私の般若心経
 
                  小説家、作詞、作曲家 新 井(あらい)   満(まん)
一九四六年、新潟県新潟市生まれ。上智大学法学部卒業。上智大学グリークラブ(男声合唱団)に所属するも、入院退部。電通に入社し環境ビデオ映像の製作に携わるかたわら、小説・歌などの創作活動に入る。二○○六年定年退職。一九八八年(昭和63年)の『尋ね人の時間』で第99回芥川賞受賞。二○○一年(平成13年)、妻をがんで亡くしたふるさとの友人を慰めるために『千の風になって』を作曲。作曲にあたって原詩である 『Do not stand at my grave and weep(直訳:私のお墓で佇み泣かないで)』 を訳して自ら歌い、CDに録音した。プロの歌手によって歌われ、この曲は100万枚を越える大ヒットとなった。二○一一年(平成23年)、NHK「ラジオ深夜便」で朗読し反響となった詩、『希望の木』を写真詩集として刊行。これは、津波で七万本あった高田松原の松の木が、たった一本を残して全滅した事実を踏まえて作られた詩で、初版印税の全額と一冊につき一○○円の復興応援金を寄付するチャリティー本となっている。
                  き き て      上 野  重 喜
 
ナレーター:  今日は、「私の般若心経(はんにやしんぎよう)」と題して新井満さんのお話です。新井満さんは、芥川賞受賞の作家で、「千の風になって」の訳詞・作曲でもお馴染み、長く大手広告会社のプロジューサーとしても活躍されました。新井満さんのお話「私の般若心経」、聞き手は上野重喜ディレクターです。
 

 
上野:  新井さんは、『自由訳般若心経』とか『子どもにおくる般若心経』とか、そういった本も出されておりますけれども、この『般若心経』には、特別なご関心をお持ちのようなんですが、『般若心経』へのご関心のきっかけについてお伺いしたいんですが。
 
