願いは「しあわせ」の懸け橋
 
                   華厳寺副住職 (かつら)  紹 寿(しようじゆ)
 
ナレーター:  今日は、「願いは「しあわせ」の懸け橋」と題しまして、京都嵐山の近くにある華厳寺の副住職桂紹寿さんにお話頂きます。華厳寺は、一年を通して本物の鈴虫が鳴いていることから、「鈴虫寺」として知られています。この寺では、訪れた人たちはお茶とお菓子を振る舞い、鈴虫の音を聞きながら説法をする時間を設けています。「鈴虫説法」と呼ばれ、お年寄りから若者まで多くの人たちがこの説法を目当てに寺を訪れます。およそ八千匹の鈴虫の大合唱。講堂にズラッと並べられた鈴虫の飼育箱から聞こえてきます。参拝者が鈴虫の音を楽しんでいると、お茶と寺で作った特製の和菓子が用意されます。そんな中で説法が始まります。説法と言っても、仏教の難しい話でなく、家族のこと、友だちのことなど、身近な話題を通して、仏教の教えを優しく話しています。副住職桂紹寿さんのユーモアたっぷりの話で、講堂の中は忽ち笑いに包まれます。説法は、副住職の桂紹寿さんを始めとする数人の僧侶が交代で当たっています。この鈴虫説法、およそ六十年前に先々代の住職が、禅宗の茶礼(ちやれい)に基づいて行ったのが始まりで、その志は受け継がれています。今日お話頂く桂紹寿さんは、一九七一年(昭和四十六年)生まれ。北海道大学大学院で東洋哲学を修了した後、天竜寺の専門道場で修行。一九九九年(平成十一年)に華厳寺の副住職になりました。桂副住職は、できるだけ多くの人が幸せになるきっかけになればの思いで鈴虫説法を続けています。それでは「願いは「しあわせ」の懸け橋」、華厳寺副住職桂紹寿さんに、いつも行っている鈴虫説法を中心にお話頂きます。
 
桂:  今、少しご紹介頂きましたけれども、私がいますお寺は、京都の嵐山の近くにあります「鈴虫寺」というお寺なんですけども、ほんとは「妙徳山(みようとくざん)華厳寺(けごんじ)」というのが正式な名前なんですけれどもね。一年中鈴虫が鳴いているというところから、みなさんには「鈴虫寺」とおっしゃって頂くことが多いかと思いますけども、今からそうですね、六十年ほど前になるんですが、八代目の住職さんですね―もう既に亡くなっておられるんですけども―ちょうど今時分、秋の口ぐらいと思うんですけどね、夜に坐禅をされておりました時に、儚い寿命しかない虫が懸命に鳴いている姿をご覧になって、悟りを開かれて、なんとかそれをみなさんに一年中聞いて頂くことができないかということで、研究が始まったわけです。勿論六十年前ですから、今のように冷房の機械もないですし、必要な道具もないような時代です。為せばなるんだ。やったらできるんだ、というお気持ちで始められましてね、二十六年掛けて漸く成功されました。お蔭さんで、今では一年を通して、みなさんに鈴虫の音を聞いて頂けるようになっているんですけども、ただ鈴虫を見る来られる参拝の方も多いんですけれども、実はお寺にお祀りしているお地蔵さんのところにお詣りに来られる方が多いんです。なかなかこのお地蔵さんは珍しいお地蔵さんなんですけども、この世の中の出来事であれば、一つだけ願いを叶えてくださるというお地蔵さんなんですけれどもね。いろんな願いをおかけに、いろんな方がお詣りに来られます。若い方でしたら良縁のお願いであるとか、人間関係のことだとか、子育てのことで来られる方もけっこうおられます。またご年配の方であれば、病気のお願いであるとか、家族との関係のことでお願いに来られている方もけっこうおられます。そういった方々に少しでも笑顔を取り戻して前向きに生活をして頂くことができるようにお話をさせて頂いているんですけれども、ただどうですかね、願いを掛けるということは決して悪いことでもないと思うんです。夢とか希望がないと、人間というのはやっぱりできないです。ただその夢というのか、希望というのが、あんまりにも自分だけの欲望を満たすことに執着し過ぎると、人を傷つけたり、欲に溺れてしまって、結局は自分で自分の首を絞めてしまうことになるんだと思うんですけども、欲が欲を生んで、もっともっとという気持ちになってくるわけです。でもですね、全部の欲が悪いわけじゃないんですよ。欲にも良い欲というのがありましてね、どういう欲かと申しますと、みなさんの役に立ちたいとか、みなさんのために働きたいというのが良い欲んなんだと思うんですね。つまり菩薩さんの欲です。「菩薩の誓願」とも申しますけどね。でも、私ら人間というのは、なかなか仏さんとか、菩薩さんのような誓願を立てて、実際に行動していくというのはなかなか難しいことです。