本当の幸せを求めて
 
               九州工業大学名誉教授 (よこせき)  俊 介(しゆんすけ)
一九四○年香川県に生まれる。一九六二年大阪大学工学部精密工学科卒業。一九六二〜一九六四年横河電機製作所。一九六七年大阪大学大学院工学研究科応用物理学専攻修士課程修了。大阪大学工学部助手講師、助教授を経て、一九九○〜二○○三年九州工業大学教授。二○○三年より九州工業大学名誉教授。専門:応用光学、米国光学会会員。
               き き て       金 子  寿 郎
 
ナレーター:  今日は、九州工業大学名誉教授の関俊介さんに、「本当の幸せを求めて」というテーマでお話頂きます。関さんは、昭和十五年(1940年)のお生まれで、精密工学がご専門ですが、一方で人間にとって「本当の幸せとは何か」という問題についても長年探求してきた方です。聞き手は金光寿郎さんです。
 

 
金光:  今日は、「本当の幸せ」ということについてお伺いしたいんでございますけれども、普通誰でも幸せは求めるわけですけれども、先生は、「本当の幸せ」ということについてどういうところからお考えになるようになったんですか。
 
関:  はい。今から二十五年ぐらい前でしょうか、長男が中学時代に登校拒否になりまして、さらに引き籠もるようになりまして、私、当時学歴社会や偏差値を信じていたものですから、長男の将来を大変心配致しまして、私にはない才能を小さい時から発揮していましたので、期待するところが大きかった長男ですので、私は絶望的な気持ちになりまして、何とかならないものかと、登校拒否の勉強を相当致しました。当時は登校拒否のことはよくわかっていなかったようで、いろんな方法が提案されていました。そんな中で平井信義(ひらいのぶよし)先生のご本『登校拒否』に書かれていた『自主性の発達を促すために、「まかせる」こと』という言葉を信じて、その言葉に従いました。一方では、「親が変わらなければ、子は変わらない」とよく言われておりまして、それに従いまして、いろいろ勉強しているうちに、先祖が選びとってくれていた親鸞の教えに辿り着きました。中でも福井県のお医者さんをされていた米澤先生(米澤英雄(よねざわひでお):福井市生まれの医師、浄土真宗の伝道者。医学博士。開業医のかたわら、親鸞聖人の教えに深く帰依し、多数の著作、全国各地での法話・講演などで、多くの念仏者を生み出した:1909-1991)の本や講演が心に大変響きまして、またよく理解されました。
 
金光:  米澤先生というと、米澤英雄さんですね。
 
関:  英雄先生です。
 
金光:  私も何度かお話を伺いました。
 
関:  よくテレビとかラジオでも放送されておりました。他に著名な方の書斎で書かれた人生観や幸福感ではなくって、実際の体験を報告した著書を参考にさせて勉強させて頂きました。それから長男の体験からたくさんのことを私は教えられました。まあ自我の強い私を、長男は人生を懸けて導いてくれたんではないかと思っております。当時は私の本業の応用光学に関する研究が順調に進んでおりました。例えば米国科学財団へ提出された研究計画を、その分野のスペシャル・エキスパートとして審査してほしい、というような依頼も受けたりしておりました。またイギリスで当時創刊された国際専門誌の編集員になるように依頼されたりしました。そういうことで勝手に思ったんですけれども、私の研究成果が外国で評価され始めた兆しではないかと思ったりしておりました。そんな中で研究以外の勉強に時間を取られることは大変辛いことだったんですけれども、まあ長男のためにと必死に親鸞の教えとか、心理学とか一生懸命勉強致しました。その結果が、これから述べます人生観になるわけです。
 
