聖書によむ「人生の歩み」Hイエス・信仰
 
         関西学院大学名誉教授・東京女子大学元学長 船 本(ふなもと)  弘 毅(ひろき)
 
ナレーター:  聖書によむ「人生の歩み」その第九回「イエス・信仰」。お話は関西学院大学名誉教授で東京女子大学元学長の船本弘毅さんです。
 
船本:  今年もいよいよ最後の月を迎えました。多くの自然災害があり、そのうえ思いがけず総選挙が行われることになりましたから、慌ただしい日を過ごすことになりますが、その中で私たちは今年のクリスマスを迎えようとしています。今月はクリスマスを思いつつ、イエス、また信仰ということを、聖書に聞きつつ学びたいと思います。現在世界的にもっとも広く用いられている西暦は、イエスの誕生を境にして、紀元前と紀元後に分けられています。学問的には今日では、西暦を定めた時に誤差があって、実際はイエスの誕生日は、数年早かったのではないかというのが通説になっていますが、いずれにせよ西暦が、イエス・キリストの誕生前を「B.C.(Before Christ:キリスト以前)」、イエス・キリストの誕生以後を「A.D.(Anno Domini:主の年)」と呼んでいることには変わりがありませんから、イエス・キリストの誕生が世界の歴史に大きな意味を持っていることに改めて注目をする必要があると思います。日本で最初にクリスマスが祝われたのは、フランシスコ・ザビエルによってキリスト教が伝えられた三年後であったと言われています。ザビエルは一五四九年(天文(てんもん)一八)に鹿児島に渡来し、平戸(ひらど)や山口など各地に伝道したのち、一五五一年に日本を去りましたが、その後継者になったコメス・デ・トルレスが一五五二年十二月二十五日に、山口県の司祭館に日本人信徒を招いて、イエスの誕生を祝ったという記録が残されています。そうだとすれば、私たちはこの二○一四年に日本における四六二年目のクリスマスを祝うということになります。イエスの誕生日であるクリスマスを、私たちは十二月二十五日として祝っています。これは紀元三二五年に開かれたニカイア会議(通称ニケヤ会議)の決定によっています。しかしイエスの誕生を確定する資料はないことから、これに異論を唱える人たちもいます。東方教会やギリシャ教会などは、一月六日の公現日(こうげんび)(異邦人に主が顕現してくださったことを祝う日)をクリスマスとして祝っていますので、十二月二十五日から一月六日までの十二日間を「降誕節(こうたんせつ)」として守り、「クリスマスの十二日」とか、「クリスマスの十夜(じゆうや)」と呼ぶ習慣があります。それでは何故ローマカトリック教会は、十二月二十五日をクリスマスと決定したのかということが問題になりますが、これは多分ローマの冬至祭(とうじさい)と関係があったと考えられています。北ヨーロッパでは、冬至は太陽の勢いが最も弱くなり、夜の時間が最も長く、この日を境に、太陽は力を取り戻し、日も長くなってくるので、「光は闇の中に輝いている」(ヨハ一・五)と、聖書が語るように世の光としてお生まれになった主イエスの誕生日を祝う日して相応しいと考えられたようです。私は、スコットランドのセントアンドリュース大学に研究に滞在していた時に、冬至の時をクリスマスとした理由が体感的にわかる思いが致しました。北国のスコットランドでは、夏は十時過ぎまで明るいのですが、冬になると午後二時を過ぎると暗闇の世界となり、長い夜を過ごすことになります。日本では、日が長くなったり、短くなったりすることを月単位で感じますが、北ヨーロッパでは日毎にそれを強く感じます。ですから冬至が過ぎ、日が延び、太陽の光が明るさを増す頃に、イエスの誕生を祝うようになったのはよく理解できることでした。要するに、聖書は、イエスが生まれた日が、何月何日であったかということより、救い主が、人となり、世の光として地上に現れ誕生してくださったこと、即ちイエスが人となってくださったという事実が、何よりも重要なことであるということを私たちに語り、その誕生を記念し祝うのに相応しい日として、十二月二十五日をクリスマスと定めたのです。クリスマスは、
 
