私の好きな法華経の言葉
 
                   妙安寺住職 市 川(いちかわ)  智 康(ちこう)
昭和九年生まれ。立正大学大学院仏教学専攻。東京都妙安寺住職・池上本門寺学頭・元日蓮宗伝道局長・南無の会総務。日韓佛教交流協議会常任理事。全国青少年教化協議会評議員。佛教振興財団評議員。
                   き き て 金 光  寿 郎
 
ナレーター:  今日は、「私の好きな法華経の言葉」というテーマで、東京都大田区の妙安寺(みようあんじ)住職市川智康さんにお話頂きます。聞き手は金光寿郎ディレクターです。
 

 
金光:  今日は、「私の好きな法華経の言葉」というテーマで、お話を伺いたいと思うんでございますが、お寺のご出身でございますと、お小さい頃からお経に―殊にこちらですと、『法華経』の読み方だとか、そういうのは子どもの頃から親しんでこられたんでしょうね。
 
市川:  そうですね。小学校上がる前から毎朝お勤めをして、そしてしたんですけど、勿論だからその時分は字も読めません。そうすると「力無所畏(りきむしよい)」なんていうと、その当時ですから軍人さんが「少尉さん」、「少尉さんが力んでくださった」。だから「力無所畏(りきむしよい)」そんなことで文字を、お経本を覚えさせられましたね。学校へ行く前にお勤めをしないとご飯を食べさして貰えないし、そして学校へ行かして貰えないというそんな生活でした。それがずっと続いていましたけどね。
 
金光:  それでお経の言葉というのは、非常に難しい言葉が多いんですが、お経の言葉がだんだん大体わかってくるというと、やっぱり中学―昔の中学校ぐらいでしょうか?
 
市川:  中学でもわかりませんでした。高校過ぎからではないでしょうか。お経本の文句がね。ただそれも字がわかるだけであって、その意味というのはなかなか自分の中に入ってきませんでしたね。やっぱり大学卒業してからだと思います。
 
金光:  それにしても、子どもの頃から現在までというと、七十数年親しんでこられたわけですが、その間にそれこそ数え切れないくらいの回数をお読みになっていらっしゃると思いますが、今ですね「『法華経』の言葉で、どういうのがお好きですか?」と言いますか、あるいは「印象に残っていらっしゃいますか?」ということを尋ねられたら、どういう言葉を紹介されますか。
 
市川:  はい。『法華経』の中に、「常不軽菩薩品(じようふきようぼさつほん)」というお経があるんですけど、その中で「法華経二十千万億の偈(げ)」という、そういう言葉があるんですね。言ってみれば、「法華経二十千万億の偈」というのは、いわゆる世の中のあらゆる出来事、それがすべて『法華経』なんだと、そういう意味で捉えているんじゃないかなと、私は思います。
 
金光:  市川さんのお書きになった『法華経を生きる』の中に、今おっしゃった「常不軽菩薩品(じようふきようぼさつほん)」のところが出ていますので、その言葉の前後を読まして頂きます。
 
この比丘(びく)は、終らんと欲(す)る時に臨(のぞ)みて、虚空(こくう)の中において、具(つぶ)さに威音王仏(いおんのうぶつ)の先きに説きたまえる所の法華経の二十千万億の偈(げ)を聞き、悉(ことごと)く能(よ)く受持(じゆじ)して、即ち上(かみ)の如き眼根(げんこん)の清浄(しようじよう)と耳(に)・鼻(び)・舌(ぜ)・身(しん)・意(い)根の清浄とを得たり。
 
とこういうことを書いてあるんですが、その『法華経』の「二十千万億の偈を聞き、悉く能くそれを受持して―受け取って持っていて、これまで述べたような、眼、耳、鼻、舌、身、意の清浄を得た」ということを書いてあるんですね。ということは、「二十千万億の偈」に説いてあることが、よく受け取れて、身(からだ)で分かれば眼も耳も、要するに五官で聞くこと、意(こころ)で考えることがすべて清浄になります。そういう意味に受け取っていいんでしょうか。
 
