救われるということ
 
                   長岡京市常光寺住職 菅 田(すがた)  祐 準(ゆうじゆん)
                   き き て     金 光  寿 郎
 
ナレーター:  今日は、長岡京市の常光寺(じようこうじ)住職菅田祐準さんに、「救われるということ」というテーマでお話頂きます。聞き手は金光寿郎(かなみつとしお)ディレクターです。
 

 
金光:  仏教の一番基本のところで、お釈迦様が説かれた「人生は苦である」と。その苦に「四苦八苦」というのがあって、その「四苦」の方は、「生・老・病・死」と。「生まれて生きていく」ということと、「年を取る」ということ、「病気になる」こと、「死んでいく」と。それは「病気」と「年をとっていく」ということ、それから「死ぬ」ということの、この苦というのはよくわかるんですけども、「生(しよう)」生まれて生きるということは、そんなに苦なんだろうか、という疑問が、以前、私はずっとあったんですが、この「生苦(しようく)」については、どういうふうにお考えでございましょう。
 
菅田:  今一般的には、「生苦」というと、生まれる時の苦しみとか、あるいは生まれてくるまでの苦しみとか、いろんなことが表現されるわけですけれども、生まれるということ自体が、既に自分から望んでとか、あるいはこういうふうに生まれたいと思って生まれてこれる人は、おそらくいないと思うんですね。それで気が付いた時には、もうこういう自分と出会い、こういう境遇の中で出会い、こういう性格、体、体質、さまざまなものをもって、すべてを自分が望む以前にこう受けていくものがあります。そうしますと非常に自分にとって都合のいいものも頂いて生まれることも勿論あるわけですけれども、どうにもならないものをある意味では背負って生まれてくる。非常に病弱であるとか、あるいは成績などについてみますと、いくら頑張って勉強しようと思っても、それも限度がある。体力、体格、あるいはまた境遇というようなものも、どうにもならないものをみな背負って生まれてくるんじゃなかろうか。生涯これを背負っていきますんで、老、病、死というものも、自ずから境遇の中に、弱い体の人は、病気と闘いながら一生生きていくということになってきますし、あるいは自分は望むべき職業というものを目指しても、その能力に達しられなかったら、いくら頑張ってもそこに達し得ないところに、さまざまな苦しみというものを受けて人生を生きていく、ということになるんじゃないか、と思うわけです。
 
金光:  確かにおっしゃる通り、自分で設計したわけでもないのに、こういう体で、こういう能力も与えられているということですけれども、一方「あれもしたい、これもしたい」という、その気持ちの方は、そういう条件に関わりなく、「あれもしたく、こうもしたい、これもほしい」という、これもなかなかコントロールができないわけで、そこでやっぱり思う通りにならないと苦しみを感じていくようにできているようでございますが。
 
菅田:  そうですね。その辺のところが生きていく中での苦しみでありますけれども、また逆にそこに思いもかけない生きていく中で出会っていくものもありますので、自分も要求しないものにも出会っていくといういい面で、そこにまた生き甲斐というようなものも頂けてくる面もあるんじゃないでしょうか。
 
金光:  そういう状況を、普通若い頃はなかなか自分がどういう状況にいるかということもなかなか自分では知ることが難しいわけですけれども、自分というのもなかなか難しいもんですが、苦しみがどういうものであるか。自分が苦しんでいるのは何で苦しむのかということがわかるということも大事でしょうけれども、それと同時に苦しんでいるのは誰が苦しんでいるのか。自分が苦しんでいるんだ、ということに気が付くとまた違ってくるんでしょうけれども、その辺はその人によっていろいろ違いがあると思うんですが、菅田さんの場合如何でございましたでしょうか。
 
菅田:  なかなか思うようにいかないという面がございました。そういう時にいろいろの植物を見ましても、例えば松の木は松の木として生き、コケはコケ、シダはシダ、それぞれ比較の世界で見ていきますと、なれるなれない、こういう道に歩める歩めない、ということが、そこに欲があって達成されないものは達成されないという世界がそこにあるわけですけれども、力抜いて自分のままに生きていく姿が、松の木になり、あるいはコケはコケというような姿で、それで全うされている点が、そこに何か安らぎが抱かれているように思ったわけであります。仏教は教えるところは、そういう自分のままということでいいんじゃないかというか、そこに安住と言いましょうか、そこからまたそれなりの世界が開けてくるというか、そんなことを感じることがあったわけであります。そこで何か自分は自分のままで自由世界があるんじゃなかろうか、ということを、目覚めさせられたという経験がございます。
 