だからこそ、大切なのは自分自身の欲望と如何に上手に付き合っていくか、ということだと思うんですね。これが「足るを知る」だとか、「ほどを知る」ということに繋がっていくんだと思うんですけれども。ほんとにいろんな方がお詣りに来られるんですよ。ただそういったご参拝の方のお姿を見ていますと、中には仏さんの前で柏手を打ってお詣りをしている方というのもけっこうおられるんですよ。決して悪くないと思いますけれども、なんというんでしょうね、神さまと仏さんがもう一緒くたになっているという感じがするんですけどもね。楽しみですね。お詣りに来ている方々に、神社とお寺の違いというのは、どうでしょう、わかってはんのやろうか、というのを聞いてみたんですけども、実際ですね年配の方も含めまして、けっこうほとんどの方がご存知ないということがわかってきましてね。今の時代ですから、仕方がないのかなと思っているんですけれども。ちょうど先月になりますかね、お盆の法要というのをお寺で行いまして、そこで檀家のみなさんにも集まって頂いたんですけれども、ちょうどその時に、「お盆のお詣りとお彼岸のお詣りという違いはなんですか?」ということを、檀家の方から質問がでましてね。どうでしょうね、みなさんもそう聞かれて、パッと想像がつくかどうかという話なんですけれども、ちょうどお彼岸に入っていきますけども、檀家さんにしてみれば、まあお盆もお彼岸も同じようなお経を読んで、ご先祖さんに手を合わせているわけですから、お盆の違いとお彼岸の違いと言われても、ピンとこないのが当たり前なのかなと思います。まあせっかくですので、お盆とお彼岸の違いというのを簡単に言うておきますけれども、「お彼岸」というのは、亡くなったご先祖さんを供養するための法要ですね。「お盆は」と言いますと、ご先祖さんだけではなくって、無縁仏さんとか餓鬼(がき)と言われるあらゆるものを供養するための法要です。だからお盆の法要を「施餓鬼(せがき)」と申しますね。「施餓鬼」というのは、読んで字の如くなんですけれども、餓鬼に施す、という意味です。今は施餓鬼というと、お盆にするのがもう一般的になっていますけれども、ほんとは別にお盆に限ったことではなくって、いつやってもいいんです。勿論毎日やったってかまわないわけですね。そもそもその施餓鬼の由来はと言いますと、ご存知の方もけっこう多いと思いますけれども、よく言われるのに二つありましてね、一つは、目連尊者(もくれんそんじや)さんのお母さんの話ですね。もう一つは、阿難尊者(あなんそんじや)さんのお話というのが施餓鬼の由来になっているんじゃないかと言われております。目連さんというのは、お釈迦さんのお弟子さんの一人でして、神通力と言いまして、ちょっとした超能力ですが、そういうものに長(た)けた方だったんですけれども、その目連さんのお母さんがお亡くなりになって、神通力を使いまして、お母さんは今どうしているだろうかということを目連さんが調べましたところ、極楽にはおらずに地獄に堕ちていたそうです。そこでは何も食べることが出来ずに、口に触れたものはすべて燃えてしまうというような地獄だったそうなんですけれども、その姿を見た目連さんが、あまりにもちょっとお母さんが不憫(ふびん)だということで神通力を使って、なんとか食べ物を渡そうとするんですけども、すべて燃えてしまうらしい。あまりにも可愛そうなので、ということで、お釈迦さんに相談なさった。そうすると、お釈迦さんがおっしゃるには、「あんたのお母さんは、生前に人に施すということをまったくしなかったんだ。そのために餓鬼道という地獄に堕ちてしまって苦しんでいるんですよ」ということを聞かされました。じゃ、どうしたら助けることができるんだろうかということを相談しますと、七月十五日―いわゆる修行僧たちが、夏の修行が終わる日なんですけども―「その七月十五日に修行を終えた修行僧にご馳走を用意して、お経をあげて頂ければ、お母さんは救われるだろう」ということをおっしゃったそうです。実際にその時になって実行してみたところ、お母さんが救われた、という話が伝わっているわけですね。これが本となって、旧暦の七月十五日にお盆の法要することになった、と言われているんですね。こちらの話はみなさん知っているかも知れないんですけども、もう一つ、さっき言った阿難尊者さんのお話があるんですけれども、こちらの方がちょっとマイナー(minor:小さい、小規模)なお話なのかも知れません。そうですね、阿難尊者さんという方も、お釈迦さんのお弟子さんの一人なんですけども、その阿難尊者さんが、坐禅をしている時に、一人の餓鬼が現れたそうです。