金光:  というのが、「本当の幸せ」という問題についてのお考えでございますね。じゃ、その辺の経路と言いますか、どういう形でお考えになったんでしょうか。
 
関:  私たちは、幸せを追い求めて生きております。どうすれば「本当の幸せ」になるかについて、私なりに考えました。一般によく知られている幸せというのは、次のようなことだと思います。一つは、物欲を満たすことだと思います。お金があればと幸せになれると思い、ところがお金が出来ても幸せになれない。お金では買えないというような気が致します。もっと具体的に言いますと、ブランド物を買うと幸せになれると思っている人もいるようですが、一つ購入すると、別のものが欲しくなるということで、買っても買っても満足できない。従って物欲を満たしても幸せにはなれないように思います。それから二番目には、元気であれば幸せだと思われております。確かにそうだと思いますけれども、元気な時は当たり前に感じられて幸せ感は起きません。また病気になって初めて深い幸せを感じた例が報告されております。それから次には偏差値を高めて立身出世すれば幸せな生活が送れると多くの人が考えております。これを実現したのは高級官僚だと思います。ところがその一部の人たちはどう見ても幸せな人生を送っているとは思えません。天下り先に天下っている。これという仕事をするわけでもなく、高給を受け取っております。退官後の仕事が、高給を受け取るということだけでは、充実した毎日を送れているとは思われません、このような高級官僚は、現役時代には生き甲斐のある仕事をしているととっても思えません。また企業においても高い偏差値の人たちが次のように言われております。『週間朝日』の二○○一年十一月二十三日号には、『東大卒は職場の「お荷物か」』なる記事が出ております。『週間文春』の二○○五年十二月八日号には、『「東大卒社長」が会社を滅ぼす!?』というような記事が掲載されています。このような記事が出るということは、このようなケースが数多くあるということだろうと思います。どうみても偏差値が高くて立身出世できていても、幸せな人生を送っているようには思えません。実は職場で実際に働いている人たちは、このようなことを知っている事実なんです。ところがお母さんや学校の先生たちは、このことを知らないためか高い偏差値を追い求めております。従って常識的な方法では幸せになれないということと、同じ状態でも人によって不幸とか幸せとも感じることがあるということです。だから「人生観を変えなければならないのではないか」というのが結論であります。そこで誰でも感じる不幸せの原因をちょっと考えてみますと、一つは死に対する不安を含めた不安、それから思う通りにならないための不平不満が不幸せと感じる大きな原因だろうと思います。これらを除くことができれば、「本当の幸せ」になれるのではないだろうかと思います。そこで私なりに考えた「本当の幸せ」になるための方法というのは、「大いなる働きを身に沁みて気付き、「大いなる働き」と比較して自己反省をすればよいのではないか」と考えております。これは私の人生観の基礎でして、これを基礎にするといろんなことが見えてきます。
 
金光:  今のお話を伺っていますと、まさにお釈迦様が感じられた人間の現実の生活は苦でありますと。その不幸せというのは、苦と同じことでございますから、苦を超える道というのを説かれた、仏様の説かれたのが現代まで二千五百年続いているわけですけれども、「大いなる働き」という言葉でおっしゃっていらっしゃるのも、お釈迦様が説かれた、いわば仏教が説いている教えと離れているわけじゃないわけでございますね。
 
