いのちの発見―宗教と科学の間で―
 
                 仁照寺住職 江 角(えずみ)  弘 道(こうどう)
                 き き て 浅 井  靖 子
 
ナレーター:  今日は、「いのちの発見―宗教と科学の間で―」と題して、島根県出雲市(いずもし)斐川町(ひかわちよう)の仁照寺(じんしようじ)住職江角弘道さんにお話を伺います。江角さんは、禅寺の住職を務める一方、科学者として研究活動を続けてこられました。十年前、娘・真理子(まりこ)さんを交通事故で亡くされ、以後「いのちとは何か」という問いを、科学と宗教、両方の視点から深めてこられました。聞き手は浅井靖子ディレクターです。
 

 
浅井:  今日は、島根県斐川町の仁照寺をお訪ねしているんですけれども、江角さんはこの寺にお生まれになって、科学者としての研究をお続けだったということなんですけれども、
 
江角:  私は、昭和二十年生まれです。私の父は住職でした。両親は寺を継いでほしいとの熱い願いを持っておりました。けれども、私自身、模型飛行機を作ったり、ラジオを弄(いじ)ったりするようなことが大好きな少年でした。国語や社会が苦手で、数学が得意でした。そこで広島大学理学部物理学科に入学致しました。昭和四十年、私が大学三年生の時ですけれども、朝永振一郎(ともながしんいちろう)博士がノーベル物理学賞を受賞されました。それに憧れまして、最初は素粒子物理学を専攻致しました。紙と鉛筆とコンピューターだけで勝負する。理論物理学は難しく、実験もしたいという希望もありましたので、大学院の博士課程一年生の時に―二十四歳の時ですが、専門をプラズマ物理学、実験物理学に変えました。
 
浅井:  そのプラズマというのは、どんなものなんですか?
 
江角:  そうですね。プラズマというのは、物質の状態を示す言葉です。水で分かりますように、水は温度が低い時は、固体状態の氷になっています。温度が上昇すると、液体状態の水になります。さらに温度が上昇すると、気体状態の水蒸気になります。そしてもっともっと温度が上昇すると、水の分子H2Oですね、それがバラバラに分解して、電子とイオンと中性原子の混合状態になってくるんですね。
 
浅井:  ちょっと難しい感じになってきましたけども。
 
江角:  まあ混沌とした難しい状態をプラズマ状態と言っているんですけども。人工衛星なんかの観測で全宇宙を考えますと、99.999パーセントがプラズマ状態であるということがわかっています。つまり宇宙は、ほとんどがプラズマ状態なんですね。地球上では雷などがプラズマ状態でして、またここの蛍光灯の中はプラズマ状態なんです。私は、このプラズマについていろいろ研究してきましたが、最終的には太陽電池のプラズマ状態を利用して作成していました。ところが、平成四年に父が亡くなりまして、私が仁照寺の住職をすることになりました。それを機会に広島の方から故郷の出雲市に帰って、平成七年から島根県立看護短期大学に転職致しました。それが今から十五年前のことです。
 
浅井:  そして大学で教えていらっしゃる時に、十年前ですか、お嬢さまは事故にお遭いになって、それが江角さんの大きな転機となられたということなんですね。
 
江角:  そうですね。忘れもしないです。平成十一年十二月二十六日に、二十歳だった娘真理子が無謀な飲酒運転の車に衝突されて、命を一瞬にして奪われました。その時に三人の同じような学生が亡くなりました。もっと本人は生きて活躍したかっただろうにと思いました。ほんとに私たちは悔しい無念の思いを致しましたが、その時、不思議なことに野口雨情(のぐちうじよう)(詩人、童謡・民謡作詞家。多くの名作を残し、北原白秋、西條八十とともに、童謡界の三大詩人と謳われた:1882-1945)作詞の「シャボン玉」という歌が偶然テレビかなんか私の耳に聞こえてきました。それでその中の二番の「生まれてすぐに壊れて消えた」というフレーズがとっても悲しく聞こえてきたわけですね。
 
