やわらかな心
 
                 無相庵菩提禅堂 形 山(かたやま)  睡 峰(すいほう)
昭和二四年、岡山県生まれ。昭和四七年京都・花園大学中退。元花園大学学長・大森曹玄老師が住職する高歩院内の鉄舟会禅道場へ入門。昭和五○年大森曹玄老師を師として得度。昭和五九年財団法人鹿野山禅青少年研修所の指導者として就任。昭和六三年茨城県霞ヶ浦町に菩提禅堂を開単。堂長として一九年を過ごす。平成一九年四月より、かすみがうら市宍倉に無相庵を開創。庵主として現在にいたる。
                 き き て   金 光  寿 郎
 
ナレーター:  今日は、茨城県かすみがうら市にあります無相庵(むそうあん)菩提禅堂形山睡峰さんに「やわらかな心」というテーマでお話頂きます。聞き手は金光寿郎さんです。
 

 
金光:  形山さんがお書きになったご本を拝見していまして、これは面白いなと思ったのは、タイトルがですね、「思いだけが心ではない」というふうなことを書いていらっしゃるんで、「思いを心だ」と思う、あるいは「思いを自分だ」と思っている人が、今非常に多いんじゃないかと思いまして、その辺の「思いだけが心ではない」というその問題を扱ったエピソードからちょっとご紹介して頂けますか。
 
形山:  心というのは、コロコロ動くところは、もうほんとにもの凄い変化するわけですよ。例えば私は、子どもの時は甘い物が好きだった。ところが大人になると辛い物が好きになって、また歳をとってくると、また甘い物が好きになってくる。これが定形がないですよね。条件の中でばっかりなってくる。そうすると、それが「自分だ」ということにしたら、もう自分というのは何かさっぱりわからないものになってしまう。こんなんで、その「思いが心ではない」というようなことを言ったんですけどね。ただ私は、人間というのは、縦軸と横軸の交差点で刹那刹那生きていると思うんですね。縦軸は、無限のいのちのつながりの中なんですね。横は今生まれて何十年の関わりになる。ところが現代の人は、縦軸の関係がないような気がするんですね。今の関係だけで、自分が、例えばここでステーキが好きな人は肉を食べる。その肉は牛を先ず殺す。その牛がどういうふうに育って来たか。それをどう運んで来て、どうしたか、という関係は一切抜きにして、今ステーキを食べるということをなさるよね。
 
金光:  そうですね。横の繋がりも切れている。
 
形山:  切れているんですね。あらゆる関係が切れて、今のところをやっている。ところが、事実はそうでなくて、あらゆる関係の中にある。この間も、お父さんの一周忌をするという人が居てね、その人のところに行って話を聞いていた時に、「ご先祖はお祀りしていないんですか?」と言ったら、「先祖はありません」とおっしゃるんですよ(笑い)。笑っちゃったですよね。「先祖はない人はいないんですよ」とこう言ったんですよ。「えっ!」とか言ってから、その人も気が付いて笑われたですけどね。自分が祀るんじゃないんだと思っているわけですよ。面白かったですね。なんかお兄さんか誰か本家があってそこで祀っているから、自分は関係ないと思っている。ところが昔の人は、「家(うち)の信心さんはこんな善いことをしたんだよ」とかね、「先祖の誰々はこうしたんだ」とかという話を聞いていると、「あ、家の先祖はこんな善いことがあったんだ」と。その先祖の物語ですよね。良い物語を聞いていることで、なんとなく自分の生きることが詰まらなくなくなってくるところがあるような気がする。頭の中の情報だけで、思いだけで、自分だと思っていると、そこしか捉えることができない。だからこれは不自由なわけですよ。完全に自分の膨大な知識がないところで捉えた知識の中で自己を限定しちゃっている。ところが今は情報が山ほどある中にいるものですから。
 
