仏法を生きる
 
                      歌 人 西 川(にしかわ)  和 栄(かずえ)
                      ききて 金 光  寿 郎
 
ナレーター:  「宗教の時間」です。今日は、「仏法を生きる」というテーマで、大阪・堺市の主婦で歌人の西川和栄さんにお話頂きます。西川さんは、昭和八年のお生まれ。子どもの頃から金沢で、仏法の信心が深い人々に囲まれて育ち、子ども心に大人が語る仏様の世界の不思議さに疑問と同時に感銘を受けて、その後の生涯を子どもの頃抱いた仏の世界、人間の世界に対する疑問の解決に向かって精進努力を続けてきた方です。聞き手は金光寿郎ディレクターです。
 

 
金光:  西川さんに、最初お目にかかってから、もう随分になるんですが、私が、NHK学園の「仏典講座」というものを始めた頃から、お付き合いというか、お手伝いをして頂いたわけですけれども、だからもう二十数年経っているわけですね。その頃の印象が残っていますのは、通信講座の添削の中に、どなたの作ですか、「西行も吉野の山も何もかも土の化けたる人形」ですか、なんかそんな感じの歌をよく引用なさっていらっしゃって、あ、なるほど。それはそうだなというふうに思っていたんですが、それから随分月日が経ったわけですけれども、今の歌は、確かにすべてに土が化けているわけですけれども、化けて出ている人形なり、個々の人間なり、あるいは動物なり、それぞれ差別の世界にいるわけですね。差別の世界からどう受け止めていいかというところで、人間である私なんかも、いろいろこれでいいのかどうかなんて、いろいろ迷うわけですけれども、あれから西川さんのお話になったことが本になったりするのを拝見しますと、ははぁ、随分と身体の中にそういう教えが染み込んでいらっしゃるなんていう気がするんですが。
 
