仏の世界の「当たり前」
 
                  京都文教大学教授 平 岡(ひらおか)  聡(さとし)
一九六○年、生まれ。一九八三年、佛教大学文学部仏教学科卒業。一九八五年、佛教大学大学院文学研究科修士課程仏教学専攻修了。一九八七―一九八九年、ミシガン大学留学。一九八八年、佛教大学(大学院)文学研究科修士課程仏教学専攻満期退学。京都文教大学教授を経て、二○一四年、京都文教大学学長。
                  き き て    金 光  寿 郎
 
ナレーター:  今日は、京都文教大学教授平岡聡さんに、「仏の世界の「当たり前」」というテーマでお話頂きます。聞き手は金光寿郎さんです。
 

 
金光:  私、平岡先生のお書きのご本を拝見しまして、仏教の難しくいうと切りがないほど難しい内容を、いろんな喩え話を入れながら易しく書いていらっしゃるもんですから、一度仏教についての、しかも一般の人が考えている仏教の言葉と、それから実際の仏教の意味というのは大分食い違っているとこが多いことがあるもんですから、その「仏の世界の当たり前というのはこういうことだ」というような形でお話を聞かせて頂ければ、と思ってお邪魔しているんでありますが、日頃学生さんをお相手になさっていらっしゃって、そういう仏教の大事なところをいろんな形でお話になっていらっしゃると思うんですが、その中の一、二、今日はお聞かせ頂ければと思うんですが。
 
平岡:  了解致しました。
 
金光:  最初はどういうところから。
 
平岡:  そうですね。今から十五年ほど前に大学で教鞭を執るようになりまして、それで最初はもう経験も何もないものですから、いきなり仏教の難しい話をしたら、これもう全然学生は聞いてくれないわけですね。私自身も人を喜ばせるのが大好きなもんですから、無視されるというのは非常に嫌だったもので、何とかこの難しい教えを―その当時は短大で教えていましたけども、若い女子学生たちに伝えるにはどうしたらいいのかということで、随分苦労致しました。それで一番最初に心掛けたのは、割合具体的なことから入って、そして学生さんに興味をもってもらって、そこから仏教の本質的なところにもっていけたらということで、ずっと今日まで努力をしたということが背景にございます。
 
金光:  今の現代の人の人生の目的と言いますか、幸せを求めて、健康で、長生きして、というようなところが多いと思うんですけれども、その辺のところと、仏さまの教えとの違いというと、どんなところが出てきますでしょう。
 
平岡:  そうですね。「幸せ」の捉え方というのは、世俗的な立場と、それからいわゆる仏さんの側から見た本当の意味での幸せというのは、僕は随分違っていて、私たちが日頃生活の中で感じる幸せというのは、どういうんでしょうね、まあ何もない状態が、ゼロと言いますか、当たり前で、そこからいくつこう積み上げていくかと。一つ幸せになったら今度はそれが当たり前になる。そうしたら次は更なる刺激を求めて、もう一つその上の幸せを手に入れると。こういうことで今世の中というのは、どんどん積み上げていってという、そういう生き方でしか幸せを感じないということになっているんですけれども、「仏教の当たり前」というのは、プラス・マイナス、ゼロではなくって、むしろ「一切皆苦(いつさいかいく)」という言葉があるんですけれども、つまり「人生というのは苦なんだ」と。そのマイナスのところから出発を致しますので、何もない状態というのは、これはマイナス十(じゆう)からゼロを見た時には、プラス十(じゆう)の幸せ、つまり何もないということが凄く幸せだということで、ここのところを見ても随分普通の人が感じる幸せと仏教的な見方の幸せというのは違ってくると思いますね。
 
金光:  これはしかし「一切が苦だ」というと、「仏教は暗い」なんていう人がおるわけですけれども、その辺はどうなんでしょう。
 
平岡:  そうですね。一般に結婚式はキリスト教で、葬式は仏教で、なんかそんな区分があるんですが、僕は学生に伝えていますのは、これ「一切皆苦」人生は苦だ。これは出発点でありまして、やっぱり現実のそういう足下(あしもと)をしっかり見ないと、じゃそういう苦しみを克服するにはどうしたらいいんだと。仏教は、「一切皆苦」ということを説いて終わっているんじゃなくって、だから幸せになる道を探しましょうよ、ということで、「涅槃寂静(ねはんじやくじよう)」というんですけれども、ほんとに幸せな世界というのは、寂静であって、何にも影響されない、ほんとに静かな世界だと。現実認識から始まって、そういうほんとの幸せを獲得しようと。ここが仏教の寛容なところでありまして、だからいつも一般的な解釈では「一切皆苦」で終わっちゃうもんですから、仏教はなんか暗い宗教だというところで終わっちゃうんです。僕はそうでないというふうに考えております。
 