金光:  インターネットで調べれば、何でも情報が手に入ると思っている人が多いでしょうから。
 
形山:  だから凄い情報を持っているように思っているんですけど、ほんとはよく聞くとほとんど持っていないんですね。情報が山ほどある中に住んでいると思っているだけ。本なんかほとんど読んでいなくて、聞くともう答えられない。例えばあるご婦人がやって来てね、「子どもが学校に行かなくて、私はもの凄く悩んでいる。世界一不幸だ」というから、「世界一不幸だというけども、世界にご飯食べられない子どもが山ほどいるんだ。あなたは三食食べているでしょう?」「食べている」「食べられない子どもが何人いると思う?」と聞いたら、「いや、そんなこと知りませんよ」というわけです。「いいから考えてごらんなさい」「いや、わかりません。考えられません」「なんでもいいからちょっと考えて、どのくらいいるか言ってごらん」と言ったら、「えーと、えーと・・一万人ぐらいでしょうか」というから、「いや、そんな問題じゃない」と。「どのくらいですか?」と、考えても三万人以上出てこないですよ。「私の調べた限り七億ぐらい子どもが世界で飢え死にしそうな人がいるそうですよ」「七億ですか?」と、また想像できないですね。「日本人が約一億二千万と言ったら、何倍かわかりますね」と言ったら、「そんなにいるんですか!」。だからもう凄い情報の中でいながら、考えていないですね。で、その情報があるということの中に雁字搦(がんじがら)めになっている。それでいて自分がもの凄く自由な中にいるようで、そんなふうですから思い通りにならない不自由さをどこかでもっている。電車に乗る時に見ていると、例えばこの土浦から九州の方にでも行こうかとなると、大抵見ていると、雑誌を買ったりね、ビールを買ったり、いろんなことして、その何時間かの間をどういうふうに忘れようかと思っているんですよね。あれが凄く面白いですね。「何を忘れようとしているのか」と言ったら、「私を忘れようとしている」わけですね。このことを私、いつも凄く面白いなと思って見るんですね。何か飲むか、見るか、携帯やるか、音楽聞くかなんかして、私がそこに顔を出さないようにしよう。だから何時間という時間が、私がその何時間を味わっているということを無くそう無くそうとしている。こういう精神が凄く面白いなと一つ思っている。
 
金光:  日常でもそういう傾向がありますね。
 
形山:  逃げていて―これ逃避と言いますよね、そうしながら実はもっとある面では凄く自己確認しようとしている。自分を一生懸命確認しようとしている。要するに自分が忘れることを凄く恐れているわけですね。これはボケの恐れなんかもそうですね。「自分自身は無くなって、私がわからなくなったらどうしよう」という不安が、もの凄くあるわけですよ。だからある面では、「自分を忘れよう忘れよう」としているものがあって、ある面では、「忘れないではっきりと自分のことを確認したい」というのがあって、
 
