聖書によむ「人生の歩み」G自由・罪
 
         関西学院大学名誉教授・東京女子大学元学長 船 本(ふなもと)  弘 毅(ひろき)
ナレーター:  聖書によむ「人生の歩み」その第八回「自由・罪」。お話は、関西学院大学名誉教授で東京女子大学元学長の船本弘毅さんです。
 
船本:  秋も深まり十一月、霜月(しもつき)を迎えました。日本の深まりゆく秋の景色は心打つものがあります。しかし相次ぐ自然災害を経験し、多くの犠牲者があった年、何か複雑な思いで、この時多くの方々が迎えておられるのではないでしょうか。人生の諸相を聖書に聞きつつ考えてきましたが、今月は「自由と罪」の問題をご一緒に考えてみたいと思います。人間は誰しも自由を求めます。誰の束縛も受けず、自由でありたい、開放感を味わいたいというのが、人間の本能的な欲求であり願いであると言ってよいかも知れません。ある意味では人類の歴史は、自由を求めて闘ってきた歴史であったということができるかも知れません。自由というと、私たちは自分が自分の思い通りにできること、誰の指図も受けないで、やりたいことをやれることだと考えます。そしてその自由は、しばしば極めて自己中心的であり利己的であると言えます。宗教改革者のマルティン・ルターが、『キリスト教者の自由』についてという本を書いたことは有名です。彼は、一五二○年頃に、宗教改革の三論文と呼ばれるものを相次いで出版したのですが、その中で一番最後に出され、一番小さいものが『キリスト者の自由』でした。これはラテン語版とドイツ語版が出されましたが、原書はわずか二十数ページのほんとに小さいものでした。因みに岩波文庫では三十九ページに過ぎません。ラテン語版は「ローマ教皇レオ第十世に奉る書」という献本辞が巻頭に付され、ルターは、「わたしは教皇に対立しようとするのではなく、ただ「神の言葉の真理のために」この書を書きました。これは見かけはみすぼらしい小冊子に過ぎませんけれども、その意味の理解される限りでは、キリスト教生活の全体がその内に含まれています。そして貧しいわたしは、これ以外に奉仕できる何をも持っていませんと記しています。ルターは冒頭に有名な二つの命題を掲げました。
 
一、キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しない。
二、キリスト者は、すべてのものに奉仕する僕であって、何人にも従属する。
 