市川:  はい。ただ「清浄」という意味も、ただ綺麗という意味ではないですよね。全部そのことがどういうことなのか、そういうことが全部自分の中に―身体の中に入ると言っていいんですかね、そういう意味で「清浄」という使い方をしていると思うんですよ。だから「綺麗とか、汚い」という意味ではなくて、そのまますっきりスーッと身体の中に入ってくるという、そういう意味で清浄という意味を使っているんじゃないかなと、私は受け取っています。
 
金光:  そうしますと、眼から耳から、食べるものから、身体で感ずること、全部その今生きている身体で、ということですね。それが入ると綺麗になるということよりも、要するにそういう世の中―「森羅万象(しんらばんしよう)」という言葉が使えるかも知れませんが―そういうものがそのままそっくり受け取られると言ったらいいのか、
 
市川:  受け取れる。その現象ではなくて、その性質ですね。本質と言いましょうか、という意味だと思うんですね。だから、正直なところ、私は、例えばの話ですけど、蓮の花―家で蓮を花を作っているんですけど、その蓮を見ますと、蓮が咲きますね。そして蕾になって、そして花を咲いて、そして散る。三日間なんですね。そして後は種が出てくるんです。そのちょうど花托が大きくなり蜂の巣状になった部分(無数の穴の中にどんぐりのような形をした実が入っているところ)を見ますと、ほんとに時々刻々と変わってくるんですね。最初は透き通った黄色なんですよ。それはだんだんと緑が加わっていって、そしてだんだん濃くなってくる。それがまさに一刻一刻なんですね。そして黒い種がなって、そして蓮が種をこぼすように傾きます。傾いたら今度種を全部下へ落とすと、その茎がずっとまた元へ戻る、真上へ。そして枯れるんですね。あれを見まして、ほんとに植物と雖もちゃんとやることをやって、そして元へ戻って、そして命が終わるという。そういう仕事を、私はほんとに感動をして見たことがあります。だからそういう意味では、人間だけじゃなくて、植物一つひとつがみんなそういう生き方をしている。自分の生き方をちゃんと全うしていって、そして終わっていくんだなというのは教えられますね。
 
金光:  ということは、「二十千万億」ということは、蓮の花だけではなくて、私たちを取り巻いている空気にしても、光にしても、樹木にしても、すべてのものがそういうふうに、今、我々が生きているこの世で、我々と一緒に生きているというか、
 
市川:  その中に生かされている。それがこの世の中、世間だということだと思うんですよ。ただそれが私たちはそのことじゃなくて、自分の周りのまさに欲の中に没頭させられて、それで生活をしているわけですけど、ほんとはちゃんと振り返って身の周りの起こることから一つひとつ学んでいくことが大事なんだなということを、「法華経二十千万億の偈」ということで教えられましたね。
 
金光:  時々必要に応じて『法華経』のある箇所とか、そういうものは何回か目を通す機会があったんですけれども、こういう言い方をすると、ちょっと差し障りがあるかも知れませんけれども、『法華経』というお経は、よくわかっている人にはわかるんだけども、わからん人には説明してもわからんところがあるような気がしていたんですけれども、今のお話を伺っていますと、お経自体というよりも、我々を取り巻いている自然、すべての森羅万象すべてのことを説いているんだ、と。そうすると、我々が今生きている現実がどうか、というところをよくみると、それと『法華経』の教えがだんだん一致するというか、こういうことをおっしゃっているのかというのが、だんだんわかってくるようなことがあるわけでしょうか。
 
市川:  そうですね。「法華経がそういうことなんだよ」ということを紹介してくださった。「そういうことに早く気が付けよ」ということを説いてくださっているんじゃないかなと、私は思いますね。ただよく『法華経』というと、すぐご祈祷のお経なんかと、なんかそちらの方に傾倒しがちなんですけど、本当は落ち着いて『法華経』を読むと、『法華経』はほんとにそういうことを説いている。だから『法華経』というのは、この現実の世の中のためのお経なんだというふうに受け取らせて頂いているんですけどね。
 
金光:  そういうふうに伺いますと、これは『法華経』というと、日蓮上人という方が非常に大事にされたということは、誰でもご存知だと思うんですけれども、禅宗の白隠(はくいん)禅師だって、ある年からは『法華経』をもの凄く大事にされましたし、それから道元(どうげん)禅師だって『正法眼蔵』の中で引用されている経典は『法華経』が一番多いんだそうですね。
 