金光:  でも確認するんだったら、そういう方向じゃ確認できないじゃないですか。
 
形山:  できないんです。両方がこう別れているんで、確認できる問題じゃないんですけども、そこが面白い。だから仕事をしている充実というのは、こんだけ充実したという思いを、バァ〜ッと確認したいというのがある。本当の充実は、忘れている時に充実しているんですよね、私らからすると。で後からあの時は良かったという思いで楽しさを味わうわけですね。ところが今直近にやりながら、充実を味わう世界があるように思っている。そういうことはないですね。夢中になっている時には、自己がないですね、そこでは。例えば寝る時に、私が寝ようと思って、「寝るぞ、五、四、三、二、一、グッ」という人いないんですよね。ある時に眠りの方が一気に襲ってきて、気が付いたら寝ている。朝起きる時も、「三、二、一、で起きる」ということはなくて、気が付いたら目が開く。そうすると自分のはからいではないわけですね。しかも「昨日はぐっすりよく寝た」と言った時には、何にも思っていない時なんですね。「夢ばっかり見て、よう眠れんかった」と言った時には、ぐちゃぐちゃする。そうすると毎日の中で、充実ということは何も考えないことだ、ということをよくどっかで体験している。そうすると、電車で何時間も九州まで揺られていくといった時に、何か悩みになっているか。何か自分の不自由になっているか、と言ったら、あれこれ思うことがしんどい、ということを知っているわけですね。どうやってそれを無くそうか。坐禅する人でもそれは難しいわけですから、無心になるなんていうことは。だから酒飲んで無心。「坐禅って無心になることでしょう」「いや、そういう問題じゃないです」「じゃ、何も考えないことでしょう」というから、「何も考えないようにしようと思ったら、一升瓶を買って、グアッと飲んで、そうしたらアッという間に、ムッになっちゃうよ」と、私がよく言うんです。「じゃ、どういうのだ」というから、「車運転をしている時に、なんか考えたら危ないだろう」と言うんですよ、私がね。今、車というのは良い喩えになるんですよね。「あ、そこになんか良いものがあると横を向いた途端に危ないじゃないか」と。本当に上手に運転をしている人は、全部キャッチしながら全部それは引き受けながら即座に離している。これ「正受(しようじゆ)不受(ふじゆ)」というんですけどね。正しく受けておりながら、受けていないんだ。要するに何にも思っていないけども、全部がちゃんと入っている。的確にパッパッパッと応じていく。これが一番自由じゃないかと。柔らかい心ってそういう、
 
金光:  そうですね。今のお話を伺っていても大体はわかることなんですけれども、改めてその思いと自分の心、思いだけを持っているんではない心、これはどうやれば気が付くんですか?
 
形山:  これが昔の祖師方も、偉い一苦労するんですね。どうして一苦労するか、と言ったら、自分の思いでもって、思いがないところをやろうとすることが抜けないんですね。
 
