本当の自分
 
 
            福井県霊泉寺住職・青森県恐山菩提寺院代 (みなみ)  直 哉(じきさい)
一九五八、長野県出まれ。早稲田大学第一文学部卒業後、大手百貨店で勤務の後、一九八四年、曹洞宗にて出家得度、大本山永平寺入門。以後修行生活に入り、十九年間の修行生活を送る。一九九五年(平成七年)から福井県霊泉寺住職、青森県恐山菩提寺院代に就く。
            き き て               金 光  寿 郎
 
ナレーター: 今日は、「本当の自分」について、福井市霊泉寺(れいせんじ)住職で、青森県恐山(おそれざん)院代(いんだい)の南直哉さんにお話頂きます。聞き手は金光寿郎さんです。
 

 
金光:  今日は、「本当の自分」というようなことでお話をお伺いしたいと思うんですけれども、最近いろんな学校なんかで「自分さがし≠テーマにしなさい」とか、そういう形で、子どもさん、学生さんなんかに課題を与えていらっしゃる学校もあるようでございますけれども、「自分さがし」ということになってくると、禅宗では、昔から「己事究明(こじきゆうめい)」と言って、その「自分の自己を究明する」というのが、伝統的に長い間修練・訓練を受けて続けていらっしゃるわけですけれども、南さんは、本当の「自分さがし」という言葉をお聞きになると、どんなことをお考えになりますですか?
 
南:   その言い方というのは、学校の生徒さんだけでなくて、ごく若い人とか、最近では中年の人にもあるんです。そういう話は時々相談されたり、話を聞いたりする。その時に私が思うのは、「本当の自分」という言葉で、何をその人が問題にしているのか、ということなんです。よく聞いていると、要するに「本当の自分」というのは、「今の自分がどうすればいいのか教えてくれるもの」みたいなんですね。つまり今の世の中は、「自分で何かをしなきゃいけない」ということを強調する社会ですから、先ず「個性的でなければいけない」。それから最近の風潮では、「自己責任」とか、「自己決定」とか、そうふうに言われる。しかし決定したり、選択するには、根拠が要りますから、価値判断の。何に基づいて決定するのか、ということが常に問題になる。ところがこれはそう簡単には見出せないですから非常に不安になると思うんですよ。問題は、「自分さがし」という言葉で言っている「自分」というのは、ひょっとしたらその決定根拠になり得る何かではないか、あるいは決定の根拠を教えてくれるような何かでないか、という感じがするんですね。要するに「自由であり、自己決定をする」ということは、実は非常に重荷なんではないかと思うんです。これ気持ちはよくわかるんですよ。僕も、禅寺に行ってですね、規則で雁字搦(がんじがらめ)になるわけです。だから最初非常に苦しいわけですよ。ところが、あれ楽なんですね、慣れると。つまり、やることが全部決まっていて、これさえやってれば、誰にも文句を言われないという時期というのは、実は一番楽なんですよ。私は永平寺におりましたから、永平寺で一番辛かったのは、まる三年経って、四年目、五年目ぐらいになって、もう周りが誰も、「あなた、こうしなさい、ああしなさい」と言われなくなった時なんですよ。そこから先に、自分が何をするのか、何を目がけて修行していったらいいのか、自分で設定していくことの方がずっと大変なんですよ。
 
金光:  「自由」と言いますわね。「自らに由る」と。みんな「自由に生きたい」とか、「自由にしたい」とか、言いますけれども、いろんな欲望が何でも自由にできるのを自由と考える。
 