このルターの二つの命題は、パウロが書いた「ガラテヤの信徒への手紙」の五章の一節と十三節に基づいています。五章の一節は、
 
この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛(くびき)に二度とつながれてはなりません。
 
五章の十三節は、
 
兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。
 
と記しています。このルターの『キリスト者の自由』は、歴史的には宗教改革の根本精神を明らかにし、宗教改革運動が行わねばならなかった必然性を明らかにしていますが、同時に今の時代、東日本大震災の後の時代を生きている私たちへの強いメッセージが、そこに含まれていると思います。二つの命題は、相反する二つの概念を一つにしています。「君主」に対して「僕」、「従属しない」に対して「従属する」、「自由の身にしてくださった」に対して「自由を愛によって仕えるために用いよ」と記しています。この矛盾した二つの概念が、どう結び付くのか。あるいは何故この二つが結び付かねばならないのか、これが問題であります。日本には数多くのキリスト教学校があります。それらの学校はいずれも「建学の精神」と呼ばれる創立者の祈り、建学理念を大事にしています。かつてキリスト教学校教育同盟の教育研究委員会の責任をもっていた時に、加盟校の「建学の精神」と、その目的とするところを短く解説した『建学の精神』という小冊子を編集して出版したことがあります。その当時、百三校の学校法人が同盟に加盟していましたが、『建学の精神』の中に用いられている言葉の中で、もっと多かったのは「奉仕」「サービス」という語でした。人間は、一人ひとり神の愛の中に生かされている掛け替えのない存在であることを認めて、その人間が神の愛に応えて、神と人とに仕える歩みをするよう、人間形成を目指すキリスト教学校が、その建学の精神の中に「奉仕」「仕える」「サービス」という言葉を多く用いているのは、ある意味では極めて自然なことであります。しかし問題は、この「奉仕」「サービス」という言葉が、本当に正しく理解され受け止められているかどうか、ということだと思います。「サービス」という語は、本来神を礼拝することを意味していました。そして「真実なサービス」とは、自分を犠牲にしても人々に仕えることを意味していました。しかし今日、私たちの社会では、「サービス」とは物の値段を引いて貰うこと、人から何か便宜を図って貰うこと、つまり自分が得をし有利になることを意味するものとして使われています。本来この語がもっていた「他者のために仕える」ことではなくて、「自分が人から何かをして貰う」ことが、サービスだと考えられているのではないでしょうか。人間は、本能的に仕えられること、自分が高められることを求め、そのことを良しとします。「仕えること」はできるだけ避けたいと考えます。ですから「仕えられるためではなく、仕えるために」というイエスの歩み、あるいはキリスト教が説く人生の歩みは、人間の願望とは、逆の方向を指していることになります。ルターの『キリスト者の自由』は、内容的には第一部と第二部に分けられますが、第一部では、信仰が問題にされ、人間は外的なものによって義とされたり、自由にされたりするのではなくて、それをなし得るのは、ただ神の言葉であり、人間に求められていることは、神の言葉を信じ、受け入れる信仰だと主張し、ルターの特色ある主張、sola fide(信仰のみ)、ただ信仰によってのみを強調しています。このsola fide(信仰のみ)の主張は、カトリックの功績思想に対立し、パウロのいう「人は律法の行いによってではなく、信仰によって救われる」という福音(ふくいん)の真理を明確に表現しています。第二部では、具体的な人間の生き方、即ち行為、倫理が問題とされています。人間の行為は、自分を誇るためや、自分の名誉のためではなくて、神の恵みによって救われたことへの感謝と応答であることが強調されています。隣人への愛の故に、倫理はキリスト者にとって重要な課題であることが明らかにされています。救われるために、私たちは何の功績も業も求められません。自分の力や自分の努力によって救いを獲得しようとしたり、あるいは獲得することができるのだと考えること自体が、既に不信仰であり、誤りもあり、罪なのです。ただ神の恵みへの応答として、神を愛し、人を愛し、神に仕え、人に仕えて生きることが勧められています。既に述べたように、神は私たちを律法と罪から解放して自由にしてくださいました。福音は私たちに、キリストにある自由を語り、さまざまな束縛から私たちを解放して生かす力です。ルカ福音書の十五章に、イエスの喩え話の中でももっとも有名なものといわれる「放蕩息子のたとえ」が記されています。ある人に二人の息子がいたのですが、弟は父に自分の財産の分け前を要求して、その全てを金に換えて遠い国に旅立ったというのです。当時のユダヤの社会では、弟の分け前は兄の半分以下と定められていましたから、弟が自分の分け前を早く分けて貰って、街に出て自分で一旗揚げようとした気持ちは理解することができます。弟は全財産を懐に入れて遠い国へ旅立った時に、自分の前途には「自由」と「希望」が広がっていると感じたことでしょう。父の家を離れれば離れるほど自由が増すと考えただろうと思います。しかし弟は、街で放蕩の限りを尽くしてすべての財産は失い、食べることにも窮し始めます。そこで我に返った、正気に返った弟は、父の家を思い出し、父の家に戻ろうとします。彼は元来た道を引き返し、帰って来た弟を、父は温かく迎えたというのです。外なる自由を求めて旅立った弟は、内なる真実の自由のある父の家へ帰って来た、戻って行った、とこの喩え話は語っています。「束縛されないことが自由である」と考える私たちに対して、聖書は、「真実の自由は自らの意志によって、必要な時には自分の望みや行動に制限を加えることをも含めた人格的決断の自由」だと語っているのです。