西川:  おそれいります。
 
金光:  どういう形で、そういう心境になられたのか、その辺の一端を聞かして頂きたいと思うんですが。
 
西川:  自分の身体の中に、一番最初に現れ出たことは、父や母を大変好きだったけれども、村の中のことですから、村の評判は非常に怖れていたというか、それで私の主人になる人が復員して来て、博士号を取って、お嫁さんを貰うことになった時に、なかなか決まらないんですね。で、村の評判では、「あのお母ちゃんが嫁さん貰うのを遅らせているんじゃないか」と、こういうことをいう人があるんで、その評判を母は怖れたんやと思いますけども、まだ年のいかない私に、早く嫁さんになってくれ、と。「なってくれ」と言うんでなくて、そういうふうに仕向けていって、花嫁修業させたりなんかして、年もいかない私を花嫁にしたわけやね。それで私は親のいう通りですから、そして金沢から少し離れたところに転居致しまして、二人だけの生活が始まったんですけど、なんせ年がいかない者ですから、親を恨んでみたりなんかしたわけですよ。その時に、〈この親を恨む私は一体これ何者か〉ということと、〈毎日毎日が虚しく過ぎていく、こんなんでいいのか〉と大変悩んだんやね。でもその十代を送った疎開先での出来事の中で、お婆ちゃんが、囲炉裏で火を焚いておって、その煙がスーッと上がっていくのを見て、「ほ〜ら、見まし見まし、あの煙が、ほら、お日さんにさぁっといくあの煙の中の埃が見えるじゃろう、見えるじゃろう。あの埃の一つひとつが仏様やぞ」と言うたわけやな。それで十代の私は、〈ははぁ、埃までも仏さんなんか。そうすると、私は、埃を埃と思わんと、仏さんを吸うとるんやな。仏さんを吸うとるもんが、こんな嫌な思いをするというのは、これはどういうわけや〉と、また堂々巡りやね。仏さんを吸うとるのに、こんな悪い思いをする。大事な父や母を恨んでみたりなんかして、これどうにもならん奴や。こんな私どうしたらいいんやと、七転八倒したわけやな、十代の時に。私のとこの村は、特になんまんだぶつ≠フ盛んな村で、年寄りという年寄りはみんな明けても暮れてもなんまんだぶつ、なんまんだぶつ≠ニいうて過ごしておって、おしっこしている間でもなんまんだぶつ、なんまんだぶつ≠ニ。ほぉっ!なんまんだぶつ≠チて、こんなんしていつでもなんまんだぶつ≠「うのやな。なんまんだぶつ≠チて、こんなにいいもんなのかと思っておって、その苦しんでいる時になんまんだぶつ$\しておるけど、全然苦しみはなくならない。ほんならどうする、というて、今度は家の前がちょうどお寺で、そのお寺にお参りに行って、あの頃講座というて、そこに御坊様がお座りになると、御参内というものが上がって、「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき」というて、説教が始まる。ほぉぅほぉぅ―『歎異抄』の一章だということが、後にわかったんやけども―「念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき」―心どこから起こってくるんや。私の起こしているものと違うんや。起こってきてなんまんだぶつ$\したい心にまでなってくださるんや、と、その時思ったわけやね。それから明けても暮れても田舎の年寄りがしておったように、なんまんだぶつ、なんまんだぶつ≠ニいうけど、全然楽になるどころか、ますますなんまんだぶつ≠「うておってもダメやないの、と。そんなことを思っておる毎日でしたけれども、なんとなしになんまんだぶつ≠「うとると、スーッとすることはちょっと感じたりしておったわけね。はぁはぁ、なんまんだぶつ≠ノなんか底力があるぞ、と思って、またお参りに行くと、「弥陀の誓願不思議に」、はぁはぁ、こんなんでないやろうとか、こんなのなんて誓願と言わんやがやとか、そういういろんなことを思う時代ですから、それからだんだん「誓願、誓願」と誓願を追いかけるようになったわけね。なんでこんなん「誓願」とおっしゃるんだか。誓願というのは、もうお誓いですから、全部ぎゅっと全部誓いでできておるということやな。全部誓いならば、仏さんが誓いならば、そうなっとるのやということやないんですか、と思ったわけやね。それで今まあ八十になってから、こう振り返って思うにね。本願というと、なかなか「本願、本願」というて、台の上にこう奉っておるような感じやけども、誓願というとこの細胞に全部働く力にまでなってくださっているんだな。身体に六十兆の細胞があると聞くけども、これ自分で細胞作ったんと違うもんな。そしてまたこの毛穴が身体いっぱいに百八十億あるというのも、一八○億って、誰が数えたか知らんけれども、これって地球の太陽系が、宇宙に一八○億あると聞いておるが、それと同じ数字やないか。そうすると、これは私のもんでない身体なんやな。その身体に自然と湧いてくる心、この心も実は無量寿から湧いてくるんやな、と思うた。学問的には、無着(むちやく)(無着成恭(せいきよう)。禅宗の僧侶で教育者。生活綴り方の代表的な文集『山びこ学校』と『全国こども電話相談室』の回答者などを務める:1927―)さんがおっしゃったように、阿頼耶識(あらやしき)というところから湧いてくるとは聞いているけれども、私で起こしている心ではないんや。自ずと湧いてきて心になってくださっておるんや、となったら、大分湧いてくる心も楽になったわけやね。それで湧いてくる心、今日はどんな心湧いてくるんやな。当時まだ若いからイケメン(美男子を指す俗語)見ると―その当時イケメンとそんなこと言わないけれども―やっぱり、あ、あっちからいい男来たと思うと、ドキドキとする。はぁはぁ、いい男来ると、私のセンサー動くんかね。