金光:  そこへいくと、他の人との比較をしなくてもいい世界ということにもなるわけでしょうか。
 
菅田:  そうですね。比較してしまうと、病気の人には、何故こんな弱い身体に自分は生まれてきたんだろう。親は何でこんな身体に自分を生んだんだろうか、というようなことになってくるわけですけれども、不自由の中でこそまた見えてくる世界というのがあるように思うんですね。例えば夜のお月さんなども、昼はほとんど見ることができません。またちょっと日が陰ってきますと、薄らとお月さんがこう見えてきて、真っ暗闇になりますと皓々(こうこう)としたお月さんを我々は見ることができる。星の輝きでもそうですけども、昼間は見ることができません。しかし闇の中でしか見えない星や月というものは、そういうものだろうと思います。制約の中で私たちは、ある意味で違う方向から見ると無限のいのちの輝きとの出会いというのが、そこにあるんじゃないかという気がするところですね。
 
金光:  だから行き詰まってダメだと思っても、それで終わりということではなくて、その時にかえって最も違った世界が見える可能性が十分あるということでございましょうか。
 
菅田:  ほんとにそこがどん詰まりと言いましょうか、どん詰まりにいって、こうああこういう世界があったのかという、そういうことがあるんじゃないかという気がするんですね。ですから、ある程度どん詰まりということが必要なんじゃないか。一生懸命頑張ってみる、努力してみるということがあって、どん詰まりということも起こってくるのかも知れませんけれども、とにかく一生懸命やってどん詰まりというんですかね、そこに今まで気が付かなかった世界、見えなかった世界というか、そのものに、ふっとこう何を見ていたんだろうというか、そういうことに気付かされることがあるように思います。
 
金光:  現実の生活では、思えも寄らぬことがいろいろと目の前に出てくるわけで、今度の東日本大震災にしましても、まったく予期しない出来事が襲ってきているという。そういう時に、何で自分にこういうことが起きるのか、あるいはそれこそ神も仏もあるものかみたいな考え方になる場合もあると思いますし、そう思うのも無理からぬことだとは思うんですけれども、そういう思いがけない出来事が我が身にきた時に、そこでどういうふうに受け取ればいいのか。受け取るということはなかなか難しい面が―災害だけじゃなくて、私たちの日常の出来事でも何でもすんなり「はい、さようでございますか」と受け取れば問題ないんでしょうけれども、なかなかそうはいかないところがあるようですね。
 
菅田:  はい。こちらにおりました時に、阪神大震災というのがございました。私のいる長岡京も、震度五強という揺れがございまして、壁が落ちたり、お墓の石塔が倒れたりということがあったんです。私は二階で休んでいたんですけれども、地震と気付きました時に、一体この家はどちらに倒れるかしらと思って、天井ばっかり眺めていたんですけども、その次の瞬間に思ったことが、「生きているから出会うんだ」ということを思いました。それは戦争体験された方々や関東大震災とか、いろんな体験された方々の話を聞いておりましても、実際こんな大きな地震を体験したことがなかったもんですから、ただ知識で知っているものであったんですけれども、自分が実際こういう体験をしました時に、「生きているから出会うんだ」と。「生きているから出会う」ということを、その時に思いました。それからもう一つは、どうにもならないこと―地震に限らずに、出会っている。人間は生きている限り一生生きて喜びも悲しみも楽しいことも苦しいことも出会っていく。出会いの連続の一生だと思うんですけれども、どうにもならない時というのは、私もいくつか経験がありますけれども、そういう時にじたばたして、どう藻掻いても、あるいは知識をいくらもってきても、あの本になんと書いてあったとかというようなことを引っ張り出してきても、何にもそこで役立たないと言いましょうか、力にならない。ジッとしているしかないというんですかね。しかし時間が―時が過ぎていく中で、何か人間の中に、あるいは魂の中にというんでしょうか、人間の生命の中に、蠢(うごめ)いていくものが、動き出していくものがあるように思うんですね。ですから何もかも打ち拉(ひし)がれてきた中で、自分の意識・無意識を超えて内側にあるものがこう呼び覚ましてくれる。あるいはぼんやりとして見た景色の中に、あ、今日からしっかり生きていかねばならんとか、草花の一輪の花に一生懸命生きているなとかというのを教えられているだけじゃなく、内側の方から何か感じさせられる、触発されて、その時に後ろ向きにしか考えられなかったことが、前向きに転換する時が、時間の経過の中に与えられてくるんじゃなかろうか、ということを思ったことがございます。
 