金光:  それじゃ自分で堂々巡りというか、
 
形山:  堂々巡りしてしょうがない。だから白隠さんもそれでノイローゼになっている。白隠さんは、何でノイローゼになったか、と言ったら、普通の人は悟ったら全部がわかったというようにいうわけですよ。一度悟ったら、もうそれで人生のすべてが終わったように思う。ところがそれは、例えば悟りの人は置いといて、職人さんの話を聞くと、そういう世界は皆無ですね。中村紘子(なかむらひろこ)(1965年のショパン国際ピアノコンクールで、日本人として、田中希代子の1955年初入賞以来、10年ぶり二人目の入賞者として広く知られている)さんの話をどっかで聞いたことがありますけども、ちょっとしたコンサートをやるんでも、最低でも八時間練習する。プロの人がね。終わったらもう八時間こうやってピアノ弾かないと、指が次の時の準備にならないと。私ども毎日坐禅しますけど、坐禅をしないと、ピントが微妙に外れるような気がするんですね。頭で捉えよう捉えようする。白隠さんは、事物の本質は頭じゃないということを、よう納得されたんですけど、その納得したが故に、それを日常の中でどこでも及ぼそうと思ったら、頭を働かせちゃったんですね。死ぬほどの重病人になるほどの超ノイローゼになった。あれは白河(しらかわ)の白幽仙人(はくゆうせんにん)に会ったんだというんですけども、私の師匠は、「『夜船閑話(やせんかんわ)』は白隠さんが作った物語だろう」と言っていました。白河の方へ行くと、ほんとに深山幽谷のような場所じゃないもんですからね。「白河夜船という夢物語の中から作ったんだろう」と言っていましたけども、それは多分そうかも知れないんですけども。あれは白隠さんは、中国の古い仙人のものを山ほど読みましたから、その中で工夫されたのが一つと、私は今頃、大慧宗杲(だいえそうこう)(中国の宋代の臨済宗の僧:1089-1163)禅師の語録とか、それからその後から出てくる虚堂智愚(きどうちぐ)(中国、南宋の臨済宗の僧:(1185-1269)のものを読んでいると、白隠さんは、この二人の影響を凄く受けているな、と。虚堂智愚(きどうちぐ)が言った言葉と大慧がいった言葉が、白隠さんの語録の中にいっぱい出てくるんですね。大慧なんかも「無意識」ということの難しさをウンと言っている。彼がそこで一番引っかかったのは、お師匠が圜悟克勤(えんごこくごん)という『碧巌録(へきがんろく)』を編集した人で知られる人なんですが、その人が、「お前は今こうやって俺の前で喋っている時は、全部がわかっている。だけど儂がここから出て行ったら全然外れている。あるいは寝ている時に、それではない」と言われて、もの凄く彼は引っかかるんですね。これどうしようかと。結局、もの凄くよくわかったことでも、それを0コンマの00一秒でも認識で捉えている限りは、認識なんですね。どんな刹那でも。そのことを気が付いていない。そのことを圜悟さんは言っているわけですね。どうやったら、その認識を外れるかということでえらい苦労して、白隠もそのことで苦労されたもんですから、彼は悟ってからノイローゼになったんです。このことをなかなかわかっていないですね。で、いろいろやっているうちに内観法という方法をやっていると、自分の思いを脳味噌でなくて―彼の言い方は良い言い方だと私は思うんです―信じてやるより手がないんですけども、自分という存在も、それから見えることと聞くこと―ほんとは「見る、聞く、味わう、触れる、嗅ぐ、思う」という六感で、六識があるというけれども、大きく分けたら、「見える、聞く、思う」なんですね。この三つを取り敢えず下半身に全部集める。集めて、こっから離さないようにして、どんなに物が見えようが来ようと全部丹田から下―お臍から下、足の先までだ、と思うように、ズーッと最初イメージで―これ認識ですよ―やり続けていくとある時に、自然にどんなに見てもなんか臍の中だな、丹田だな、という感じになる―これ一つの錯覚なんですけども。錯覚をやっているうちに、認識じゃないものが向こうからこう顕わになってくるんですね。これ面白いですね。昔の職人さんはみんな読んでいるとそういう体験をしていますね。剣道やったり、武道やる、ああいうことも夢中になってやっているうちに、初めて今度は自分が剣道で剣を振るんじゃなくて、向こうが振るからこっちが振っているんだとかね。鐘を撞いていた坊さんが、自分が鐘を撞いているんじゃない。日が沈むから鐘が音がするんだという言い方をした人がいるんですね。夕暮れの鐘を撞いている時。そういうふうになってしまうところがある。何でだろうと思っていると、要するに五官でもって、あるいは六官でもって捉えている、私からいうと、人間は六つの孔でしか捉えていない。ほんとは凄く小さな少ない孔が、纏めていたものがパッとそれで解き放すと、もっともの凄い無限の感覚があって、例えば光りでも今、夏だから夏だというんじゃなくて、光の中にも秋が入っていたり、まだ夏のが残っていたり、それから蝉の鳴き声でもよく味わっていると、もう夏が終わりのような泣き声が入っていたりというような、そんなことを感じるものをいっぱいもっているわけですね。その感覚はどこだって、耳だとか目だとかというもんじゃないものがありますよね。なんか無限の過去からインプットされてきたもんじゃないか。そういうようなものが向こうから滲み出てくるものがある。初めて我々の認識ではないな、ということになるんですが、そうなってくると、じゃ何者がそのように思わせるんだということが、ここがまたもの凄くややこしい問題ですね。白隠さんは、それを「何者だ、何者だと問え」というわけですよね。問い続けていくと、我々の頭の中では、誰かが―主が出てくるように思うんですね。問うていくと正体のはっきりしたものがパッと顕わになってくる。
 
金光:  それは思いですよ。
 
形山:  思い。一生懸命何か悟りの主のような―神さまとか仏さまのような正体、一生懸命やっているわけですね。いつまでたっても―我々の言葉でいうと、「猫の年がきても」って、十二支にないもんですが、「永遠に」という意味なんですが―悟らんぞというんです。で、そうではなくて、主はないんだというところに落ち着く、最終的に。あったら困るんだ。あったらその主に従うとか従わないという問題が出てくるじゃないか。従わない人はどうなんだ、という問題が出てくる。そういうものではないんだ、ということに、そこにホッと落ち着かないと、ものが始まらないですね。
 
