです。ローマが、神のものとカイザルものとを混同して、キリストかカイザルかの二者択一を迫った時、「ヨハネ黙示録」は、信仰を守り抵抗して、殉教(じゆんきよう)の道を歩むことを勧めたのでした。人種差別の撤廃のために、公民権成立のために闘ったマーティン・ルーサー・キングは、「わたしには夢がある」(I have a dream.)という感銘深い講演で世界を動かしましたが、彼は死の前日にメンフィスの教会で、まるで自分の死を予知したかの如き説教をしています。「山の頂きに登って来た」と題するモーセによる出エジプト記の出来事を語ったものですが、この説教をキング牧師は、「もし、神から、お前は歴史の中のどの時代に生きたいと思うか、と尋ねられたら、わたしはどう答えるだろうか」という問いから始めています。「出エジプトの時代、ルネッサンスの時代、アメリカ大陸発見と開拓の時代、リンカーンによる奴隷解放の時代、いずれも生き甲斐のある時代であるけれども、結局私は今のこの時代とこの場を生きることを選ぶであろう。それは決して平安な良き時代ではなく、黒人解放運動の苦しい戦いの中にある時だ。しかし私は、神によって、「今」「ここ」で生きるように遣わされたのだから、そこで生きる」と答えたのでした。旧約聖書の「コヘレトの言葉」はこう語っています。
 
何事にも時があり
天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
生まれる時、死ぬ時、
植える時、植えた者を抜く時
神はすべてを時宜(じぎ)にかなうように造り、
また、永遠を思う心を人に与えられる。
(「コヘレトの言葉」三章一―十一)
 
私たちは、今生かされている時代を、また生かされている場所を、私たちに与えられた時として、主に従い他者と共に生きたいものであります。
 
     これは、平成二十六年十一月十二日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」で放送されたものである