神が独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである。
 
とヨハネ三章十六節が告げる「恵みの事実」、「福音(ふくいん)」を私たちに告げる喜びの日なのです。イエスの誕生物語は、マタイによる福音書とルカによる福音書に記されています。マタイによる福音書は、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでイエスがお生まれになり、東方の博士たち占星術の学者たちが拝みに来たこと。幼子に黄金、乳香(にゆうこう)、没薬(もつやく)を捧げたが、ヘロデの命に背(そむ)いてエルサレムに寄らずに別の道を通って帰ってしまったため、ヘロデによってベツレヘム周辺の男の子たちが殺されるという幼児虐殺事件が起きたことを記しています。一方ルカによる福音書は、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に登録命令が出されたため、ダビデの町であるベツレヘムに向かったその旅先で、イエスは誕生し、布に包んで飼い葉桶の中に寝かされ、野宿しながら、羊の番をしていた羊飼いたちがお祝いに駆け付けたことを記しています。イエスの地上の生涯は、まさに波乱含みの始まりでした。救い主の誕生を待望していた筈のイスラエルの民のほとんどは、その誕生に気付かず、貧しい羊飼いたちや異邦人である東方の占星術の学者のみが誕生を拝し、そしてベツレヘム周辺の幼児が虐殺されるという事件までうみだしたのでした。ヨセフとマリアは、ヘロデを恐れてエジプトに逃れますが、ヘロデが死んだ後、ガリラヤのナザレに帰ってその地に住んだと伝えられています。幼児期のイエスについて、聖書はほとんど何も語っていません。わずかにルカ福音書が、十二歳になった時、イエスは両親に連れられて過越(すぎこし)の祭を祝うためにエルサレムに上京し、神殿で律法学者の話を聞き、律法学者に質問をしたことが記されています。そしてこのエピソードは、
 
イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。(ルカ二・五二)
 
という言葉に締め括られています。およそ三十歳になった頃、イエスはヨルダン川で、洗礼者ヨハネから洗礼を受け、そのヨハネが捕らえられた後、ガリラヤに行き、
 
時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。(マコ一・十五)
 
と語って、ガリラヤ伝道を始められました。聖書は「ヨハネの時」と「イエスの時」を明確に分けていることに、私たちは注目しなければなりません。ヨハネは人々に悔い改めてパプテスマを受けることを勧め、イエスの先駆者としてイエスのための道備えをした人でありました。ヨハネの時は終わり、イエスによって新しい時が始まったのだと、聖書は告げているのです。イエスのガリラヤ伝道は、四つの福音書がいずれも、「多くの人々がイエスの周りに集まり大変盛んであった」と記しています。ユダヤの国の北端に位置し、イスラエルの民と異邦の民が交錯しているガリラヤ地方は、当時の人々からは辺境の地と目され蔑(さげす)まれていました。人々から注目されることのない辺境の地で、イエスは宣教活動を始められたのでした。都のエルサレムでもなく、栄えたエリコの町でもなく、ガリラヤの地でイエスの働きは始まりました。マタイ福音書の四章の二十三節から二十五節は、その頃の様子を次のように記しています。
 
イエスはガリラヤ中を回(まわ)って、諸会堂(しよかいどう)で教え、御国(みくに)の福音を宣(の)べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患(わずら)いをいやされた。そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊(あくれい)に取りつかれた者、てんかんの者、中風(ちゆうぶ)の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った。
 
この時期を「ガリラヤの春」と私たちは呼んでいます。活気に満ちていました。ガリラヤ湖畔におけるイエスの宣教活動は、「言葉と業(わざ)によって」と、聖書は表現しています。語られた言葉の中心には、山上の説教、喩え話などがあり、なされた業の中心には多くの奇跡があったと言ってよいと思います。山上の説教は、マタイ福音書の五章から七章にある一連のイエスの教えを指しますが、その最初が、「イエスはこの群衆を見て、山に登られた」とあることから「山上の説教」、古くは「山上の垂訓」と呼ばれてきました。「山に登って語られた」というこの記述は、旧約聖書で十戒やシナイ山でモーセに授けられたということに対応していると考えられます。イスラエルの民に与えられた神の律法が、今、イエスによって新しい戒めとして語られようとしているのです。ですから山上の説教の中には、「―(何々)と命じられている。しかし、わたしは言っておく」という形式の勧めが繰り返し出てきます。命じられていたのは十戒ですが、それをイエスは、新しい意味を加え、また深めてお語りになったのでした。最初に九つの「幸せなるかな」という教えがあり、
 
あなたがたも聞いているとおり、「隣人を愛し、敵を憎め」と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。(五・四三―四八)
 