南:   普通はそう思うが、しかし「欲望」というのは、人を振り回すものであって、人を自由にするものではないんですよ。「自由」というのは、人間にとってもっとも切実な問題になるのは、「選択する選択肢がある時に、何かを決める」という時が、人間の自由で―だから「自由」というのは単なる欲望ではなくて、価値判断とか―価値判断をした以上は責任を取るということと、セットになった問題だと思うんです。従って欲望に振り回されている状態を「自由」と名付ければ、それも辛いですが、常に何かを決定して責任を負っていくという行為も、もの凄く辛いと思うんですね。そうすると、それを何かに預けたいということになると、それを教えてくれる人とか、教えてくれる何かに向かって、強く結び付いていくということが起こり得ると思うんですね。本当は「自分探し」という言葉で求めているのは、自分の生き方の大事な選択なんかを任せられる何かでないか、と。
 
金光:  「任せる」前にですね、自由に、例えばブランド物を買うとか、物は悪いから買わない。良い物だから、みんなが買っているから自分も買う。なんかその基準は外にあって、行動しているケースが多いように見えますね。
 
南:   「欲望」というものも―人間の欲望ですね―飢えたから食べるんじゃなくて、美味しいものを食べたいみたいな、あるいは寒いから着るんじゃなくて、ブランド物を着たいとかという時の、そういったものを、つまり動物とは別の水準のある欲を、敢えて「欲望」というならば、これは自分の内部にはないですね。
 
金光:  そうですね。
 
南:   つまり教わらない限りは、美味しいものもわからないでしょうし、それから何が価値あるブランドかというのも、誰かから必ず教わっているんであって、
 
金光:  あそこに百人行列している食べ物の店があるから、そこへ行く。
 
南:   そうです。欲望を作っているのは、自分の内部ではない。
 
金光:  そうなってくると、いよいよ自分が決断して、これでこうしようと決める基準がないとなると、
 
南:   これは苦しいと思うんですね。ただその時にある絶対的な何かを求めるということになると、それが例えば宗教の提示するような理念になるかも知れない。あるいはそうでないかも知れない。ある人にとっては絶対的な価値基準が金になる人もいるかも知れないですね。ただ、そういったものに対する強いコミットが、結果的にある生を豊かにするかどうかというのは、別問題だと思うんですね。つまりある一つの価値観念みたいなものというのは、何故それが価値観念として自分にとって重要なのか、ということを、ちゃんと自分で見極めていないと、今度は欲望の場合に、その価値観念に振り回されるようになると思うんですね。つまり一度ある価値観念に取り憑いてしまうと、今度はそれが導いていく先が必ずしも自分の生活にとって、あるいは人生にとって負担になったとしても、もう捨てられないですね。一度、例えば自分が信じてしまった価値観念ということを、そう簡単には捨てられない。何故なら信じた自分が愛(いと)おしいからです。
 
金光:  そうですね。いろんな方にお会いしますけれども、若い青年があるグループに入って、彼は「生き甲斐を見付けた」というふうに思っているようですけれども、実はその顔は仮面みたいな顔で、思い込みの方がけっこういますね。
 
南:   そうなんです。共通するのは「自分探し」をするような人というのは、もの凄く真面目な人がいるわけですよ。そういう真面目な人が、ある価値観念に出会って、それに強コミットするとですね、みんな似たような顔になるんですよね。その顔というのは、先ず表情が非常に乏しいです。それでにこやかなんですけれども、自然な笑顔でなくて、何かを貼り付けたような笑い方をする。何か演技しているか、笑わされているような感じなんです。何故そうなるのかというと、自分が選択した筈の価値に飲まれてしまって、それに従属しているからだろうと思うんですよ。さまざまな思想や宗教が世の中にあるわけで、それがある人の生き方に大きな利益をもたらしたり、大きな安心をもたらしたり、充実をもたらすことは確かだと思うんですが、やはりその人の生が豊かにならんといかんと思うんですよ。あるいは、その人の人生が、生き易くならんといかんと思うんです。一番大事なのは、その教えなり思想を受け入れたが故に、その人を巡る縁が豊かさになるのか、ならないのかということがとても大事なことだと思うんです。何故かと言えば、仏教では、人の存在というのは「縁」ですから、人との関係がその人をつくっていくとするならば、ある教えや思想がその人の人間関係を貧しくしてはいけない。つまりその人がある思想や信仰を信奉することで、必ずしもその思想とは関係ない人たちも、その人と付き合って、いいなと思わんといかんと思うんですね。
 