そんなことを思ったり、自分の心をあれやこれやと試しておったわな。それで困った心が湧いてきた。ありゃ、今日はほんとにあの人憎んでしもうたぞ。どういうわけかわからないけれども、なんまんだぶつ、なんまんだぶつ=Bなんまんだぶつ≠ノならすのではないけれども、なんまんだぶつ、なんまんだぶつ≠ニ申すと、憎んだ心がなんとなくほぐれてくる。これ不思議やな、と思うようにだんだん歳を重ねるごとになっていったわけやな。そのうち子ども生まれ、また子ども育てると、思ったようにいらんわね。はぁはぁ、子どもはおっぱいを触りとうなるように、初めから作ってはるんやな。そんなんして、ほんならこの時期は触りたい時期やから、大いに触ってくれ、と思って大きいして―それぞれまあみんな今大人になっているわけやけれども、全部向こうさまのお働きでできとるな。それやったら全部お働きやと開き直ってしまうと、面白うないんやけれども、初めは何でやろうと思わせておいて、何でやろう、なんでこんな酷い目に遭わんならん。このことがないとなんまんだぶつ$\されないように、ちゃんと仕組んであるんやな。だから「大慈悲、大慈悲」というけど、この困ったことが大慈悲やないか。と、だんだん会得されるようになって、困ったことがあれば、今大慈悲が動いておいでるぞ。大慈悲のお蔭でなんまんだぶつ≠ェお出ましになるぞ、と思うようにだんだんなってきたんですけどね。この間孫娘が、受験であんまり一生懸命医学部へ行こう行こうとするもんだから、親も行ってくれ、行ってくれと思っていたんだろうと思うんですけれども、それもまあみんな向こうさまのお仕事なんですな。孫娘と一時間ぐらい電話で話する時があったんですね。それで、「れいなちゃん、れいな、なんまんだぶつ≠ニいうとる」。「いうてない」「なんまんだいうてな」「う〜ん」と小さい声で、そして、「あのね、なんまんだぶつ≠チて口に出んでも、口の中でものいうものでもいいから、なんまんだぶつ、なんまんだぶつ≠ニいうとると、ちょうど唾飲むようにしてなんまんだぶつ≠ェ五臓六腑にズーッと染み込んでいくんよ。いいだろう。そうすると、五臓六腑に染み込んでくると、なんとなく身体がホカッとするわね。またしんどうなったら、またなんまんだぶつ≠竅Bそれしかないもん。それしかないから、それでやってな。またお風呂へ入った時も、右の手でそっちを撫でて、左手でこっちを撫でて、撫でるたんびになんまんだぶつ、なんまんだぶつ≠ニ撫でてや。わかった?」「う〜ん」というて、力のない声で。それ聞いて、ばあちゃんはまあ嬉しかったんやけれども。もうちょっとまた電話でなくて、会って話できる時に、無着さんのおっしゃったように、摩那識(まなしき)や阿頼耶識(あらやしき)や、それからまた前六識のこととか、そういうことをしっかりとお話したいな、と。これはちょっと死んでおられんぞと、こう思った。長生きしたいなと思うけども、それも向こうさまのお仕事やからね。出る息、入る息が向こうさまのお仕事なんやから、今日は出る息が止まっておったって、そんなことはないから、出る息・入る息が、向こうさまのお仕事やな、というて、息しているわけですね。その息が長うなる時と、その孫娘のことを思うと、息がしにくうなって、うん、受験生が大変やな、と思うと、こっちまでしんどうなるけれども、こういう時期もまたいいわな。いいというたらちょっと語弊があるけども、なんまんだぶつ≠ェお出ましになるのに大変いい環境やなと思って、なんまんだぶつ$\しておったわけなんですけれども。それでさっきおっしゃったように、NHKの添削を始めさして頂いてから、これで三十年近く、それでその間には、いろんな人と文章でお会いしているんですけれども、中にはやっぱり「どうしたら幸せになるか」幸せを追い求めて、幸せになることだけに焦点を当てて生活していらっしゃるんやけど、この世というか、この仮の世と言うたり、穢土というたり、汚いところね―これを穢土というんですけれども、そういう実は穢土の形をして、本当はお浄土なんですよね。なかなか生まれられない。ほんとにその生まれ難いところに人間として生まれて、そして人間の姿をして、ということが、光業(ひかりわざ)なんやね。これは人間の姿しておるということが、これが光業にあえてなかなかわからないんだけれども、なんまんだぶつ≠なんまんだぶつ≠ニ、ここ口からおでましになることによって、なんまんだぶつ≠フお働きで、この身体が光業やということがわかってくる。これが凄いんですよね。光業ですべて、光業って全部ある。その雲の形の、そやから木でももいろいろあるけど、あれが全部光業でできておるもんでね。あの木は真ん中の太いところが、これが根幹で、後は枝や葉やということを教えていらっしゃるんですけども、この人間も、有限のこの身が、実は無限から出ておるということを、根本的に教えて頂いて、いろんな出来事が、これが枝や葉のことでね、その日のよって揺れたり、揺れなかったりする日が、いろいろ展開するわけや。花でもそうや。咲いたら散る。散ったら、次また蕾になる。同じことやけども、それを教えてくださったのが仏方やね。仏方ということが、だんだんだんだんなんまんだぶつ≠フお働きによってわかってくる。そしてどこから来たかというたら、無量寿の元の元のいのちから、たくさんのご縁を、ご縁がご縁を生んで、ご縁がご縁を生んで、今あるわけやね。有限のいのち。生まれたら必ず死ぬという有限のいのち。この有限のいのちだけが幸せになっても、無量寿のいのちですから、無量寿をわかると、はぁはぁ、有限のいのちはどうなろうと、こうなろうと、元のいのちは無量寿のいのちなんやな。自分で出てきたわけでない。百千万劫にもいのちを今生きておるなと。そこで親鸞聖人が、
 
