随所に主となる―臨済禅師の世界
 
                  海老名市大谷観音堂住職 小 林(こばやし)  義 功(ぎこう)
昭和二○年神奈川県生まれ。四二年中央大学卒業。五二年日本獣医畜産大学卒業。五五年得度出家。臨済宗祥福僧堂に八年半、真言宗鹿児島最福寺に五年在籍。平成三年高野山専修学院卒業、伝法灌頂を受く。五年より二年間、全国行脚を行う。大谷観音堂にて行と托鉢を実践。
                  き き て       金 光  寿 郎
 
ナレーター:  今日は、海老名市(えびなし)の大谷(おおや)観音堂住職小林義功さんに、「随所(ずいしよ)に主となる」というテーマで、中国の唐時代の禅僧臨済(りんざい)(臨済義玄(りんざいぎげん):中国唐の禅僧で、臨済宗の開祖:−867)禅師の世界についてお話を頂きます。小林さんは、昭和二十年生まれ。禅宗で六年、真言宗で六年の修行の後、日本全国を托鉢行脚(たくはつあんぎや)した方です。聞き手は金光寿郎さんです。
 

 
金光:  今日は、「臨済の世界」ということで、唐時代の中国の禅僧である臨済(りんざい)禅師の『臨済録』なんかで、我々が知ることのできる、どういう生き方をしたかというところでお話をしたいんですが、随分有名なお言葉があるようで、私たちが知っているのでは、例えば「随所に主となれば」という言葉があるようでございますが、「随所に主となる」というのを、小林さんはどういうふうにお考えになっていらっしゃいますでしょうか?
 
小林:  随処に主となれば、立処みな真なり(随処作主 立処皆真)
 
これは『臨済録』の中でも特に有名な言葉なんですけれども、ここで一番注意すべきことは、この「随所」というところですね。ここのところがおそらく一番のポイントになってくると。つまり随所というところは、至る所どこにでも、という、こういう意味になってくるわけですね。通常私たちが、「禅」と言いますと、大体禅堂の中でもって、雲水たちが単布団(たんぶとん)の上にズーッと坐りまして、黙々として坐禅をする。あるいは警策(けいさく)(曹洞宗では「きょうさく」という)を持ってパチパチと叩く。禅堂の修行というのはなかなか厳しいものだと。そういう姿をテレビかなんかでもってこう映しますと、「あ、これが禅なんだ」と。「禅というのは坐ることか。坐禅をすることだ」と、そういうふうに大体みなさん方、ご理解を頂くんですね。ところが実際ここに出てくるのは、「随所」なんですね。ここのことについてなんですが、江戸時代に白隠(はくいん)(臨済宗中興の祖と称される江戸中期の禅僧:1686-1769)禅師という有名な禅宗の禅僧がおられますけれども、この方が、
 
道中(どうちゆう)の工夫は静中(せいちゆう)に勝(まさ)ること百千億倍(動中工夫勝静中百千億倍)
 
と言っているんですね。私はこれを一番最初の頃、「百千万倍」と思っていたんですね。ところがとんでもない話で、「百千万倍」でも大きいんですが、これが「百千億倍」なんですね。そうすると、この「道中の工夫」道中の工夫というのは、私たちの眼を使い、耳を使い、口を使い、手を使い、足を使う、これが「道中」なんですね。ですから私たちの日常生活、あるいは社会生活、その中における工夫なんですね。この工夫というものは、静中の工夫、つまり坐禅―静かに坐っている、そしてその中でもって工夫をする。それに勝ること百千億倍というんですから、これは天地ほどの値打ちの違いがあるんだぞ、と。禅はまさにその道中の工夫にある、ということ。ここのところが、一つの大きなポイントだろうと思うわけなんですね。じゃ、そこの今度は、日常生活、あるいは社会生活におけるその真っ只中における禅とは何か。つまりそこの中における仏さんとは一体何か。これは『臨済録』の中で見てみますと、
 
道流(どうる)。心法(しんぽう)形無(な)うして、十方(じつぽう)に通貫す。眼に在(あ)っては見と曰(い)ひ、耳に在っては聞と曰ふ。鼻に在っては香を嗅ぎ、口に在っては談論し、手に在っては執捉(しゆうそく)し、足に在っては運奔(うんぽん)す。本(もと)(こ)れ一精明(いちしようみよう)、分れて六和合(ろくわごう)と為(な)る。
【道流。心法無形。通貫十方。在眼曰見。在耳曰聞。在鼻嗅香。在口談論。在手執捉。在足運奔。本是一精明。分為六和合。】
 