金光:  それでその場合に「幸せ、幸せ」と言って、幸せを探して、現実が果たして幸せかというと、欲求不満の塊みたいなことが続いておったりする可能性が強いわけでございますね。
 
平岡:  結局「幸せ」ということを具体的に見ていった時に、これは僕の見方ですけれども、結局「煩悩、欲、エゴ」これが先ず根本にあって、それに添うような形で新たな刺激を求めて、さっき言いましたけど、それが当たり前になると、さらに強い刺激をと、こういうことで幸せを手に入れようとしますが、仏教はまるっきりそうではなくって、むしろそういうエゴだとか、自己中心的な欲望を捨てることによって、幸せを手に入れるということを目指しますので、方向性としてはかなり違うわけですよね。そこが一般の人が見た時に、仏教の言っていることというのは、なんか世俗的な価値観とは随分違うというふうに感じておられる大きな原因ではないでしょうか。
 
金光:  しかしそういう話を聞くと、よく聞く言葉ですが、「それでは進歩がないんではないか」と。何か欲しい、次はこれをやろうというふうなところに進歩があるんであって、それを否定すると、それでないところからだと、進歩的なことが生まれてこないんではないか、という見方がどうもあるみたいなんですが、その辺はどうでしょうか。
 
平岡:  そういう言い方もまあできなくはないんでしょうけども、しかしこれも進歩をどう捉えるかということにも関わってくるかと思うんですけども、仏教の進歩というのは、むしろ世俗の価値観に逆らう方向で、退くというか、どうしても人間放っといたって、先ほど申しましたように、更に強い刺激だとか、もっと便利な世の中に、ということで進んでいくんだけれども、それは今の環境破壊の問題を見てもわかりますように、これはどう見たって人間の将来というのは非常に危ないと言いますか、怪しいというか、この方向性で進んでいくと、人類は破滅するんだろうと。そうするとやっぱり今言うところの進歩というのは、破滅に向かって進んでいるということでしかないように、私には思えるんですね。だからそういう方向とは違う方向に進むということも、これは進歩と捉えてもいいんじゃないかなと。本当の意味で幸せになるために、人間は何ができるんだろうかと。その方向で考えていくことを進歩というふうに捉えることができると思います。
 
金光:  仏教では別の掴まえ方をしますと―というよりも、戦後の教育では、この自己の確立とか、自我をしっかり固めてというか、自己主張ができる人間みたいな方向できているケースが多いと思うんですけども、「自己」と考え方が一般の考えている自己と仏教の説いている自己というのは、大分違うような気がするんですが。
 
平岡:  これについても、私の私見なんですけども、「個を確立する」これは非常に僕は大事なことだと思います。それ自体は僕は否定しないんですけども、じゃ、その「個を一体どこに立てるのか」、この場所が問題だと思うんですね。例えば円の中心点と周辺ということで考えた時に、今までは個を立てるのが真ん中だとしますよね。そうしますと、どんな問題が起こってくるか。つまり円の中心というのは一つしかないわけですね。この一つしかない中心に自分が坐る、あるいは自分の国を坐らせよう、ということで動きますと、当然人数は複数いる、国の数はたくさんあるのに、中心は一つしかない。そうすると、椅子取りゲームのように、その一つしかない円の中心をめぐって、紛争・戦争が起こる、ということになります。なので、じゃどこに立てるのかということで、今私が考えていますのは、人間を超えた何か―仏教だと、これは「仏」さんであり「真理」であり、キリスト教だったら、「神」というものが真ん中に坐るんだろうと思いますけれども、それを真ん中に置いて、そして人間がその円の周辺に出ると。そこに自己を確立していく。そうすることによって、円の周辺というのは、いくらでも広がりますから、その大事なものを中心に国のレベルでもそうですし、自己のレベルでもそうですけれども、円の中心が確立されて、そしてその円がどんどん広がっていく。そうすると、全然紛争にはならないわけですね。僕は今一番欠落していると思うのは、科学万能主義で、人間中心主義で、そういう科学だとか、人間だとか、意識だとか、そういうものが真ん中に坐っちゃったために起こってきている問題というのはたくさんあるというふうに思います。ですから、これは非常に難しいですけれども、宗教を越えて、何かほんとにこれは大事ね、ということが中心に置かれたら、それによって人間が相対化されて、その周辺に坐っていく。そういうことでしかバランスというか、調和は取れないんではないかと、そんなふうに考えているんです。
 
金光:  ただ相対化されてしまうと、いわば独立自尊というか、そういうのが薄れてくるんではないかと。「他力本願(たりきほんがん)」というのは、違った意味で使われていますでしょう、人任せみたいな。だから相対化してしまうと、自分自身の大事なものが薄れてくるんじゃないかというふうな印象をもって聞かれることがあるんじゃないかと思うんですが、学生さんなんかにその話をされると、どんな反応が出てきますか?
 
