いのちという贈り物
 
              上智大学グリーフケア研究所所長 高 木(たかき)  慶 子(よしこ)
一九三六年、熊本県生まれ。聖心女子大学文学部心理学科卒業。上智大学大学院神学部修士課程修了。博士(宗教文化)。現在、上智大学特任教授、上智大学グリーフケア研究所特任所長、「生と死を考える会全国協議会」会長、「兵庫・生と死を考える会」会長。二十数年来ターミナルケアにある人々のスピリチュアルケア、及び悲嘆にある人々の心のケアに携わる。一方、学校教育現場で使用できる「生と死の教育」カリキュラムとビデオを制作。幅広い分野で全国的にテレビや講演会で活躍されている。
              き き て           大 福  由 喜
 
ナレーター:  今日は、「いのちという贈り物」と題して、上智大学グリーフケア研究所特任所長の高木慶子さんにお話を伺います。カトリックのシスター高木さんは、昭和十一年熊本生まれ。これまで癌などの病により緩和ケアを受けている方々の傾聴や災害・事件・事故などで大切な人を亡くした方々の悲嘆、いわゆるグリーフ(grief)に向き合うグリーフケアに携わってこられました。今回は、拷ニ族を亡くしたり、行方不明になったり、こういう方々がとっても辛いと思います。人間にとって、喪失の中でもっとも辛いのが、愛する家族、親戚、友人を亡くしたことの辛さ―「悲嘆の状態」と申しますけれども、大事なものが一遍に無くなった。重複する悲嘆ですよね。多くのものを一遍にして無くしてしまう。私自身が毎月行っておりますのは、その悲嘆の状態にある方々に、そういうことで「悲しいのよね、苦しいのよね、でも苦しい時は苦しいと言っていいのよ。悲しい時には悲しんで泣いてもいい」ということを、私、メッセージで言います。そうすると、よく言われるんですが、「先生、ほんとに悲しんでいいんですか」。そうすると、「悲しかったら、どうする? その悲しみは。留めておいてもいいけれども、あなたはそれでお元気になれると思う」と言ったら、「いやいや、益々食べられなくなって、痩せてきました。眠れなくてイライラしております」とおっしゃいますね。決して健康な状態じゃない。「だからね、悲嘆の状態のあなたの今の状態は、こういう状態なので自分自身を甘やかせていいんですよ」というんです。で、「あなた自身が食べたいものを食べていいのよ。寝たい時に寝ていいの。愚痴を言いたい時に―でもね、聞いてくれる方に言うのよ。嫌がる方に言っちゃダメ。あなたの愚痴を聞いてくださる方に大いに言ってください。この方秘密を守ってくださると思う方にお話してくださいね。それを自分自身許して頂戴ね。悲しい時には悲しんでいい。泣きたい時には泣いていいの。泣ける人の前で、悲しい≠ニ言える方の前で悲しみを出していいんですよ。涙を流していいんですよ」と申し上げると、一周忌が終わった後に、何人もの方が、「漸く泣けるようになりました」とおっしゃってくださいました。これはやはり今まで一生懸命自分の中で、心の中で押さえていらっしゃったものを、「解放されました、自由になりました、笑えるようになりました」と言ってくださる方が、今出てまいりましたね。一年半を過ぎなかったら、この方々は、本音が言えなかったんだな、と今でも思います。
 
大福:  今のお話を伺っていますと、震災によって大事な方や故郷を失いながら、その悲しみの中でも生きようとするいのちを支えていこうとされていると思うんですけれども、阪神淡路大震災の時には、たくさんの方を支えてこられてきたんですよね。
 