痩せ衰えましてね、髪が乱れまして、目が光っていて、ほんとに醜い鬼だったそうなんですけれども、その餓鬼がいうには、「阿難尊者さん、あんたは三日後に死にますよ。死んだ後は、私のように醜い餓鬼に生まれ変わるんです」ということを伝えたらしいです。驚いた阿難尊者さんが、「どうしたらそうならんですむんや」ということを餓鬼に聞いたところ、「私たち、餓鬼道にいるものたちに、食べ物を施して、仏・法・僧の三宝を供養すれば、あんたのいのちも伸びるだろうし、私たちも苦しみから抜け出せるんだ」ということを言ったそうです。でも、供養するためのお金のない阿難さんは、お釈迦さんにやっぱり相談なさいまいてね、「どうしたらいいでしょうか」という相談をしますと、お釈迦さんが、「お皿にちょっと食べ物を供えて、陀羅尼(だらに)(梵文(ぼんぶん)を翻訳しないままで唱えるもので、不思議な力をもつものと信じられる比較的長文の呪文)を唱えれば、その食べ物は無限に増えていく。すべての餓鬼に行き渡るだろう」とおっしゃったそうです。阿難尊者さんは早速その通りに致しまして、お皿に供物を供えて、陀羅尼を唱えたところ、阿難尊者のいのちも長らえて、餓鬼にも食べ物が行き渡った、ということが伝えられています。これが施餓鬼の起源だ、と言われているんですけれども。それこそ目連さんのお母さんの話にしても、阿難さんのお話にしても、大切なのは「与える」ということなんですね。「布施」という言葉がありますけれども、みなさんどうでしょうね、どのようなイメージをお持ちでしょうか。「お寺に納めるお金」というイメージですかね。それとも法要なんか行った時に、お坊さんに渡す「お礼金」というような感じがあるかも知れませんけど、まあまああんまり良いイメージはないかも知れません。でも本来そういう意味ではなくって、「布施」というのは、「ダーナ」という昔のインドの言葉からきていまして、単に「与える」という意味なんですね。でも「与える」と言いましても、何もお金を与えるだけが布施ではありません。何でもいいんですね。例えばみなさんが、日頃使うような公園であるとかを掃除するのも布施です。お年寄りに電車の席を譲るのも布施です。なんや悲しい顔をしている人に、ちょっと優しい言葉を掛けてあげるのも布施です。ニッコリと微笑んであげるのも布施になります。自分が何かをすることで、相手が喜んでくれはったり、元気になってくれれば、それが布施になるわけですね。うちのお寺にも、近所に小さいお子さんがおられましてね、三歳と五歳の女の子の姉妹だと思うんですけれども、夕方になりますと、お寺の下の方で遊んでいるんですね。私が通りますと、「お坊さん、こんちわ」と言ってね、大きな声で満面の笑みを湛えて挨拶をしてくれるんです。ほんとに可愛らしい姉妹なんですけどもね。その姿を見ていますと、ほんとにホッと致しまして、一日の疲れがなんか飛ぶような気がするんですけども、ほんとに有り難いお布施を可愛らしい二人から頂いているんですけども、でも布施でほんとに一番大切なことというのは、決して見返りを求めてはいけない、ということなんです。見返りを求めてしまうと、どうしても商売になってしまいます。見返りを求めてしまうと、欲が出てしまいます。〈私が、あんだけしてあげたのに〉とか、〈ありがとうの一言もあらへん〉ということになってね、愚痴の一つも出てきますし、文句の一つも出てくるようになるんです。でもどうでしょうね、私も含めてやと思っているんですけれども、どうもこの頃ね、誰かに何かをして貰うことがあまりにも当たり前になりすぎている気がしますね。して貰うことが当然で、権利になってしもうて、あまりにも私たちの生活が便利になりすぎているのかも知れません。暑ければ暑いで、ちょっとエアコンのスイッチを入れればすむことです。ちょっと買い物に行くのに、近くのスーパーに行くにしても、車でわざわざ行くわけですね。最近では買い物に行かんでも家に居ながらインターネットで買い物ができるのも当たり前になりましたわね。品物はというと、宅急便で時間指定で届いてくる。こんな生活に慣れてきているんじゃないかと思うんですけれども、ただあんまりにも便利な生活に慣れすぎてしまうと、人間はどうしても我が儘になってしまうんですね。当たり前のことが当たり前でない生活、例えば電気を使わないというような生活を体験してみるのも、時には必要なのかも知れません。どうしても当たり前になりすぎてしまうと、感謝の気持ちというのがなくなっていくんですな。誰かに何かをして貰うことよりも、本当は自分がみなさんに何が与えられるのか、ということの方がずっとずっと大事なんですね。