聖書によむ「人生の歩み」I愛・希望
 
         関西学院大学名誉教授・東京女子大学元学長 船 本(ふなもと)  弘 毅(ひろき)
 
ナレーター:  聖書によむ「人生の歩み」その第十回「愛・希望」、お話は関西学院大学名誉教授で東京女子大学元学長の船本弘毅さんです。
 
船本:  今月の聖句にあげた二つのうち、旧約聖書の「申命記(しんめいき)」六章四節から五節は、そのその最初の言葉「聞け」から取られて、通常「シェマー」と呼ばれ、イスラエルの民の基本的な信仰告白として、今も一日に二回は唱えられていると言われています。
 
聞け、イスラエルよ。
我らの神、主は唯一の主である。
あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、
あなたの神、主を愛しなさい。
(申六・四―五)
 
ここには、イスラエルの民の信仰が集約されているともいうことができます。この信仰の告白を、心にしっかりと留めて、新しい年の歩みを始めたいものです。私は、高校生活を関西学院という西宮にあるキリスト教学校で過ごしました。当時クラブ活動としての宗教部が盛んで、春休みと夏休みには、いろんな場所で修養会やキャンプを行っていました。また奉仕活動にも出掛けて行きました。ある年の春休み、今は南高梅(なんこううめ)の産地として全国的に有名になった紀州の南部(みなべ)にあった紀南(きなん)労祷(ろうとう)学園を会場に修養会を致しました。ここには賀川豊彦(かがわとよひこ)(大正・昭和期のキリスト教社会運動家、社会改良家。戦前日本の労働運動、農民運動、無産政党運動、生活協同組合運動において、重要な役割を担った人物。日本農民組合創設者。「イエス団」創始者。キリスト教における博愛の精神を実践した「貧民街の聖者」として日本以上に世界的な知名度が高い。茅ヶ崎の平和学園の創始者である:1888-1960)の弟子である升崎外彦(ますざきそとひこ)(1892-1975)という先生がおられ、ご自分の人生を語りながら、若き高校生に生きる意味を諄々と語ってくださいました。労祷学園というのは「労働」の「労」と「祈り」―「祈祷」の「祷」を組み合わせた名前ですから、労働し祈った中世の修道院の生活の目指したものを、現代に生かして祈りつつ働く、神の恵みを問いつつ生きるという精神で運営されている施設でしたが、この三日間は非常に感動的な日々でありました。三日間のプログラムを終えて帰る時、升崎先生は、私の聖書に「信じて疑わず、望みて屈せず、愛して止まず」と書いてくださいました。もう六十年以上前の出来事ですが、私はこの南部の海岸で過ごした日々と先生のお話と書いて下さった言葉を、今も忘れることはできません。人生の歩みの中で、絶えず励まされ導かれてきました。キリスト者の歩みは、「信・望・愛」即ち信仰と希望と愛による歩みであると言われますし、パウロは有名な「愛の賛歌」と呼ばれる「コリントの信徒への手紙一」の十三章の最後に、
 
それゆえ、信仰と、希望と、愛、
この三つは、いつまでも残る。
 
と書いています。十二月に「イエスと信仰」について考えましたから、一月は「希望と愛」をテーマにご一緒に考えてみたいと思います。
先ず「愛」を取り上げます。新約聖書の初めに置かれている福音書は、イエスの言葉と行いを記録している文章ですが、最初の三つ、「マタイによる福音書」「マルコによる福音書」「ルカによる福音書」は、同じような視点で、イエスの生涯を時の順を追って記しているので、「共観(きようかん)福音書」と呼ばれています。この共観福音書はいずれも、数ある律法の中で、何がもっとも重要であるのかということを問題にしています。マタイとマルコでは、律法学者がイエスに質問し、イエスがそれに答えるという仕方で記されていますが、ルカ福音書では、「永遠の命を受け継ぐために何をしたらよいでしょうか」という律法学者の問いに、イエスが、「律法には何と書いてあるのか」と逆に質問をされ、それに律法学者が答える形で最も重要な掟が明らかにされ、さらにそれを補足説明する形で、有名な「善きサマリア人の譬え」話が、イエスによって語られたということになっています。そのような違いはありますが、当時のイスラエルの人々にとっては、律法の中で何がもっとも重要なのかということが、大きな問いであったことは明らかだと思います。一番古いものと考えられ、それ故に基礎的であると考えられる「マルコによる福音書」はこう記しています。
 
彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」
 
イエスはあらゆる掟のうちで、もっとも大切なものとして、第一に、心と精神と思いと力を尽くして神を愛すること、第二に、隣人を自分のように愛することを挙げられました。信仰者の歩みは、神を愛し人を愛するということに集約されるということは、キリスト教の歴史の中で、常に考えられてきたことであり、キリスト教学校の建学の精神にも、この言葉が多く用いられています。ただここで、イエスが明確に第一の掟と第二の掟と分けておられることに、私たちは十分に注意をしなければなりません。安易に、神を愛することと人を愛することに律法は尽きると考えて、人を愛することが、結局神を愛することになるのだと考えては、イエスの意図を真実にまた充分に理解していないことになる危険性をもっていると思います。イエスはここで、神から愛され、ゆるされ、受け入れられているということを、本当に理解し信ずる者が、神を愛する者とされ、そして神の愛に応えて、隣人を愛して生きる者とされるのだと言っておられるのです。いわば神を第一とすることから、神と人を愛する歩みへと導かれるのだと聖書は語っているのです。「愛」ということを考える時、忘れられない一つの思い出があります。一九九八年に、私は、東京女子大学に移って来たのですが、すぐ後のことでした。一人の卒業生が学長室を訪ねて来られて、一冊の著書をくださったのです。それは随筆集でしたが、ドイツ中部の小さな町で、静かな朝を迎えたというところから始まっていました。この方は数年前に腎臓癌の宣告を受け、妹さんも相前後して癌に冒されたのです。お二人は互いに花束を送り合って、頑張って生きようと励まし合われたのですが、妹さんは亡くなり、本人は奇跡的に助かるという経験をされました。そして回復を記念してドイツの小さな町を訪ねる旅をされたのです。美しい自然描写がなされていましたが、同じように病を得て、一人は助かり、一人は召されたという現実が背景にありますから、緊張感の漂う書物でした。この本の終わりに、付録のように書かれた大学生時代の思い出の文章が、私の心を捉えました。宣教師の先生が、「神の愛と人の愛」について講義された時のことであります。先生は最後に黒板に、「I love you because you are」と書いて、その後にさまざまな言葉「若い」とか「美しい」とか「チャーミングである」「金持ちである」そういった言葉を書かれたそうであります。そして先生は、「それが人間の愛です」と言われた後、黒板に書いたそれらの言葉をすべて消して、ただ一字「you」という言葉を大きく書いて、「これが神の愛です」と言われたそうです。「I love you because you are you. どのような障害があろうと、どのような生い立ちであろうと、その人間をその人として、愛する愛を持ち続けてください。そういう愛が、愛をさらに成長させていくのです」と言われたそうです。心に響く文章でした。私たちの愛には、しばしば計算があり、打算があります。愛への見返りを期待し、それが得られないと、憎しみに変わることさえあります。しかし愛することには、犠牲が伴い、他者と共にあるためには、自分の今までの生き方を変えねばならないということもあります。そうしたことを抜きにしては、共同の歩み、共に生きるということは成立しません。重荷を負わされることをも喜びとするところに真の愛があるのではないでしょうか。私たちに聖書は、愛とは何かを率直に次のように語り掛けています。
 
愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することがない者は神を知りません。神は愛だからです。神は独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償(つぐな)ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。(第一ヨハネの四章七節―十節)
 
最後の一節を文語訳の聖書は、
 
愛といふは、我ら神を愛せしにあらず、神われらを愛し、その子を遣わして我らの罪のために宥(なだ)めの供物(そなえもの)となし給(たま)ひし是(これ)なり
 
と訳していました。ここに真実の愛があると宣言しているのです。今月のもう一つの聖句は、新約聖書の「ローマの信徒への手紙」の五章の初めの部分です。「ローマの信徒への手紙」は、聖書の中心をなすものですが、そのローマ書のまた中心的な重要な位置を占めるのが、この五章ということができます。宗教改革の指導者ルターは、人々が聖書を自分で読む、自分で福音のメッセージを聞くことができるように願って、聖書の翻訳を行い、それぞれの書に「序言」を書いて理解を助けたことで有名です。その意味では、宗教改革は聖書を人々に開放した運動でもありました。ルターは、ローマ書への「序言」を書いていますけども、これは大変有名です。
 