浅井:  「シャボン玉飛んだ」というあの歌の二番の
 
シャボン玉消えた
飛ばずに消えた
生まれてすぐに
こわれて消えた
 
江角:  とっても真理子がシャボン玉、真理子の命がシャボン玉の命のように思えたわけですよね。
 
浅井:  それは「生まれてすぐにこわれて消えた」という儚いシャボン玉というのは、お嬢さんの命と重なって思えた。
 
江角:  そうですね。娘を失って以来、「いのちって何だろうか」という、「私たちのいのちはどこから来たのだろうか」という。そして「失われたいのちはどこへ行ったのだろうか」とか、「いのちって、誰のもの何だろうか」とか、いろんな疑問が出てきまして、いのちと向き合う日々が続きます。だからそのために看護短大の研究も「いのちの研究」というような方向に致しました。
 
浅井:  そういう「命」とか「死」ということで申しますと、おそらくそれまでもお寺のご住職でいらっしゃったわけですから、たくさんの死というものとも関わってこられた筈だと思うんですけれども、その辺りは如何だったんでしょうか?
 
江角:  そうですね。それはたくさんの檀家さんの死ということなんですけど、「身内の死」でないわけですね。「第三者の死」というふうな捉え方しかしていなかったんで、「身内の死」とまた違ったような形だったんですね。どちらかというと、道徳的な感じで仏教を捉えていましたんですが。
 
浅井:  それまでは、
 
江角:  ええ。で、それがやはり身内の子が亡くなるということを考えて、悶々としていると、「仏教ってこれはいのちの教えなんだ」ということに、その時に気が付き始めましたですね。そして今までは物理学というのは、物質の質を探求するというふうなことが物理学ですけども、それがいのちとは無関係であると思っていたんですけども、「仏教と物理学が非常に深い関係がある」ということに気が付き始めたんですよね。
 
浅井:  それは物質を探求する物理学というのも、またいのちの世界に繋がっているというか、いのちの世界の探求に繋がっているもの、そういう意味で仏教と物理学が重なっていったということですか?
 
江角:  そうですね。そういうふうなことを、これからちょっと話してみたいと思うんですけども、童謡詩人の金子みすず(大正時代末期から昭和時代初期にかけて活躍した童謡詩人:1903-1930)の詩に「星とたんぽぽ」という童謡詩があったんですけども、ちょっと読んでみますと、
 
「星とたんぽぽ」
青いお空の底深く
海の小石のそのように
夜がくるまで沈んでる
昼のお星は目に見えぬ
見えぬけれどもあるんだよ
見えぬものでもあるんだよ
 
散ってすがれたたんぽぽの
瓦の隙に だぁまって
春のくるまでかくれてる
強いその根は目に見えぬ
見えぬけれどもあるんだよ
見えぬものでもあるんだよ
 
こういう詩なんですけども。
 
浅井:  「見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ」という。
 
江角:  そこのところが非常に重要な点で、繰り返していますですね。私は、大学で三十六年間も物理学を学生たちに教えてきましたけども、娘が亡くなってから後、物理学を講義する時には、この詩を講義の初めに学生たちに紹介してきました。実は物理学の中の概念「物理量」ですね―力とか、温度とか、圧力とか、電気とか、磁気とか、熱とか、電磁波ですね、これ考えてみると、これは直接には眼で見ることができないものなんですよね。それはすべてエネルギーと関係していまして、それは現象として空間に出てくるような形なんですけども、エネルギーというのは眼に見えない存在ですよね。例えば「三十六・五度との体温をここに出してください」と言っても、実体としてその温度を出せないわけです。だけどもあるんですよね。
 