新井:  私が初めて『般若心経』を読んだには、大学一年生の夏だったかと思います。読むことは読みましたですが、ちんぷんかんぷんでしたね。有名な『般若心経』とは、どういうお経かと。それは昔から「空(くう)とは何かについて説かれたお経だ」というふうに言われてきましたけども、この「空とは何か」の「空」がよくわからないんですね。表面的に理解できても、心に深く納得することがどうしてもできない。読んだ時に思ったのは、謎のようなお経だなと。そのうち『般若心経』のことが忘れてしまいました。で、『般若心経』と再会したのは、お袋のお蔭でございました。今から二十年前になりますけれども、一九九四年の二月二十四日なんですね、忘れもしない。私の故郷新潟で、お袋が亡くなったんですね。心不全でございました。九十一歳でございましたけど、このお袋の職業は産婆―今でいう助産師でございますね。新潟の街中の数千人の赤ちゃんを取り上げたという産婆でございました。で、二月二十五日に通夜で、翌日二十六日告別式で、その日の夕方、お袋が大切にしていたタンスの中を整理してみたんですね。タンスの中にはさまざまなものが納められていました。古いアルバムが出てきました。貯金通帳と判子もありました。それから手紙の束ですね、。学生時代からズッと、私がお袋宛に投函した、もう数百通の手紙の束が出てきましたね、そっくり。そして最後の最後に奇妙なものを発見したわけですね。それは文庫本の『般若心経』だったわけでございます。お袋は何故こんなものを後生大事に閉まって置いたんだろうな、というふうに思いました。 文庫本もつらつら見たら、表紙には折り目がないんですね。ということは、読んだ形跡がないということですね。もしかすると、お袋はお守り代わりのようなつもりでこの小さな『般若心経』の文庫本をタンスの底に忍ばせたのかな、というふうに思ったりしました。その夜、私、母が遺してくれた『般若心経』を紐解いて見ました。で、読み進むうちに、『般若心経』が説いている「空の哲学」がだんだん解ってきた。最初に読んだのは、大学一年生の時ですけど、あれからいろんな歳も取ったし体験もしたということで、二度目に読んだ時は、「空の哲学」がだんだんわかってきた。『般若心経』が説いている「空の哲学」というのは、大きく分けると二つあるなというふうに、その時感じました。一つ目は、「色即是空(しきそくぜくう)」です。二つ目は、「空即是色(くうそくぜしき)」でございます。大切なお袋を亡くしたばかりの私は、その日、悲しみと絶望のどん底にいたと思います。いくらお袋の名前を呼んでも戻って来てはくれないわけでございます。形あるものはすべて儚くつかの間の存在であるということを、どうやら「色即是空」という四文字は伝えようとしているらしいんですけども、私はその時に、まさしく「色即是空」の渦中におりまして、全身が「色即是空」に詰まっていたと言っていいと思います。で、お袋も形あるものの一つでありました。だから滅びてしまったんだ、ということがわかりました。この世に存在するすべてのものは、一つの例外もなく、いつかは滅びるんだと。そうであるならば、どんなに悲しくてもその現実をあるがまま受け入れるしか方法はないんではないかと。つまり滅び、あるいは死に対する拘りを捨てなさいと。潔(いさぎよ)く受容するしかないんではないか、ということがだんだんわかってきたわけですね。で、「色即是空」の方は、どうやら実感することができたんですけども、問題は後半の「空即是色」の方なんですね。この言葉には、どんな意味が込められているんだろうと、いろいろ考えましたが、私、その時に広告代理店のイベントのプロジューサーとして、かなりややこしい仕事を抱えていたんですね。それは第十七回ノルウェーのリレハンメルの冬期オリンピック大会の仕事だったんです。閉会式の最後に、必ず次期開催地のデモンストレーションが行われるんですね。この時の次期開催地というのは、日本の長野だったわけで、私の仕事というのは、次期開催地デモンストレーションの総合プロジューサーという仕事でした。で、リレハンメル・オリンピックの閉会式は、一九九四年二月二十七日に予定されておりました。私が企画した「次期開催地長野にいらっしゃい」という、そのプランニングの内容は、ヘリウムガスを注入した直径二十メートルもある六個の巨大な花びら型のバルーンを作ってアリーナーの中央で一つに連結させて、空に向かって上昇させる。これを真上から見ていると、長野オリンピック大会の公式エンブレム(emblem)であるフラワーの形が完成する。そのフラワーを作るというプランでございました。日本ではいつでも成功していたんですけども、リレハンメルに行ってリハーサルを繰り返していたんですが、常に失敗するわけなんですね。どうしてかと言いますと、リレハンメルという街は、地形がちょっと複雑らしくて、地上は無風でも、上空は常に不安定な風が吹いている。花の形をなしてくれないんですね。「成功するか失敗するか、これは五十対五十だなと。これ神頼みしかないな」というふうに思いながら、一旦は日本に帰って来たんですね。で、文庫本の『般若心経』を読んでいて、最後に私は観念を致しました。風だけは人間いくら頑張ってもコントロールできないよな、と。人間の予測を遙かに超えたもう気が遠くなるぐらいたくさんの原因と条件が積み重なった末に、風はきっと吹くんだろうと。その風に吹かれながらバルーンは上昇するだろうと。そうであるならば、バルーンがどんな具合に上昇するのか、そんなことは誰にもわからない。やってみなければわからない。成功するにしても失敗するにしても、もう生じた現実をあるがままに受け止める、それしか方法がないのではないか。そういうふうに考え始めました。つまり既に起こってしまったお袋の死≠ナすね、これに対する拘りを捨てたように、これから生じてくるいろんな生(せい)≠ナすね、これに対しても拘りを捨てよ、というふうに、その時に思ったわけですね。ですから死にも拘らず、生にも拘らない。人事を尽くしたその後は、もう大いなるものに全てを委ねて、潔く受け止めよう、と。そして成否に関わらず、生起(せいき)した現実に感謝することにしよう、と。そう思った瞬間ですね、不思議ですね、肩から力がふっと抜けていくのがわかりましたね。そうすると、気持ちが凄く楽になりました。翌日二月二十七日、リレハンメルで閉会式が行われました。その模様は二十八日の早朝に衛星テレビ中継されました。その一部始終を、私はお袋の骨壺の傍で見ておりました。骨壺の前には、文庫本の『般若心経』が置かれておりました。で、結論だけ申し上げますと、デモンストレーションは、結果は大成功でした。これが現地のスタッフが頑張ったお蔭だったんですね。私はスタッフに感謝しました。それから天にも感謝しました。リレハンメルの風にも感謝しました。そして『般若心経』にも感謝しました。「起こってしまった死にも拘らず、これから起こる生にも拘らない。すべてを受け入れなさい」と、そういうふうに教えてくれたのは、『般若心経』だったからですね。
 