コリントの教会で「偶像に供えた肉」が問題になりました。偶像に供えられた後の肉が払い下げられて、安く手に入るという現実があったのでしょう。しかし偶像に供えられた肉を食べることは、信仰を汚(けが)すことになると考える人たちがいました。パウロは偶像そのものが実際には存在しないのだから、偶像に供えられた肉を食べたとしても、私たちが汚されることはないと考えていました。しかしそのような信仰が持てない弱い信仰者がいるとすれば、「食物のことが私の兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかえないために、私は今後決して肉を口にしません」と決心したのです。パウロの語る自由は、このような深さと愛をもつ自由でした。神のみ心をなすため、また他者と共に生きるために、彼は喜んで自分の自由に制限を加えることができたのです。そしてこのような自由こそが、福音によって与えられる真実な自由だというのです。パウロは、先に述べたように、「ガラテヤの信徒への手紙」の五章一節で、「キリストは私たちの自由にしてくださった」と宣言しました。しかし五章十三節では、「その自由を愛によって互いに仕えなさい」と勧めました。自由へと解放してくださった、と語られた自由が、ここでは「自由への召し」として語られているのです。キリスト者にとっては、自由とは、解放を意味すると共に、神の恵みの元でその自由を受け入れ、それに応答して生きることへの「招き」であり「召し」でもあるんです。それは別の言葉で言えば、この世の戒めや習慣が作り出した「〜してはならない」「〜しなければならない」と言った束縛から、私たちを解放する自由であると共に、神によって許されて、神との正しい関係に立つことを良しとされた人間が、恵みに押し出されて、神に導かれて、神に向かって生きるようにという「召し」召命(しようめい)を受けるということでもあったのです。ですから真実に自由に生きるということは、命令され、束縛されて生きることより、遙かに厳しい生き方への召しでもあると言えると思います。私たちがこの世で行う良いこと、善行の多くは、仕方なく、あるいは義務や義理があるからなされることが多くあります。時には、今良いことをしておけば、いつか自分にも良いことが返ってくるだろうという計算や打算に基づいていることがしばしばあります。そこにあるのは結局は、「自分のために」ということになります。しかし聖書の語る自由な生活は、自分で選びとって喜びをもってなされる歩みを指しています。自由は愛において、「〜からの自由」に留まらず、「〜への自由」という深まりをもっているのです。私たちはここで、パウロが、「与えられた自由を、肉に罪を犯させてはならない」と語っていることに注目したいと思います。神によって作られた最初の人間は、エデンの園に住むことを許されながら、与えられた自由を用いて、神の言葉に背き、罪を犯し、神から「お前はどこにいるのか」と問われる存在になったと「創世記」の三章は記しています。自由は、希望の道へ、罪に導く道へも通じています。今年(二○一四年)は、夏目漱石が「こころ」を朝日新聞に連載を始めてから百年になってので、四月からタイトル、カット、日付は、百年前のものを再現して連載が始められました。「こころ」はおそらく日本でもっとも広く読まれている漱石の作品ではないかと思いますが、執筆された一九一四年は、第一次世界大戦が七月二十八日に始まり、日本も八月二十三日に参戦した世界の歴史が大きく動いた年でした。「こころ」は、主人公の「先生」と、先生を慕う「私」との会話で物語が展開するのですが、先生が私にある時、こんな忠告をしたという場面が出てきます。「もし君のうちに財産があるなら、今のうちに能(よ)く始末をつけておいた方がよい」と。そして先生は、家族のことや兄弟のことなど聞いた後に、「みんな善い人ですか」と尋ねます。私が、「別に悪い人間というほどのものはいないようです。大抵田舎者ですから」と答えると、先生は、次のように鋭く追求するのです。「田舎者は都会の者より、かえって悪い位なものです。それから、君は今、君の親戚なぞの中に、これといって、悪い人間はいないようだといいましたね。しかし悪い人間という一種の人間が世の中にあると君は思っているんですか。そんな鋳型に入れたような悪い人間は世の中にあるはずがありません。平生はみんな善人なのです。少なくともみんな普通の人間んです。それが、いざという間際に、急に悪人に変わるんだから恐ろしいです。だから油断ができないのです」。先生の恐ろしいほどの剣幕に、私が驚いた様子が克明に記されています。漱石の「人はいざというとき、悪人になる」という有名な宣言です。私が初めて「こころ」を開き、この箇所を読んだ時に受けた衝撃の記憶は、今も消え去ることなく鮮明に残っています。世の中には思い掛けない事件が続発しています。思い掛けない人が事件に巻き込まれたり、事件を起こしたりします。良い人だと多くの人から見られている人が、実はそうでもなかったということがしばしば起きています。事件が起きて、容疑者が逮捕されて、マスコミや近所の人に、その人のことについて聞き込みに行くと、ほとんどの場合、「あの人は良い人でしたよ。こんな事件を起こすとは思いもしませんでした」という答えが返ってきます。露骨に悪口を言って、自分の品格を落としたくないという気持ちがそこには働いて、インタビューでは良いことを言おうとする気持ちがあるかも知れません。しかしほとんどの場合、普段はその人はごく普通の人であり、決して悪人でも嫌われ者でもなかったのだろうと思います。しかし、人はいざという時、悪人になることがある。人間とは何なのか。人間は善人なのか、悪人なのか。これはとても難しい問題と言わざるを得ないと思います。「ガラテヤの信徒への手紙」で、自由の問題を論じたパウロは、「ローマの信徒への手紙」の七章で、人間の罪、人間の内なる罪と悩みを問題にしています。パウロは率直に告白します。
 
わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。
わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝致します。
(ロマ七・十九―二○、二四―二五)
 
偉大なパウロの言葉だけに、驚くとともに深く心に突き刺さる言葉でもあります。この「わたし」については、多くの解釈がなされてきました。第一に、「自伝的なわたし」と解して、これはパウロ自身の体験的告白であるとする説。第二には、「修辞的・一般的なわたし」と理解して、普通の人間の姿が明らかにされているのだとする説。第三には、「救済史的なわたし」と解して、救済史の進展をわたしの告白という形式で叙述しているのだと見る説などがその主なものです。またこの「わたし」は、回心以前のわたしなのか、回心以後のパウロなのかも意見が分かれています。これらの問題は、学問的な詳細な検討を要するテーマですけども、今時間的制約もありますから省略をせざるを得ませんが、私自身は、パウロはこの「ローマの信徒への手紙」において、既に神の前における人間を見つめてきたこと、そしてその人間は問題に満ち、神の前では罪ある人間、罪深い存在としか言いようのない人間であったこと。そしてそのような人間の姿と、パウロは決して無縁ではなかったことなどを考慮に入れれば、ここで問題にされている「わたし」は、パウロを含めた私たち人間の姿、即ち主体的な一般的である人間のありのままの姿が語られていると理解してよいと思っています。しかもその罪の人間が、福音の光に照らされて明らかにされているとみてよいと思っています。ですから敢えて言えば、信仰の立場からみた律法の下にある人間の姿が描かれていると言ってよいのではないでしょうか。そして信仰は、このような人間のありのままの現実を直視する目と勇気を与えてくれるものだと思います。内在する罪の問題を論じるパウロの議論は重いのですが、特に「ローマの信徒への手紙」の七章の十五節は衝撃的な語り掛けです。
 
わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。
 
初めて聖書に触れた時、まだ文語訳聖書が使われていましたけれども、それは名訳でしたがより厳しいものでした。
 
わが行ふこと我しらず、我が欲する所は之をなさず、反って我が憎むところ之を為すなり。
 
この句を読んだ時、自分のことを言われていると感じました。正しくありたいと願いつつ、そう生きられない自分に悩んでいました。聖書には多くの人間が登場します。聖書は、「かくあらねばならない」というような模範的な人間を、お手本のように記しているのではなくて、ごく普通の失敗ばかりしているありのままの人間を書き記しています。人間の美しい面のみでなく、悪い面、汚れた面、見られたくない面も、ありのままに描き出しています。「わたしは、自分のしていることが分かりません」とパウロが言った時、「分かる」というところを、彼は、「ギノースコー」という語を用いていますが、これは「知る」「認識する」という意味と共に、「承認する」という意味を持っています。パウロは、「自分がしなければならないを行わず、憎むことをしている、その自分自身を、わたしは承認することができません」と言っているのです。パウロはこのような人間の現実に目覚め、それを直視しています。そして「人間には建前と本音がある」とか、「人間はどうせこんなものだ」というふうに片付けてはいないことに、私たちは注目しなければならないと思います。パウロは自分の中には、律法を認め、それを行おうとする自分がいるのに、他方には自分の欲しない悪を行う自分がいる。しかも前者は希望に留まり、後者は実行にまで至っている。この深刻な現実を直視して、その自分を「死のからだ」と言わざる得なかったのです。神の意図に従って生きることが、信仰に生きる生だとすれば、これはまさに信仰の本質に関わる重要な問題でありました。そしてその中でパウロはなお絶望に陥るのではなくて、「ローマの信徒への手紙」の七章二十四節でこう語っています。
 
わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。
 
「だれがわたしを」という「わたし」は、パウロ自身であり、それはまた私たちすべての人間を指しています。その意味では、これは悲痛な祈り、嘆きにも似た祈りです。しかしその祈りは二十五節で、
 
わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝致します
 
という感謝の祈りに繋がって行きます。パウロはこの間に、何の説明も言い分けもしていません。そしてそれは聖書が繰り返すことでもありました。聖書は説明や理由付けや弁解をしないのが信仰の世界だというのです。人は絶望の底から神の恵みを力強く仰ぐのです。そこで人間は、何もできないし、する必要もないのです。人間は、ただ神の救いの恵みを信じ、受け入れ感謝するのみなのです。私たちは、与えられた自由を、ただ、罪に機会を得させるために用いるのではなく、愛によって互いに仕えるために用いたいものであります。だらしない人間に過ぎないとしても、その一人ひとりは神の愛の中に生まれ、育てられ、守られているのです。
 
     これは、平成二十六年十一月九日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」で放送されたものである