縁起による生命観
 
                  龍谷大学教授  鍋 島(なべしま)  直 樹(なおき)
                  き き て  金 光  寿 郎
 
ナレーター:  今日は龍谷(りゆうこく)大学教授鍋島直樹さんに「縁起による生命観」というテーマでお話頂きます。聞き手は金光寿郎さんです。
 

 
金光:  仏教の場合は、「縁起の教えだ」ということが言われているわけですけれども、日本の日常会話だと「縁起がいい」とか「悪い」とか、精々そんなところで使われる程度の理解が多いだろうと思うんですけれども、鍋島先生は、親鸞さんの生命観、これは縁起でいう生命観というようなことで、随分原始仏教から大乗仏教で、浄土教まで含めての縁起による考え方をずっと整理していらっしゃるのを拝見して、随分こなしていらっしゃるなと思ったんですが。
 
鍋島:  私たちは、幸せを求めて掛け替えのないいのちを守っていこうと思っています。しかしこの現代は、戦争や殺人、虐待や自殺が続いています。虚しさや寂しさが世界に広がっている感じがするのです。それで私の尊敬する宮沢賢治(みやざわけんじ)(1896-1933)にこんな言葉があります。
 
みんな昔からの兄弟なのだから、決して一人を祈ってはいけない。(『春と修羅』「青森挽歌」)
新たな時代は世界が一(ひとつ)の意識になり生物となる方向にある。正しく強く生きるとは、銀河系を自らの中に意識して、これに応じていくことである。(『農民芸術概論綱要』)
 
でも振り返ってみて、私たちの世界は果たして一つの意識になっているでしょうか。私たち人間は、銀河系の中に住む兄弟として助け合っているでしょうか。いつの時代にも大切なのは、今おっしゃった「縁起」、あらゆるものが相互に支え合い、世界の幸せを願うことではないかと思っています。それで今日は掛け替えのないいのちを守るために、縁起による生命観と鎌倉時代に浄土真宗を開いた親鸞聖人のいのちへの眼差しについてお話したいと思います。
 
金光:  その縁起による生命観というのを考えられる場合に、というよりも現代の人の考えは、自分はこうしたい、自分というのはどういう人間であるか、ということを振り返るよりも、自分の主張を前に出して、自分の欲望を満足させる方向にいっているような気がしまして、そうすると銀河系のことなんか頭の中にない人が多いんじゃないかと思いますが、その辺自分自身がそういう縁起について生かされているということを知るためには、どういう方向にいけばよろしいんでしょうか。仏教でいう安らぎとか悟りとか、そういうものが基本にあるということでございますか。
 
鍋島:  そうですね。自分の中にある煩悩を深く知っていくということが大事だと思います。それについて少し面白い話をご紹介したいと思います。仏教では、煩悩(ぼんのう)を超えた世界を「悟(さと)り」と言います。その悟りは「涅槃(ねはん)」という言葉で表されています。「涅槃」は「ニルヴァーナ」というインドのサンスクリット語を音写した言葉で、「煩悩の吹き消された状態」なのです。その「煩悩」というのは一体何なのか。それについて少し仏像を使って面白い話をご紹介します。実は仏像の首には、三本の皺(しわ)が刻まれているのをご存知でしょうか?
 
金光:  気が付きません。
 
鍋島:  とにかく首に三本の皺がない仏像は偽物なんです。この三本の皺については、いろんな解釈がありますが、主に「地獄(じごく)・餓鬼(がき)・畜生(ちくしよう)」の「三道(さんどう)」を表すとか、「三大煩悩」を表すと言われています。「煩悩」の先ず一つ目は、「貪欲(とんよく)」です。「貪(むさぼ)り」のことですね。お金とか名誉とか、あるいは人の心とか、相手を傷つけても自分の手に入れようとする、そういう心を「貪り」と言います。煩悩の二つ目は、「瞋恚(しんい)」です。「怒り・憎しみ」ですよね。「瞋恚(しんい)」の「瞋(しん)」は、怒って目を見張ることです。人は怒ると顔が朱くなって、身体が硬くなり、目が釣り上がってきます。私も怒った時に、自分の顔を見て恥ずかしかったです。「瞋恚(しんい)」の「恚(い)」というのは、「恨み憎しむ」ことです。自分にとって都合の悪いものを敵視して排除しようとする心です。煩悩の三つ目は、「愚痴(ぐち)」です。貪りと憎しみという二つの煩悩を司っている根本にあります。常に自分のことしか考えられなくって、相手を知ることでできない。それが愚痴です。親鸞聖人は、この煩悩を「三毒(さんどく)」三つの毒と表現しておられます。このように「三つの毒」―「貪欲・瞋恚・愚痴」の根本煩悩が、仏像の首に皺となって表現されているんです。
 