市川:  『法華経が』多いようですね。
 
金光:  その読み方は、その人その人によって多少近づき方が違うかも知れませんけれども、しかしやっぱり道元さんは、「峰の色谷の響きも皆ながら 吾が釈迦牟尼の声と姿と」という歌を詠んでおられますが、そうしますと、仏さんというか、あるいはお釈迦さんと言ってもいいと思いますが、お釈迦さんがお説きになったことも、森羅万象と我々の生き方とは密接に関係があるんだという、それぞれの拠り所にしている経典は違っても、お釈迦様の教えのもとへいくと、そういったところへいくわけでしょうか。
 
市川:  むしろお釈迦さんは、「そのことに早く気がつけよ」ということをおっしゃっているんだと思うんですよ。で、例えば浄土教のなんかでもあるんですけど、それはむしろ阿弥陀浄土のお経ですよね。だけども、『法華経』は、むしろこの世の中の見方、そういうことをちゃんと見れよ。そういうことに、日蓮上人が気がつかれたんじゃないですか。それで日蓮上人は『法華経』を取り上げられたんだろうと思うんですが。もう一度『法華経』というのを見直して、よく読んで頂かなちゃいけないかなと。いわゆる仏さまの心を頂かなければいけないんじゃないかなって思っています。
 
金光:  仏教の場合は、一番最初にお説きになったお釈迦さんの時代はともかく、その後になると、その如来さんだって、いろんな如来さんが出てきますよね。そうしますと、如来さんがいろいろいらっしゃるし、それから如来さんだけじゃなくて、お釈迦さんはお釈迦さんで説かれて、また別にそれぞれ御宗旨の如来さんがいらっしゃってというふうに、なんかばらばらに受け取りがちなんですけれども、しかもその『法華経』の中でも、「如来寿量品(によらいじゆりようほん)」というのがありますね、「如来寿量品(によらいじゆりようほん)」だとお釈迦さんは実は確かに今から二千五百年前にお生まれになって、八十歳で亡くなられた方だということで、それで終わりみたいに受け取っていると、「どうも違うよ」とおっしゃっているようですね。
 
市川:  それを日蓮上人が―日蓮宗では、その『法華経』の中のお釈迦さんを「久遠実成(くおんじつじよう)本師釈迦牟尼仏(ほんししやかむにぶつ)」と。いわゆる「五百塵点劫(ごひやくじんてんごう)」というもの凄い長い間の昔から仏になられて、そしてずっと今でも私たちのために説き続けていらっしゃる。そのお釈迦様をご本尊として崇めていこう。その教えに従っていこう、というのが、日蓮宗ですよね。だからそういう意味で、仏さまはたくさんいらっしゃるけど、その一番中心がお釈迦様なんだ、という。そういうことに鎌倉時代に気が付かれたのが日蓮上人ですよ。だからほんとは「日蓮宗」と言っているんだけど、ほんとは「釈迦牟尼仏宗」でなければいけないんじゃないかなと、私は思うんです。そんなこというと怒られちゃいますけどね。
 
金光:  今のお話の中に「五百塵点劫」というのが出てきましたね。ということを聞くと、宮沢賢治(みやざわけんじ)の詩の中で、「五百塵点劫」という難しい言葉があるなと思いましたけれども、あの「五百塵点劫」というのは、文字通りみたらどういうことなんでしょう。
 
市川:  長い年月ということなんですけど、地球だけでなく、この宇宙ですね。宇宙全体を「五百千万億那由他(なゆた)阿僧祇劫(あそうぎこう)」という、それだけの大きな宇宙を粉にして、そして粉の一粒を「一劫(いつこう)」という。「一劫」というのは、千立方の中に芥子粒を詰めたその中の一つ芥子粒を数えただけの数が一劫だという。それの年月の昔に仏さんになって、そしてずっと今も、これからもお説き続けていらっしゃるのがお釈迦様だと。
 
金光:  でも、先ほどの宮沢賢治の言葉というのは、宮沢賢治という人があの言葉を使ったということは、彼もそういう永遠の時間の中で今生きている、そういう実感をお持ちだったということですね。
 