上野:  新井さんは、『般若心経』と出会われて、そしてリレハンメルのオリンピックの時に、最後にお委せの心境になられたということでございますけれども、さらに『般若心経』の自由訳というのをわかり易い日本語でなさっているんで、そういうことも含めて『般若心経』の意味するものを、さらにわかり易くご解説頂けますでしょうか。
 
新井:  お袋がお守りの代わりにしていた『般若心経』だったんですけども、読んでみると実に深い哲学が秘められていると。もっと知りたいなと思いまして、書店に行きました。もう何十冊、何百冊という、『般若心経』の解説本が出ているんですね。私、主要な文献をほとんど目を通しました。結論を申し上げますと、やっぱりいまいちよくわからないんですね。解説書のほとんどは、『般若心経』が如何に素晴らしいかということを誉め讃えているご本が多いんですね。でも私が知りたいのは、たったの二百六十二文字の言葉のその通りの意味を知りたいんです。なかなかそういう私の思うような本が見つからなくて、ある日私は決心しました。そうだ、この『般若心経』とことん分かり易く、現代訳―翻訳してみようかなと。で翻訳したらきっと天国にいるであろうお袋も喜んでくれるのではないかなと思いまして、結論は『自由訳般若心経』という本になったわけでございます。翻訳を始めましてから、ちょっと十年ぐらいかかりましたね。二百六十二文字に十年というのは随分時間かかったなと思いますけども、『般若心経』というのは、「空とは何か」ということについて説いているんですよ。その「空とは何か」ということが分かれば、すべて『般若心経』の謎は解けるというふうに私は思いました。それで早速結論を申し上げたいと思います。「空とは何ぞや」と。一言で申し上げたいと思いますが、「空とは変化する」ということだったんですね。名詞ではなくて、私は動詞として、この空を捉えた方が分かり易いと思います。「変化」とか「無」とか名詞でなく、「変化する」というふうに、動詞として捉えた方がいいと思いますね。「色即是空」が『般若心経』の心髄と言っていいと思いますけども、そうすると、「色即是空」というのは、どういう意味になりますかと言いますと、「万物は変化する。万物は変化した結果、滅びる。万物は変化した結果、滅びて無になる」というのが、この「色即是空」の私流の解釈と言っていいと思いますね。これね、「色即是空」万物変化した結果、滅びて無になるという一種の哲学・美学と言っていいと思いますけども、これ実は日本人が大好きな美学なんですね。例えば『平家物語』を思い出してください。「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」。「ご〜ん」という、あの平家物語の冒頭は、ほとんど「色即是空」をそのまんま表現していると言っていいと思いますね。それから『方丈記(ほうじようき)』の「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」(鴨長明(かものちようめい))。これほとんど「色即是空」そのままじゃないですか。夏目漱石もそうです。三島由紀夫もそうです。太宰治(だざいおさむ)そうです。川端康成(かわばたやすなり)もそうです。村上春樹(むらかみはるき)もそうかも知れませんね。日本の文学、昔から今日に至るまで、ほとんどの日本文学の根底には、この「色即是空」万物変化した結果、滅びるという、この美学が根底に流れていると言ってもまあ過言ではないんじゃないかなというふうに思いますね。では、「色即是空」をもっとはっきりさしてくれるように説いて見ましょうか。先ず男性のみなさんに申し上げたいと思います。あなたは先週の日曜日、競馬場へ行ったでしょう。朝家を出る時には、財布の中に十万円の現金を入れて行きましたね。朝、家を出る時には、意気揚々と勝ってくるとは勇ましくという感じで出て行かれました。ところが夕方帰宅した時には、なんとなくしょんぼりしていましたね。で、あなたは財布の中を確認しました。ゼロ円でしたね。つまり朝十万円、夕方ゼロ円になっていました。こういうことをなんと呼びますか? 「空」と言います。つまり変化したんであります。万物は変化した結果、滅びるというふうに申し上げましたけれども、お金も実は万物の一つなわけですね。そのお金は変化した結果、財布の中も「空」になったと。ですからもしご主人が十万円すって腐っていたとするならば、どうか奥さん、傍に行って慰めてあげてください。「あなた、それこそが空なのよ。「色即是空」とは、そのことなのよ」と言って、慰めてあげてください。この件について、お釈迦さんはなんと言っているかと言いますと、お金なんでいうものはね、つかの間の存在なんだ。いつまでもあると思うな親と金。そういうものに、いつまでも執着する拘るのはもう止めにしなさい。拘りを捨てたら、心が平安になるよ。拘りを捨てるということを、別の言葉でいうと「悟る」と言います。次にもう一つ、例を挙げて申し上げたいと思います。今度は女性のみなさんに申し上げたいと思います。女性のみなさんの関心事はやはり美貌ということでしょうか、あるいは若さということでしょうか。美貌・美人と言えばですね、昔からクレオパトラか小野小町かと相場が決まっておりますけれども、小野小町には有名な和歌がございます。「花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに」。あんなに美しかった小町も歳月には勝てませんね。