平岡:  そうですね。割合虚を突かれたというか、〈あ、そうか。そんな見方があったのか〉という―全員の学生に確認したわけではないんですけれども、割合頷いてくれる学生はいます。
 
金光:  あ、そうですか。やっぱり若い人の方が、そういう意味では柔軟かも知れませんね。
 
平岡:  そうですね。結局は、関係性が問題でして、要するに真ん中に「これを大事だね」というものを置いた時に、それと自己とがどう関わり合っていくのか。その大事なものと自分との関係性で、ほんとに幸せというのは何なのか。そういうことを考えていくことが大事ではないか、ということを、僕は学生に伝えている。
 
金光:  そうですね。今の自己主張というような場合には、自分というものと外界を切り離してしたところで、それこそ関係性を断ち切ったところで自己主張する、みたいなところが多いですけれども、本当は人間というのは、一人では生きられなくて、他との関係の中で生きているわけですから、そこのところが欠落していますと、自分の思うようにならないと、他人を傷つけてもかまわないみたいな方向へ、つい頭が働くようなことが出てくるのかなと思いますが。
 
平岡:  今、「関係性」と、非常に仏教を考える上でのキーワードをおっしゃって頂いたんで、それについてちょっとお話をさして頂くと、仏教では「縁起」という、非常に中心的な大事な言葉があります。一番最初にもおっしゃったように、これは現代の日常会話の中では、「縁起がいい」とか「縁起が悪い」とか、違う意味で使われることが非常に多いんですけども、もともとの意味は、「縁」という字と「起(おこる)」という字ですから、「何かを縁として起こる、あるいは何かに依って起こる」ということが基本の言葉でございます。これは関係性をいうんですね。「私によってあなたがある」「あなたによって私がある」。つまり世の中に存在しているものは、すべて関係をもって存在しているんだ。これが本来のあり方なんですが、今、悪い意味での個人主義が発達したことによって、その関係性を自ら切って、閉じた存在として、それぞれが別個に点在していると。これが、僕はもの凄く今問題だと思うんですね。だから閉じちゃっていますから、あんまり今の学生さんって、一括りにしてもいけませんけれども、外の世界で何が起こっているのかとか、世界でどういうことが今行われているのか、ということに関して、あまり関心がない。これは先ほどの文明技術の話に絡めて言いますと、結局は、例えば自動車が発達しますと、脚力が衰えますよね。それと同じように、e-mailだとか、それからコンピューターだとか、そういうコミュニケーションの手段が発達すればするほど、本来人間が持っていたコミュニケーション能力というのは落ちている感じは僕にはします。それが今言った悪い意味での個人主義と相まって、すんなり他者と関わりを切り、関係を結ぶ力が弱まっている、そんな感じが致しますね。
 
金光:  そういう他者ということになりますと、平面的な繋がりということになると思いますが、人間というのは、日々なんらかの行為をして生きていくわけですけれども、あることをすることが、それだけで時間的に考えた場合に、あることをしてそれで終わったと思ってしまうと、随分見方が狭くなるし、全体の中での結果がどうなるかみたいなとこまで、目が届かないような行為をすることになると思うんですが。
 
平岡:  そうですね。仏教では、「縁起ということが中心だ」ということを言いました。これは言葉を換えて言いますと、「因果論」と言いますか、原因と結果ですよね。これを非常に大事に言います。今も一つキーワードをおっしゃって頂いたので、それについて話をしますと、例えば「行為」ということも、今の世の中というのは、やって終わり。これはいろいろなところで弊害を呼んでいる感じがします。仏教は、やったことというのは、いつか結果をもたらすんだと。結果をもたらすので、やっぱり行為者というのは、その行為に対して責任を持たなければならないと。この視点も、今、欠けていて、非常に大きな問題だと思います。例えば政治のレベルでも、何か公共工事だとか何だとか予算を付けて箱物を作って、それでお終いだと。それがどういう結果を将来的にもたらすかというところまで視野に入れて作っていませんよね。やはり私たちの行為というのは、必ずそれに見合った結果をもたらすわけです。そこまで見据えてほんとに私たちは行動しているのかというと、私自身も含めてクェッションメーク(疑問符)のところがありますですね。
 