金光:  面白いですね。私は、今おっしゃったのは全部私の中にありますけれども、仏さんの首にあるというのは面白いですね。
 
鍋島:  そうなんです。そこなんです。釈尊は、私たちと同じ人間なんです。神ではありません。釈尊も私たちと同じように、快楽を求める王宮生活、そして自分を追い詰める苦行の中で悩みました。釈尊にも貪りがあり、釈尊にも怒り憎しみがあり、愚かさがあったんです。その煩悩を深く反省して潜り抜けたのが、銀河を思いやるような悟りです。煩悩の炎が吹き消された状態というのは、言葉を換えれば煩悩を抱えてしか生きられないということに深く気付いたことではないでしょうか。みなさんの首にも皺があるでしょう。皺があった方が良いのです。皺があって人生の苦しみを経験してきたものこそが、何が本当の安らぎであるかを知っているということですよね。それで今日は、悟りの内容をよく表している「縁起(えんぎ)」についてご紹介したいと思います。金光さんはこんな言葉をご存知でしょうか?
 
これあればかれあり、これ生ずるがゆえに、かれ生ず。
これ無ければ、かれなし。
これ滅するがゆえに、かれ滅す。
 
金光:  その言葉は知っているんですけれども、まだ自分の今の現在が、何があって、こうなったのか、というようなことになってくるとわからないというか、無知の状態が多いですね。
 
鍋島:  では先ず基本から一緒に考えて見ましょう。「縁起」というのは、「私とあなた、これとかれ」とが深く関係し合っているということです。この原語は「プラティーティヤ・サムトゥパーダ(pratiitya-samutpaada)」にあたります。「プラティーティヤ(pratiitya)」というのは「〜に依存する」ということです。そして「サムトゥパーダ(samutpaada)」は、「共に生ずる。繋がりの中で生まれてくる」ということを語義としています。ですから「縁起」を日本語で言い換えると、「支え合って生かされている」とか、「おかげさまで」という言葉になっていると思います。人は一人で生きているのではない。他の誰かに生かされている。大いなる自然に支えられている。どんな人も仏に願われている、ということです。この「縁起」の言葉が、今欧米において「interdependence(相互依存)」などと翻訳されて注目されているのです。アメリカ社会において「independence」即ち独立、自立を強調してきました。ご承知のように、七月四日は「インディペンデンス・デイ:independence day」独立記念日ですよね。でも半面、独立のために他国を攻撃し、一国の幸福だけを追求することになりかねません。そこでアメリカ社会において「interdependence」相互に依存し合う、支え合う、という縁起の思想が、世界平和のために必要とされているのです。ダライ・ラマ十四世(チベット仏教ゲルク派の高位のラマであり、チベット仏教で最上位クラスに位置する化身ラマの名跡である)が、こんなことを縁起について説明されているんです。
 
あなたは、あなた個人の幸福に焦点を当てているでしょうが、一旦あなたの人生がどれほど多くの取り巻く環境に支えられているかを理解できたなら、あなたのものの見方や真実の理解を、より大きく広げることができるでしょう。その広がった視座はあなたをより調和の取れた人生を築けるようにしてくれるでしょう。またそれはあなた自身のためにばかりでなく、他の多くの人々にとっても同じように。
 
金光:  これは、自分は生きている、そのことばかり考えていますけれども、生かされているんだという。だから生きている自分だけではなく、生かされている自分に気が付くということですね。
 
