坐禅 花開くごとく
 
              曹洞宗国際センター所長 藤 田(ふじた)  一 照(いつしよう)
一九五四年、愛媛県新居浜市に生まれ。一九七七年、東京大学教育学部教育心理学科卒業、同大学院進学。一九八二年、東京大学大学院博士後期課程を中退。一九八三年、安泰寺の渡部耕法師に就いて出家。八五、八六年、明光寺僧堂で修行。八七年、国際布教使に就任、マサチューセッツ州バレー禅堂に赴任。二○○五年、日本に帰国、神奈川県に住む。二○一○年、曹洞宗国際センター所長に就任。
              き き て       浅 井  靖 子
 
ナレーター:  今日は、「坐禅花開くごとく」と題して、曹洞宗(そうとうしゆう)国際センター所長の藤田一照さんにお話頂きます。藤田さんは、教育心理学を学ぶ大学院生の時、坐禅と出会い、兵庫県の安泰寺(あんたいじ)で出家、得度。その後十八年近く、アメリカでの坐禅指導に取り組まれました。坐禅会の最初に身体をほぐす体操をなさるなど、そのユニークな指導の中にある藤田さんの坐禅探求の歩みを伺います。聞き手は浅井靖子ディレクターです。
 

 
浅井:  今日は、自然に囲まれたいつも坐禅の指導をやっていらっしゃる場所にお訪ね致しましたけれども、藤田さんの坐禅会に伺うとですね、坐禅会の前にいつも入念な準備体操というんでしょうか、身体を伸ばしてみたり、自分の身体の感覚を確かめてみたりという、そういうとこから始められますよね。そういったことをされるようになったというのも、アメリカで長く坐禅の指導をなさっていたことから始まっているんでしょうか?
 
藤田:  はい。アメリカというのは、椅子に座る文化なので、いきなり坐禅のあの形ですね、足を組んで背筋を伸ばして坐るという結跏趺坐(けつかふざ)だとか、半跏趺坐(はんかふざ)とか言われる形というのは、大抵の人にとってはかなり難しい姿勢ですので、最初は準備体操として、ストレッチをして、坐禅がなるべく痛くないように、楽に坐れるように、というので、坐禅と切り離して、坐禅のための準備体操という形で始めたんですね。でも私の坐禅に対する考え方がだんだん変わってきたのに伴って、坐禅の前にする体操の意味も変わってきているんですね。今は、準備体操という言い方はしないようにしていて、坐禅の一部として「動いている坐禅だ」という言い方で、一繋がりのものとして、今では捉えているんですね。ですから、坐禅の時に生かされている心や身体の働きについて学んでいく機会という形、意味付けを与えてやっています。ですから例えば、足の指の関節を回す時も、足の指の関節を回しながら、「回されている身体は一体自分にどういうメッセージを発しているか。よく耳を澄ましてください」とか、あるいは「足の指だけをここから切り離して回すんじゃなくて、足の指を回すことで身体にどういう感覚の波の広がりがあるか」とか、「どういう繋がりを身体がここで見せてくれているか、というのをよく感じながらやってください」というような言い方で、一つのレッスンというか、学びの時間という形で提示しているようにしているんですね。それはみな坐禅必要な材料になるので、それも坐禅だという言い方もできなくはないんです。
 
浅井:  もともとは準備体操ということで始まられたのが、今はそうじゃないとおっしゃっているんですけども、それは何のためになさるというふうに、今は考えていらっしゃるんですか? あるいはそういうふうに考えるご自身の試行錯誤の道というのは、どういうふうなことだったんですか?
 