高木:  私自身が阪神淡路大震災の時に、神戸市灘区におりまして、ベッドから振り落とされていなかったならば、私は確実に死んでいました。ベッドの上に大きな戸棚が重なってきたんですね。その状況を明るくなってから、そのベッドの上に大きな戸棚が重なっている様子を見た時に、私は自分の体中が凍り付いてしまったというんでしょうか、自分で歩こうと自分の脳が身体に命令するんですが動けなかった。声を出そうと思っても出せないようなショッキングな体験でしたね。そういう体験をして、三日後から避難所に行って、そこで誰彼となく―知っている方知らない方、男性の方女性の方、お歳召したかた若い方も関係なく、誰彼となく抱き合って「生きていてよかったわねぇ!」と喜び合いました。これは被災地で自分自身がその体験をした同士ですから、「生きていてよかったわねぇ!」と喜び合いましたね。自分がどういう状況であろうとも、「生かされた」ということをお互いに喜び合う。これは被災者同士が言える言葉だと思うんですね。今、東日本に行って「生きていてよかったわね」と言いますと、多くの方々は、「いや、生きていてよかったと言わないでください! こんなに辛いんですよ!」という方がいらっしゃる。それが今言う「生き残り症候群」ということで、生き残ったが故の罪悪感。「家族の手を離したから見えなくなったんです」「主人の手を離したから主人が居なくなったんです」という。まだまだその身体の中に温もりやその手の力を感じていて、それが自分が生き残ったけれども、家族が亡くなったという、非常に罪悪感に苦しんでいる方がいらっしゃるわけですね。ですからそういう方々に、その場に居なかった、外から来た者が、「生きていてよかったですね」という言葉は、私は言えません。ただそこにいらっしゃる方のところに、私が寄り添えるのは、向こうの方々から「高木先生、来てください」と呼んで頂けるから、私は行ってお話もできますし、向こうの方々も安心して私にお話して頂けるんだと思うんですね。そして現地に行って、私自身がそういう方のお話を伺う時に、「でもね、あなたがた、ほんとに生きていてくださったから、私、嬉しいのよ!」と申しますね。これ私の本音なんですね。そうすると、今年の三月ですね、一周忌の後から本気になって、「先生ほんとに私が生きていてよかったんでしょうか」とお聞きになるんですね。というのは、一周忌までは、そういうことあんまり聞かなかったと思うんですよ。ともかく生きないけないという、お一人おひとりの思いで生きてきて頂いたんだと思うんです。その一周忌が終わった後、「本当に先生、生きていていいんですね」という確認を取られる。その時に、「そうよ。あなたは生きていてくださるから、ご家族が生きていたことの証になるんじゃないの。そして亡くなった方々は応援していてくださる。頑張れ、頑張れ≠ニ言って応援してくださっている。あなたがこの世に生きていることを、天国から、あるいは極楽から、浄土から応援してくださっている方々がいらっしゃるんだから、あなたがここで亡くなった家族に対しても、ありがとう。わたし、ここで一生懸命生きるからと応援してくださいね≠ニ、お願いしながら、あなたは頑張って生きて頂戴」と申しますね。私に確認を取らなければならないというのは、生き残った方々が、〈亡くなった方に申し訳ない〉と思っていらっしゃるんですね。ああいうことをしてあげればよかったのに。あの時こうして、あの方も自分の家族は生き残っていたのに、という罪悪感がいっぱいで、それは家族だけでなく、親戚に対しても、友人に対しても、特に隣り近所の方々に対して、あの時に声を掛ければよかったとか、ほんとにおんぶしてでも走れば良かったとかね。でもあの時に、どんなに頑張ったとしても、走って行って、自分が途中で津波に流されていたんだろうと思う。でもやっぱり行かなければならなかったのかな。やはり自分の周りにいらっしゃる方々のいのちに対する愛おしむ心、そういうことだと思うんですね。亡くなられた方に対する思い。要するに、故人に対して思う心、あるいは悲しむ心というのは、亡くなった方と自分とが、どれほど愛情で結ばれていたかということの証じゃないかと、私は思いますね。例えば私たちは毎日、新聞に死亡欄がありますよね。それを見たからと言って、ワンワン泣く人はいない。やはりほんとに心から泣き・叫び、そして苦しみ・悲しみが非常に強いということは、その方との愛情が非常に深かったんだ。そういうことを示してくれるのが悲しみ、要するに悲嘆の重さじゃないかと思いますね。よくわかるのが、ご自分の家族とか、親戚、友人、特に恋人が亡くなった後の―男性であろうと女性であろうとも―非常に後追い願望が強い。即ち「自殺願望が強い」ということは、その相手に対する思いがとっても強いわけですね。ですから自分のいのちというよりも、相手に対する思いが強いもんで、自分もその方に会いたいという気持ちで、自分のいのちを大事にしないわけじゃないんですが、その関係を無くしたくない。それが故に「後追いをしたい」という思いがあるわけですね。そういう方に私は何人もケアさせておりましたし、家族を亡くされた後に、ほんとに多くの方が苦しい。