鍋島:  その通りです。独りよがりな「生きている」という自分だけの生き方を振り返って、「世界のあらゆるいのちと繋がって、私は生かされている」ということが、この縁起に込められていると思います。今日はその縁起による生命観を、解りやすく三つの特徴にあげてご紹介したいと思うんです。先ず一つ目に、「支え合って生かされている」という縁起思想は、人々を宿命論という心の束縛から解放しました。人生は縁と努力によって自由に生かされてくるということです。近年テレビや映画などでよく耳にする言葉に「It,s a destiny」それがあなたの運命です、という言葉を耳にしませんか。例えば誰かと知り合って結婚したら「運命の出会い」と言ったり、会社を経営して成功したら「勝ち組」であると言ったり、現実に起きている出来事を、すべて「運命や勝ち負け」として受け止めようとする傾向があります。仏教の経典には「運命」という言葉は出てきません。それでは何故仏教において「運命」という言葉を使わなかったのでしょうか。もしもすべてが運命によって定まっているならば、この世において悪い行いをするのも、善い行いをするのも、すべて運命であり、幸せや不幸はもう生まれながらに決まっていて、運命の他に何も存在しないことになります。もしも予め私たちの人生がすべて決まっているとしたら、私たちが今努力して生きる意味はどこにあるのでしょうか。運命に対して、仏教が大事にしてきた言葉が「ご縁」と「精進(しようじん)」です。関西の商売人に「儲かりまっか」と尋ねたら「ぼちぼちでんな」とか、「あきまへん。さっぱりです」と答える人が多いかも知れません。でもどうでしょう。中には「おかげさまで、なんとか商売さしてもらってます」と答える方もあります。それはご縁ということだと思うんです。運命によってではなく、さまざまなご縁に支えられ、努力することによって、私が今ここにいるということです。釈尊はこう説いています。
 
生まれにおいて賤しい人となるのではない。
生まれにおいて聖なる人となるのでもない。
行為によって賤しい人ともなり、行為によって聖なる人ともなる。
 
多くの呪文をやたらにつぶやいていても、
人は生まれによって聖なる人となるのではない。
内心は汚物に汚れ、欺瞞にたよっている。
王族でもバラモンでも庶民でも、シュードラでも
精励してつとめ、熱心であり、常にしっかりと
勇ましく行動する人は、最高の清らかさに達する。
 
このように自己と他者の幸せのために、誠実に努力して生きる人こそ聖なる人なのです。次に二つ目には、縁起の見方が、「我が物」という執着から解き放ってくれる働きがあります。金光さんは、「伊呂波(いろは)歌」をご存知でしょうか?
 
金光:  はい。これは「色はにほへど 散りぬるを」という奴ですね。
 
鍋島:  そうです。学校で習われたんでしょうか?
 
金光:  昔、教科書にありました。
 
鍋島:  そうですか。
 
金光:  戦争中の教科書でございますけども。
 
鍋島:  私たちは、現代習っていないので、「いろは歌」の意味を少し尋ねてみたいと思います。
 
いろはにほへと ちりぬるを (色は匂へど 散りぬるを)
わかよたれそ つねならむ  (我が世誰(たれ)ぞ 常ならむ)
うゐのおくやま けふこえて (有為(うい)の奥山 今日(けふ)越えて)
あさきゆめみし ゑひもせす (浅き夢見じ 酔ひもせず)
 
読み方は合っていますか?
 
金光:  それでいいんじゃないでしょうか。
 
鍋島:  姿や形は美しく芳(かぐわ)しい香りを放っていても、あらゆるものはいつか散ってゆく。この世の中で、誰がいったい永遠だろうか。すべては儚く移り変わっていく。自分が相手に為した、してやったという我執の奥深い山々を、今日、越えて生きてゆこう。浅く移ろいやすい夢はもう見るまい。この浮き世に、いつまでも酔わないでおこう。この「いろは歌」の中で、「有為(うい)」という言葉が出てきます。これは「為されて有る」と書いて、自分が為したこと、「これだけあなたにあげたのに、という思い上がり」を表します。ですから「有為」は「煩悩」や「迷い」と同義語なんです。「奥山(おくやま)」というのは、私の心の中にある「拘りの山々」です。自分がとらわれている迷いの山々を、今日越えて、直向(ひたむ)きに精進して生きていこう、と呼び掛けた歌ですよね。忙しい時間を割いて、こうしてラジオ放送に耳を傾けてくださることも、まさしく有為の奥山を越えていく道であると思います。また『華厳経(けごんきよう)』にも、「偏見(へんけん)」の愚かさについて、こんなふうに説かれています。
 