「道流。心法形無うして」道流というのは、修行仲間たちよ、というようなことですね。「心法」これは一言で言ってしまえば、「仏さん、あるいは仏さんの働き」と言ったらよろしい。その心法―仏さんの働きというものは、「形無うして」ですから、姿・形が見えませんよ。手で触ることもできないし、耳で音を聞くこともできない。如何にも何にもないように一見みえる。これが仏であり、仏の働きなんですよと、こういうわけですね。それじゃその仏さんは、目に見えないんだけれども、姿・形はないんだけれども、「十方に通貫す」ということ。十方に通貫するということは、ありとあらゆるところ、つまり「随所にある」ことですね。これを私たちの身近なところで引き付けて、具体的に『臨済録』は示しておりますね。これは「眼に在っては見と曰ひ」眼にあっては見るという仏さんがそこにあるんじゃないですか、こういうわけです。それから「耳に在っては聞と曰ふ」聞くという仏さんがそこにある。「鼻に在っては香を嗅ぎ」匂いを嗅ぐ、そういう仏さんがある。あるいは「口に在っては談論し」口にあってはお話をする、あるいはお喋りをする。そういう仏さんが口にある。「手に在っては執捉し」手にあっては物を掴む、物を離す、そういう働きをする仏さんがある。さらには「足に在っては運奔す」足の仏さんは自分たちの身体をあっちこっち移動する、運搬する。そういう働きをする。こういう仏さんがそこにあるじゃございませんか。これがつまり「随所に」ということです。「本是れ一精明(しようみよう)」つまりこれは一つの仏さんなんですよ。「分れて六和合と為る」眼とか耳とか鼻とか口とか手とか足、この六つの作用というものは一見分かれているように見えるけれども、これは一つの仏さんの作用なんですよと、こういうふうに言っているわけなんですね。私は、先月足を滑らせまして、それでここの方骨(ほうこつ)を打ってですね、出血しまして、それで四針ほど縫ったんですね。そんなことございました。その時のことなんですが、私が足を滑らせて、このほっぺたの方骨のところをしたたか打った。その時に、息がグッと止まったんですね、一瞬。それでその後で呼吸が調ってきて、さあここの方骨のところが痛いわけですよね。痛いから、「あ、これちょっとどういうことになっているんだろうか」。そうすると、手の仏さんがスーッと動く。指が動く。そしてその方骨を摩りながら、それがどんな状態かということを、手や指が動いてくる。そしてさらに触っていくと、ヌルッとしたものがあるから、あれっ!と思って見ると、血が付いている。これやっぱり眼が全部確認しているんですね。それで確認して、今度はこの血を止めないかん。どうしようか。お堂に行ったら、そこにテッシュがあるから、じゃ、そのテッシュでもって血を拭いて付けて止めてやろうと。それから、じゃというわけで、そこでゆっくりと立ち上がりまして、足の仏さんがちゃんとこのお堂まで私を運んでくるわけです。運んで来たら、今度テッシュを自分の手と指でもってチョッチョッと掴んで、それで方骨のところ―傷のところですね―そこにあてがうわけですね。ところがそこでズーッとやっていたんですけども、血がなかなか止まらないんですね。まあ一時間ぐらいそんなことやっていたんです。これ困ったなと思って、それでそうこうするうちに、ちょっと約束した方がおられまして、このお堂の方に訪ねて来た。訪ねてきましたんで、一応事情説明してね、「今、ちょっと怪我しましたので、テッシュここあてています」と。まあそういう状態でもって、その方と一緒に用事を済ませまして、なんやかんや二時間三時間経ったんです。それでもまだ止まらないわけですね。それでまあこれしょうがないな。じゃ一回病院へ行って縫合して貰おうと言いましたら、その方が親切な方で、「私が送って行きましょう」と。その方もまた仏さんですよ。この怪我を治すために動いてくださる。それで医者のところで、ここ四針ほど縫って、それで出血がピタッと止まったわけですね。つまり私が足を滑らせて、それでそれから手が動き、指が動き、眼が確認をして、しかも自分の足を使って動いていく。また私のことろに来たその人が、私を病院まで連れて行って、それで病院では病院のお医者さんが、その傷を縫合して出血を止めて頂いた。つまり仏さんというものは、どこにも欠けているものはございませんよと。ちゃんと怪我をしたと言ったら、怪我の出血を止めているじゃないですか。つまり仏は、すべてが円満具足していると。そういう仏さんは、この十方世界にあるんだということですね。ここのところを『臨済録』の方で見ますと、
 