その故人に会いたい。寂しい。そして故人はどこで何をしているんだろうという、いろんな思いから、その故人に会いたいが故に、もうここでは会えない。向こうの世にいかないと会えないからということで、自殺をお考えになる方もいらっしゃると思うんですが、この世では五感で見える形でお目にかかれる。ところが今はこの五感では会えないけれども、個人差は勿論ありますけど、例えば一年経ち、二年経ちすると、徐々に心の五感で会えるという。それでその亡くなった方は見えないけれども、まさしく見えるかのように対話が始まってくるわけですよ。日本には非常にいい習慣があるのが、大体お仏壇がありますでしょう。そのお仏壇に向かって、朝「おはよう」と言って、亡くなった方とご挨拶なさいますよね。そして出掛ける時には「行ってくるからここの家を守っていてね。そして私を見守ってね。行って来ます」と言って、お仏壇に向かってご挨拶してお出かけになる。お出かけから帰っていらっしゃったら、お仏壇の前で「只今帰りましたよ。今日はこうこうこういうことがあってね。ありがとう」とおっしゃる。この「お仏壇がある」ということは、日本人にとって非常にグリーフケアのために大事なことだと思います。仏壇に向かって、その方と話ができるということなんですね。特に外国の方々がおっしゃるのは、「こういう仏壇があるということが、とても日本人をグリーフから守ってくれているんじゃないかと思う」とおっしゃいます。このように居ながらにして、あの世の方と関係を新しく構築する。ここになったら、かなりその心が晴れやかになるんですね。今、東日本でもそうなんですよ。「主人は亡くなってしまって、無言です」とおっしゃっていた方が、「ご主人さまとお話ができますか?」と言ったら、「いやぁ、主人はなんか話し掛けてくるような気がします」「あ、そう。よかったわね!」と言ったら、「そんなに喜ぶことではないんです!」「そう、ごめんなさい」と言いますでしょう。「だけどね、やっぱり嬉しいですよ」「どうして嬉しいんでしょうね」と言ったら、「やはり主人は私にちえ子≠ニ言ってくれる。で、そのちえ子≠ニいう言葉は、特別なんです」と言って、まあ温かい心を私に示してくださって。私自身はやはりいのちというのは、こちらに生きている時にも、亡くなった時にも繋がりがある。とっても大事な関係を、亡くなってからも持ち続けることができるんだと思う。「いのち」というのは、今私たちに見える形で、この身体が生きているということで、いのちがあると思うんですが、でもこの身体を今生かしているこのいのちは、「じゃ身体から離れて行ってしまって、無くなっていってしまう。それと共に私が今生きているこのいのちも無くなってしまって、無になってしまうのか」ということになるんですが、私はそう思っていません。いのちは神さまからの贈り物。それは神さまが私たちを造ってくださった。自分の子どもとして造ってくださった。そしてその造ってくださった神さまは、私たちにこの身体をこの世で与えて下さっているので、見える身体の中で、「お互いに生きているのよね」と、自分でも実感するし、周りも実感しますが、この身体から離れたいのちは、無になるんではなくて、私たちを造って下さった「父なる神さま」というんですが、これは「親なる神さま」と言った方がいいかも知れませんよね。この親である神さまのもとに帰っていく。ですからキリスト教では、人様が亡くなられると、「帰天(きてん)されました」という。天に帰られました。即ち神のところにお帰りになったんですよ。これがもともとの本当の故郷である神さまのところに帰っていくということが、私たちにとって死なんだと思います。ですから死で、いのちが無くなるんではなく、いのちは朽ちないで神さまのところに留まる。だから向こうで「あの世で再会できますね」というのは、そういうことですね。ですからその日本の社会では、仏教、いろんな宗派の方々がいらっしゃると思うんですよね。私は各々の宗教にはそういうあの世観というのがあって、この世に生きている間、例えば「浄土に行くんですよ」とか、「生まれ変わりますよ」ということで、いのちはズーッと続いている。そういうことを、いろんな宗派はいろんな形で教えていらっしゃるんじゃないかと思います。それが、私たちは無意識のうちに、千の風になってとか、星になってとか、小鳥になって、いのちは残っている。そういうものをちゃんと私たちが、自分の心の片隅か何かわかりません、しっかりと持っているんだと思うんですよ。存在は残るんだ。でも死んだことがない私たちにとって、死んだ後、どういう形でいのちが残るかわからないから、亡くなってとても無念なんだけど、その亡くなった故人とちゃんと会話ができる。そして「こういうことがあったのよ」と一緒に喜んで貰える。そうすると、だんだんと「あ、しっかり頑張れ!」と言われているような気がする。「私はあの人たちの分まで頑張るんだから」と言って、お元気でお過ごしになる。こういうことが、私はいのちの繋がりであり、そしていのちはこの身体と共に無になるんではない。無くなるんじゃないんだ、ということを、お互いが体験していくんではないかなと思っておりますけれども。
 