この世のすべてのものは、みな縁によって現れたものであるから、もともと違いはない。違いを見るには、人々の偏見である。大空に東西の区別はないのに、人々は東西の区別を付け、東だ西だと執着するようなものである。
 
こんなふうに縁起の真理は、「我が物」という執着から離脱させる働きがあります。
 
金光:  私たちは、自分という物差しでしかものを見ないというか、自分の枠に填まったものしか受け取らない。それ以外は切り捨てるような傾向がありますから、この言葉はその通りなんですけれども、偏見を除くというのは難しい精進がいるんじゃないかという気がしますね。
 
鍋島:  そうですね。縁起の三つの意義というのは、あらゆるいのちの関係性や調和を重んじます。仏教の生命観は、個人の利益だけを追求して、他を支配するんじゃなく、むしろ相互に理解し合い、あらゆるいのちが共生する世界を願っています。あらゆるいのちは異なっていながらも、相互に関係し合った一つのいのちなんです。金子みすず(大正時代末期から昭和時代初期にかけて活躍した童謡詩人:1903-1930)さんの詩に、
 
「わたしと小鳥と鈴と」
わたしが両手を広げても
お空はちっとも飛べないが
飛べる小鳥はわたしのように
地べたを早くは走れない
わたしが体をゆすっても
きれいな音は出ないけれど
あの鳴る鈴はわたしのように
たくさんな歌は知らないよ
鈴と小鳥と それからわたし
みんな違って みんないい
 
というそんな歌の通りだと、私は思います。『華厳経』に「インドラ網(もう)―インドラの網(あみ)」という考え方があります。世界が網の目のようなネットワークになっていて、その結び目の一つひとつに水晶玉のような宝石、または鈴があり、それが互いに相手を照らし合っています。その玉の一つひとつが人間であるとすると、人間一人ひとりが結び目の網の目に一致していて、互いに照らし合っている、ということです。このようにあらゆる存在は互いに照らし合っています。この仏教の縁起の世界を、ハーモニー(合唱)に喩えてみたいと思うんです。私は、兵庫県県立神戸高校時代に、合唱部に所属して、平田先生の指導を受けて九十四名もの大合唱をした良き思い出があります。一人ひとりの声は小さな力です。それでも腹筋を朝から鍛え、発声練習を繰り返すうちに、全体のハーモニーが熟成されます。ある時「ドミソ」の和音のうち、アルトとベースが、「ド」と歌い、ソプラノとテナーが「ソ」のと歌ったんです。すると、「ド」「ソ」のしか出していないのに、ピタッとピッチが合うと、誰も歌っていない「ム〜ン・・」の音が聞こえてきたんです。誰も出していない音が、九十四名の合唱部員の耳を共鳴板に聞こえてきたんです。縁起というのは、まさにこのハーモニーのようなものです。つまり一人ひとりが自分の音色を生かしながら全員で懸命に歌う時に、一人では生み出せないような美しい共鳴を生み出したのです。即ち縁起による生命観は、一人ひとりの存在の独自性を尊重し、それぞれが専心努力して、他と支え合って生きることです。その結果、一人ではできなかったような素晴らしいハーモニーを、他のあらゆる存在と共に奏でていくことができます。どこかにカリスマ性のある偉い人がいて、その人が世界全体を動かすんじゃないんです。その一人ひとりが、全体において掛け替えのない存在なんです。もう一つ、以前アメリカで研究生活をしていた時に、ある大学で神学者と仏教学者の対話がありました。「宇宙の中心はどこであるか」という哲学的な問いです。初めにその神学者が、「神が宇宙の中心であり、あらゆるものを創造し、世界の調和と秩序を保っています」と、お答えになりました。さてそれに対して、どう仏教学者は答えるのかと思っていましたら、仏教学者のロナルド仲宗根(なかそね)(Ronald Y. Nakasone)先生は、こう答えました。英語で、
 
In this universe,anywhere and everywhere is the center, because all things and beings live in an interdependent world.
 