関:  繋がるんだと思います。ただ科学的に知られている事実を、心の目で見直すということなんであります。それは少し丁寧にお話させて頂きます。「大いなる働き」とは、太陽とか空気とか水のような自然の働きや人体の働きを、心の目で見ると「大いなる働き」となるんではないか、というふうに思っております。これらの「大いなる働き」の特徴をお話しますと、よくわかって頂けると思います。一つは、これらの「大いなる働き」の特徴の一つは、「私たちを生かそう生かそうとする働きである」ということです。従って私たちの命に関わっております。例えば太陽や空気や水がなければ、私たちは生きていけないということでございます。それから二番目に、「人間業(わざ)ではない」ということです。我々の技術では、人間の持っている技術では実現できないということです。三番目に、「完全に平等である」ということです。どんな犯罪を犯した人たちにも働いてくれているということでございます。それから四番目に、「無償である」ということです。一生懸命生きよ生きよと働いてくれていても、請求書は来ないということでございます。五番目に、「働いていることが当たり前になってしまっている」ということですね。これは生まれて以来、ずっとその働きの中に生きているものですから、ごく当たり前に思ってしまって、その有難味がわかっていないということでございますね。この「大いなる働きを身に沁みて気付く」ということが非常に大事なんですが、身に沁みて気付くというのは、どういうことかと言いますと、一つは、昭和期の代表的な禅僧であられる山田無文(やまだむもん)(臨済宗の僧。妙心寺六百三十九世。関精拙に参じ、橋本凝胤につき得度。京都妙心寺山内霊雲院に住した。神戸祥福寺僧堂師家・禅文化研究所所長・花園大学学長等を歴任: 1925-1988)さんの本『自己を見つめる』に書かれている無文さんの体験に学ばさせて頂きますと、二十歳過ぎに結核になられて―当時は結核というのは不治の病でした―二年間ほど床に伏されて、たまたま縁側で気持ちよく吹いてくる風を感じた時に、この風は空気の流れだったということを思い出して、それから空気の「大いなる働き」に気付かれたわけです。結果は絶対的な安心が得られて、身体の方も元気になってきたという体験を書かれております。それから細やかな体験ですけれども、私の体験を紹介させて頂きます。長男が登校拒否になり、絶望的な気持ちの中で、いろいろ勉強させて貰っている中で、親鸞の教えも必死に勉強していた頃のことです。当時は大阪に住んでいましたので、大阪の難波別院や京都の高倉会館で日曜講座に出席しておりました。ある正月の朝、高倉会館で開かれました日曜講座に出席するために阪急電車に乗りました。朝早かったものですから、うとうとしながら京都へ向かいました。その日は天気が良かったものですから、足元に太陽光が降り注いでいて、大変気持ちよく電車の中で居眠むることができました。ところが急に寒くなって目が覚めてしまいました。阪急電車は、京都市内に入ると地下に潜るんです。太陽光が当たらなくなったためであります。それに気付いた瞬間に太陽光の有難味が身に沁みてわかりました。太陽光への感謝の気持ちが身体全体に流れて、涙が出そうになりました。以上が「大いなる働き」を身に沁みて気付くということでございます。「大いなる働き」を身に沁みて気付くためには、どうも太陽とか、辛いことや苦しいことにぶっつかって、絶対絶命の崖っぷちに立つ必要があるようにも思います。ということは、辛いことや苦しいことは、「本当の幸せ」の入り口なのかも知れません。これ非常に大事なことで、辛いことや苦しいことというのは、「本当の幸せ」への入り口のかも知れないということです。ということは、辛いことや苦しいことから逃げることなく、真っ正面から受け止めて対応することができます。だから人生に絶望して自殺するなんていうのはとんでもないことで、「本当の幸せ」は、すぐ近くに近づいてきていたんではないか、というふうに思えるわけでございます。
 