金光:  そういうのは考えてもダメですね。「ああそうか」というふうに、やっぱり向こうからというか、自分じゃないところから。
 
形山:  自分でわかるんじゃないんですね。そうすると、初めて天地というものの働きは、いつでも差別でしか具体化しないんだということは、例えば畑の大根という形でしか出てこないんだけれども、天地全部に及んでいる平等性というものは、平等というような形がどっかであるように思っていますけど、常に無いんですね。
 
金光:  意識ではそういうふうに「平等」と言って使いますからね。
 
形山:  そうではなくて、一つひとつの大根―こっちの大根とこっちの大根は、また形が全部違うんですけど、そういうふうに個々に完全に違う姿・形は似ていても違う大根の形になるということを知る。平等が具体化されないということになると、もっとも平等であることは何か言ったら、もっとも違うことを正直にやる。そこにもの凄く柔らかい心が具体化されていくという。
 
金光:  そうなると、自分の思いで、「こうなればいいな、こうなるに違いな」と思っているような状態と、外れた状態がきても別に慌てなくてもいいわけですね。
 
形山:  そうそう。良寛さんのいうように、「災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候」ということになってしまう。ところがどうも宗教をやると、今の状況から超えて、なんか別の良い世界があるような言い方ばっかり。そうすると、それがない人は、それないままで死んじゃったら不幸かということになる。宗教は世の中をそういうふうに人間の願う通りによくする教えじゃないですね。あらゆる状況の中で、どう自分の自由を確認していくかという世界ですね。だからどん底の世界へいっても、どん底じゃないものを見出している。最高に極致の幸せを見付けても、幸せとは無関係な、そんなものに全然引きずり回されない自己の自由を見付けてしまう。そういう教えでないといけないと思うんですね。
 
金光:  しかし、その「自由」というのは、今世間一般に考えている「したいことをする自由」とは、
 
形山:  間違いなく違う。それは人間の「私のしたい自由とあなたのしたい自由」と違うというような自由じゃないんですね。「どなたにも及ぶ自由」ですから、私の好き嫌いには関わらない自由ですよね。これ凄く勘違いされているような気がしますね。だから我々の世界でいうと、腕は外に曲がらない。内側にしか曲がらない。ここに絶対の自由がある、という禅の世界ですね。そうすると、外に曲がったり、上に曲がったり、いろいろ自由自在にこうするのが自由、それは人間の自由ですね。ところが人間が自由だとか、不自由だとかいうことを考えるのを一切抜きに、どんなに言おうと、手は内側に回ることで働く、手の自由がありますよね。だから「柳は緑、花は紅」という言い方しますけども、本当は「柳は緑」という前に、「柳は緑じゃない」と言ってやらないといけないところがあるんですね。「柳が緑」というのは、私が捉えた緑で、人が捉えた緑はまた違うんですね。「色」というのは、光の作用によって、ほんとは同じ緑でも、夏の光の中と、春の光の中と、冬の光の中と、また朝と昼と夜とで、ウンと違うにも関わらず、「緑」というと、みんなもう一つの固定した緑、しかもその固定化した緑も、個々人が捉えた緑ですよね。そうではないですね。「柳は緑」と言っても、あなたが捉えた柳の緑と、私が捉えた柳の緑は実は違うかも知れない。それだから一度「柳は緑でない」という世界にやると、柳自体がもっている、私が規定した緑じゃなくて、柳自体がもっている本来の緑が、そこにわぁっと顕わになる。そこが前提とされていなければ、柳は緑でない。あるが故に緑になってくるんだという世界ですね。ここに我々の自由という世界がある。
 