こういった教えは、人々に親しまれ、文学作品などにもしばしば引用されています。そしてイエスは、この山上の説教の最後に、岩の上に家を建てた人と砂の上に家を建てた人の話をお語りになって、福音を聞いて信仰に生きることを強く勧められました。人々はこのイエスの語る言葉に、権威と新しい教えを聞いたのでした。またイエスは、多くの喩え話をお語りになったことが有名であります。私たちは、何か大切なことを分かりやすく言い直すために譬えを用いるのですが、イエスにおいては、喩え話それ自体が福音の真理を告げ、キリスト教の中心的なメッセージを伝えているところに、その特色があると言えます。「見失った羊のたとえ」「善きサマリア人のたとえ」「放蕩息子のたとえ」「タラントンのたとえ」「ブドウ畑と労働者のたとえ」など、古来多くの人々に親しまれ、失われたものへの愛を伝える福音のメッセージを、私たちはそこから聞いてきたわけであります。人々は、イエスの譬えを通して、生きる力を与えられてきました。またイエスは、多くの奇跡を行われました。「癒やしの奇跡」「給食の奇跡」「荒れる海を静められる奇跡」そういったイエスのなさる業に人々は驚いて、「大いなる業がなされた」といって主を讃えました。しかし、イエスは奇跡を利用して、自らの偉大さや力あることを誇示しようとはされませんでした。最後に書かれた福音書であるヨハネ福音書は、奇跡は不思議な出来事、大いなる業としてではなく、「しるし」と表現しています。イエスは、奇跡の業を行ったのちに、「あなたの信仰があなたを救った」と言われました。また、あなたは信じるのか、と信仰を問われました。奇跡は人々を驚かせて信ずる者にするための手段として用いられたのではなく、信じる者に与えられる神の愛の業であり、罪の赦しの業でした。イエスは、奇跡を通して、イエスを生かし、支え、働かせている神に、私たちの目を向けさせようとしておられることを見落としてはならないのです。ガリラヤ伝道でなされたイエスの言葉と業とは、人々の心に強く訴えるものがあり、群衆の中には、イエスによって地上の王国が建設され、イエスは解放者であるといった期待が次第に高まってきました。しかしイエスは、「わたしはこの世の王になるのではなく、仕えられる者になるのでもなく、仕える者になり、人々の罪の赦しのために、自らを捧げる十字架の主であることを明言して、十字架への道を歩み出されました。イエスのこの生涯は、前半の「ガリラヤの春」と呼ばれた人々に囲まれて華やかだった時期と、後半の「十字架への道」と呼ばれる人々が去り、孤独な、しかし毅然として歩まれたイエスの時に分けて考えられますが、その分水嶺になったのは、フィリポ・カイサリアの事件(マタ十六・十三以下)でした。ガリラヤ湖の北、ヘルモン山の麓に位置するフィリポ・カイサリアは、この地方では珍しく水が豊かで、緑におおわれた美しい静かな町でした。イエスはここで弟子たちに先ず、「人々は、人の子を何者だと言っているのか」と質問されました。弟子たちは、「洗礼者のヨハネ、エリヤ、エレミヤ、預言者の一人だ、と言っています」と答えたのですが、イエスは、ここで真っ正面から弟子たちに真向かい、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と迫られました。「人々が」ではなく、「あなたがたはわたしを何者だというのか」。一般的な問いではなく、弟子一人一人の信仰を問われたのです。これは、実に厳しい問い掛けでした。ユダヤの哲学者であり、思想家でもあるマルティン・ブーバーは、その著『出会い』の中で、「問いと答え」と題する非常に印象的な文章を認めています。一九一四年の五月、第一次世界大戦がまさに始まろうとしていた時ですが、友人の老牧師ヘヒラーから、「愛する友よ、われわれはある重大な時代に生きています。どうか言って下さい。あなたは神を信じますか?」と、彼は尋ねられたのです。駅に老牧師を送って行く途中、暗い路地の角でのことでした。ブーバーは、ヘヒラーを安心させようと思って、「このことについて、私のことを心配される必要はありません」と答えて、彼を駅に送り列車に乗せたのですが、帰途その角まで来た時に、彼は正しい答えを見出すまでは一歩も進むまいと決心して、長いことそこに立ち止まっていた、と記しています。そして彼の到達した答えは、「もし、神を信ずるということが、彼について第三人称で語りうることを意味するならば、私は神を信じていない。もし、神を信ずるということが、彼に向かって語りうることを意味するならば、私は神を信じている」。即ち信仰は、三人称ではなく、二人称―あなたとわたしの関係で向かい合う世界だと、ブーバーは語っています。では、「あなたは」というイエスの問い掛けは、弟子たちの信仰を問い、私たちの信仰を問う根源的な重い問いであります。シモン・ペトロが弟子たちを代表して、「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタ十六・十六)と答えました。これは人類史上、最初のキリスト告白です。そしてこの告白を聞いたまさに「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた」(十六・二一)のでした。「あなたはメシア」と告白されたメシア、救主は栄光を受ける主ではなく、十字架の苦しみを受ける主でした。イエスは、仕えられるためではなく、仕えるために、その生涯を捧げられたのでした。ベツレヘムの飼い葉桶の中に始まったイエスの生涯は、ゴルゴダの丘の十字架に至る歩みでした。イエスはペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた時、この告白を喜んで受け入れられました。そしてペトロに向かって、「シモン、バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府(よみ)の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは天でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(マタ十六・十七―十九)とおっしゃいました。これは最高の賛辞であり、お褒めの言葉でした。しかし、その時から、イエスが受難の予告を語り始められると、ペトロはイエスをわきへお連れして、諫め始め、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と言ったのです。
 