金光:  普段は全然気が付かないことが多いんですね。傍にあるんですよね、あなたも包まれているんです、ということになるわけですね。
 
関:  小中学校で自然や人体の働きを教える時に、知識を与えるだけでなくて、私たちを生かそう生かそうと働いていてくれていることを教えて、心に訴えかけることが大切なように思われます。このことが心の教育やいのちの教育の基礎になるのではないかと考えております。今まで言ったことは、「本当の幸せ」になるには、「大いなる働き」を身に沁みて気付き、「大いなる働き」と比較して自己反省することでした。そこでそれぞれについて少し詳しく考えてみましょう。一番目、「大いなる働き」を身に沁みて気付いたらどうなるのでしょうか。無文さんの体験やら私の体験からわかることでございますが、「大いなる働き」に生かされて生きていることに気付くと、生きるも死ぬも自分ではどうすることもできないことに気付き、「大いなる働き」にお任せするしかないことがわかります。心配する必要がないことが心の底から感じられて、不安が少なくなります。また自分の身体さえどうしようもないものですから、思うようにならなくても当たり前と受け取れるようになり、不平不満の度合いが小さくないのではないでしょうか。二番目に、「大いなる働き」と比較して自己反省するとどうなるんでしょうか。罪悪と煩悩がいっぱいの自分が見えてきます。例えば私たちは他の命を頂かなければ生きていけません。それもできるだけ美味しいものを必要以上にたくさん食べます。そんな自分でも生きよ生きよと生かされていることに気付き、心の底から感謝の気持ちが湧いてきます。これが「本当の幸せ」の姿だと思います。もう一度言いますと、大いなる働きを身に沁みて気付き、「大いなる働き」と比較して自己反省すると不安が少なくなり、不平や不満が小さくなります。「大いなる働き」への感謝の気持ちが湧いてきます。これが「本当の幸せ」ではないかと、私は思っております。既に科学的によく知られている自然や人体の働きを、「大いなる働き」と心で受け取ることが出来れば「本当の幸せ」になられるということです。
 
金光:  今日のテーマの幸せの考える人生観、先生の人生観が変わると、どういうことになりましたでしょうか。
 
関:  例えば一時話題になったんですが、「何故人を殺してはいけないのか」と子どもに聞かれたら、どう答えられますか、という問題があります。「人を殺してはいけないというのは、当たり前」とこう思っていますが、「何故か」とこう問われると意外と答えられないものです。これは人生観を問われるもんだと思います。実はこのことは一九九七年の八月に、筑紫哲也(ちくしてつや)の「ニュース23(ツースリー)」というテレビ番組で、ある高校生から、「何故人を殺してはいけないのか」と質問されて、同席していた知識人の誰一人として答えられなかった、ということで問題になったわけです。その後も本や月刊誌で回答が寄せられました。私なりの答えをお話しますと、先ず一つは、「殺してはいけないんではなくて、本能的に人は殺せません」というのが一つでございます。肉食動物でも同種の動物は殺さない、と言われております。これは種の保存のためにDNAに埋め込まれたことだろうと思いますけれども、ただ人間の場合には、生まれたままでは人間になれません。赤ん坊の時に、狼に育てられた子どもが、人間社会に還ってきても人間になれなかった、という例があります。幼児期に誤った教育を受けたり、辛い環境の中で育てられたり、病気になると人を殺せるようになるようです。次に「何故人を殺してはいけないのか」と問われた時の第二の私の答えは、「私たち一人ひとりが、「大いなる働き」によって選ばれて生まれてきた尊い存在だからです」と、私は言いたいんです。このことは私たちの誕生のプロセスにおいて証明することができます。