歳を取ると皺も増えて、皮膚も枯れて、一体全体あの若かった頃の色香(いろか)はどこへ行ってしまったのかしらと。あぁぁ・・という溜息をつきながら鏡を見る日々でございますね。若さが風と共に去って行ってしまったんですね。こういう状態を「空」と言うんであります。つまり変化したんであります。これが「空」の真相だったんであります。「色即是空」だったんであります。万物は変化した結果、滅びると。さて、この件についてお釈迦様はなんとアドバイスしているかと言いますと、若さなんていうものは相対的なものなんだよ。だってそうでしょう。六十歳のご婦人と二十歳の若いお嬢さんの肌を比べてみたら、それは六十歳のご婦人は負けてしまいますわね。でも、二十歳のお嬢さんも生まれたての赤ちゃんの肌には絶対かなわない。つまりすべて美しさとか若さなんていうものは相対的なものなんだ。しかもつかの間のものなんだと。だからそんなものに拘ってはいけませんよ。拘りを捨てたら、きっと心が平安になれますよと。拘りを捨てることを別の言葉でいうと何と言いますか? 「悟る」というわけであります。もうおわかりだと思います。あらゆる存在―万物、この世界に存在するすべてのものですね、万物というのはお金もそうだし、文明、地位、出世、若さ、美貌、いのち、形あるものも無い物も、すべては変化した結果、滅びて無になる。悉(ことごと)くつかの間の存在でしかない。そのようなつかの間の存在に、あれこれ執着してはいけません。もう拘るのはもう止めにしなさい、拘りを捨てなさいと。『般若心経』を、一言でいうならば、この「拘りを捨てなさい」という、この言葉に尽きるんじゃないかなと思いますね。古代インド語で「パンニャー(paJJaa)」という言葉がございます。これは「智慧」という意味なんでございますけども、これに「般若」という漢字を当てたんですね。そうすると、「般若」というのは「智慧」という意味になります。「パンニャー(般若)」その意味は「智慧」。つまり『般若心経』というのは、智慧のエッセンスという意味になります。即ちこの般若(智慧)を働かせて、早く悟りなさいという提案、これが『般若心経』二百六十二文字のメッセージだったというわけです。昔から『般若心経』と言えば、「色即是空」と決まっておりますが、これは全体の半分でしかないんですね。後の半分はどこにあるかと言いますと、「色即是空」の継ぐ後ろに登場します「空即是色」これが後の半分と言っていいと思います。この意味を私流に解釈すると、こういうことになります。万物は変化した結果生まれる。万物は変化した結果、再生する。一生懸命仕事をしたらお金が生まれますよね。滅びる文明がある一方で、勃興する文明もあります。お爺ちゃんが亡くなる一方で、赤ちゃんがオギャーッ!といって生まれてまいります。ではとりわけ生まれてくるということについて、もっと分かり易く説いてみたいと思います。「空即是色」毎日毎日さまざまなものが生まれてきますけども、虫も花も鳥も空の雲も富士山もエレベスト山も、この地球だって、この宇宙だって、遠い昔のある日この瞬間に生まれてきたから、現在存在しているわけですね。しかしそういうものたちより、もっと身近に生まれてきたものがあります。みなさん自身なわけです。みなさんがこの世に生まれてきたということは、どういうことなのか。それはみなさんのお父さんとお母さんが、ある日ある時愛の交歓をしたからというわけでございます。その結果生まれてきたわけです。ところがそのお父さんにも、お父さんとお母さんがいます。そのお母さんにも、お父さんとお母さんがいます。ズーッと続いているわけでございます。ここで質問したいと思います。みなさんから数えて、十代前まで遡(さかのぼ)りますと、一体何人のお父さんとお母さんがいるでしょうか? 答えを申し上げます。千人ですね。みなさんから数えて二十代前まで遡ると、一体何人のお父さんとお母さんが必要ですか? 答えを申し上げます。百万人ですね。百万人ものお父さんとお母さんが全部揃わないと、あなたはこの世に生まれてこなかった。つまり百万人の絆が必要だということです。これをなんと言いますか。「因縁(いんねん)」と言います。生まれてくるということは、無数のさまざまな原因、つまり「因」とさまざまな条件、即ち「縁」が寄り集まって生まれてくるんです。この因縁の果ての果ての果てに、あなたのいのちが誕生したというわけでございます。私たちのいのちというのは、もうほとんど奇蹟のような存在と言っても過言ではないと思います。では最後の質問です。みなさんに何故生まれてきたんでしょうか? その理由は一体何ですか? 考えたことがありますでしょうか。私なりの回答を申し上げたいと思います。それは「役割を果たすためではなかったか」。私のお袋の職業は産婆―助産師でした。九十一歳で死ぬまで、その日も現役の助産師でした。彼女の口癖がございまして、「どんな赤ちゃんにも役割があってさ。役割がなくて生まれてくる赤ちゃんは一人もいないよ。天才の赤ちゃんには、天才なりの、凡人の赤ちゃんには凡人なりの、きっと役割があったからこそこの世にオギャーッ!と生まれてきたんだわさ」よくそういうふうに言っていたのを覚えています。私の母は決して学問のある女ではありませんでした。しかし助産師・産婆という仕事を通じて、悟ったいのちの哲学というのは、お釈迦さんが悟ったいのちの哲学とまったく一緒だったと言っていいと思います。では私の『自由訳般若心経』の中の一部分を朗読してみたいと思います。
 