赤肉(しやくにく)團上(だんじよう)に、一無位(むい)の真人(しんにん)あり(赤肉團上 有一無位真人)
 
こういうふうに言うんですね。「赤肉」と言いますのは、肉の中に血が混じっているわけですから赤い肉―肉の塊ですね、私たちの身体というのは。ですから赤い肉その塊、その中に一無位の真人あり。「無位」というのは、つまり位が無い。位が無いそういうものがちゃんとある。つまり肩書きというものも無ければ、家が良いとか悪いとか、そういうことも考えないし、学歴があるとか無いとか、そういうものも一切考えにない。まるっきり真っ新な一無位の真人。これがあなた方お一人お一人の中にちゃんと具(そな)わっているんですよと、こういうわけですね。ですからここのところがもし分からないというなら、
 
(いま)だ証拠(しようこ)せざる者は看(み)よ、看よ(未証拠者看看)
 
まあしっかりここにあるということを看ていきなさいよ、と、こういうふうに『臨済録』は言っているわけなんですね。
 
金光:  「真人」とは「真の人」と書くんでしょうが、これ先ほどからのご説明と結び付けると、仏さんがいらっしゃるというふうに受け取ると間違いでしょうか?
 
小林:  その通りですね。同じことです。仏さん、その通りでございますね。それでこの「一無位の真人」仏さんという、これをお釈迦様も同じことを言っていらっしゃる。このお釈迦様のお弟子さんに阿難(あなん)尊者という大変記憶力の抜群の方がおられて、それでお釈迦様がどこで説法した、ここで説法したというと、それを全部記憶していたという凄い頭の良い方なんですね。この方別名アーナンダとも言いますけれども、お釈迦様が亡くなられる時に、このアーナンダにいうわけですね。
 
アーナンダよ。そんなにわたしにもたれてはいけない。わたしに頼ってきてはいけない。自分自身を灯火とし、自分自身を拠り所としなさい
 
とこういうふうに言っているんですね。つまり赤肉團上の、この一無位の真人が、アーナンダよ、あなたの中にもちゃんとあるんですよ。そこを見つめて、そこを頼りとしていきなさい。こういうふうにハッキリ言っていらっしゃる。そして法を灯火とし、法を拠り所としなさい。つまりその仏さんの一無位の真人のその働きですね。そこのところを拠り所として生きていきなさいよ、と、こういうふうに言っておられる。つまりお釈迦様が、一番最初に私たちの心の中に、そういうものが住んでいる。一無位の仏さんというものがあるんだぞと。ここを一番最初に悟られた。ここが凄いところなんですね。それで通常この禅というもの、禅の修行、禅門の中での修行というものは、この仏さんというものをしっかりと見つめる。あ、これが仏だ。ここのところをちゃんと掴んでいく。これが通常「己事究明(こじきゆうめい)」ですね、これが仏道修行。
 
金光:  「己事(こじ)」とは己(おのれ)の事ですね。
 
小林:  己のこと、自分のことですね。自分の中を探求していきなさい、ということになっているんですね。今度は、その仏とは一体全体どういうものなんだろうか、ということになってくるんですね。禅宗の一番の祖になりますのは、これは達磨(だるま)大師―ダルマさんです。そこから数えまして六代目の禅僧、この方が六祖慧能(えのう)という。この方も大変偉いお坊さんであります。このお坊さんが、出家する前ですね、家が大変貧しかった。だから山の中に入っては薪を拾って、それを薪を市場へ持って行って売るという。そういう生活をズーッとやっていたわけですね。そうしたところがどこからともなくお経の声が聞こえてきた。これもお経というのは、『金剛経(こんごうきよう)』というお経なんでありますが、そのお経を聞くともなしに聞いていたわけですね。その時に、
 
(まさ)に住(じゆう)する所無(な)うして其(そ)の心を生ず(応無所住而生其心(おうむしよじゆうにしようごしん)
 