私たちの誕生のプロセスを思い出してみますと、母親から排卵された卵子と、父親が射精した精子とが受精したのち、細胞分裂を繰り返すことによって誕生します。母親が、胎児の時に造られた卵原細胞(らんげんさいぼう)(卵子予備軍:有性生殖で、始原生殖細胞から分化して卵母細胞を作る、卵子形成のもとになる細胞)七百万個から厳しく選択されて、一個の卵子が排卵されます。一方、一回の射精によって、約三億個の精子が放出されるといわれております。卵子のところまで行く間に、厳しい選択が行われ、一個のみが卵子と受精するのです。この厳しい選択は誰がするのでしょうか。両親でしょうか。生まれてくる私たちでしょうか。どちらでもありません。「人体の大いなる働き」によって選択されております。全世界の人口は、一九九九年七月で六十億人と言われていますが、この六十億人よりも多い組み合わせの中から一組の卵子と精子が選ばれるわけです。卵子と精子の選択は、人体の「大いなる働き」によって行われています。即ち私たちは、私たちを生かそう生かそうとする「大いなる働き」によって、世界の人口よりも多い中から選ばれたわけです。そして「大いなる働き」の特徴を考えますと、この世の中に必要な素晴らしい人間として生まれている筈だと受け取ることができます。しかし「生まれつきの障害者はどう考えますか?」との質問を受けそうです。その答えは乙武洋匡(おとたけひろただ)(先天性四肢切断(生まれつき両腕と両脚がない)という障害があり、移動の際には電動車椅子を使用している:1976-)さんの例を挙げて説明を致します。乙武さんは、生まれつき手と足がありません。早稲田大学を卒業後、スポーツ選手にインタビューして、それを記事にしたりしていましたが、最近は小学校の先生になられております。大学三年の時、それまでの体験を纏めた本『五体不満足』を出版しています。五百万部以上売れたそうです。そして週刊誌の記事によれば、この本の読者は、「生きる勇気をもらった」と言われております。五百万人以上の人に、「生きる勇気を与えた」わけです。大きな役割を果たしたことになります。多くの分野で創造的偉業を行った天才やその家系の中に、極めて高い頻度で精神障害者のいることは知られています。例えばアイザック・ニュートンやチャールズ・ダーウィンやニールス・ボーアであります。また一九九四年にノーベル賞を受賞したジョン・フォーブス・ナッシュ・ジュニア(アメリカ人の数学者。専門分野は微分幾何学でありリーマン多様体の研究に関して大きな功績を残している:1928-)本人が、統合失調症でした。この例は、映画「ビューティフル・マインド」になっております。精神障害と天才との間に、遺伝的な繋がりがあるとも言われております。以上の例から次のことが言います。健常者だけでなく、障害者たちも「大いなる働き」によって、大切な役割を与えられて、この世に送り込まれていると。この私の考えは誤っていないのではないかと思います。ここで障害についてさらに考えなければならないことがあります。健常者に生まれても、怪我や病気・老化などによって、誰でも必ず障害者になる、ということです。障害者を排除した人たちは、いずれ必ず自分たちが排除されることになります。知的発達困難児と三十五年ぐらい関わった伊藤隆二(いとうりゆうじ)さんが、『この子らは世の光なり』を出版しています。争いのない、だれもが助け合い、補いあい、だれもが楽しく、それぞれに生きがいをもって、生き生きといきていける世の中は、この子らが光であるから実現するのである。この世に光を送り、何もかも明るく照らし、安らぎとぬくもりと夢と希望を与えてくれるのはこの子らである。この子らは世の光という大切な役割を果たしているということです。障害者が、世の光として光り輝いて、幸せに暮らせる社会にしなければなりません。大いなる働きによって、私たちに期待される役割と、それを果たすために埋もれている才能を見つけ出すことができれば、充実した毎日が過ごせるのではないでしょうか。
 