百千倶胝(くてい)の劫(こう)をへて
百千倶胝のしたをいだし
したごと無量のこえをして
弥陀(みだ)をほめんになおつきじ
 
という御和讃を作っていらっしゃるように、阿弥陀さんを褒めとるんやね。なんまんだぶつ、なんまんだぶつ=A阿弥陀さんの業を、無量寿の業を、無量光の業を褒め続けていらっしゃるのがなんまんだぶつ=Bなんまんだぶつ≠ヘもともとのいのちのもとのお名前なんだけども、そのお名前がこの口から出ることによって、それが褒めていらっしゃることと同意語なんやね。それを信心貰わんならんとか、信心を得たとか、そういうことで信心を得たというたら、必ずはなす時があるやね。私が得たんや。私のおる間は、私が掴んだ、私がはなした、あの時は申したけど、この時は忘れておった。こんなことにばっかり終始するから、その信心・信心と言わんでも、なんまんだぶつ≠ニ口から出たことと信心とイコールなんやね。
 
金光:  そういうお話を聞いていますと、小さい頃囲炉裏端で煙が上がっている、それに朝日が差し込んで、「あの光の中に浮いている塵も仏さまだよ」と言われた小さい頃は、そんなことがあるもんか、と思えたのが、だんだんしっくりとその通りだったというところに、いらっしゃるような気がするんですが。
 
西川:  思い返せばね、そういう。何であんな塵が仏さんなんやろと思うたことが、今は全部仏さんの業になれば、あ、けっこうなところやなぁ、と。それを仮の世というたり、穢土(えど)というたりすると、これは穢土の姿を見せてくださって、実はなんまんだぶつ≠申す材料にしてくださっているんですから、そしてここがやがて寂光土(じやつこうど)と見えてくる目を頂くんですから、私が見えたんでなくて、おのずとの目ですから、私が見たら、またある時は見えたけれども、になるからね。そんなんではなくて、そして気にいるものも、いらんものも、みんな仏業で動いていらっしゃる仏さんや。あの人たちのお蔭で、私の口からなんまんだぶつ≠ェ漏れてくださるんだな。そしてそれをなんまんだぶつ≠ニ聞く耳もある。それ聞こえなんだら、やっぱりもう一つ愛想ないかも知れんけれども。さっき手のことをおっしゃったけども、自分の手が掴むのでなくて、手にまでなってくださっている仏さんやから、それで掴もう掴もうとする。その手が掴もう掴もうとしておるぞ、と見せてくださっている仏さんやね。掴もう掴もうとしておっても、掴もうとしておることまで教えて頂いて、私の手になってくださっておるな、と手を頂くわけです。何でも掴みたがっておるわね。
 