藤田:  坐禅のユニークさというか、独自性というのは、何なんだろう、というふうにズッと僕思ってきているんですけど、今の段階での一つの言い方は、「坐禅というのは身体という資源が伸び伸びと働いているその生(なま)の働きのありようを、自分という意識が謙(へりくだ)った態度で深々味わっているような状態」というふうに捉えているんですね。「自ずからなる自然を自らが深く受け止めているような状態」というような言い方ができると思うんですね。これは仏教的にいう「中道(ちゆうどう)」のあり方じゃないかというふうに思っていて、その「中道」というのは、いつでも二つの偏りを離れた第三のあり方という時に、その「中道」という言葉が使われるんですけど、その意味でいうならば、坐禅の時の二つの偏りというのは、一つは、身体が今まで習慣付けられた姿勢、息、心の状態というのが、まったく無自覚なままに、今までの習慣的なパターンのままに、自動操縦状態で繰り返されているような状態、これが一つの偏りだと思います。もう一つの偏りは、意識が一方的にその身体の資源をあるマニュアルなりメソッド(method:方法、方式)なりに従って、百パーセントコントロールしようと力んでいるような状態ですね。この二つの偏りを離れた中道的なあり方の坐禅というのは、じゃ、どういうことかというと、自然が伸び伸びと心も身体も生き生きと働いているあり方を、自分という意識がなるべく深く広く生々しく、刻々に好奇心をもって味わっている状態、ということになります。ですから、そこは自然と私というか、自然と意識というものが自ずからと、自らが寄りそうような形で、お互いに助け合うような形で働いているような状態なんですね。そういうあり方を、身体をほぐす体操の一つひとつに学んでいくような形で、まず身体を動かして、身体を動かした後、静かに動かした余韻を味わうというような意味で、静かに静止するような形で、それが狭い意味での坐禅になるような、そういう一時間とか二時間の長い―下半身をほぐして、それから胴体の中央部分をほぐして、それから胸をほぐして、首をほぐして、最後は目玉も回して、これで大体身体の中を全部時計回りに手で回すわけですよ。それが終わった後に、手当といって動かしたエネルギーを静めているような意味合いを持たせて、手の平で瞼の上から眼を温めたり、それから頭に手を当てたり、喉の甲状腺、それから胸、後ろの心臓、それからお臍に手を当てるという形で、上からだんだん鎮まっていくというふうな感じでやっていますね。お臍に手を当てている頃には、みなさん坐禅しているような感じになっていますよね。面白いことに、「坐禅」と一言も言っていないんですけど、むしろそっちの方が坐禅としては良くて、「さあこれから坐禅します」と言うと、途端に姿勢が悪くなったり、ゴソゴソし出したり、今まで余計な力なんか入っていなかったのに、急に腰をグッと立てたり、そういう余計なことをし出すんですよ。というのは、「坐禅」というと、みんなこうしなければいけないという、なんか意識的な構えを無意識にとっちゃっているんですよ。だから「お臍に手を当てる」というような言い方をした方が、坐禅に近いものがそこに立ち上がるという感じですよね。理想的には「坐禅」ということも一言も使わないで、坐禅が終わった時に、「今やったのが実は坐禅だったんですよ」というふうにみたらいいなと思ったりしているんですよね。
 
浅井:  私たち、坐禅というと、ある決まった形があって、その形を作って、自分と向き合うとか、何かが見えてくるとか、そういうものじゃないかという、そういうイメージをもっているんですけれども、藤田さんが考えていらっしゃる坐禅というのは、そうではないということなんでしょうか?
 
藤田:  僕もやっぱり常識的な坐禅観にやっぱりとらわれていて、何か決まった理想的な姿勢、理想的な息のあり方、理想的な精神状態みたいなのが、目標としてあって、それになるべく上手く上手に効率的に到達して、その後はそれをずっと維持する努力を続けるという、そういうイメージで捉えていたんですけれども、例えば姿勢をよくするために、ヨガとか、いわゆる西洋的なストレッチの仕方とかというので、姿勢を結跏趺坐に近づけるような身体の柔らかさとか、息もいろんな呼吸法がありますよね。そういう呼吸法を勉強してみたり、心の状態だと、いろんな心理学みたいなとか、心理療法の中で言われているような心を落ち着けるメソッドとか、そういういわゆるメソッドみたいなのをいろいろ囓ったりなんかして、それを活かせないかというような形でやっていたわけですね。
 
浅井:  ただ方向としては、実は「それではない」というふにお気づきになったということなんでしょうか?
 