金光:  だから子どもの頃、仲間に誘われて万引きをするというような行為が、いい歳をして四十、五十になって、お酒を飲んで、気分が緩んだ時に、なんかつい万引きして捕まって会社を首になったというようなケースもちょいちょい少なくなくあるんですね。やっぱり今おっしゃったように、表には出ていなくても、そういう行為というのは、どっか心の中に痕跡が残っていて、なんかの時にふっと出て来るみたいなことがあるんじゃないかなという気がしながら、そういうニュースを見るんですけどね。
 
平岡:  これは仏教の専門用語でいうと、「無表業(むひようごう)」と言うんですね。表に現れない行為。だけどもズーッと沈潜化していて、何か機会があった時にひょっと表面化してくるといいますか、やっぱりそういうことも―僕は仏教を勉強して―仏教というのは凄いところまで見据えて哲学思想を展開しているんだなということで、改めてビックリしたということもございます。
 
金光:  それからこれも関係性の関連での話になるわけですけれども、自分一人だけでいる時には、自分の目が自分の目を見ることができないのと同じように、加藤周一(かとうしゆういち)さんが、「人間も自分で自分を知ることはできない。常にどこまでいっても反省する前にいるから、本当の自分というのは見ることができない」とおっしゃったことがあるんですけども。ということは、自分を知るのには周囲との関係の中で知らされるということ以外はなかなかないかなと思うんですが。
 
平岡:  おっしゃる通りです。縁起の関係でいきますと、自分の存在というのは、他者の存在と相関関係にあるということですね。今加藤先生のお話も出てきましたけども、これもぼく授業で使う喩えなんですが、要するに自分の中で一番自分を象徴する部位はどこだと。顔ですよね。顔の中でもどこだと。目ですよね。その目を私たちは直接見ることがなく死んでしまう。ここに僕は非常に人間存在の性(「さが)があるような気がして、結局自己を知ろうとすると、鏡を見なければならない。それとまったく同じように、私たちは他者という鏡を通してしか自己認識できない。そういうところでも自己と他者というのは繋がっているんだな、ということを実感します。
 
金光:  それと同時に、時間的には過去の非常に人間についての見識の高い人がおっしゃったこととか、なさったことを知ると、自分の行為がそれによって知らされると。そういう時間的な意味での他者ということも、当然考えられてくるわけですね。
 
平岡:  そうですね。これはコミュニケーション問題にも繋がってくると思うんですけども、いろんなタイプのコミュニケーションがありますよね。だから今おっしゃったようなことも、過去の私たちの先達と言いますか、先人たちが積み上げてきたものによって自分のあり方を顧みて見る。そこで初めて自分に気付くと。まさしく過去の文学者なり、そういった方が積み上げてきたものを鏡にして、今の私たちを顧みるということも充分あると思います。
 
金光:  そういうふうな形で、我が身を振り返って、〈あ、自分という人間はこういう人間だった〉ということがわかってくると、これは日々の自分の行いも変わってくるもんでしょうか。
 
平岡:  私はそう信じております。特にこれは少しインド仏教というより、浄土教的な発想に繋がってくると思うんですけれども、浄土教におきましては、自分という存在が、もうほんとに煩悩塗(まみ)れの自分の力では悟りを開くことができない人間だと。だからこそ例えば阿弥陀仏なら阿弥陀仏という仏の力を借りなければ悟れないということを言いますよね。そうした時に、浄土教でも一番根本になるのは、自分の存在というのが、如何に至らない存在であるか。ここを重々認識する必要があると思うんですね。これは「愚者の自覚」であるとか、「凡夫の自覚」ということで表現されると思うんですけども、それで僕自身の経験に照らしても、「自分が至らない存在である」ということをほんとに心底知りますと、他者に優しくなれるんですね。自分がそうなのに、そんなこと人に言えないよ、というかね、そういう意味での僕は、自分を知るということは、他者に対する接し方というのもほんとに変わってくるということを実感しています。
 
金光:  それでそういう仏教についての、いろんな日頃考えると違うようなことを本なり、あるいは話なりで、そういうことを知って教えられて、「あ、わかりました」という言葉は、仏教の「わかりました」というのは、ちょっと違うようでございますね。
 