金光:  枠の中に入って閉じ込められてしまうような感じになってしまうと、これは本当の自由じゃないですね。
 
南:   そうです。オウム真理教が出た時、私の属しているのは曹洞宗(そうとうしゆう)ですから、山に籠もって修行する、あるいは坐禅するっていうのが似ている、出家っていうのが似てるっってよく言われたわけですよ。で、仏教はもともと出家という制度をとっていますから、家から離れて僧団に入るっていうのがスタイルなので、一般の人にとっては誤解されるわけです、似たようなもんだと。どうしても違うのは、ああいうカルトチックな宗教は、家族や部外者と、その信者をとにかく切断して、囲い込もうとするわけですね。ところが私が出家した時に、師匠に言われましたけれど、とにかく「お父さんとお母さんの了解を必ず貰って来い」とかですね、出家したら家族や部外者と接触することは、一定期間勿論ダメですけど、ある過程に来たら当然接触してかまわんわけですよ。つまり監禁させられて、ある建物の中に囲い飼ってもう出さない。つまりその人が本来持っていた縁まできれいに囲うなんてことはあり得ないですよ。私は、そういうことを考えた時に、ある価値とか思想、あるいは宗教みたいなものを本当に消化するのは、よく自分と教えとの関係をよく見ないといかんと思うんですね。若い人にとっては、今宗教に免疫がないですから、もっと精神的に余裕のあるうちから、苦しくないうちから、宗教家と付き合うべきだと思うんですけどね。私はそうしてくれると有り難いなと思うんですよ。世間話でいいですからね。宗教家というのはどういうものかということを、ある程度若いうちから触れていた方がいいと思いますね。
 
金光:  それはその通りだと思いますけれども、もう一つ具体的な形で、そういう外部のものに振り回されるところから解き放たれる方向、これはどういう方向にいけばいいんですか。
 
南:   これはいろいろ考え方があるでしょうから、私は仏教者の僧侶の立場で言うならば、先ず自分自身の中に、何か絶対的な根拠があると考えることは、先ずやめた方がいいと思いますね。何かある方向で、ある宗教や思想を信奉して従っていくと、いつかは絶対的に正しい自分と絶対的に正しい判断基準を提供して貰える、というふうには、思わない方がいいんじゃないかと思うんですよ。
 
金光:  そうしますと、「これさえあれば、あなたは安心ですよ」と、「これに頼りなさい」と言われるようなものは警戒した方がいいよと。
 
南:   警戒した方がいいと思いますね。つまりある宗教とか、ある教えとか、さまざまな考え方があるでしょうけども、それは生きるその時の道しるべにはなっても、ゴールにはならない、と思うんですね。つまり人は生きる、もしくは進んでいく時に、道路標識は必要じゃないですか。混乱しないためにはね。だからそういうものと考えるならいいんですが、これが終着点だという線を、宗教や思想が引いてくれるとは思わない方がいいと思いますね。上手に生きていく道しるべとしては使えても、「道の最後はここです」というふうに、線を引いてくれて、「ここに確実に届くようにしてあげます」ということを、あまり大きな声でいうことは、即信じてはいけないんじゃないかと思うんですね。
 
金光:  そうしますと、「終点はここだ」と、「終着はここだ」ということではなくて、方向としてどっちに行くかという場合に、選ぶ基準みたいなものは・・・、
 
南:   あるんです。基準というのは、何かを測る道具じゃないですか。語弊があってはいけないんですけど、宗教であろうと、思想であろうと、それは一つの生き方の手段でありテクニックとして考えた方がいいと思うんですよ。つまり生きがたい人生を最期まで生ききるには、どうやるのか、と言った時の大切な導きであり、場合によっては杖になると思うんです。大事なのは生きがたい人生を最期まで生ききって、最期に、生きていて良かったなと思うかどうかであって、何らかの真理を体得しなければダメな人間だ、とは言えないと思うんですね。
 