どんな場所も、如何なるところも宇宙の中心です。何故なら、すべてのもの、すべてのいのちは相互に支え合う一つの世界に生きているからです。このように相互依存の世界では、一つひとつの存在が宇宙の中心であり、掛け替えのない存在です。その掛け替えのない一人の人間が、他を思いやって世間の小さな一隅を照らしていくということが、ついには銀河宇宙全体に調和をもたらすことになります。世界全体を安らぎに導く鍵は、あなたの生き方にあるんです。
 
金光:  こういう世界だと虐めというような問題は起きないわけですけども、現実はなかなか人間のエゴと言いますか、自己主張というのが非常に強くて、自分自身を見失ったところで、虐めが起こったりしているような気がしますね。
 
鍋島:  そうですね。ですから釈尊は、あらゆる暴力的な行為を厳しく否定しています。原始仏典には、こんなふうに説かれているんです。
 
すべての者は暴力に怯える。
すべての生きものにとって生命は愛(いと)しい。
(おの)が身にひきくべて、殺してはならない。
殺さしめてはならない。
(『ダンマパダ(法句経)』一三○偈)
 
ダライ・ラマ十四世は、チベットから亡命をした時、「寛容さは敵からのみ学ぶことができる」とまでおっしゃっておられます。このように仏教は、人間だけでなく、いのちあるものすべての幸せを願っています。今日最後に、親鸞聖人は、いのちをどのように受け止めていたかについて考えてみたいと思うんです。一つのいのちは、時空を超えてあらゆるものと相互に支え合っています。しかしどうでしょう。自分が生きるためには、他のいのちを取らなくてはなりません。親鸞聖人は、人が生きること自体にはらんでいる罪業性を深く顧みました。実際に『口伝鈔(くでんしよう)』第八章には、親鸞聖人が、肉食(にくじき)―肉食(にくしよく)をすることに対して深く内省していたことを示すエピソードがあるんです。ある宴席での出来事でした。お魚の料理が親鸞聖人の前に配膳され、袈裟を身に纏ったまま召し上がられた時、九歳の開寿殿(後の執権北条時頼の幼名)が傍に近寄って、小さな声で親鸞聖人に尋ねました。「他の入道(にゆうどう)たちは、お魚や肉を食べる時には、袈裟を脱いで食べています。親鸞聖人はどういうわけで袈裟を着けたまま召し上がるのですか?」。親鸞聖人は、これに答えて、「私はこのような食事は、たまにしか巡り合わないので、急いで食べようとして、すっかり忘れてしまい、袈裟を脱ぎませんでした」と言いました。すると開寿(かいじゆ)殿が「その答えは嘘に決まっています。きっと深いお考えがあるに違いありません。私は子どもだからと軽くあしらわれたのでしょう」と言って立ち去りました。またある時、前と同じように親鸞聖人は、袈裟を着けたまま、お魚や肉を頂きました。すると、また開寿殿が前の時のように尋ね、親鸞聖人はまた「ああ、すっかり忘れていました」と答えました。その時、開寿殿は「そんなに何もかも忘れてしまうわけがありません。どうか袈裟を着けて食事をする本当の意味をお聞かせください」と迫りました。とうとう親鸞聖人は、その子に対してこう言われました。「稀に人間として生まれて、生き物の命を当たり前のように食らえ、お肉を貪るように食べるのは浅ましいことです。しかしながら穢れた末法の世の今日の人々は、既に仏の戒めを知りません。肉食を絶つことを守る者もなく、破る者もありません。だからこそ同じ食べるくらいなら、手を合わせてその生き物たちを思い、生き物たちが迷いを離れ、悟りに至るようにしたいと思ったのです」。それを聞いた開寿殿は幼いなりに素直に感動しました。何故なら、親鸞聖人が食べられる魚や動物の立場になって、その生き物が悟りに至るように願って、袈裟を着けていたことがわかったからです。このように親鸞聖人は、自らが戒律を守ることさえできない無戒の僧であることを認識しながらも、肉食に対する深い慚愧(ざんき)がありました。親鸞聖人がお肉を頂く時に、合掌して、「かの生類をして解脱せしむるやうにこそありたく候へ」と語っているところに、自分を支えてくれる生き物に対する深い感謝が現れています。このような命に対する慈悲と感謝は、現代の私たちにも、「いただきます」「ごちそうさまでした」という手を合わせる姿勢に受け継がれているように思います。
 