平岡:  そうですね。これもまあ西洋が全部悪いというわけではないんですけども、どっちかというと、西洋の思考というのは、分析的思考で、すべて分けて考えるということがベースにあります。それでいきますと、人間という存在も、まあ便宜上「心」と「体」というふうに、二つに分けて考えることはあるんですけれども、そんなに二つ―ここからこれは心で、ここからこれは体です、というふうに分けて考えることはできない。心と体なんていうのは、二つがピッタリ一緒になって、ほんとに混沌とした状態で存在している。これが私たちの現実の人間存在ですね。ところが「分かった」ということは「分ける」という字を書きますので、他と区別して、ということが分かるの原意なんですけども、これも先ほど分析的思考でいくと、「頭でわかっているんだけれども」ということを、私たちはよく言うんですけども、それは仏教的にみると、ほんとにわかっていない。それは「行動に顕れて、あるいは行動が変わってこそ、初めてわかった」と言えるんだと。ある方の本なんか読みますと。「わかる」ということは、「変わる」ということで―「わ」と「か」を入れ替えて―非常に巧みに表現されていて、ほんとに「ある物事が心底理解できたということは、そのことが行動となって現れなければならないんだ」と、こういうことをおっしゃる方もいらっしゃるんです。これはほんとにそうだなと。ですから心と体が密接に結び付いているものだとすれば、ほんとに理解したということは、やっぱり「体でもわかった」ということでなければならないし、そういったところも仏教の教えから、我々は学ぶことはたくさんあるなということを感じております。
 
金光:  よくほんとに「自分が間違っていた、悪かった」ということを、ほんとに自覚できた場合には、懺悔(さんげ)とか慚愧(ざんき)というか、天に恥じ、人に恥じ、という、そういう慚愧の思いが湧いてくるようになると、行動もまた変わってくるというところへ繋がってくるということなんでしょうか。
 
平岡:  はい。やっぱり自分の至らなさを知る。これはなかなか難しいことですよね。やっぱり人間というのは認めたくないです。自分が一番可愛いんですし、そういう自分の醜い部分というのは、なかなか表面きって見ることはできませんけれども、そこをなんでもそうです、自分の足下と言いますか、一番近いところにもの凄く大事なことがあって、そこにやっぱり目を向けていかないと、なかなかそこから踏み出して、もっと大きなことを変えていくなんていうことは難しいのではないかなと。そういう意味でも自己の至らなさを知ることは、他者に優しく接する、先ず第一歩という感じが致します。
 
金光:  そういう話をしていますと、自分の悪いところに気が付くと、「だんだん落ち込んでくるんではないか」というようなことをいう方が、お出でになるんですけども、さっき先生がおっしゃった、自分が中心でエゴのところでそれをやると、それは落ち込むでしょうけれども、中心が神とか仏とか、あるいは我を生かしているいのちというようなところに中心があると、自分が悪くても生かしてくださる仏さまの働きとか、いのちの働きは変わらずあるわけですから、だから落ち込むよりも、むしろそこから次の一歩が出しやすくなるということでしょうか。
 
平岡:  むしろそこに気付く一歩でもあるのかなという感じがしますね。確かに「落ち込む」ということも、僕はある意味大事だと思うんです。あんまり脳天気に自分が何も悪いところはないというのでは、やっぱり進歩がないですし、落ち込むことも僕は必要だと思うんです。ただやっぱり落ち込んでいるところに留まっていると、これはまた仏教的にある種の執着ということになりますね。
 
金光:  そうですね。
 
平岡:  そこから一歩踏み出して、じゃ、そういう自分がさらに幸せを、ほんとの意味での幸せを手に入れていくという、次の一歩はどうしたらいいのかということで、あくまでも「一切皆苦」というのはスタート地点でありますし、ゴールは「涅槃寂静」という悟り、ほんとの真の意味での幸せを獲得するというところに向かって歩くということが大事じゃないかと思います。
 
金光:  今のお話で思い出したんですけども、執着―落ち込むというのも確かに執着ですけど、「一切皆苦」から「涅槃寂静」の間には、「諸行無常」という言葉がありますね。常に留まらないで常に変わっているわけですね。事実は変わっているわけですから、その自分の悪いところを認めても、それはそのまま留まっているわけではなくて、
 