藤田:  そうです。どうも違うようだ、と。道元(どうげん)禅師が書いたものとか、仏典とか、読んでいくと、どうもそれは常識的にすぐわかるような、やるのは難しいかも知れないけれども、分かり易いものではどうもないようだというのが、だんだん何か僕らにとってはギョッとするようなというか、そういう代物じゃないかなと思えてきたんです。その辺から考え直しが始まっていって、で、僕が考えている坐禅の起源―始まりは何だということで、それはやっぱりお釈迦様が菩提樹の下で坐った座だったと思うんですね。それを考え直してみるといったことがある時期やったんですけど、お釈迦様が菩提樹の下に坐る前にやったことに目を向けると、出家されてから、先ず当時インドで、今も勿論そうだと思いますけど、主流であった既に確立された宗教的な行法(ぎようほう)というのに取り組んだわけですね。先ずは瞑想されて、仏典によると間もなくメソッドのゴールに到達したわけですけど、それには満足されなかったので、次は苦行―身体を極端に責め苛むような行法を徹底的にされたけれども、これもやっぱり満足されなかったわけです。どうもそれでは自分の目指している解脱なり、なんかそういうのとはどうも違うような、ということが、一応見極めたわけですね。その後されたのが菩提樹のもとでの坐禅ですね。ですから菩提樹の座に坐った時には、それまでとはまったく異質的に異なるなんかラジカル(radical:根本的、根源的)な展開が起こった、その転換が一体なんだったのか、ということを考えなければいけないわけです。一番大きな転換は、いろんな言い方ができると思うんですけど、規定のメソッドに従って身心を一方的にコントロールするのを止めて、身心を自然な状態にする。メソッドに当て嵌めていくんではなくて、身心を観察する。ありのままの身心のありようを観察する、というふうに、アプローチをガラッと変えられたんではないか。もっと素朴な何かこの世における存在の仕方みたいなもの、何かを作り出していくというよりは、身心―要するに自己や世界というのは、どのようなものなのかという、学んでいくプロセスという、学ぶ材料というのは何かというと、それは感覚器官から与えられてくるようなものですね。仏教的にいうと、「眼、耳、鼻、口」、それから感じる「身(からだ)」、それから考える「意(こころ)」、この六つの感覚から学んでいく。ですから何か既にあるメソッドに従って、心や姿勢や息を何か理想状態に近づけていくということではなくて、自分の内や外で一体何が起きているのかを、よく深く広く細やかに観る、感じる、という営みだったと思うんですね。それは瞑想というようななんか方法論をなんか適用したということではなくて、もっと素朴な何かこの世における存在の仕方みたいなもの、ただ素朴に存在している状態ということですね。だから方法というにはあまりにも限定されないようななんかそういう性質のものだったんじゃないかなと思うんですね。
 
浅井:  それは何か崇高な真理とか境地であるとか、そういうものを掴み取ろうとして、手を伸ばすというか、そういうものというのはないということですかね?
 
藤田:  最初からそういうものを想定しているわけじゃない。想定するのを止めようということですね。今、日本語でも「アジェンダ(Agenda)」という言葉が使うようになったので使わして貰うけれども―「アジェンダ」自分なりの思惑といった方がいいんですか、崇高な真理を見付けるとか、平安の境地みたいなものですね。そういう言葉を使う時って、人間はなんらかのイメージというのを思い浮かべているわけですよ。こういうものというのは、実はどっかから聞いたか、どっかで読んだかというようなものを材料にして、なんとなく自分の頭ででっち上げたものなわけですよね。だからそういうものを目標にして、そっちの方に自分の心や身体を―悪く言えば、ねじ曲げてもっていこうというのは、これは意識の操作を表していると思いますね。だから坐禅の時の意識というのは、そういう不遜なことを一切止めてしまって、敬虔に身体や心の自然が私に何をメッセージとして、今この瞬間に与えてくれているのかというのをお伺いしていくという、そういうあり方で身体や心の自然に寄り添っているという、そういうあり方に変わっていないといけないわけですね。
 