イエスは振り向いてペテロに言われた。サタン引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者、神のことを思わず、人間のことを思っている。(マタ十六・二三)
 
と語られました。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ」とおっしゃった主は、そのペトロに向かって、「サタン、引き下がれ」と言われたのです。この厳しさの前に、私たちはたじろがざるを得ません。神のことを思わず、人間のことを思っている。イエスにとって、十字架に架けられることは神のことであり、神の意志であり、神の命じたもうことでした。そしてそれを妨げるものは、サタンであり、人間の思いであり、許されないことでした。メシア、救主とは、人々から賞賛を受け、仕えられ、君臨する主ではありませんでした。人々から恥ずかしめられ、捨てられ、そのことを通して人々のために命を捧げる僕(しもべ)の道を歩むことでした。救主は、栄光の主ではなく、苦難の僕(しもべ)でした。旧約聖書のイザヤ書の五十三章は、「苦難の僕(しもべ)の歌」と呼ばれています。これは第二イザヤが、バビロン捕囚という苦難の中にあったイスラエルのために解放の希望を歌い、イスラエルの苦難の意味を語った預言ですが、後には十字架のキリストを預言した言葉として理解されるようになりました。第二イザヤはこう語っています。
 
彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
 
ここに僕(しもべ)の道を歩まれたイエスの姿が明瞭に示されていると言えるでしょう。福音書は、イエス・キリストの生涯を明らかにした文章ですが、多くのページをイエスの十字架の出来事に集中して費やしています。十字架にイエスの生涯の中心があり、イエスは十字架の主であったことを伝えようとしていると言ってよいと思います。亀井勝一郎氏は、『愛の無常について』という書物の中で、イエスの十字架に触れて、このように語っています。「キリストの十字架を描くいろいろの宗教画は、キリストを中心にして、彼と共に刑された二人の盗賊を遠景のように、ないしは、脇士(わきじ)のように小さく扱っています。しかし、これは正しくないのではないか、キリストは二人の盗賊とひとしく、ひとりの罪人として刑されたのではないか」という疑問を呈し、さらに「当時のローマ権力にとって、キリストは二人の盗賊とひとしい罪人であって、この三人は同じ資格において刑されたにちがいないのです。キリスト信徒にとっては、堪え難いところでしょうが、しかしこの屈辱のため、彼の運命は明瞭に刻印されたのではありますまいか」と記しています。私は、初めてこの文章を読んだ時に、大きなショックを受けました。そして同時に目が開かれる思いがしたことを今も鮮やかに覚えています。イエスは一人の人間となり、一人の人間として、即ち罪ある人間の一人として十字架につけられたのです。罪ある人間のために、罪人のひとりとしてイエスは十字架に架けられたのです。二千年の昔ゴルゴダの丘で、傍観者として十字架を見つめていた群衆のひとりのようにではなく、十字架が私のためであることを畏れと感謝を持って受け止めるところに、イエス・キリストへの信仰が生まれるのです。初代の教会は、ペンテコステの日、洗礼を受けて立ち上がった弟子たちによって始められましたが、その日ペトロが語った最初の説教は、
 
イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなた方が十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。(使二・三六)
 
神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。(使二・三二)
 
この二つの柱からなっています。即ち十字架と復活の主を、私たちの救主として受け入れるところに、キリスト教信仰が成立するのです。復活の日の夕方、二人の弟子がエマオへの道を歩いていました。イエスが甦られたという知らせを聞きながら、信じられなかった二人は、話し合い、論じ合っていました。そこに復活の主が近づき、聖書を説き明かしてくださったのです。そしてエマオの宿で、夕食の席でパンを取り、讃美の祈りを捧げ、パンを裂いて渡される姿を見て、二人の弟子は、この方がイエスであることに気付き、「道々話しておられた時、また聖書を説明してくださった時、私たちの心は燃えていたではないか、と語った」と、ルカ福音書は記しています。エマオのキリストというレンブラントの有名な絵もあります。疑い信じられなかった二人の弟子が、復活の主を認め信じ、その証人となったのは、彼らがイエスによって聖書の言葉を聞かされたからでした。御言葉の働きが、彼らの頑(かたく)なな心を燃やし、主を信じるものと変えたと、聖書は告げています。私たちは、自分の見聞きし、手に触れ、納得したことだけが確かなものだと考えがちです。しかし自分に向けていた目を、主に向け直す時、暗い顔をしていた二人の弟子が、心が燃えていたと語るものに変えられたように、御言葉に生かされる新しい歩みをすることができるようになると、聖書は語っています。私たちのために、この世に生まれてくださったイエスを、主として受け入れ、クリスマスの恵みに生かされるものでありたいと思います。
 
     これは、平成二十六年十二月十四日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」で放送されたものである