金光:  なかなか自分では気付きにくい面がありますですね。
 
関:  そうですね。まあ私なりにいろんな例を、いろんな体験談から纏めて、次のように考えてみました。与えられた才能や期待されている役割を見つけるのは、どうしたらいいかということを考えてみました。一つは、夢中になられる仕事を見付けることです。ジミー・大西(1964年、大阪府に生まれ。本名は大西秀明。吉本興業のお笑いタレントとして人気を集め、のちにテレビ番組をきっかけに絵を描き始める。1996年に芸能界を引退して画業に専念する。岡本太郎・横尾忠則も賞賛したジミー大西の絵画の画風は平成の山下清とも言われている)の例を挙げます。吉本興業所属のお笑いタレントでした。テレビ番組のオークションに処女作を出品したところ、その才能を認められ、現在は絵画創作活動に専心しています。彼が絵を描いているのをテレビで見たことがあります。構図や色の配置を頭で考えるのではなく、感性が命ずるままで夢中になって描いていました。このことは世界的な版画家の棟方志功(むなかたしこう)(板画家。20世紀の美術を代表する世界的巨匠の一人。1942年(昭和17年)以降、彼は版画を「板画」と称し、木版の特徴を生かした作品を一貫して作り続けた:1903-1975)さんにも見られました。ただ夢中になられたと言って、遊びやテレビゲームでは、それが終了した時に充実感がなく、何となく後味が悪く、幸せに繋がりません。特にテレビゲームに夢中になるのは危険です。テレビゲームは長期間行っている人の脳波は、重い痴呆の人の脳波に似ていることが知られています。「大いなる働き」が、私たちに生きよ生きよと働き掛けてくれているわけですから、恩返しの気持ちで行う仕事を見付けたいものです。二番目に、自分の才能を見付けるのに、慌てず・諦めず・やけにならないことが大切だと思います。早熟な人と遅熟な人がいます。文化勲章を受章した作家の遠藤周作(えんどうしゆうさく)(小説家。随筆や文芸評論や戯曲も手がけた:1923-1996)さんは、相当遅熟な人だったようで、『落第坊主の履歴書』なる本を出版しています。大学卒業後にフランスへ留学していますので、大学へ入ってからは勉強が進んだものと思われます。子ども時代に問題児だった人が、大人になってから天才的な働きをした例はたくさんあります。エジソンやチャーチル、アインシュタインなどが思い出されます。従って自分の才能を見付けるには、慌てず・諦めず・やけにならないことが大切でございます。三番目に、目の前にある「しなければならないこと」を、心を込めてすることが大切です。最近の学校の勉強は、受験や単位取得になってしまっています。即ち自分でよく考えることをせず、知識や解法を記憶することが中心になっています。こんな勉強は、社会に出てからほとんど役に立ちません。また受験勉強ばかりしていると、自分に与えられている才能に出会う確率が小さくなってしまいます。従って目の前にある「しなければならないこと」は、何でも心を込めて進んでやることが大切だと思います。また頭で考えているだけでは、自分才能に出会うことはできないようです。何でもチャンスがあればアタックしたいものです。四番目に、業種や仕事やランク付けに関する世間の常識に惑わされないことです。それは時代が変わればランク付けも変わるからです。一九七○年代から八○年代の人気就職先は、銀行や商社、保険会社、地方自治体でした。六○年代は、鉄鋼や重機、石油化学にエリート学生が集まりました。五十年代は、繊維や肥料、砂糖などがはやりました。四○年代は、石炭会社でした。三○年代は、職業軍人で、その前は汽船会社でした。これからわかることは人気業種は十年くらいで変化しております。変化するランク付けで仕事を選ぶと後悔することになります。五番目に、与えらている才能は一つではないということです。体操が得意な中学の先生だった星野富弘(ほしのとみひろ)(詩人・画家。1970年(昭和45年)、群馬大学を卒業し、中学校の体育教師になるが、クラブ活動の指導中、頸髄を損傷、手足の自由を失う:1946-)さんは、事故のため手足の自由が奪われました。手足が不自由になった後、口にくわえた筆で夢中になって絵を描いているうちに、人に感動を与える絵を描く才能が開花しました。また障害との戦いの中から独特の人生観を獲得して、読んだ人に感動を与える詩を作れるようになりました。そこで多数の詩画集やカレンダーを出されております。詩画集やカレンダーが売れるということは大変なことでして、絵画を専門に学んだ人でも、その作品が売れる人は非常に少ないわけでございます。このように与えられた才能は一つだけでなく、状況が変われば、他の才能を見出すことができるようであります。以上を纏めますと、「本当の幸せ」になるには、「大いなる働き」を身に沁みて気付き、「大いなる働き」と比較して自己反省すると良いということです。この結果不安が小さくなり、不平不満が少なくなる。そして「大いなる働き」への心の底から感謝の気持ちが湧いてきます。これが「本当の幸せ」です。これは私の人生観の基礎でもあります。
 
金光:  お話を伺っていますと、これは関先生が、ずっと長い間考えてこられたものを非常にきっちりと纏められたということで、拝聴させて頂きました。今日はどうも有り難うございました。
 
     これは、平成二十年五月四日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」で放送されたものである