ある科学者の信心―父・東昇の場合
 
                     出 演 藤 井(ふじい)  雅 子(まさこ)
                     ききて 金 光  寿 郎
 
ナレーター:  今日は、「ある科学者の信心」というテーマです。世界的ウイルス学者で、京都大学名誉教授だった東昇(ひがしのぼる)(1912年鹿児島県生まれ。1938年京都大学医学部卒。1950年ウィルス学、電子顕微鏡学研究のためアメリカ留学。1955年以降欧米諸国へ学術講演出張15回。1956年京都大学教授。1976年京都大学名誉教授。1982年逝去。この間ウイルス学会会長、日本電子顕微鏡学会会長、日本熱帯医学会会長、京都大学ウイルス研究所所長、国際電子顕微鏡学会連合総裁等歴任)さんは、一九八二年(昭和五十七年)、七十歳で亡くなりました。今日は、東さんの仏教信心と科学研究の関係について、東さんの長女・藤井雅子さんにお話頂きます。聞き手は金光寿郎ディレクターです。
 

 
金光:  今日は、藤井さんのお父さまの東昇先生の科学と宗教との関係を、殊に仏教でいうご信心というのは、どういう形で深められて、それと科学との関係はどうだったかというようなことを、直接小さい頃からいろんなお話を聞いていらっしゃると思いますので、そういうことを思い出しながらお話を伺えたらと思うんですが、東先生は、一九一二年(大正元年)のお生まれですから、大正時代はまだ戦争の匂いはない頃ですけど、その頃仏教との関係はどういうことだったんですか?
 
藤井:  はい。そのことは、父は、母親のことを「けささん、けささん」と言っていたんです。父が「けささん、けささん」というもんですから、私たち家族もみんな「おばあちゃん」とは言わないで「けささん、けささん」と言っていたんです。けささんは、隠れ念仏(江戸時代薩摩藩は一貫して一向宗(真宗・浄土真宗)を禁止した。信者達が隠れて「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えていたことから「隠れ念仏」と呼ぶ)のところの川辺町(かわなべちよう)(鹿児島県薩摩半島南部の川辺郡に存在した町。現在川辺郡知覧町、揖宿郡頴娃町と合併し南九州市となった)で生まれて、子々孫々の一人であったわけですね。そのけささんは、字を書くこともできないし、読めないし、いわゆる一文不知(いちもんふち)だったんですけども、お寺参りは欠かすことのなかった人で、そこでご住職さまとか布教師さまのおっしゃることをズーッと聞いてこられた方で、父は、私に問わず語りと言ってお仏壇の前で話してくれたことを、今回思い出したんですけれども、「僕は、胎内にいる時から母親のお念仏を聞いて育ったんだよ」と申していまして、そして「生まれて初めて耳にした言葉は、けささんのお念仏だよ」って、申していました。「歩けるようになると、今度はけささんに初めて連れられてお寺参りに行った。初めて行ったのはお寺さまであった」と言われたことを懐かしく今も思い出しています。
 
金光:  そうしますと、親鸞さんが「こういうことをおっしゃった」とか、「こういうことをみんなに伝えたんだ」ということではなくて、日常生活の中でなんか念仏によって喜んで生きている人の、そういう人柄というか、そういうものが小さい子どもの東先生の身体になんとなく染み込んでいる、そういう育てられ方ですね。
 