大福:  つまりいのちは無くなることはなくて、姿が見えないとしても、その関係というものは続くんだということですよね。高木さんご自身にも、そういうご経験というのはおありなんですか?
 
高木:  私自身の中には、「この身体が見えなくなっても、身体を生かしているいのちはズーッと生き続けているんだ」という信仰を持っております。だからと言って、例えば父とか母が亡くなった時に、父も母も天国にいて、私たちを見守ってくれているんだ、ということが、どんなに信仰上、あるいは頭の中でわかっていても、子どもとしての悲しみ・苦しみというのかな、父の姿が見えない、母の姿が見えなくなったことの寂しさ・悲しみというのは、ほんとにもうこの天と地がどうなっていくんだろうと思うぐらいに、自分の居場所がなくなった感じでしたね。でも、そういう寂しさの中に、徐々に徐々に喋れば父の声だったり、母の声だったりするのが、この肉体の耳でも聞こえるような感じがしてきましたね。父の方が先に亡くなったんですが、父が亡くなっても、母がいるということはほんとに大きな支えだったと思うんですね。それが母が亡くなった時の悲しみ・寂しさ。兄弟がいるのにもう孤独感に苛まれましたね。神さまを信じている、永遠のいのちを信じているに関わらず、自分が孤独だという。ほんとにそれで落ち込んでいたんだと思うんですが、でも、ほんとに徐々にその父も母も、私が、父がいた時よりも、母がこの世にいた時よりも、ずっとずっと近くに一緒にいてくれるんだ。そしてお話をすると、ちゃんと答えてくれているような感じがする。グリーフケアというのは、やはりそこなんだと思うんですよね。どんなに信仰があったとしても、神さまを信じ、永遠のいのちということを信じていたとしても、人が亡くなったら、やはり人間が持っている感情においては、五感に触れることができなくなった。寂しさ・悲しみ・苦しみは、非常に言葉に言い尽くすことのできないものが襲いかかってくる。母が亡くなった時に、私はほんとに自分の身体の体力も気力も全部が削(そ)がれてしまったような思いでした。それが私にとっては、一番酷い悲嘆の状況を味わった、ということだろうと思うんですけどね。その時に、まだ授業が続いていました。そして試験もあったんですが、私自身が授業をするのは非常に辛かった。それをご存知になった学長先生が、私に電話を下さって、「高木先生、僕が代わりに授業をするので、来なくていいですよ。そして試験の時にも自分が監督するので試験の答案を送ってください」ということで、その学長先生のあの優しさというんでしょうか、すぐ代わってくださる腕に支えられて、私は元気になったんじゃないかと思うんです。そういう自分が、体力・気力もなくしてしまって、深い悲嘆にある時に、優しく支えてくださる人が周りにいてくださったならば、ほんとに支えて頂ける。これが私の実感です。ですから私もそういう深い悲嘆にある方に、少しでもお支えになったらいいなと思います。そしてその「支える・励ます」ということで、みなさま方に一度聞いて頂きたい音楽があるんです。それが『ユー・レイズ・ミー・アップ(you raise me up )』という歌なんですね。これは荒川静香(あらかわしずか)さんが、トリノオリンピックで金メダルをお取りになった後、エキスビジョンでお使いになった曲なんです。その歌詞が素晴らしいですね。
 