金光:  それはそうですね。そうすると、日々生きている以上は、いろんな事柄が次々と思っているものの周囲との関連で展開しますわね。その中で、じゃどういうふうに生きればいいのか。おそらく周囲で決められて、嫌々やっている人もいるだろうと、自分でこれで良いと思っている人もいるでしょうけれども。
 
南:   難しいことは僕よくわからないんですが、よく若い人と話している時に、「本当の自分」とか、あるいは「本当に自分のやりたいことがわからない」という人と喋っている時に、考え方を変えればいいんじゃないかなと思う時があるんです。その一つは、「本当の自分なんぞどうでもいいんであって、その時にその人が何が一番大切なことで、誰が一番大切な人なのか」ということを考えてみればいいと思うんですね。「自分が一番大事だと思うことを、大切にしていけばいいし、自分が一番大切な人を裏切らないようにしていけば、自然に道は開けるんじゃないか」と思うんですよ。もう一つは、「自分がやりたいことがわからない」と言うんですが、それは「やっていないうちから、わかるわけがないわけですから、そんなこと言っていたら永遠にわからない」と思うんですよ。それよりも、先ず「自分が何の役に立つのか。どうやって人の役に立てるのか」というのを、先ず考えた方がいいと思うんですよ。その次に、それが自分のやりたいことと完全に一致していたら、非常に幸せでしょうけども、そうなれる人は多くはないと思うんです。そうすると、例えば職業なんか選ぶ時に、一番大切なのは、自分がしたいことができればいいんですけども、誰であれ、仕事である以上は一番最初に考えなければいけないのは、「自分はいったいどんなことで人の役に立つのか」ということを、私は考えるべきだと思うんですよ。これだったら自分が人の役に立つと確信できることをやるべきだと思うんですね。そうでないと、ほんとに自分がやりたいこととか、本当の自分ていうのは、頭で考えていたら、堂々巡りになって絶対にわからないですね。
 
金光:  現在の一般的な主張としては、「自分の意見を確立して、自己主張をしなさい。自分で行動しなさい」というようなことが、先ず一番最初に、そういう言葉からスタートしますね。で、なくて、今おっしゃったことは、自分と自分を取り巻く周囲の人との関係の中で、自分が何を、どの人にどうすればそれが一番役に立つかと。そこからスタートしなさいと。
 
南:   と思うんですよ。というのは、自分がやりたいこととか、自分の考えと言った時に、そう言われた人間は、さほど自分のことをまだ知らないし、わからないんです。もっと問題なのは、それを言っている方も実は多分わかっていないと思うんですよ。つまりわかっているかの如くやっているんで、その人に、「アンタの自分って何ですか?」と聞いたら、多分答えられないと思うんですね。ですからこれはジレンマに陥る可能性が非常に高いんで、むしろ他者との関係を考えたり、他者との縁を大切にしていく中で、自然に見えてくるものがあると思うんですよ。「あ、これなら自分に向いているな」とか、「これが自分が一番嬉しいことなんだな」みたいな、そういった実感ですね。その実感が自分の中に積み上がっていくと、それが自然と自分と言われるものの輪郭を作っていくと思うんですよ。その時に初めて、自分の像というか、自己イメージみたいなものが、確かなものとして、実感して、ただの観念ではなくて手に入ってくるんじゃないかなと、僕は思うんですけどね。
 
金光:  お話を伺っていると、何もしないうちから頭の中で考えてみたところで、現実の生きた働きとしては生まれてこないと。
 
南:   無理だと思いますね。だから僕は、学生時代とても団体生活なんかはできるタイプの人間ではないと思っていたんですよ。
 
金光:  ご自分で?
 