あなたが座っているその地面に
ころがっている小石や彼方に見えるヒマラヤ山脈と同様、
あなたもまた、この世に生まれてきた。
 
今、あなたをとりまいている虫や花や魚や鳥と同様、
この世に生まれてきたあなたとは、
いったいどんな存在なのだろうね。
それは、あと何年、あと何時間生きられるかもわからない、
つかの間の存在だ。
今は生きているが、あっというまに滅び去ってしまう、
かげろうのようなかわいそうな存在だ。
 
だがね、
つかのまの存在ではあるけど、
あなたは意味もなく、
この世に生まれてきたわけではない。
無数の様々な原因と条件が寄り集まって、
生まれてきたのだ。
つまり、生まれる意味があったからこそ、
生まれてきのだ。
そのことを思うと、
不思議な気分になるね・・・。
そう、今、生きているあなたとは、
奇蹟(きせき)のような存在であると言っても、
過言ではない。
まことに、ありがたい存在でもあるのだよ。
 
しかも、あなたは、たった一人でこの世を生きているわけではない。
他の人間たちはもちろんのこと、
あなたはあなたをとりまいている虫や花や魚や鳥や
無数のいのちと共にこの世を成しているのだ。
その中のたった一つのいのちが欠けても、この世は成りたたない。
彼らはあなたの親であり、子どもなのだ。
そしてどのいのちとも深い絆で結ばれていて、
助けたり助けられたりしながら生きているのだ。
その絆を、大切にしなさい。
そしてあなたがこの世に生まれてきた意味を考えなさい。
なぜあなたは、
この世に生まれてきたのか?
 
それは役割≠はたすためなのだ。
自分以外の他者と、
人間以外の無数のいのちのために、
何ができるか。
あなたでなければはたせないあなただけの役割をはたすために、
あなたはこの世に生まれてきた。
 
もう一度言おう。
こだわりを捨てて生きなさい。
そして、
いただいたいのちに感謝しながら
自分の役割をはたしなさい。
 
観自在菩薩と数百人たちの修行僧たちは、
合掌しながら、口々に唱和した。
「ありがたきかな、
般若心経」
 
上野:  今日は、『般若心経』について長年研究を重ねてこられた新井満さんに非常に分かりやすく『般若心経』をご解説頂きました。ほんとに有り難うございました。
 
     これは、平成二十六年十一月二日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」で放送されたものである