金光:  これは仏法の話でもそうですけれども、大体自分が何かを欲しいという時には、外から何かをして貰えないかとか、外から手助けがこないかと、外に求めるということが普通だろうと思うんですけれども、今のお話を伺っていますと、外からというよりも自分の内側からその状況に応じて、それまで気が付かなかった新しいことが、思いが湧いてくる。そう思ってくると、もう自分は何も一生懸命外のものに手を出す必要はなくて、先ず内から湧いてくるそういう催しに我が身を委ねてと言いますか、そちらの方向に踏み出すと、また新しい一歩を踏み出すことができる、ということになるわけでございますね。
 
菅田:  私は、蓮の花を長年育ててきておりますけども、それは春先になりますと、チューリップ、あるいはヒマワリとか、育てたことがございます。そういうものを育てていますと、二つの面をいつも教えられるんです。それは蕾が立ってきまして、蕾が一生懸命花を開かせようとする。それは誰しも目に映る光景じゃないかと思うんですね。ところが一生懸命開かそうとする時に、途中で力が何かここで止めようかと思うかも知れない、あるいは力が足らないと思うかも知れない。しかしそこに何かこう吹いてくる風だとか、あるいは太陽の光だとか、降り注ぐ雨だとか、そういうのが花を咲かせようという、咲かせたいというような力がそこに注がれているように見えたことがあるんです。ですから「咲こうとする力と咲かせようとする力によって、花は咲くんじゃないか」。ですから全部諦めきっても、立ち上がれという何かこう目に見えない、そういうものが人間の意識を超えたところであるんじゃなかろうか、ということを思ったことがございます。
 
金光:  今、花の例をお出しになりましたけれども、人間―我が身のことを考えてみましても、最初におっしゃったように、こういう格好で、こういう人間として生まれようと思わないで生まれてきて、しかもそれが赤ん坊から青年になって老年になった私なんかもいい歳ですけれども、なろうと思ってなったわけじゃないのに、こういうふうになっている。ということは、自分がそうさせているというんじゃなくて、それは自分が生きている、生きていると思っていたけれども、実はもう一つ別の力が我が身に働いていたんだと。そういうことを納得せざるを得ない、そこに事実があるわけですね。今のお話の花のように自分の頭の中で考える場合には、そういう大きな働きを先ず無視して、気が付かないで、思いの中で、ああかしら、こうかしらと、考えがちなんですけれども、実は思いのところというのは、全体の大きな働きのごく一部でありまして、そういう大きな働きの中で生かされているのに、自分はこうしなければいけないのができなかった。こう何でならないのかというところで拘って、小さいことに引っかかっていると、本来の生かしている働きとは別のところで、一人困って苦しんでいるみたいなことになるんではないかと思うんですが、何か先ほどの花の例のように、人間の場合も、何か外からのそういう働きかけ、これに気が付くのにはどうすればいいのか。やっぱり先ほどからおっしゃっている困って何も考えることも及ばんというような状況になると、そこから自然にそういう世界への目が開けてくる契機になるようなことが多いんでございましょうか。
 
菅田:  そこら辺はいろんな人によって、またいろいろあるんじゃなかろうかと思いますね。ただ生きているという中には、一日一日一時ひとときが出会いということでありますので、出会いであり、未知の世界になりますので、「諦めない」ということが大事になるんじゃないか、というふうには思っております。ですから生き甲斐というようなものも、最初から自分でこう決めてしまうと、それが達成されなかった時に、非常にこう苦しみ、あるいは悩みというようなことが起こってくるんじゃないかと思いますけれども、比較とか相手というものをおかずに、コツコツと自分が半分楽しみながらというか、楽しみを見出しながらやっていくうちに、出会いていく世界というのがあるように思います。私は書道の方を三十年以上続けておりますけれども、まだ見ない自分の書に出会いたいという楽しみがあるというんですかね、例えば三十年前の字と今の字を書いたものを見ましても、とても同じ人が書いたとは思えない―自分で自分の字を見ながらそう思っていますから―今書いた今の字を見ますと、これが私にとっての最大の出会いだと思っているんです。ですからこっから先、また自分がいのちを全うするまでどんな書に出会えるかというものは、私の楽しみであり、生き甲斐にもなっている一部分でもあります。
 