貰うことばっかり考えていると、どうしても人間というのは、〈もっとくれ、もっと寄こせ、何でしてくれへんね〉になっていくわけです。それよりも、自分が何を与えられるのか、というのをよう考えて頂きたいですな。実はこれが人間として生きるということや、と思いますよ。動物でも植物でもみないのちはあるんです。でも人間として生きるというのはどういうことなのか、ちょっと考えて頂いたらいいかも知れませんね。ただお坊さんということをやっておりますと、ほんとにいろんな相談を受ける機会が多いんですよ。最近は直接会ってご相談をするということよりも、どうもメールというものを通しまして、悩み事の相談を受けることが多くなってきました。うちのお寺にも、ホームページというものがありまして、最近ではお寺も時代についていかないといけないということで、ホームページも何でもせなあかんようになってきているんですけれどもね。で、そのホームページに悩みの相談の窓口がありまして、今回ですねタイトルになっています「願いの架け橋」というのが、その窓口の名前になっているんですけれども、そこにほんとに毎日多くの方からご相談のメールを頂いております。本当はあまりお勧めはしません。と言いますのも、人間というのは、何でしょう、キッと目だとか、耳だとか、雰囲気であるとか、いろんな感覚器官を使って、いろんなことを感じ取っていくんだと思うんですね。五官を使うことによって、その人―相談をして来ている方というのを知るわけです。それがメールとなりますと、文字だけなんですね。その文字だけで悩み事を聞かないといけなくなるんです。手紙というのも確かに文字だけなんですけれども、手紙というのは、そのご本人が書いているわけですね。筆圧だとか、字が綺麗だとか、字が乱れているだとか、そういうこともわかるわけです。でもメールというのはどうしてもみな同じ文字で書かれている内容だけからしか、内容をとることができないんです。だからほんとは実際に会わないとわからないことの方が多いわけですからね。メールというのは、どうもね、と思うんですが、ただ皮肉なことにメールでのご相談の中に、「人と接するのが苦手だ」という若い方からの相談が非常に増えているのも確かですね。「和顔愛語(わげんあいご)」なんて言いましてね、言葉があるんですけれども、「和顔」というのは、「和やかな顔」と書いて「和顔」ですね。で、「愛の言葉」と書いて「愛語」というんですけれども、ちょうどお母さんが、赤ちゃんを見る時のような優しい笑顔ですね。仏さんのお顔と言ってもいいでしょうけれども、これが和顔ですね、それと相手を思いやるという気持ちから出た言葉、大事なことでしてね、笑顔とか優しい言葉というのは、人を安心させるんですね。笑顔というものは、それだけでエネルギーがあるんだと思います。人を引き付ける魅力になるんですね。相手が子どもであっても、大人であっても、人と接する時には、和顔愛語ということが大事になってくるんだと思いますね。でも最近ね、お寺に来られる方のお顔を見ておりますと、随分無表情な顔になってきている方が多うございます。しかも乱暴な言葉を平気で使っている方も増えてきたような気がします。若い方もそうなんですけれども、案外小さいお子さんを連れて来ているお父さんとか、お母さんに、そういった案外恐ろしい言葉を使っている方が多いように思いますね。そういった言葉を使ったり、乱雑な動きをなさっていると、必ず子どもたちというのは、それを見ているわけですから、必ずそれを真似するんですよね。それになかなか大人は気付かないのかも知れません。「行住坐臥(ぎようじゆうざが)」という禅語がありましてね、日頃の立ち居振る舞いが心を育てていくわけです。禅宗では、坐禅も組みますし、托鉢もします。でも、そういった特別なことをしていることだけが修行なんじゃなくって、歩いたり、掃除をしたり、顔を洗ったり、ご飯を食べたりという、何気ないというか、普通の生活の一つひとつが修行だと言われます。日頃の生活が乱れたり、言葉が乱れてくると、どうしても心というのは乱れてきますな。威儀を正して美しい生き方を心掛ければ、自ずから美しい人生になっていくんだと思います。ただそういった威儀を正すということまではいかなくっても、ちょっと表情を豊かに暮らすことぐらいだったら、誰しもが心掛けられると思うんですよ。以前はお寺に来ている中学生さんとか、高校生さんというのが、ほんとに無表情で、覇気がないというような子たちが増えた時があったんですけれども、最近どうもその子たちが成長していったんでしょうか、二十代であるとか三十代ぐらいの方まで、ほんとに表情がなくなってきている方が増えているんですね。覇気のない方がもの凄く増えてきています。