浅井:  アメリカで長く坐禅の指導をしていらっしゃったということなので、きっとアメリカの方々は何かをやはり求めて禅堂にいらっしゃって、坐禅をすることで得られるものは何かということを知りたいというか、そういうふうに思われる方も多かったんじゃないかと思うんですけど。
 
藤田:  それは人間の普通の人情だと思いますね。やっぱりいろんなものを求めて―私自身もそうでしたし、ただ今の自分が無自覚なままに求めているものが、与えられることが自分を幸せにするのだろうかということです。それを仏教が問うているんじゃないかと思いますね。大抵僕らが求めている求め方というのは、「貪(むさぼ)り」か「怒り」か「無知」を言っているわけですよ。いわゆる仏教でいう「貪(とん)瞋(じん)癡(ち)」という。「貪(とん)」貪(むさぼ)り、「瞋(じん)」怒り、「癡(ち)」愚かさ、ということですね。「三毒(さんどく)」三つの毒というふうに纏められているんですけど。「貪り」というのは、今無い物がほしいという。「怒り」というのは、何かに対する否定的な感情ですよね。今あそこにあるものに対して無くなれという、排除したいという。身体的だったら向こうへ遠ざけるとか。「愚かさ」というのは、今ある状態に対して、常になんかが足りないとか、何か余計だというふうに見てしまうので、今ここにこうしてある自分、世界のあり方をちゃんと受け止められないということですね。いつでもそういう多すぎるか少なすぎるか、そういう色眼鏡で見てしまっているので、今あるところの素晴らしさ、不思議さというのはわからない状態、これが「愚かさ」ですね。そういう「愚かさ」から、無い物がほしい。あるものが嫌だ、というリアクションが起きるわけですね。だから仏教の、特に坐禅というのは、文字通りそれを一旦止めてみるという姿勢ですよね。足で移動できないし、手でなんか掴んで引き寄せたり押し退けたりできないし、口で「あっちいけ」とか「こっち来い」ということも言えないし、頭で「これをこうしたら、あれがくるぞ」とか、「これをこうしたら、あれがなくなるぞ」とか、そういうのができないような状態に、身体も心もあるような営みが坐禅なわけですよ。一旦そういう貪瞋癡に駆られたようなリアクションを延期する―放棄というか、サスペンド(suspend:決定などを保留すること。(しばらくの間)停止すること)というか保留状態にしているわけですよ。そしてこの世界の中にじっとして、そういう自分をみたり、世界を見たりすると、あら不思議というか、ある時もしかしたら、今まで思っていた自分とか世界とは違うものが見えてくるかも知れないわけですね。今までは貪瞋癡に駆られて手足を、口を頭を動かしてきたわけだけど、そうではない自分と世界で居てみようということですね。
 
浅井:  私たちはやっぱり修行でもありますから、ある程度我慢をして、辛いことにも耐えたからこそ何かが得られるんじゃないかというふうに、坐禅にはイメージを持っているんですけれども。
 
藤田:  常識では、苦労の見返りで、なんか良い物が貰えるというふうに思っているわけですけど、宗教の世界というのは、そういう常識とは違う話じゃないかなと、僕は思っているんですよ。労せずして与えられるみたいなことが起こっているというか、そういうのがむしろ正しいみたいな。実際僕らの、例えば「いのち」にしても、何かの見返りに貰っているわけではないわけですよ。一方的に与えられているわけですね。空気にしても、この太陽の光が与える温かさにしても、あるいはこの重力―この重力というのがなければ、僕らは地上の上に立ってもいられないわけですよね。そういう形で努力しているから与えられるものも勿論ありますよ、大事なことだと思いますけど。努力とか こちらが何かしたから与えられているという、そういうやりとりではない、やりとりなしに与えられているものというのに、僕らはやっぱり気が付かないといけないんじゃないかと思うんですけどね。
 