市川:  そうだと思うんですね。宮沢賢治は、『法華経』に傾倒されて一生懸命信仰されましたから、だからまさに『法華経』の中の「五百塵点劫」という、そういう言葉に非常に印象を強く受けられたんじゃないでしょうか。だから自分の命も、今終わるんじゃなくて、ずっと生き続けてほしいという、そういう願いだと思いますがね。
 
金光:  『法華経』の中にも、よく「綬記(じゆき)」という言葉が出てまいりますが、あれは将来を保証するという感じなんでしょうね。
 
市川:  仏さまが、「お前さんは、これだけのこれこれの教えを信用して、そしてそれを習得したことによって仏になるよ、ということを保証する」ことですね。そういうことを「綬記」という。
 
金光:  ということは、要するに、今現在のこの世で生きているのは、たかだか百年か百五十年か―百五十まで生きる人はいないと思いますけれども―もっと遙かに長い、それこそ五百塵点劫と続いている世界での話ということですね。
 
市川:  そうそう。長いスパンで考えていますね。だから人間一生だけでなくて、この次の生も、この次の生も、まさに多生(たしよう)ですね。多生ということでもって考えている。だから目の前の出来事で云々するんじゃなくて、長いスパンで物事を考えよ、という。そういう教えが、『法華経』。仏教であるし、『法華経』の教えでもあると、そういうことだと思います。
 
金光:  『法華経』を説かれている場所としては、霊鷲山だと言われている場所がありますけれども、その関係は、要するにこの世―今目の前の私たちが生きている現実世界と、それと現実では見えないというか、そういうもう一つ深い世界、あるいは高い世界と言いますか、そういう世界が我々が生きている世界にあるんだ、ということを教えられようとしているのかなと思うんですが。
 
市川:  だから、私たちのスパンで考えるんじゃなくて、もう一段階上の段階で物事を考えよと。まさに宇宙的なものの考え方―この地球上の問題で考えているんじゃなくて、まさにこの全宇宙の中でもって考えよと、そういうお示しじゃないかなと思いますね。
 
金光:  「二十千万億」というのは、その言葉の中には、今言った「虚空」の「空」も入っている?
 
市川:  全部含めてのことだと思います。だから一つひとつの、まさに「二十千万億の偈」というのは、一つひとつの偈文じゃなくて、この世の中、この宇宙の全体が、なんらかのことを、実は私たちに語り掛けて教えているんだ。それに早く気が付けよ。物事というのは、気が付かなければ無いと同じですからね。だから早く気が付けよ、ということを教えてくださっているんじゃないかなと、私は思います。
 
金光:  私の知っている人で、若い頃人生問題に悩んで、それで年老いても、若くても、少々頭が足りなくても救われるというお念仏の世界へ入って、念仏を唱えたけれども、念仏でもうこれくらい唱えればなんとかなるんじゃないかと思ってやっていると、ノイローゼになっちゃうと。それでもう念仏しても阿弥陀さんにも見放されたと思って、もうこの世をさようならしようと思っている人が、ある時に桃の花が咲いているのを見て、自分が頭で「ああかこうか」考えているのとは全然違うところで、こういう見事な花が咲いているということに気が付いた途端に、今まで考えたのが全部それこそくちゃくちゃと消えてしまったと。その方は、『法華経』を大変大事にされていた。ということは、その方の言葉で印象に残っていますのは、気付かれた後、「何か変わりましたか?」というと、「それまでは、現象が現れると、頭で意識のところへもってきて、頭で受け取って、解釈して受け取った。ところがそのことに気が付いて、自分の思いと違うところにいかしてくださる働きがあるということに気が付くと、直接その出来事を受け取れるようになった、という。これがいわば「二十千万億の偈」をですね、宇宙の働きかけをそのまま自分の意見を挟まないでパッと受け取れるようになったという、その世界のことをさっきから伺いながら、その方はそのところをおっしゃっていたのかな、と。
 
市川:  そうだと思いますね。結局私たちは、変な枠とか、理屈とか、原理だとか、なんかと考えちゃうんじゃけど、そうじゃなくて素直に受け取れる、受けとめられるという、そういう生き方というのは、大事なことなんじゃないかなと、私は思いますけどね。
 