藤井:  だから全然親鸞聖人がどうとか、そういうお話は全然ほんとになかったです。
 
金光:  親鸞聖人との結び付きがはっきりしたのは、お書きになったものを拝見すると、京都大学に入られてからですね。
 
藤井:  そういうことになります。それで大学に入る時に、一つちょっとエピソードがございまして、父は東京大学に進みたかったんですね。だけど今までけささんは、父のいうことを何でも通してくれていたんですけど、その時ばかりはけささんは、「昇には京都に行ってほしい。親鸞聖人が生まれて、そして法然上人に会われて、そしてお浄土の地であるそういう京都で学んでほしい」。それで母の篤いそういう思いを受けて京都大学へ行くことになる―当時は京都帝国大学ですけど―医学部に行くことになります。そして医学部に入った時に、同じ川辺町から京都大学の医学部に入っていた川俣先生とか、池山栄吉(いけやまえいきち)(明治6年東京に生まれ。ドイツ協会学校第一回卒業。明治31年、宗教法案反対運動に活躍する。明治33-35年、近角常観と共に大谷派本願寺から欧州留学のためドイツに派遣さる。明治36年より社会事業を目指すが挫折、明治38年、第六高等学校教授となる。大正2年、大疑団におち、『歎異抄』により信心開発、常念仏の人となる。大正13年に甲南高等学校に転任。昭和4年、大谷大学教授となる。昭和13年逝去)先生といって、「歎異抄(たんにしよう)の池山」と言われる池山先生にお会いするんですけど、その池山先生が岡山の第六高等学校に勤務されていたときの教え子の花田正夫(はなだまさお)(京都大学哲学科仏教学卒業以後、大連西本願寺別院、名古屋別院、愛知県教護連盟主事名古屋保護観察所保護司などを経て終戦により退職。雑誌『慈光』を主宰:1904-1987)先生にもお会いして、終世厚い法友(ほうゆう)と申しますか、そういう間柄になっていかれ、花田先生の用意くださっていた京都学生親鸞会に入ります。そこで池山先生にお会いして、『歎異抄』を紐解いていくことになっていきます。
 
金光:  あそこには随分いろんな方が集まって、しかも池山先生の、いわば仏教塾みたいな感じで、池山先生の感化を受けた方が多いようですが、それで池山先生に近づかれて、どういう形で『歎異抄』が我が身にとっての大事な本だというのがどういう形で近づくことができたんでしょうか?
 
藤井:  父は全然わからなくて、それで先生のご本を読んだり、講演を度々拝聴しに行くんですけども、先生のところにお伺いして自分のわからないところを解決したいと思いましても、二十歳ぐらいの青年がそこへ行くのも大変なことだったろうと思うんですけども、ある日もう一大決心をして―名刺なんかございませんから、荷札に「京都帝国大学東昇」という荷札を持って、西山の蓮華谷(れんげたに)にあります先生のご自宅を訪ねさしてもらうんですね。その時に最初はお手伝いが出て来られて、初めてのそういう学生なのに「会いましょう」と優しくお部屋に通されたということです。そこで父が「自力と他力というと、なんか自力の方が力強いような気がしますが」とか言って質問するんですけども、先生はその時に「あなたは新派とか歌舞伎を見たことがありますか? 最初は新派の方が入り易いけど、やっぱり後は歌舞伎の方がいいというようになる。他力と自力もそんなものです」と、最初は軽く言われるんですね。だけど、そう言われて「常念仏(じようねんぶつ)の池山」と言われていた先生で、後は何もお話にならなかったと。「なんまんだぶつ、なんまんだぶつ」と言われて。だけども、突然訪問したその父をわざわざ玄関口まで見送ってくださった。そこで先生としての人柄に触れた、というような感じで聞いております。そこで池山先生が六十七歳でしたでしょうか、お亡くなりになられるまで、わずか三年なんですけれども、疑問が起こったら必ず先生のご自宅にお訪ねする。そうすると、先生は全然嫌がらずに、丁寧に丁寧に最後まで導いてくださった。そういう先生だったから、現在の自分がある、と申して、一番最初にお話したけささんと同じように、「人生で母との縁がなければ今の自分はないし、池山先生との折り合いのご縁がなければ現在の自分はない」って申しております。ですから四年間は医学部の勉強よりも、宗教とか哲学に没頭しておりましたけど、専門の方の微生物の方にいくようになりましてからは、研究の方に一生懸命になるんですが、そこで一ミリの一千万分の一という物差しで測るウイルス相手の研究なんですけれども、当時は日本には電子顕微鏡がなかって、ドイツに一台、ベルギーに一台しかなかったので、もう電子顕微鏡がないと自分の研究は進まないということで、じゃ、自分で作ってやろうと一大決心するんですね。文献もまったくありませんし、周りの人たちは、「医者にそんなものが作れるんか」というようなことで、まったく援助がなくって、その当時父は助手にもなっていませんでしたので、無給だったんですね。この話を聞いたけささんが、先祖から受け継いできた田畑を次々と手放して、父に毎月送金をするようになるんですね。当時は現在と違って、このように先祖から受け継いできた財産を売却するということは、清水(きよみず)の舞台から飛び降りるほど勇気がいったと思うんですね。これは新しい道を切り開いていく息子を信じたけささんの決断だったと思うんですね。父は、これも問わず語りですけど、仏壇の前で「けささんは全部売ってもいいよと。やれるところまでやっていきなさい」と言ったというんですね。そういう時は、父は、母の優しい顔が脳裏に浮かんでくるようで、遠くの方を眺めて、それで涙がぽたぽた畳の上に落ちてくるという、そういう父の顔が今も思い出されます。そういうことで足掛け二年を経て電子顕微鏡が完成するんですが、その時に新聞に「祖先伝来の田畑を売って電子顕微鏡ととり組む」と大きく新聞に書かれたようでございます。
 