金光:  ところが、給食の時に、「いただきます」と言わせていたら、お母さんが、「もう給食費は払っているのに、なんで頂きます≠ニ言うんですか」という、先生にそういう質問をしたということですね。だからそのお母さんは、お金を払って給食を頂くだけが「頂く」言葉の対象だったわけですね。だから「生き物を頂く」というようなことはまったく欠落していて、お金の目からしか見ていなかったという方があちこちにいらっしゃるようです、現代は。
 
鍋島:  そのお母さんにプレゼントしたいこんな谷川俊太郎(たにかわしゆんたろう)(詩人、翻訳家、絵本作家、脚本家:1931-)さんの詩があります。「黄金の魚」という詩です。
 
「黄金の魚」
おおきなさかなはおおきなくちで
ちゅうくらいのさかなをたべ
ちゅうくらいのさかなは
ちいさなさかなをたべ
ちいさなさかなは
もっとちいさな
さかなをたべ
いのちはいのちをいけにえとして
ひかりかがやく
しあわせはふしあわせをやしないとして
はなひらく
どんなよろこびのふかいうみにも
ひとつぶのなみだが
とけていないということはない
 
一つの命は他の命を奪うことによって成立しています。お金で手に入るものではありません。命が奪われるものたちの深い悲しみのうえに、私の命が成立していることを忘れてはならない。そう谷川俊太郎さんは語り掛けています。殺生してしか生きられないという悲しみを知るところにこそ、生きとし生けるものに対する慈愛が育(はぐく)まれてくるのではないでしょうか。命あるものすべてへの慈しみは、自分の深い慚愧、罪業の自覚から立ち現れてきます。このような縁起に基づく生き方を、もっともよく表したものに、米国仏教会(Buddhist Churches of America-BCA)のお寺で愛唱されている「Golden chain(黄金の鎖)」という聖句があります。この「Golden chain(黄金の鎖)」は、一九○○年代初頭に、ハワイで作成された暗誦文で、小さな子どもから大人まで英語を母国語とする仏教徒に宗派を問わず重用(ちようよう)されています。今日は、日本語にしてご紹介したいと思います。
 
「黄金の鎖」
私は世界中に張り渡された仏の愛でできた金の鎖の一つの環(わ)である。私はこの一つの環を明るく強く保たなくてはならない。私は生きとし生けるものに優しく寛容でありたい。そして私よりも弱いすべての人々を守りたい。私は今、自分の幸福ばかりでなく、他者の幸福のためにできることは何かを知り、清らかで美しい思いをなすように、清らかで美しい言葉を話すように、清らかで美しい行いをするように精進したい。どうか仏の慈悲の金色の鎖の環すべてが強く輝き、私たちすべてがともに満たされた安らぎに到達しますように。
 
この仏の慈悲の黄金の鎖(Golden chain)はあらゆるものが相互に支え合っているという縁起の世界観をよく示しています。しかもすべてが支え合って繋がっているからこそ、私自身がその一つの輪を強く明るいものにし、明るいものと共に安穏(あんのん)を目指していくのです。黄金の鎖の輪である私たち一人ひとりが輝いて、世界を明るくしようという願いは、親鸞聖人の「世の中安穏なれ」の願いに深く呼応しているんではないでしょうか。
 
金光:  そういういのちに対する深い考え方を、もう一度考え直さなければいけないなと思いながら伺いました。どうもありがとうございました。
 
     これは、二十年六月一日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」で放送されたものである