この一句にぶつかったんです。そうしたらこの六祖慧能というお坊さんは、忽ちにお悟りを開いてしまった。こういうことになったんですね。この「応(まさ)に住(じゆう)する所無(な)うして」つまり仏さんというものは、住所がありませんよ、とこういうわけですね。ここの私の所のお堂でございましたら、須弥壇(しゆみだん)に仏像がズッと並んでいますね。そうすると、仏さんというものは、須弥壇の上にある。住所は須弥壇なんですね。しかしながら本来仏というのは、須弥壇ばかりではない。先ほどもいうように、眼にもあるし、耳にもある、口にもある。とにかく至る所、十方世界どこにも随所にある。これが仏さんなんです。でも仏さんと言っても、それがなかなか分かり難いんですね。ですから住所がない、これが仏なんです。その中からヒョイヒョイと心というものが生まれてくるわけですね。このお堂の中にも花が活けてありますね。花を見ると綺麗だという、こういう思いがフッと浮かんでくるんですね。花を見るとフッと浮かぶ。何で浮かんでくるの、と言っても、これね、説明のしようがない。猫を飼っているんですけど、猫の顔を見るとやっぱり可愛いですよ。何で?っていっても、何で猫の顔を見ると可愛いの?と言われても、これは理屈じゃどう答えようもないものなんですね。これと同じように一般の方でしたら、みなさん方ご結婚なされて、赤ちゃんが生まれる。そうすると、赤ちゃんの顔を見ると可愛いと思う。それでハイハイをして、あっちこっち動き回ると、その動作がもうなんとも言えない。ああ、可愛いなと。これ誰しもみんな思うわけです。そしてこの子のためだったら、とにかく一生懸命働かなければいけない。この子を一人前にするまでは、とにかく働くんだと。そういう思いというものがそこに生まれてくる。赤ちゃんを見た、そういうところを通じて、私たちの心の中にそういう思いがヒョイヒョイと生まれてくるんですね。人間というのは、まさにそういう思いの中で生きているんですね。理屈も何にもないです。ただその思いなんですね。ご結婚する時には、ご主人が居て、奥さんがおられる。結婚するに当たっては、お互いに一つの家庭を作っていきましょうよ。二人で協力して生きていこうという思いが、一つの家庭を成り立たせて、やっぱり人間というものはすべてこの思いの中に生きているんだということなんですね。ここですね。お釈迦様の教えの中から一言で言いますと、
 
善きことをしているという
その思いが
その人を幸せにする
 
これがつまりお釈迦様、仏教の教えの根幹にあるわけです。つまりここにありますのも、善きことをしているというその思いの中に、私たちは幸せというものをどこか感じているんじゃないか。まあこういうことですね。ここをですね、さらに弘法大師さんが、もっと端的に言っていますのは、
 
境のきたるをもって
善悪の二心を生ず
 
というんですね。この「境」ということ、この境というのは客観ですね。主観と客観がありますけど、客観これがつまり境なんです。そうすると、眼の前にあるこういう机だとか、柱だとか、眼で見ることができる、手が触れることができる、音で聞くことができる、これが全部「境」ということなんですね。そうすると、例えば道端をズーッと歩いて行きますね。そして歩いて行って何もなければ、私たちの心の中には何にも起こってきません。ところが百万円がそこに落っこちていた、札束が落ちていたと。そうすると、あ、何だ。こんなところに百万円が落ちている。そうすると自分の心の中に、その思いがフッと浮かんでくる。これは百万円があるからそれを見て、フッと浮かんでくる。そうすると、それが後で、じゃ、どうするか。これはキッと落とした人が困っているだろうから、じゃ、警察へ届けよう。つまりそこには善意の心ですね。その善意の思い、それが警察に持って行くという行動になって繋がってくるんですね。これがまた逆に、周り見て誰も居ないんだということになったら、おぉ、これちょっと自分の所へ持って行ったら、儲かるぞ、と言って黙って持って行く。これはまあ悪意なんですね。つまり私たちは、どっちにしましても、そういう善にしろ悪にしろ、そういう思いの中で生きている。これは私たちの現実の生きている姿だろうと思うんですね。これですね、お釈迦様の『法句経(ほつくきよう)』というお経がございます。『法句経』と言いますのは、お釈迦様の説法されたお話が、一番お釈迦様のお話に近いという、それがまあ『法句経』なんですが、その一番と二番のところを見ますと、まさにそのことが書いてある。ちょっと読んでみますと、
 