金光:  今までのお話を伺っていますと、要するにこの世でこの娑婆世界で、いろんなことを考えるようにできている人間ですけれども、そのすべてはこういう人間だぞということを、お出ましによって気付くように、ちゃんと生まれた時から死ぬる時まで、そういうふうにできていると言いますか、そのことを、
 
西川:  それを通して人間になるまでの長い期間の仏のお働きね。この有限の世界ばかりが仏さんの働きやというんでなくて、その背後にある歴史―天文学的な長い時間の歴史―それを言わんことには、宝蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)縁起の時から、宝蔵菩薩という位にまでなりたもうた如来さまが、阿弥陀如来様が、そうしてこの平成の今、この息にまでなりたもうとる。ここが有り難いということですね。だからちょっと『大無量寿経(だいむりようじゆきよう)』の中に、四十八願をお立てになって「三願転入(さんがんてんにゆう)」ということを教えて貰っておりますけれども、十二願「光明無量の願」、十三願に「寿命無量の願」とおっしゃってから、今度十七願にいきますと、諸仏は称名してられる。「諸仏称名の願・諸仏称揚の願・諸仏称讃の願」というて、みんなが全部犬も猫もネズミも全部チュウチュウと言いながらなんまんだぶつ≠褒め称えておられるでしょう。というのが十七の願ですね。その十七願と十八願は違うんでなしに、十八願の世界を前もって十七願で「諸仏称名の願ですよ」とおっしゃって教えて頂いて、そして十八願全部この世界へ生まれさせずにはおかないという願いなんでしょう。ところがこの後ろの方に、「維除五逆誹謗正法(ゆいじよごぎやくひぼうしようぼう)」こういうことがのっておるわけですね。それにカチンと大概の者は、ありゃ、私が除かれておるや。五逆罪を犯したこの私のことや。除かれておるんや、私は。親をあんだけ大事に思わなかったあの時期、まさしくそれは私のことや。「誹謗正法」この素晴らしい教えを疑っただけで、誹謗正法や。どうしよう、というたものは、十九願へ入ると、やっぱり善い行いせんならんのや。善い行いして、善い思いをして、そしていいように、いいようにと努めならんのや、というて、十九願で息をさせて貰うわね。そうやけど、なんぼしてもなんぼしても、それはやっぱりその裏に、してやった、してできた私、こんなものがちょっと尾を引くわな。これが邪魔になる。何にしてもできた私と鼻高くする私じゃないか。やっぱりなんまんだぶつ≠竄ネ。なんまんだぶつ∴黷ツやな、というて、二十願に入ろうやな。二十番に入ったら、二十番に入って、何しておってもなんまんだぶつ=Bこれさえあればなんまんだぶつ=Bなんまんだぶつ≠アれ申しておればというて、申しておることに今度力入れるわね。そして申した申したとなるわけやね。なんぼ申しても、申した申したという私がおる限り、必ず申したけれども何にも。そうやけど、その他に二十年ほどおるや、大体。申したがな、申したけれども、あれは申しとらん、これは申しとらん。私は申しておる。こんな世界になっていくわね。そこで「三願転入」や。いやいやそんなのではない。ほんとにおっしゃりたかったのは、すべてすべてのものが、全部そうぐるりとなんまんだぶつ≠フ世界じゃ、ということを教えて頂いているのに、これはなんということや、と、十八願や、スポッとまた転入させて頂くというか、自ずと転入しますよね。そうすると、なんじゃ、こうじゃいうことなかったんや。すべてなんまんだぶつ≠フ娑婆や。お浄土お浄土と、他へいくようなことを思うているけど、そうでない。この今おる、足が立っておる土が、土じゃない、ここがお浄土なんや。娑婆のことを穢土というて、「お」を付けておらんけれども、お浄土にだけ「お」を付けている。ほんとは穢土も「お穢土」と言わんなんけど―の、そのところあればこそ、染み込んできたなんまんだぶつ≠ナすから、穢土とかって申しますけれども、お浄土のことをそういうふうに見せて頂いた素晴らしさよ、ということでしょうかね。
 
金光:  貴重なお話をありがとうございました。
 
     これは、平成二十六年四月六日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」で放送されたものである