浅井:  それは体温計というものの水銀が上に上がるという形で、私たちにはまあ現象として捉えられるけれども、でも熱そのものを見ているわけではないですね。
 
江角:  水銀柱を見ているわけですね。携帯電話に使う電磁波ですね。これをみなさんほとんどの人が携帯電話使っていますけども、あれは遠くにおる人と瞬時に話せますけども、あの電磁波はこの空間を飛び交っているんですけども、眼に見えないですね。見えないけれどもあるんですよ。金子みすずの童謡で言っていることと同じなんですね。童謡詩の「星とたんぽぽ」では、昼の星は昼は見えないんだけども、夜になると星が見えてきます。携帯電話の電磁波は、見えないけれども、別の携帯電話で受信できて、今度音声として聞こえてきますね。実はいのちを思った時に、これと似たようなことがある、と言います。亡き娘のことを考えてみますと、次のような事実に行き当たりました。それは、私が結婚する前には、娘は世の中のどこにも居なかった。そしてあれは昭和五十四年、二女として生まれてきまして、私たちと二十年間一緒に暮らして、そして死んでいきましたね。だから今はこの世の中にどこにも居ないということですよね。これは昼の星のように、最初に娘のいのちが見えなかったんですよ。そして夜の星のように生まれてきて見えるようになった。そしてまた昼が来て、星が見えなくなってしまった。娘が死んでしまったわけですね。つまりいのちが、何もない「無」です―仏教では、「空」と言っていますけども―「無(空)」から出てきて「実在(色)」となった―仏教では「色」とこういうふうにいうんですけども。次に「実在(色)」から「無(空)」へ還っていった、ということにもなりますよね。あの有名な「般若心経(はんにやしんぎよう)」では、有名な句がありまして、「色即是空(しきそくぜくう) 空即是色(くうそくぜしき)」というのがありますね。これを並べ替えて、「空即是色(くうそくぜしき) 色即是空(しきそくぜくう)」といってすれば、「空から色へ、色から空へ」展開しているように感じられます、もっと本当は深い意味があるかも知れませんけども。つまり亡くなった娘は、「空から来て、また空に還って行った」と、こういうふうになります。だから私たちは、「空から来て、また色になり、そして今度は空に還る」存在ではないでしょうか。そういうふうに思います。だから私たちのいのちは、見える命―色という実在の部分と、やがて空に還る―見えない命の空となっていく。つまりいのちって、「見える命」と「見えない命」の二つがあるのではなかろうかと、こういうふうに考えるようになってきたわけです。で、本を読みまして、その中に解剖学者の三木成夫(みきしげお)(香川県丸亀市出身の解剖学者、発生学者:1925-1987)という先生がいらっしゃいまして、いのちについて、「水と波のたとえ」を使って説明されていらっしゃいました。これは水があって風が吹くと水面に波ができますよね。この水の方を、先ほどの見えない命に相当し、波の一つひとつが見える命に相当する。こんなお話なんですが、これは波の一つひとつが、というのは水から生じてくるわけですね。生じて、ある一つの波の姿をとって、また消えていくんですよね。そんな形で見えない命って、大きな大きな水そのものなんだけれども、その中で風によって生じた私たちの一人ひとりのいのちがあるんだという。こんな話をなさっているんですね。いのちがどうやっていくか。いのちを生じさせる元の大きな力になるようなものですね。これをつまり「見えない命」とおっしゃっている。だから水の大きな働きの中にそんなものが含まれているという。風を縁として、それが生じるんだということですね。で、この満々と湛えた水の部分は「見えない命」に相当するというわけですが、ここは見える命を作ってくるわけですから、親の代―それを私たちのいのちに限ると親から子代々連続して、ずっとおよそ現代まで四十億年の連続で親から子へ、子から孫へ、孫から曾孫へと波状に伝わっていく、そんなものではなかろうか。
 
浅井:  津波のように伝わっていく。連続していく。
 
江角:  連続して波を作り出していく大本(おおもと)みたいなところですね。大本は水があるから波ができるわけで、そこの源としてのいのち、それが見えないいのち。別な言葉で言えば、いのちを連続させていく元になる力みたいな感じですよね。そんなことを言っていらっしゃるんですよね。ちっとこれは非常に示唆的な言葉でして、見える命と見えない命を上手く説明してあるように思いました。
 