それでもほんとに気持ちはあるんですよ。嬉しい・楽しい・悔しい・悲しいですよね。それがあんじょうどうも人に伝えられんのですわな。それは生きていたら、誰だって嫌なことぐらいはあるんです。でも、そういう時ほど、ちょっと一人で鏡でも見ながら、ちょっとニヤッとして見てください。ニヤッとするでしょう。そんならそれだけでも心って軽うなっていくんですわ。そうすると、いろんなことが見えてくるんですね。仏さんもスーッと来てくださいます。反対にどこに行っても恐い顔をしている方というのは居はるんですけども、そんな顔をしていたって、近寄ってくるのは貧乏神ぐらいですわ。自分で自分のとこに引っ張り寄せているわけですからね。顔の表情というのは、なかなか面白いもんでね、なんというんでしょう、その人の日頃の生活ぶりというか、考え方というか、なんやかんや出てくるものなんですよね。根性の悪いことばっかりやっていると、どうしても根性の悪い顔になっていくんですね。「つまらん、つまらん」というてれば、つまらん顔になってきますわ。ボウッとしておったら、ボウッとした顔になってくる。それでもちょっとね、ちょっとにこやかにできるぐらいの心のゆとりというものを持ってはると、必ず人って寄って来てくださいます。これは実は大事なことでして、人が集まるということは、もうそれだけで必ず縁が増えるということです。縁が増えれば、物事は起こりやすくなるから、夢や願いも叶えやすくなりますしね、生き甲斐というものも出てくるんです。逆にムスッとしてれば、やっぱり人は逃げていきますわね。あの人と一緒にいても陰気くそうてしゃない。愚痴ばっかり、文句ばっかり、偉そうにいうて。それはそうやわな。自分で自分の縁を切って回ってはるんやからね。ほんまはなんや特別な日と違うて、普通の日こそほんとにいろんなことに興味を持って、にこやかに過ごして頂ければと思いますな。その積み重ねが結局幸せになっていくわけですからね。でも人間というのは、やっぱり生きていれば楽しいことばっかりじゃありませんわね。嫌なことも、辛いことも経験していかないといけなくなります。多くの人と接していれば、当然意見のぶっつかることもあるかと思います。自分とは違うからと言って、人を拒否してみたり、受け付けないような生活をしていると、どうしても狭い世界で生きていかなければならなくなるわけですね。十人おったら十の考えがあります。いろんな人がいるからこそ面白いわけです。「私が正しいの!こうでないといけないの!」って、いくら言ったとしてもダメなんですね。それよりも偶然かも知れませんね、出くわしてしまったこと、良いことも、悪いことも引っくるめてちゃんと受け止めて、それを楽しむぐらいの柔らかい気持ちを持ってくださいね。この柔らかさが強さになって優しさに変わるんだと思います。「柔軟心(じゆうなんしん)」と言って、仏教ではいうんですけれどもね。でも柔軟に生きていくというのは、なかなかそう簡単なことではございませんわね。自分と違う価値観を受け入れるというのは、やっぱり難しいことです。今まで自分を支えてきた地であるとか、位であるというのが、どうしても邪魔をしてしまいます。それを壊してしまわないと、自分と違うというものに対して、こう受け入れることはできないわけです。でも、やってみないと前には進まないんですよね。「嫌だ、嫌だ」といっても、「許せない、許せない」といくら言うたって、最後には受け入れていかなければならないんです。じゃ、それをどうやって受け入れていけばいいのか、ということになるんですけど、それを教えてくれているのが、実はお釈迦さんの教えであり、仏法なんだと思います。今し方からね、「布施」だとか、「和顔愛語」だとか、「行住坐臥」だとか、いろんな仏教の言葉を出しましたけれども、仏教の教えというのは、多分一つの地図なんだと思うんです。世界地図もあれば、住宅地図もあれば、道路地図もあります。その地図を見ながら、自分の足で実際に歩いて行かないといけません。地図を見てね、もう行った気になってもダメなんですよね。実際に自分で歩いて行くことが大事なんだと思います。その時に、なるべく道に迷わないように、また迷った時に、正しい道を示してくれるのが、お釈迦さんの教えなんだと思います。だから、お寺でお話させて貰っていることは、特別なことではなく、みなさんが笑顔でにこやかに過ごして頂けるきっかけになることを願って続けさせて頂いております。
 
     これは、平成二十一年九月二十日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」で放送されたものである