金光:  『歎異抄』が我が身にとっての大事な本だというのが、どういう形で近づくことができたんでしょう?
 
藤井:  先生は、「『歎異抄』を読むなら命懸けで読みなさい。もう最初から投げ出すようなことだったらもう手に取るな」と言われるぐらいもの凄くその点は厳しかった、とおっしゃっていますね。父はなかなか救われるというところに、心が落ち着くことができなかったんですね。「無慚無愧(むざんむぎ)の極悪人」という言葉がございますけれども、〈そういう人間に自分が入っている、自分がそのような人間である〉というところを、なかなか頂けませんでしたけれども、だんだんに自分自身に弥陀の本願親心が染み通るようになってきて、それで自分の犯した罪を恥じない心と申しますか、自分の罪を他人に対して恥じない心、それはもうほんとの自分自身であった。〈極悪人が自分であったんだなあ〉というところに、父の心が落ち着いていくんですね。で、『歎異抄』の五章に、
 
弥陀(みだ)の五劫(ごこう)思惟(しゆい)の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人(いちにん)がためなりけり。
 
とあります。このお言葉をよく考えておりますと、罪業を身に具えている私―東昇ですが―東昇一人が本願の対象であったんだ、というところに、父が気付いていくんですね。池山先生は、『歎異抄』の第二章で、
 
親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。
 
とございますが、池山先生は、「親鸞におきては、ただ念仏して」という下りにきますと、「池山におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」という具合に、「池山におきては」と、先生は静かな調子で話されますが、「全身念仏の火の玉のようであった」と、父は語っております。この池山先生とのお出会いのご縁のお蔭で、父は『歎異抄』を、頭の歎異抄から、〈はい、はい〉と心の底から頷ける歎異抄としてお育てを頂くようになっていきます。父が、お念仏を申す身となっていったのは、偏に先生のお導きによるものだと話しております。ですから父が、六十一歳の時に、研究所で突然心筋梗塞で倒れて、もう絶対安静、新聞も読めない、ラジオも聞けない、動いてもいけないというような、そういう状態の時に、父は池山先生に教えて頂いたというか、『歎異抄』をご一緒に読ませて頂いた二章とか九章に出てくるお言葉がズッと出てきたというんですよね。最初のうちは、死にたくない。もうなんぼ長く、せめて池山先生がご存命であった年齢までは生きたいとか、母が生きた年齢まで生きたいと思うんですけれども、生きていく道は、生の延長線上に死はあるんだということで、今までそういう死に対しても恐れなくなっていったというのは、やっぱり『歎異抄』のお蔭であると申していますし、だからある方が、父に、「東先生の生涯はどういう生涯でしたか?」と聞かれた時に、「私の生涯を一纏めで言えば、ただ念仏であった」って、こう申するんですね。その時に、質問なさった方が、「自然科学者であるのに、そういうことでよろしいんですか?」っておっしゃいましたけど、父は、「自然科学者である前に、一人の人間であります」って申しましたけれども、そういうこともみな『歎異抄』を池山先生からお話頂く中で、池山先生は本当に最後のほうは、お身体までも悪くなさりながらも、求道者のために力を注いでくださったと伺っておりますが、その中で父はそのような生涯を歩まして頂くことになったということでございます。
 
金光:  それじゃ、今おっしゃった二章を先ず読んで頂けませんでしょうか?
 