浅井:  これは解剖学者である科学者の方のいのちの説明なわけですね。
 
江角:  そうですね。同じようなことを、一遍上人(いつぺんしようにん)という方が、歌で示しておられまして、それはこんな歌です。
 
身を観(かん)ずれば水の泡 命を思えば月の影
 
という歌ですよね。この身、つまりこれは見える命ですよね。それは「水の泡」と書いてありますから、「水の泡のように生死を繰り返している」というふうに読めますよね。「命」この場合は「見えない命」のことをさしていますよね。
 
浅井:  「命を思えば月の影」の「命」ですね。
 
江角:  その命を思うと月の影。この「月の影」というのは、いわゆる英語のシャドー( shadow:影)の意味ではなくって、本来はその影を生ぜしめる光そのものを意味しています。従って「月影」というのは、「月の光」の意味になってくるんですよ。「見えない命」というのは、宇宙にある月とか、太陽というような存在であると。「月の光」という意味で、全宇宙を照らし、私たちを照らし続けているものなんだと、こういう意味でおっしゃっているんですよね。これは非常によく見えるにしろ、見えないにしろ、説明しているように思いました。
 
浅井:  「身を観(かん)ずれば水の泡命を思えば月影」。この月影というのが、皓々と照らしている光のことをさしていると。
 
 
江角:  光の中に、私たちが、見える命が存在しているんだ、ということですね。
 
浅井:  そうすると、大きな見えない命の世界というのは、どういうものなのか。科学と仏教の両方の視点で解明していくと、どのように見えてくるんでしょうか?
 
江角:  そうですね。先ず現代科学、特に現代の宇宙物理学では、宇宙というのは、一三七億年前の大爆発―「ビッグバン(Big Bang)」とこういうふうに言っていますけども、それで生まれたと考えられているんですね。で、ビッグバンを発見を世界に悠久と言われていた宇宙が、始まりのある宇宙になってきたんです。宇宙は、最初はもの凄い大爆発ですが、一千兆度以上という途方もない高温だったんですが、
 
浅井:  一千兆度?―温度ですね。
 
江角:  一千兆度という。今は平均で絶対温度で約三度―摂氏でマイナス二七○度ですね―そこまで冷えている。そういうことがいろんな観測等で確かめられています。だから宇宙の歴史というのは、全体として冷え続ける歴史なんですよね。ご存知のように、高温の蒸気が冷えると、液体の水になりますね。やがて冷えていくと固体の氷になります。宇宙誕生直後にはビッグバンによる巨大なエネルギーを持った光から生まれて、自由に飛び回っていたクオークや電子というようなものが、相互に結び付いて陽子や中性子、さらに原子や分子を生成してきます。その後、水素、ヘリウム、リチウムなど軽い元素ができ、星が形成されて、やがて太陽が形成され、地球が生成し、そして四十億年ぐらい前でしょうか、そこに物質から生命体が形成されてきた。生命体は進化に進化を重ねて、最終的に人類を生んだ―私たちが出てきたわけです。これを思うと、人間の中には、光だったり物質だったり、そして生命体―植物であったり、動物だったりする、いろんなその時のものが全部入っているというのか、そんな見えない命の世界も全部埋蔵されているように思われますよね。それを私は、「霊性」とか、あるいは「仏性」とか、言われるものではないかと、こういうふうに考えています。今、いずれにしても、そこには見えない命として、人間が生存するための基になっていた力みたいなものが、時間を超えてずっと脈々とこちらに流れ続けてきていると言いましょうか、そんなものがあるんですよ。考えてみれば、ほんとに不思議なことですけども、そんななんか大きなエネルギー―物理でいうエネルギーみたいなものなんですが、それがとにかくビッグバンで宇宙誕生以来、脈々と流れ続けて、それをいろんな形で、「仏性」、あるいは「霊性」と言ってみたり、「大いなるいのち」と言ってみたり、いろんな言い方があると思いますよね。
 
浅井:  それじゃ、一人ひとりの命、あるいは一つひとつの生き物のいのちを、そこで取り入れているようなんだけれども、ずっとその人ならその人の中に、光から始まった誕生の歴史がずっと流れている。これが「見えないいのち」として、それぞれを生きることを支えている、というような感じですか?
 