平岡:  おっしゃる通りです。
 
金光:  そこのところに目が付くと、また変わってくるでしょうね。
 
平岡:  そうですね。「諸行無常」と言いますと、どうも中世の文学の影響もあって、マイナスのイメージしかないんですよね。「盛者必衰の理」を表す的に、プラスのものがマイナスになっていく。今お金持ちでも、いつかは貧乏になるかも知れないという。そのプラスのものがマイナスになるという面でしか見られていないという気がするんですけども、そうではなくって「諸行無常」というのは「刻々変わる」ということですから、これは見方を変えると、「マイナスのものがプラスにもなり得る」ということです。ですから今あんまり悪い、あんまりよくない状態にあるのだとしても、それは自分の努力次第で、プラスの方向にもっていける。これも「諸行無常」の大事な側面なんですね。ここも僕は学生に、「よく二つの見方があるよ」ということで、「マイナスもプラスになるよ」ということを伝えると、随分学生の顔もパッと明るくなると言いますか、なんか希望を見出したような顔をする学生もけっこういますですね。
 
金光:  たしかにいい状況といっても、そこで有頂天になっていると、それはそれで変化しますし、悪いと思っていても、それはまた変化できるという、常に生き生きとできるということでございますね。
 
平岡:  そうですね。ほんとに「諸行無常」ということは、一般的にはマイナスのイメージで捉えられるんですが、結局は「一瞬一瞬を大事にいきましょうよ」ということなんですね。「一期一会(いちごいちえ)」という言葉もありますけれども、今という瞬間は二度と戻らない。そしてその二度と戻らないからこそ、一秒一秒というのを大事に生きていく。そうすると、その積み重ねが長い目で見た時に、人生を充実さしていくということにも繋がっていくと思います。
 
金光:  そういうお話を伺っていますと、仏教というのは、決して窮屈な規則を守らなければいかん、というような窮屈なものではないようでございますね。
 
平岡:  そうですね。これも勿論出家をしまして、厳しい悟りをというところでは、戒律をきっちり守っていくという側面もありますけれども、僕は勿論プロセスには厳しさもあるんだけども、究極は「解脱(げだつ)」(悩みや迷いなどの煩悩の束縛から解き放たれ自由の境地に到達すること)と言いますが、「解脱」ということは、「自由」と置き換えてもいいと思うんです。今、現代の人が考える自由というのは、自分のやりたいことをやる、という意味で自由と考えている。しかしこれはよく考えると、結局はその根本にあるのは「煩悩」とか「エゴ」なんですね。これを自由にさしてくれということなんです。これはほんとは煩悩に束縛されていることで、全然自由ではない。
 
金光:  引きずられているわけですからね。自分はどっかへいって、煩悩のままに動いているという感じですね。
 
平岡:  そうです。仏教でいう「自由」というのは、そうではなくって、その「エゴなり煩悩というものから離れること」そうすることによって、「ほんとに自由闊達な、その精神の何にも遮られない状態が得られる」ということなんで、その自由という考え方も世俗的な自由と仏教の考える自由というのは随分違うんだなということを感じています。
 
金光:  先生のご本の中に、「仏教とは何ですか?」ということを尋ねたら、ある仏教学者が「ものは考えようである」と答えたというんですけども、なんか投げやりに聞こえないこともないんですが、でもこれはそういう目で自分だけじゃなくて、この世界を見ることができると、常に新鮮な変化の驚きみたいなものを感じられるということなんでしょうね。
 
平岡:  「縁起が大事だ」ということを、今言いました、これは言葉を換えますと「空」―「色即是空(しきそくぜくう)」の「空」ですね。この言葉とイコール(Equal)と思って頂いてもいいんですけども、これはもうその名が示す通り、融通無碍(ゆうずうむげ)というか、何にも拘らないというか、つまり世の中というのは、いろんな見方ができるわけですよね。どの視点から物事を見てもかまわない。だとしたら、まさしくものは考えようで、どの方面から見たら自分が自由に生きられるのか。苦を感じなくていいのか。そういうことを教えてくれているのが仏教の「空の思想」ではないかなというふうに思います。
 
金光:  むしろ現代の戦後教育なんかで言っている「自由」というのは、自分自身をある意味では「煩悩によって縛る」という、縄がないんで自分で縛っているような面があるわけですが、今のお話ですと、そうじゃないわけですね。
 
平岡:  むしろ煩悩の働きと自己とを切り離したところ、そこに「雲水」となんていう言葉使いますけども、風にふわふわ浮かんでいる雲であるとか、それから高いところから低いところに流れる水、ほんとに自然に委せた境地であると思いますね。
 
     これは、平成二十一年十月二十五日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」で放送されたものである