南:   ところが、僧堂とか道場に入ってみて、完全な団体生活ですからね。
 
金光:  団体生活はきついところと聞いていますから。
 
南:   そうなんです。ですから入ってみて、暫くは厳しくて怒られるわ、叱られるわ、の連続でね。
 
金光:  食事の仕方一つとっても厳しく、お箸の使い方から・・・
 
南:   そうなんですよ。それで入ってみたら、自分がどうなんて考える閑がないんですよ。言われたことだけ必死になってやっているうちに、気が付いたら完全に団体生活の中にいるんですよ。そうしてみると、最初の自己イメージは何だったのかな、と。その道場で二十年近くいたんですけどね。人から、「あんたはちょっとおかしくないですか?」と言われましたからね。だけど、嫌で二十年も居られないですからね。
 
金光:  居心地が良かった?
 
南:   そうだと思うんですよ。私なんか学生時代やサラリーマンの頃は、とてもプライバシーのないようなところにはいられる人間ではないと、ずっと思っていたんです。私はその時の実感として、自己イメージというのはあやふやだなぁと思ったんですね。
 
金光:  永平寺ですと、道元さんの有名な言葉に、「仏道を習うというは自己を習うなり。自己を習うというは自己を忘るるなり」という言葉と、今おっしゃっているような、その周りの人たちの関係の中でやってみて、それでそこに自分のイメージができるでしょう、ということをおっしゃいましたが、それと「自己を忘るるなり」というようなこととの関係というのは、これはどういうことでしょうか。
 
南:   あの言葉は、それぞれ解釈があると思うんですけども、ポイントとして、あれは「自己を知る」と言わないとこが問題だと思うんです。
 
金光:  言っていませんね。どこにもありませんね。
 
南:   あそこには「自己を習う」という言葉はあるんですが、「自己を知る」という言葉はないんですよ。そうすると「習う自己」というのは、何なのかということです。普通「習う」と言ったら、やり方ですよ。何かの仕方、方法を習う。あるいは勉強だったら、問題の解き方を習うんだと思うんです。そうすると、それは多分頭で考えて「これだ」とわかることではなくて、「ある種の生き方みたいなものを自己だ」と言っているんだろうと思うんです。あそこで道元禅師が言いたいのは、多分仏教者として生きる人が、道元禅師が一番問題にしたわけですね。仏法に生きる人、それが彼にとって重要な自己だったんだと思うんです。そうすると、あそこで言っている「自己」というのは、あくまでもある生き方の形であって、人間というのは自己という形でしか生きられないから、その生き方を正しくしていかなければいけないという言葉だろうと思うんです。従って「自己を忘るる」と言った時に、それは問題が仏法であって、あんたの個人的な、あなたの今のありようは大事だ、という問題ではないんだと思うんですね。それは今のは仏教ですけども、一般の社会で言えば、自己というイメージですね、それまでの自己イメージを固く守っていて、この内部の中に何か確実なものを見付けようと言ったって、これ原理的に無理だということだと思うんですね。自己というのは縁として開かれるもんです。私の実感でも、最初の絶対に無理だと思っていた団体生活に、一ヶ月か三ヶ月で、自己なんか考えている閑がない。つまり私は、今「直哉(じきさい)」ですが、その時は「直哉(なおや)」ですから、「南直哉(なおや)」から、永平寺の修行僧「直哉(なおや)」に三ヶ月ですよ。これは卑近な例ですよ。道元禅師はそうは思わないですが、その時は絶対そうだと思っていた自己イメージというのは、これはやっぱりもう幻想に近いというのがわかったですね。自分を抱えて行き詰まっている人というのは、何人もいるわけで、意外にそれいい加減だということに気付くと楽になることもあると思うんですね。
 