金光:  その人その人に、その時その時の縁といいますか、周囲と自分との関わり合いというのが、刻々と変わっていくわけで、それを「縁」という言葉で表すとしますと、やっぱりその人その人のその縁というものを、どういうふうに受け取って、それをどう生かされて、あるいはどう生きていくか。その辺のところで、その状況がうまく自分の思うようにならない時でも、改めてそこで足を止めて見ていると、そういう新しい気づきみたいなものも生まれてくる。書道だって二十年前にこういう字を書こうと思ってお書きになったのではないのが、二十年経ってみると、今おっしゃったような違いが自然に現れているという。そういう大きな働きみたいなものがあるということに気が付くだけでも、出会った縁の受け取り方が変わってきますでしょうね。
 
菅田:  そうですね。法然上人も、「悪縁を退けて良縁を結んでお念仏に励みなさい」ということをおっしゃっておられますけれども、縁によって開かれるということが、誰しもが感じることだろうと思います。できるかぎり悪縁を退けるということが、別の面からいきますと、どうにもならない悪縁というものもあるでしょうけれども、それもまた生かし方―なんでもそうでしょうけれども―生かし方ということもまたそこで大切になってくるんじゃなかろうかと思います。
 
金光:  そういう意味では、物事を考える場合に、その一面だけみるのではなくて、その一面を見る目をちょっと休んでみると、また別の面も見えてくるということもあると思うんですが―話が変わるかも知りませんが、仏法で「助かる」という場合に、現実に生活でお金が足りなくて困っている時に、「じゃ、どうぞこれを使ってください」という方が現れると、これは「助かった」と言えると思いますけれども、世の中はそうもうまくいかないんで、そういう場合に、うまく誰かがお金を「どうぞ」と言ってくださらなくても、それはそれでまた生き方みたいなものを考える機縁にもなるわけでしょうし、その条件がこうならなければ助かったと言えないといような、そういうなんか条件付きの助かるというのと、仏法の助かるというのは、ちょっと違うような気がするんですが、その辺はどういうものでございましょう。
 
菅田:  そうですね。自分のところに安住できた時が助かったかというふうに今思うんですね。しかし安住できるかどうかというのも、その人になってきますので、例えば人生の長さについて、非常に短い人生だったという人、あるいは非常に長生きできたというような人、非常に短い場合には「無念である」というようなことも言われますし、長寿の人であったら「おめでたい」と言われたり致します。それでは病気と闘いながらの一生であったという方もあるわけですけれども、なかなか安住ということはできない、思いにくい。安住ということもなかなかできにくいことだろうと思いますが、「その世界でこそ」ということを、「こそ頂けた」というか、あるいは「出会いた」というようなこともよく聞く話でもあります。
 
金光:  仏法の世界だと、なんかそういう完全に行き詰まってしまうという、閉じられてしまった世界の中に、だけにいるんじゃないという、そういうおおらかさみたいなのがあるんじゃないかという気がするんですが。
 
菅田:  何か生きているということが、全部を自分で生きているというふうに、大体みな思っている。私自身もそう思ってきている面があるわけですけれども、生まれるということ自体が、自分の力で生まれるんじゃなくて、生まれさせるというか、受け身だと思うんですね。ですから生まれされた以上は助かるようになっているというか、あるいはこの世に安心して生きていいんだよというか、勿論誰しもそうだと思うから安心して生きていると思うんですけれども、「そのままでいいんだよ」という感じが、「そのまんまでいいんだということを感じた時には救われている」ということになるのか、と思っていますね。「如来さん」という言葉をよく言うんですが、形になった目の前にある仏像だとか、あるいはこれこれこういうものが如来さんと言うんじゃなくて、何か人間の身体も心も魂も貫いている大きないのちと言うんですか、そういうものがこの自分の意識の意識を超えてあるように思うんですね。ですから「生きている」ということも、「自分の力で生きているんじゃなくて、同時に生きている感覚と同時に、それを生かしている大きないのちというのが貫かれている」ということを、こう感じた時がございます。そういうものを、別の言葉で言えば、「如来さん」という文字、言葉というのが、非常に的確と言うか、私にはピッタリくる言葉だと思って、折に触れては「阿弥陀如来さん」というふうに、「如来」という言葉を頂いてきているんです。
 
     これは、平成二十五年八月四日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」で放送されたものである