あなたが励ましてくれるから 山の頂(いただき)にも立てる
あなたが励ましてくれるから 荒(あら)ぶる海も渡ってゆける
私は強くなれるの あなたの支えがあれば
あなたが励ましてくれるから 私以上の私になれる
 
という。これ日本語に訳された歌詞なんですが、音楽は英語で歌われますね。で、やはり人生の中には、喜び・幸せ、あるいは悲しみ・苦しみの時を過ごしてまいりますけれども、お互いに励まし支える誰かがいてくれたらどんな苦しみの時にも、荒ぶる海を渡っていける。自分の前に山がある、岩があると思っても、それをよじ登ることができる力を、その励まし支えて頂く力によって乗り越えられるんじゃないかと思いますので、この歌を是非聞いてみてくださいますでしょうか。
 
大福:  ほんとにお話を伺っていまして、私たちの人生ではやっぱりさまざまな苦しみに突然出遭うことというのはありますけれども、生きてこそ新しい方にも出会えたり、亡くなった方との関係もまたできたり、いのちというものを大切にしていきたいなというふうに感じました。最後に苦しみに遭った時に、どういうことを先ず思えばいいか、一言頂けますか。
 
高木:  私たちは、生きている。だから苦しみ・悲しみがあるんです。苦しみ・悲しみの意味を、私たちは人生の間にハッキリと理解することはできないと思いますが、その悲しみ・苦しみを乗り越えることができる。ですから乗り越えるためには、些細な幸せ、些細な自分を支えてくれる方との関係があれば、私たちは乗り越えられるんじゃないかと思うんです。それが家族であり、親戚、友人、あるいは電車の中でちょっと笑顔でいてくださる方の存在だけでも、私たちは大きな支えを頂くことがあるんじゃないかと思うんですよ。坂本九(さかもときゆう)さんのお歌にあった「見上げてごらん 夜の星を」というあの中に、
 
見上げてごらん 夜の星を
小さな星の 小さな光りが
ささやかな幸せを うたってる
 
見上げてごらん 夜の星を
ぼくらのように 名もない星が
ささやかな幸せを 祈ってる
 
という歌詞があるんですね。私たちが自分の苦しみを乗り越えていくためには、それだけの力がいのちの中にある。それを信じる。そしてそういう信じているものを支えてくれるのが、細やかな事柄の中に含まれている。そういう細やかな中に生きる希望を見出す目を、日頃、悲しみ・苦しみがない日頃の時から養っておくということが大事じゃないんじゃないでしょうか。それが生き生きと生きる秘訣かと思います。ありがとうございました。
 
大福:  ありがとうございました。
 
     これは、平成二十六年十二月二十八日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」で放送されたものである。