金光:  でもそのためには、「はい、そうですか。わかりました」では、わからんところがあるわけですね。
 
市川:  そうです。まさにそのために自分も磨いていかなならないし、自分も勉強していかなければならないし、それは大変でなかなか難しいですね。でもそれをまた素直に受け止められないといけないと。どうもやっていくと、自我が起きちゃってどうのこうのとやりかねないんですけど、それを素直に仏さまのお言葉として受け止められるように努力はしているつもりなんですけど、なかなか思うようにはいきませんが。
 
金光:  よく私は、『法華経』を拝見していて、よく「無上道を伝える」とか、「無上道」という言葉がしょっちゅう出てくるんですけども、これもしかし難しいですね。
 
市川:  難しい。結局言ってみれば、これだということは決められないわけですよ。それが無上道だ。だからそれをまさに受け止めよ、ということなんでしょうけど、それがある程度正直いうと、こちらもそれを受け止められるような構え―構えというとちょっと語弊があるけど、知識がないと。
 
金光:  むしろ構えを外したところで、そういうのが入ってくるというか、なんか人間というのは、認識しない、意図しないのに、なんか矛盾して出てきているようですから、「はい、わかりました」と言った途端に、また別なことが出てきてしまって、その辺のところでほんとに無条件にこの森羅万象を、私たちを生かしている仏さんの働きと言っていいと思いますが、そういういのちの働きを受け止められるようにするのには、という立場から、それこそ手を変え品を変え、『法華経』を頭からお終いの方までよく読むと、おそらくそういうことを説いていらっしゃるでしょうね。
 
市川:  結局 お経を読んでもそれだけではダメだと思いますね。まさにそれを生活の中に生かして、それを如何に読むかということ。楓がありますね、楓が夕陽に照らされて、そして落ちる。その落ちたその生き方だというんでしょうかね、それから何かを学ばして貰えるかという、そういう世界じゃないかなと、私は思いますね。
 
金光:  ただ頭でそういうことを話を聞いて考えるだけでもなかなかそうはいかないんで、やっぱりそういう意味では、『法華経』の言葉なりに触れることによって、若い頃は気が付かなかったのが、ある日歳取っていろいろな出来事を経験すると、ああ、こうだったのか、そういうこともおありなんでしょうね。
 
市川:  まさにそういうことで、だんだんたまたま私は、十年前に倒れまして、約半年間入院生活を送ったんです。だから今でも正直なところ、右半身がちょっと不自由なんですけど。それで思ったのは、ほんとに右足出して、次に左足出すのは当たり前のように思うんですけど、それが右足がなかなか自分の思うように足が進まないんですね。「遅いよ」なんて言われるんだけど、そういうことで一つひとつのことが何でもないように行われたのは、実は大変な仏さんの力でもって動かして頂いていたんだ、というのが、それが受け止められるようになりましたね。「病もよし」という世間で言われていますけど、まさにそういうことかなと思います。
 
金光:  不思議に、私は六年前ですけれども、脳梗塞で左麻痺しているんですけれども、その麻痺が起こると、麻痺する前は非常によくできていたなと思うんですけれども。その時はそのままどうしようもないにしても、じゃ残っているところでそういうことを感じるかというと、これまた感じないんですね。でも左のことを考えると、右もよく出来ているなということは気が付きます。多少は違いますけれども、おそらくそういう意味では、我々が生きている頭の先から足の先までだけではなくて、この身体を維持していくためには、その食べるものだって、身近なものだけではなくて、今は日本は世界中からいろんなものが来て、そういうものを頂くことによって、この身体を維持できているわけですから、そうすると、自分がなんとかといっているこの自分の身体だって、世界中のいろんなものから頂いているわけですから。
 
市川:  生かして頂いているんですね。そういうことを思いますね。
 
金光:  でもそうやって気付きがある度に、私たちが頂いているこの世界も当たり前だと思えないことがいっぱいあるんですね。
 
市川:  そういうことですね。それが当たり前というふうに思ってしまうのがいけないんですね。
 
金光:  そうしますと、これからどういうことに直面するかわかりませんけれども、やっぱりそういうふうに与えられた条件というものを、前向きに受け止めて進んでいく。それがやっぱり五百塵点劫の永遠の世界の中に生かされている私たちの新しい一歩の踏み出しのスタートになるというふうに受け取ってよろしいでしょうか。
 
市川:  そうだと思います。
 
金光:  どうも有り難うございました。
 
     これは、平成二十七年一月十八日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」で放送されたものである