藤井: 
親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。
 
金光:  「よき人」というのは、「法然上人」のことですね。
 
藤井:  そうですね。
 
金光:  九章というのは、どういうことであったんでしょうか?
 
藤井:  しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫(ぼんぷ)とおおせられたることなれば、他力の悲願は、かくのごときのわれらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。また浄土へいそぎまいりたきこころのなくて、いささか所労(しよろう)のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり。久遠劫(くおんごう)よりいままで流転(るてん)せる苦悩の旧里(きゆうり)はすてがたく、いまだうまれざる安養(あんよう)の浄土はこいしからずそうろうこと、まことに、よくよく煩悩の興盛(こうじよう)にそうろうにこそ。なごりおしくおもえども、娑婆(しやば)の縁(えん)つきて、ちからなくしておわるときに、かの土へはまいるべきなり。いそぎまいりたきこころなきものを、ことにあわれみたまうなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定(けつじよう)と存じそうらえ。
 
金光:  「凡夫を助けてやろう」というお誓いの教えだけれども、それが自分にかけられた教えだと思っても、やっぱり「死にたくないという気持ちがある」ということを打ち明けられた時のお答えなんですね。
 
藤井:  池山先生は、「師」ということについてもお話なさっておりまして、知識を授けてくれる先生は、世にあちこちたくさんいるけれども、魂の師は世にはそうざらにいるものではありませんよと。魂の先生は一人です。親鸞聖人は法然上人を生涯の師として崇められましたし、法然上人は善導(ぜんどう)大師(中国浄土教(中国浄土宗)の僧である。「称名念仏」を中心とする浄土思想を確立する)を師として崇(あが)められました。父は池山先生に出会うことに導かれて、その先生に顕れている弥陀の本願力に出会ったのです。
 
金光:  こちらにお伺いする前に、ちょっと去年の暮れ私、自分の本の整理などしていましてね、そうしたら昭和五十四年の十月号の『在家仏教』という雑誌に、池山先生が「他力に生かされている」という短い文章を発表なさっているんですね。その最初に池山先生に、「自力と他力」のことをお尋ねになったということですけれども、そこに昭和五十四年の東先生が、他力というものをどうお考えになっていたのか、ということのお答えがあるようでございまして、それを拝見しますと、
 
他力に生かされて生きるということは、心を無にして生きるということです。無念無想に生きるということでもあります。物や事、つまり物事への不必要な執着の皮が剥ぎ取られて、妄念妄想の突き込む隙がないということです
 
ということは、いわば本願他力にお委せしてしまうと、自分というものの出場が、エゴの出場が、場所がなくなってくると。それで如来さんの、いわば御手のままに生かされていくというところが、本当の他力の幸せで、こうなってくると、その自力も他力も超えたところですね。浅原才市(あさはらさいち)(浄土真宗の妙好人のひとり)さんのことも本の中に書いていらっしゃいますけれども、その「自力・他力はないぞ、というところが、本当の他力だ」というようなことをおっしゃっていますし、池山先生もその辺のところを、こう感じながら生きていらっしゃったのかなということで、その同じ文章に、
 