金光:  そうしますと、先ほどのお話にくっついていきますと、自分の思うようにならないところでも、そういう思いがご破算になったところで、そこに現れてくる。それが自分の本当の自由に繋がるわけですね。
 
形山:  自分が思い通りにならないと感じている働きほど自由な働きもないわけですよ。そういうふうに感じている。不自由な時には不自由なように感じているんじゃないか。自由な時には自由なように感じているんじゃないか。不自由な時に自由を感じるわけでもなければ、自由な時に不自由を感じるだけではない。実に不自由な時には不自由に感じる。辛い時には辛いように感じるし、このもの凄く自由なこと、という。
 
金光:  それは面白いですね。そう思えたら問題ないんですけども、やっぱり「不自由だ、不自由だ」とか、今「自由だ、自由だ」と有頂天になったり、
 
形山:  ふと誰かと比べているわけですよね。万歳と自分が思っているところが自由だと思っていると、そうでない時に、必ず苦しいことになる。だから比べないということは凄く大事だ。だから「本当の自由というのは無比だ」と思うんですね。もう一つの「ひ」は、「逃げない。避けない」。
 
金光:  なるほど。「避難」するの「避」ですね。
 
形山:  どっかに逃げるという「避」。だから避けない。今の事実をちゃんと受ける。ここに自由がほんとはあるような気がしますね。自分の仮説観念でないもので受けてみる。「あるがまま」というけども、「あるがまま」というのも、私は誤解が多いもんですから、あまり使いたくない言葉ですけども、なんか「自分の見たままの自然」とかというような言い方をすると、「自然が見えて」という話の中にそういうのがありますでしょう。ところが自然は凄く残酷なところがあるんですよね。ところが人間が考えた自然は、なんか凄く都合のいい自然だったりする。
 
金光:  やっぱり自分の思いというか、意識の枠の中に掴まえていますから、本来の自然そのものは、ありのままじゃないわけですね、人間が掴まえると。
 
形山:  九州のああいう災害があった時は、なんか自然は恐いじゃないかという。
 
金光:  昔、普賢岳が爆発したことがあって、
 
形山:  そうですね。それからバスに乗って楽しくやっていたら、どっかのトンネルの岩盤が落ちたでしょう。
 
金光:  北海道でありましたね、昔。
 
形山:  私は、この道に入った時の最初のきっかけはそういうことだったですね。みんな自分の幸せを求めているのに、どうして運命は時々不幸せなんだろうと。で、凄くそれを悩みましたね。ところがある時に、なんで私は自分の幸せな方からばっかりこの人生をみようとするんだろう。もし不幸せがものを言うことができるなら、「俺だっているのに、何故継子扱いするんだ」と、不幸せが言うに違いないと思ったら、〈待てよ、どっちかがあるんじゃなくて、両方があって成り立っている世界がある〉と思ったことがあるんですね。
 
金光:  それは面白いですね。
 
形山:  「不幸せ」と「幸せ」がある。そうすると、考えているうちに、じゃ幸せと不幸せがあるならば、「幸せと不幸せが生ずる場所があるだろう」と。二つがあるということはね。もう一つ奥があるぞ、ということを思う。始めて禅の方にいこうかというきっかけになったのは、そういうきっかけがあったような気がしますね。
 
金光:  その話で思い出したのは、例のナチスの強制収容所に入れられたフランクル(ヴィクトール・エミール・フランクル:オーストリアの精神科医、心理学者。著作は多数あり邦訳も多く重版されており、特に『夜と霧』で知られる:1905-1997)さん、彼の言葉で良い言葉だと思うんですけれども、「自分が人生に絶望しても、人生は自分に絶望しない」。向こう側から―普通は自分の方だけしか見ませんけれども、人生の方から自分を見たらどうなるのか、というところ、まったく立場が違ったところで、
 