浅井:  それはこちらが手を伸ばしたから得られた、というものではなくて、手を伸ばそうが伸ばすまいが、
 
藤田:  それ以前から与えられているということですね。出している手を引っ込めた時に、気が付く世界というのが、実は期待を遙かに越えたものが、手を出した方向じゃない向こうから、出す以前からずっと与えられているという、そういう話なんだと思うんですね。
 
浅井:  そういう感覚みたいなものを、もしかしたら実感していくプロセスかも知れないのが坐禅だと。
 
藤田:  そうですね。そういう感覚を得ようと思って坐ると、また話が違ってくるんですね。ただ坐禅は坐禅をしていればいいんですけど。道元禅師は、「坐禅は安楽の法門である」と。「安らかで楽しいものなんです」というふうに言っているし、別なところでは「力をも入れず、心をも費やさず」―「力も入れず」ということは、その努力感もなくというようなことだと思いますね。「心も費やさず」というのは、ああだ、こうだと思い煩うことなく、易々と楽々という、それが安楽ですけどね。というあり方が、坐禅の本来の姿なんですよ。それは何十年も坐禅しないと、そうならないということじゃなくて、ちゃんと坐ればまったく初めてでも、そういうクオリティ(quality:資質、特性)のほんの欠片でも味わえるようなものじゃないと、やっぱりどっか間違えているんじゃないかなという。なんか違うことをしているんじゃないかと考えた方がいいんじゃないかと思うんですね。坐禅の時、さっきもいったように、意識やボウッとしているんじゃなくて、自然の働きを意識がありのままに精密に受け取ろうとしている。さっき言った中道の状態ですから、意識が飛んでボウッとしているんでもないし、意識がぎんぎんに力んで自然と対話するところとか、一方的にコントロールしようとしている状態でもない状態ですから、そこにはいろんなものがうつし込まれてくるわけですよね。探しているわけじゃないけど、届いてくるわけですね、いろんな感覚として。普段まったく気が付いていないような感覚、それは感覚から生まれてくる感情とか、あるいはもっと洞察にと言っていいようなものが、それを得ようとしているわけではないけど、自然に立ち上がってくるわけですね、いろんな条件によって、縁によって。それはいつ、どういう形で与えられるかわからないので、注意深くあるけど、期待しないで待っているわけですよ。それで起こっても起こらなくても、そういう状態は、自然と意識が寄り添えながらあるという状態は、坐禅の時起きているわけですよ。で、それを目的にしたら、それは自然の働きを、意識が自分の都合のいいように操っていることになりますから、坐禅の本質から離れてしまう。それは極力そういう形で意識が手を出さないようにはしているわけですけどね。
 
浅井:  そのまま私たちなかなか自分の思惑に応じて何かをやるという形から離れることが難しいので、先ほどは「身体を動かし始めているところから、坐禅が始まっている」とおっしゃっていましたけれども、藤田さんのお言葉を借りれば、「モードの切り替え」というんですか、そのために準備をしていくプロセスが、藤田さんの坐禅会の場合は必要だというふうに捉えていらっしゃるんですか?
 