心はそのまま法である
すべてはこの心からなっている
だから悪いことを思って語り行うならば
車輪が車引きの後を追うように
苦しみが悪い思いの後を追い掛ける
 
心というのは、さっき言いましたように、ヒョイヒョイと私たちの心の中に生まれてくるもの、その思いですね。その思いがつまり法である。そこから人間が行動して行く。これが一番としてあるんですね。それで、また二番に、
 
心はそのまま法である
すべてはこの心からなっている
だから善いことを思って語り行うならば
影が人に寄り添うように
福徳が人から離れることがない
 
わたしたちの心、つまり私たちの思いです。そしてその思いというものは一つの法則行動に移せるわけですね。このように言っているわけですね。また元に戻りまして、禅というものは一体どういうことか。つまり「随所に主となれば、立処みな真です」という。これは、要するに禅堂の中で、ただ坐禅をすればそれで目的が達せられる、そういうものじゃない。禅は坐ることにあるんじゃなくて、随所に仏さんがあるんですから、私たちの頭を使い、眼と使い、耳を使い、口を使い、そういったことをフル活動しているこの現実の世界。要するに社会生活、日常生活の中、その中において禅というものが活発に活動していかなければいけない。そこにこそ本当の意味で無位の真人となる、ということだろうと思うんですね。つまり無位の真人ということは、素直な心であって、善き思いですね、綺麗に真っ新に思いのままにこの現実の世界を行動していく。縦横無尽に活動して行く。それが禅でなくちゃならん。これが『臨済録』の根幹にあるんじゃなかろうかと、私は思うわけなんですね。
 
金光:  私も、昔『臨済録』を読んだ時に、ビックリしたのは、「仏さんに会ったら仏さんを殺す」とか、「父母に会ったら父母を殺す」という句があると同時に、「馳求(ちぐ)」走り回って求める、心を捨てなさいと。「馳求心を捨てろ」というのが至る所に書いてございますね。そういうのと善とか悪とか、禅をやろうやろうなんて思うのと、そういう馳求心を捨てる、求める心を捨てる。仏にあったら仏さんも邪魔になるんだ、というような、その辺の考え方と、どう結び付くんでしょうか?
 
小林:  「馳求心を去れ」というのは、一言でいうたら、「仏を求めることを止めよ」ということですね。仏を求めることを止めて、仏さんがどこにあるんだ、ということなんですが、私はよくみなさん方に説明する時には、鐘をゴーンと一つ鳴らすわけです。そうすると、ゴーンと鳴らした時に、そのゴーンという音に、私たちが集中するんですね。集中します時に、例えば法事なんかでもって雑談をして、人の悪口言っている時に、ゴーンと鳴った。鳴った拍子にそういう人の悪口なんかは全部終わってしまうんですね。止めるわけです。その止めたところ、心が空っぽになったところ、そこが仏なんですね。ですから百八煩悩があっても、全部心の中でそういう働きが綺麗さっぱり消えたところ、ここが仏ですから、敢えて仏さん、こういうところに仏さんがあるから、これを掴むために何かをしなければいかん。その必要はまったくないわけですね。それから「仏に会ったら仏を殺せ」ということなんですが、『臨済録』の、今申しましたけれども、「赤肉壇上一無位の真人」とありますね。この「無位の真人」というところ、ここが大事なんですね。余計なものを禅は全部削り取っていく。人間が頭で勝手に作って飾り立てたものをどんどん捨てていくんですね。そこに無位の真人があるぞ、というんですね。ですから、今私がこの須弥壇の上に仏さんがあります。みなさんはこの仏さんの前へ行ったら、みんな合掌して頭を下げるんです。でも本当の仏さんというのは、そこにあるんじゃない。どこにでもあるんです。ところがその須弥壇の上だけにあるという人は、そこの前にばっかり一生懸命になっちゃって、それで日常生活はどっかへいってしまうということが出てくるわけですね。そこでこの無位の真人というのは、そういう余計なものを全部捨て去ったところ、仏を殺すというのは、仏という観念を自分が頭の中で、その人その人が勝手に作り上げた仏というのがあるんですね。それを捨てなさい、ということでありますね。
 
金光:  そうしますと、無位の真人が自分だ。自分がそこに無位の真人と一緒だ、ということになると、それは仏さんとそれこそ同じ境涯、祖師方と同じ境地とそういうことになるわけですね。
 
小林:  そういうことにまりますね。
 
金光:  どうも有り難うございました。
 
     これは、平成二十年十一月二十三日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」で放送されたものである