形山:  「夜となんとか」という本でしたね。
 
金光:  『夜と霧』(みずからユダヤ人としてアウシュヴィッツに囚われ、奇蹟的に生還した著者の「強制収容所における一心理学者の体験」(原題)である)ですね。
 
形山:  あれは良い本だったですね。もの凄く良い子どもが吊されれていて、「神さまが吊されている」という言葉は忘れなかったですね、あれ読んでいて。
 
金光:  だから要するに、一方自分の思いだけで世の中見たり、外を見ていると、これはそこで非常に自由にやっているつもりが、非常に不自由なところで動いている、ということになるわけでしょうね。それと心もだんだんと自分流の固まった心になってしまうと。
 
形山:  だから自分が生まれてから今日までの思いを、ちょっと離れて事実を見てみる。損得を抜きにしたところで見る。これは大事なことなんですが、さっきも言ったように、自分の思いでそれを損得で離れようと思っても、そのまた離れようという思いが、離れない思いと二つに分かれてしまう。これはややこしいですね。だからどうして本来、ほんとは本来の方が百パーセント近く働いているんですけども、脳味噌の方で捉えた途端に、この湯呑みを自分で規定する湯呑みにすると同じように、まったく私の何十年かの情報の中だけでものを見てしまう。彼が言っている湯呑みは、お茶を飲む湯呑みか、酒を飲むための湯呑みしか限定されていなくて、実は土がここにあって、湯が掛けられておって、もの凄い熱が加えられて、どこそこの土で、この土は例えばどこの土か、もの凄い何万年も経って作られた土かも知れないこと、全部そこではカットされているわけですね、その関係は。今、自分が捉えている使う湯呑み。だから「この湯呑みを、湯呑み以外で使う方法を言ってみろ」と言った途端に、行き詰まっちゃうんですね。なんか飲むか、眺めるかぐらいでね。そこにポッと、例えば庭に放り投げておくと、虫が棲んだり、自然に水が溜まって、そこにボウフラが棲んだり、いろんな生き物の住処になったり、花が咲くかも知れない。草が、あらゆる用途を彼らが使う。無限にあるわけですね、大地のところに放り投げておくとね。終いに風化していって、また大地に融け込んでしまう。ところが人間は、自分の使うところでしか見ない、働きを。ここが面白いところですね。
 
金光:  だから自分の思いと言いますか、意識の働きというのは、そういう性質のものだということに気が付くと、
 
形山:  先ず気付くところからですよね、最初はね。気が付くとこからなんです。
 
金光:  そうすると、また思い以外のことにも気が付く、そういう、
 
形山:  私ね、そのことを思う時に、やっぱり「信」ということが、大きな問題だなと思うのは―信ずるの「信」ですね。「宗教をやる人は信じなければいけない」というんですが、この問題は凄く大きな矛盾を含んでいて、信仰している人は救われて、信仰しない人は救われない、というような「信」がありますよね。そういう「信」ではないような気がするんですね。
 
形山:  普通「信」という時は、思い込みを「信」ということが多いですけれども、本当の「信」というのは、思い込みじゃないという意味がしますけども。
 
金光:  もし救われるものならば、こちらが信じる信じないは関係なくして、触れているものでなければいけないような気がしますね。だから本当のものに触れると初めて無限に信じられているものに、私が貫かれるという。無限に信じられていたんだ、私は。生きることを通して、ということに触れる。だから信じたら救われるじゃないですね。信じようと信じなかろうと、端(はな)から信というものに貫きっぱなしだ、という。そこから外れたことがなかった、ということに触れるんだろうと思うんですね。これは私が信じる問題ではない。向こうが勝手に信じてくれている問題だ。そこで初めて自分がどうする、ああするんじゃないことに触れてくるような気がします。
 
金光:  そこは全く枠がないですね。
 
形山:  枠はないですね。
 
金光:  そういうお話を伺っていると、あ、そういう世界に気が付くと、心も柔らかくなるだろうなという。
 
形山:  柔らかくないと、本来固いことはないということですよね。
 
金光:  どうもありがとうございました。
 
     これは、平成二十一年八月三十日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」で放送されたものである