他力道を行くことは、私一人(いちにん)の宿業において、私一人が感じる喜びです。
 
だから「自分の与えられたこの身体、いのちの与えられたところを如何に生かして引き受けて生かしていくか。能力を発揮するかというところが、他力によって生きる人間の喜びだ」というようなことを、その文章の中に書いていらっしゃるんですね。だからそういう今与えられている条件を「宿業(しゆくごう)」という言葉でおっしゃった、そのように先生の言葉を引用されていますけれども、やっぱり私一人の宿業を受けて、そこに宿業に対して与えられている条件を如何に生きるかというところに、他力によって生かされる喜びを感じていらっしゃる。それが科学者の道として進むのもそのうえだし、その根っ子にあるのは、信心の生き方、それが人間東昇という方の全土台と言いますか、しかも科学の方の業績としては有名な話で、私が京都でお会いした頃、国産の電子顕微鏡の第一号を―日本にまだ電子顕微鏡がない頃、ご自分がメーカーと交渉して初めての電子顕微鏡を作られた。それでウイルスの研究をして、ウイルスの研究者として次々に新しい結果を発表されたというようなことも、その頃伺っておりましたけれども、やっぱり娘さんにはそういう科学のうえでの業績とか、そういうことは別におっしゃらなかった?
 
藤井:  あまりにそういうことは話さなかったですね。
 
金光:  しょっちゅう諸外国に行かれて講演なんかなさっていらっしゃったようですが。
 
藤井:  はい。ほとんど家におりません時もありましたし、特に八カ国を三ヶ月ほどかけて廻った時なんかも、私たちはお土産の話とかそういうのはあるんですけど、中身はどうこうということは、
 
金光:  それは外国旅行ではなくて、講演して廻られた?
 
藤井:  そうです。ですので、今回父が出している本を読みまして、あぁ、八カ国行った時のその中身はこうだったのか、ということを、初めて私も知りました。そういうことで父が本の中でいろいろ科学者としては、どういうように生きていかなくてはいけないか、父の考えとか姿勢なんかも表しておりますし、特に今は今年は阪神淡路大震災が起こって二十年になりますし、そしてまた東日本大震災、原発事故の方ももう少しで四年目を迎えます。そういうこともある中で父の科学者としての生き方のところを見ておりますと、四十年前に父が書いていることが、そのまま今の私たちの生き方にも当て嵌まるというか、父の考え方生き方をみなさまにも口幅ったい言い方ですが、知って欲しいなというところもございます。
 
金光:  その点を少し具体的にお話頂けませんか。
 
藤井:  父が申しておりますのは、「自然とか自然界の生きとし生けるもの一切は―森羅万象ですね―人間だけのために、ある、と思ってはいけない。そういう具合に思い上がってはいけませんよと。自然は徹底的に征服されるべきものではありません。人類みんなが力を合わせて、自然と共に生きる方向を選ぶべきではないか」と言っておりまして、「科学技術の発展や進歩は、私たちを幸福にするどころか、科学技術の害毒で根こそぎ幸せが奪い取られるという、そのような状態になっている。そういう時に科学よ、進め進め≠ニ言って進むだけではなくって、時には退いて今の進み方でいいのか≠ニ、一歩留まって自分の足下でも見つめることも必要じゃないか」と、そういうことを言っています。そういう時に父が、自分がちゃんとしっかりとした立ち位置がないことには、濁流の中に溺れていったりしますけれども、父の場合には、揺るぎのない世界、お念仏の道に歩ませて頂くようになっていった。で、生かされているという自覚があることで恐れないという気持ちがある。科学者というものは、人間の問題まで含めて物事を考えていくことが大切じゃないかと。広い視点をもって人間の問題まで含めて物事を考えていくのが必要ではないかという。科学の研究で凄く父がその当時怒っていたのは、科学者の中に明晰な哲学が欠如していると。哲学のない科学技術の独走であると。そういうところに父は注意点を見出しております。それで科学一辺倒、知性一辺倒だったら、物から物へと傾斜するばっかりで、物的欲望というのはどこまでいっても満たされることがありません。なので、人類が滅亡するか否かというのは、人間そのものに関わっているんじゃないかと、そういう感じでもって申しております。
 
金光:  どうもありがとうございました。
 
     これは、平成二十七年二月一日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」で放送されたものである