金光:  そうですね。今のことをお釈迦様が、最晩年に「自分を頼りにしなさい」、そして同時に「法を頼りにしなさい」と。まったく自分も頼りにならないわけですから。
 
南:   あの二つの言葉は、結局「法を頼りにする自己を頼りにしなさい」と読むべきなんですよ。「法と自己と別々だと、これはいつまで経っても分裂していますが、「法灯明・自灯明」というのは、法に頼る自己が、あなたの自己なんだから、それを頼りにしていくのが仏教徒だ」と言いたいんだと思うんですね。
 
金光:  それで現在の一般の言い方と全く違う、仏法では「無我」ということを、これもよく誤解される言葉なんですが、「自己」ということと、それから「無我」ということの関係はどういうふうにお考えでしょうか。
 
南:   「無我」という言葉は、滅私奉公とは違うわけで、要は自分探しの対象になるような、確実な何かというものを設定しても、それは観念で現実には決してあり得ない、あるいは設定しても間違うということを言いたいんだろうと思うんです。
 
金光:  そういう自我はあり得ません、と。
 
南:   あり得ない。確実に押さえられる自我なんてないということだけを言いたいんだろうと思うんです。だからそれをひっくり返して「では今いるあなたは?」と言えば、それ以外のものの関係の中で構成されているものだというふうに言いたいんだと思うんですね。ですから「無我」と言った時に、我が儘を言わないとかという説教か何かに短絡されると非常によろしくないと思うんですよ。それを言いたいんではなくて、もっと深刻な問題なんですよ。本当の自己を見付けて間違っちゃう人というのは。無我という教えは、自分自身に対する強烈な拘りとか、自分探そうというある種の強烈な志向を解毒させるものだと思うんですね。
 
金光:  だからこそ、「怠りなく最後までつとめなさい」という言葉が生きるわけですね。
 
南:   そうです。ですから「法を頼りにしていかない限りは、自己は成り立たない」ということになれば、やはり自分の内部ですね、その自分の内部に何かを求めて執着していくということは、仏教としてはやはり正しい対応ではない、というでしょうね。問題は仏法であって、あんたの個人的な、あなたの今のありようが大事だという問題ではない。一般の社会でいえば、それまでの自己イメージを硬く守って、この内部のなかに何か確実なものを見付けようといったって、原理的に無理だと思うんですね。何故ならそれは自己っていうのは縁として開かれるものだから。
 
金光:  そこのところがわかって、次の行動をいうと、「諸悪莫作(しよあくまくさ)衆善奉行(しゆうぜんぶぎよう)」というか、悪いことをしなさんな。善いことをしなさいよ、という非常に平凡な言葉になると。
 
南:   問題なのは、悪とか善とかいうのを考える水準がいっぱいあるじゃないですか。仏教徒は仏教を前提に考える。そこには戒律もあれば、いろんな教えがある。しかしいずれにしても、私が思うのは、一般ごく普通の人がやれることと言ったら、一つは、思い込みをやめることです。思い込みだけでものを言わないというのは非常に大事で、これはおそらく仏教で「如実知見(によじつちけん)」という教えになっていくと思うんです。もう一つ、「善悪」というのが一概に言えないわけです、いろんな立場がるから。しかし私が思うのは、人との縁を貧しくさせるものは良くないです。物理的に付き合っている人が、多くあるとかないとかというんじゃなくて、その人の人間関係を全体として、質・量ともに貧しくさせていくものは、これは避けた方がいい。質・量ともに豊かに高まっていくんならば、その人にとってはとても良いことで、縁がよくなるということは、相手も必ず良いはずなんです。そうしたらそれは少なくとも悪くないことだと思いますね。本当の自己というものの思い込みをなくしたところに、またそれまで考えられなかった世界が広がる。意外に簡単というか、気付く時は簡単に気付くと思います。
 
金光:  どうも有り難うございました。
 
     これは、平成十九年四月に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」で放送されたものである