藤田:  そうですね。例えば背中を伸ばすという、真っ直ぐにするという場合、例えば背中の下にある骨盤―骨盤でも骨盤の中心にある仙骨(せんこつ)。仙骨でも仙骨の先端にある尾骨の傾きだったりするわけですよ。
 
浅井:  真っ直ぐになる元になっているもの、
 
藤田:  尾骨を少し動かすだけで身体がちゃんと上手くリラックスしていて、余計な力みがなくて、自然の本来の自動調整機能みたいなものがちゃんと働いていれば、尾骨(びこつ)をちょっと角度を変えただけで、上にスッと伸びていく働きが、意識でなんか外側の脊柱に合わせるのとは違った形でスッと立ち上がるわけなんですよ。
 
浅井:  それ自ずからなっていく。
 
藤田:  自ずからなっていくんですよ。だからその時意識は尾骨にもっていって、尾骨をこういうふうに、例えば少しちょっと外に出すみたいな感じですよ。そこで柔らかくほぐれていて、身体の他の部分、例えば首が固まっていないとか、肩甲骨がこう余計くっついていないとか、ある条件が揃っていれば、自ずと背骨が立ち上がるという働きが身体の自然としてはあるわけですよ。
 
浅井:  起こってくる?
 
藤田:  はい。そういう自ずからなる働きというのが、発現するような身体をどうやって育てていくかということ、そういう問題関心で身体ほぐしをやっているんですよ。これは体操したから身に付いたんじゃなくて、元々持っていたわけですよね。感覚が自ずからなる自然と自らの意識が出会う場ですよね。だから感覚を仲介にして、自ずからの自然と自らの私が話し合うというか、ダイアローグ(dialogue:対話)しながらずっと展開が起きてくるわけですよ。それが丁寧になされているというのが坐禅じゃないかなと思います。
 
浅井:  その自ずから、自らということを伺っていくと、ついつい私たち坐禅というと、なんか「自分の内面を見つめるもの」というふうに思いがちなところがあるんですけれども、どうもそれには留まらないというか。
 
藤田:  そうですね。坐禅では坐っている床、それから吸っている空気、この温度を作っている太陽の熱、極端な話、その坐っている場所を作ってくれた人とか、ここを守ってきた人とかというような形で、全部空間的にも歴史的、時間的にも、あらゆるものが坐禅の材料というか―が坐禅していることになりますよね。支えられて生きているという、そういうものも坐禅の一部だということですよ。坐禅している時の自己というのは、そういうふうになってしまうわけですよ。例えば生きている魚は、水とセットですよ。水の中で泳いでいるものですから、水も魚なんですよ。鳥というのは、飛んでいる空ごとの鳥ですよね。そういうふうにどんどん広がっていくわけですよ。だから坐禅もその論法でいけば、坐っている環境世界ぐるみが全部坐禅しているというふうにいわないといけないと思います。それくらいでかいもんだということですよ。
 
浅井:  そうすると、その藤田さんが、身体ほぐしをしながら、そこから自然に坐禅というものにもっていかれるという、そういうことをなさっているというのは?
 
藤田:  最終的には、僕は造花を作るように決められた型の中にプラスチックを入れて、パッとみんな同じ形をしたカーネーションならカーネーションをいっぱい作っていくというやり方ではなくて、生きている花ですよね。生花にみんななって貰いたいんですよ。カーネーションかバラか咲いてみないとわからないし、カーネーションでもその時その時違う形で咲くわけですよ。というのは、自分勝手に咲いているわけではなくて、その時の湿度とか温度とか光の具合とかで、そういうとこカーネーションの内側から咲きたいという働きとが刻々に話し合いながら、自ずからと自らの一つの例ですけど、その都度その都度折り合いを付けながら、周りとの許してくれるあり方を探しながら、今日はここに咲いたというのが、生きた花の咲き方ですよね。だから毎回そういう形で、新しい花が咲いてくれたらいいなと。それにはどういうふうに、条件を調えたらいいかという、そういう工夫をやっているわけですね。これで坐禅を、「花がやることだ」と言ったら言い切りになてしまうので、開くような、花が咲いている時に起こっているような、そういうなんかまだわからない未知を求めてというか、未知を探りながらというような態度とか、そういうのを言いたいんで、「花が開くごとくに」というふうに、今のところ使っているんですけどね。
 
浅井:  どうもありがとうございました。
 
     これは、平成二十七年一月二十五日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」で放送されたものである