聖パウロのローマ人にあたえたこの手紙は新約聖書のうちでもまことの主要部をなし、最も純真な福音であって、キリスト者がこれを一言一句暗記するところではなく、たましいの日毎の糧として日常これに親しむに足りるだけの品位と価値とをそなえている。
 
と書いています。世界の歴史を中世から近世へと大きく転換させたのは、二つの「R」で、あったということがよく言われます。二つの「R」とは、「Renaissance」と「Reformation」宗教改革です。ルネサンスは「再生」を意味する言葉ですが、十四世紀から十六世紀にかけて、イタリアに起こり、次いで全ヨーロッパに広がった学問・芸術・思想など文化上の革新運動のことを指し、その特色は、現世肯定、人間性尊重、個性解放などを主張する一方、ギリシャ・ローマの古典文化の復興を唱えたところにあります。単に文学や芸術の領域に留まらず、広く文化の諸領域に清新な気運を引き起こした人文主義であり、神中心であった中世文化から人間中心の近代文化への転換の始まりともなった文芸復興運動でした。一方、宗教改革は、十六世紀にルターなどによって始められ、中世に絶対権を誇った教会の改革運動であり、それは方向性としては、人間中心となりつつあった教会に対して、神に立ち帰って、本来の信仰や宗教のあり方を根源的に問うた宗教的・精神的な改革運動であったと言えると思います。そこでは聖書の真理の再発見が行われ、信仰によって義とされるという福音の真理が明確化されました。ローマ書の五章は、そのことをもっとも端的に表現しています。
 
このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺(あざむ)くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。
(ロマ五・一―八)
 
イエス・キリストの出来事としての愛、またイエス・キリストによって確かにされた希望が、ここに明らかにされています。それでは、「希望」とは一体なんでしょうか。人間は、希望なしには生きることができないと言われます。望みがある限り、生きることができますが、望みがすべて絶たれると、人は生きることができなくなるのです。ですから「希望」という語には、これからよくなっていくだろうという思いが込められています。少なくとも今の自分よりは、多少ともよくなっていくだろうという夢を見られることを、私たちは「希望がある」と考えています。その私たちに対して、パウロは、あなたたちに与えられる希望は、単なる望みではなく、幻想やファンタジーでもない。それはイエス・キリストの十字架の出来事によって、神との間に平和が回復された故に、可能になった希望だと語るのです。このようにして与えられる希望は、私たちを欺くことも、裏切ることもないので、キリストにある希望を持って生きるものは、苦難をも誇りとすることができ、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生じさせることを知っているというのです。このパウロの言葉は、単なるレトリック(rhetoric:真実を虚偽にし、虚偽を真実にしうるもの)ではなく、真実に私たちを生かす希望について語っていると言います。旧約聖書の族長の一人に、ヨセフという人がいました。ヨセフの生涯は、文字通り波瀾万丈の歩みであり、旧約聖書は族長さんの中で、このヨセフにもっとも多くのページを割いています。父ヤコブは年老いてから生まれたヨセフを他の息子たちよりも可愛がったので、ヨセフは兄たちに憎みを買い、エジプトに売り飛ばされます。そこで投獄の経験もしますが、しかし獄中で王に仕える給仕長と料理長の夢を解いたのが奇縁になって、やがて王(ファラオ)の見た謎に満ちた夢を解き、神の霊の宿った人として、王から全国の司に信じられ、エジプトを救い、やがて父や兄弟たちとの再会を果たし、彼らはエジプトに移住し、そこで死んだ父ヤコブは、国葬のようにして送られてカナンの地に葬られました。ヨセフの生涯は、言葉では言い尽くせない変化と浮き沈みの連続でした。そして聖書は、そのヨセフの生涯を、神の意志の中で展開された意味であり、彼は神の摂理の中にあったと語っています。父の死後、ヨセフの復讐を恐れた兄たちに向かって、
 
ヨセフは、「恐れることはありません。あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。」
 
と語り掛けました。キドナー(Kidner)という聖書学者は、このヨセフの言葉の中に、旧約聖書的信仰の頂点が見られるとして、次の点に注目しています。第一は、ヨセフは自分に対してなされた悪の是正を、自分でするのではなくて、神にゆだねています。これはパウロが、「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『「復讐はわたしのすること、わたしが報復する」と主は言われる』と書いてあります」と語ることに通じています。第二に、人の悪だくみの中に、神の摂理を見ています。ヨセフは自分の身を明かした時に、驚きと恐れのために声もでないでいる兄たちに向かって、わたしをここに売ったことを悔やまなくてよろしい。「命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです」と述べて、そこに神の働きがあったことを明確にしています。第三に、悪に報いるのに、悪をもってするのではなく、ゆるしと深い思いやりの愛をもって対応しています。それは愛の行為です。ヨセフは兄たちに向かって、あなたやあなたたちの子どもの面倒も見ましょう、と語っています。一時的な助けではなく、兄たちへの深い愛がそこに明らかにされていると言います。これはイエスが人里離れた地で食べるもののない五千人を養われたという給食の奇跡の後で、朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならない永遠の命に至る食べ物のために働きなさい、これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である」と語られた言葉を想起させます。ヨセフは、自分が嘗めた数々の労苦にも関わらず、否、そのことの故に信仰を深められ、清められて、すべてを支配し、歴史を支配したもう神を信じ、主と告白したのです。時の流れ、歴史の動きは、人の目にどう映ろうとも、その根底には、神の意志があり、神の意志が働き続けており、歴史の真の形成者は、常に神であるというのが聖書の信仰と言います。パウロは、信仰によって救われた私たちは、たとえ苦難に遭っても、それは神の栄光にあずかる希望へと繋がっていくと語りました。ここで語られている苦難は、ただ苦しいというだけではなく、当時のユダヤ人たちイスラエルの民は、世の終わりが来る前に、苦難の時、患難の時が来ることを信じていましたから、その意味での苦難が、ここで問題にされています。そしてたとえ今、多くの困難や迫害に遭うとしても、キリストの十字架によって神との間に平和を回復し、希望を与えられているのだから、耐えることができ、苦しみをも喜びとして受け止めることができると告白しているのです。私たちは今、希望を見出し難い時代に生きていると言えるのかも知れません。若者たちは、将来に夢を託すより、現実の中で手近に幸せを求め、安全に生きようとする傾向が強く、大学生の間では留学を志すより、先ず職を得て、将来の見通しを早く手にしたいという風潮が強まっていると言われます。希望とは何なのか。キリスト教は希望について如何に語っているのか。次のように纏めることができるのではないでしょうか。第一に、それは人間の願望や欲望にもとづくものではなく、あるいは哲学的な理論でもなく、信仰による希望です。信仰が与えてくれる希望といってよいかも知れません。
 
希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。(ロマ十五・十三)
 
希望は神から来るゆるぎない希望であると聖書は告げています。第二に、この希望は、単に個人を祝福したり、成功させてくれるといったことではなく、神がすべてを御手のうち支配したもうという信仰からくる希望です。旧約聖書の中には、希望は個人的なものではなく、選ばれた民としてのイスラエルに与えられる究極の勝利であるという信仰が見られます。新約聖書では、パウロは、わたしたちは土の器に過ぎないが、神がその土の器に溢れるばかりの宝を入れてくださっている。だからわたしたちはキリストのからだの小さな肢(えだ)として実を結ぶことができるものとされている。キリスト者にとって希望は、キリスト者の交わりの中で実現されると語っています。第三に、この希望は、信仰と同じくイエス・キリストにおける神の救いの業に基礎づけられている希望です。パウロは、「エフェソの信徒への手紙」四章の一節から四節でこう語っています。
 
そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。(エフェ四・一―四)
 
希望は、キリストにある交わりである教会の歩みの中で、一人ひとりが感謝をもって受け止める希望なのです。ゆれ動く世界の中に、私たちは今生きています。不安と恐れに満ちた社会です。しかし御言葉によって導かれ、キリストイエスと共にある歩みの中で希望をもって生きたいものです。
 
     これは、平成二十七年一月十一日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」で放送されたものである