江角:  みんなの中にそれがちゃんと埋め込まれている。それがズッと脈々として続いているというようなところですね。
 
浅井:  そういうふうに考えていかれると、お嬢さんの真理子さんを失った悲しみに端を発した娘の命が、どこへいってしまったのかという、その問いへの答えは、どのように見えてくるんでしょうか?
 
江角:  そうですね。娘の死を考えてみますと、最初娘のことは、親と子という関係でしたよね。亡くなった後―今、居ませんから、今どんなことになっているかというと、新たな関係性が出てきているんですよ。それは見えないいのちとなっているんではなかろうかと思っておりまして、私たち家族をどっかで見守ってくれているというか、亡き娘のことは、忘れることはありませんから、常にそれは考えていて、その時に出会いがあったら、「あ、これは多分娘がこんな出会いをさせてくれたんだろうなあ」というようなことを考えているんですよ。そんな中でも私にとって大きな出会いがありまして、それは山本空外(やまもとくうがい)(明治35年広島市生れ。旧制松山高等学校在学中、山崎弁栄上人の念仏の教えに出会い、以後、専修念仏の生涯を送る。大正15年東京帝国大学文学部哲学科卒業。西洋哲学の研究と自己の宗教体験を踏まえて、一者の哲学を確立す。昭和10年文学博士。広島大学文学部教授として多くの俊秀を育てる傍ら、無二智にたったいのちを生かす生活を唱導。多くのひとびとの帰依を受く。書にすぐれ昭和の三筆と謳われる:1859-1920)という、これは「空外記念館」という、ちょっとローカルな記念館ですので分かり難いかも知れませんけれども。
 
浅井:  島根県にある山本空外さんの足跡を記念するを記念館ですね。
 
江角:  そうですね。この山本空外上人は、もともと広島大学の先生でしたが、原爆に遭われて、それを機に僧侶になられた方なんですけども、原爆に遭った時に、隣にいた学生は亡くなったんだけども、自分は同じ原爆に遭っても生き延びたという。そして二十世紀に、これだけ大きな原爆という悪を作った科学というのは知恵の敗北だ、というふうにお考えになられて、それを無くすためには、つまり平和を作り出すためにはどんな方向でやっていったらいいか、ということを、真剣に考えられまして、ちょっと難しいわけですけども、「無二的人間」(無二的の二とは、わかりやすく言えば、自分と相手。その相手が「人」のときもあれば、「国」のときもあり、「物」「道具」「機械」のときもある。この相手を生かしきっていくのは、自分の心の深さによるほかはない。相手を生かして、自分のはたらきが実ることを『無二的』という。反対に相手を自分勝手にして争い、共倒れになることを極力戒むべき。自分も最善をつくすが、相手も生かし切って、ともに平和なうちに、人間の値打ちのあるような生活を実らし切っていく。それがこれからの世界文化「無二的人間形成」)というふうな形成ということをお考えになったんですね。ちょっとこれは難しい話になってくるんですが、私が、その山本空外上人の話の中で「般若心経」についての講話がございまして、この話が非常に凄いなと思っています。どんなことが書いてあるかと言いますと、「この世のことはすべて御陰様です」というふうなことをおっしゃっているんです。考えてみると、私たちが生きているということは、太陽や空気や水や食物や人やいろんなもののお陰で生かされているということなんですよね。空外上人は、「空とは御陰様のことであって、また無自性―無自性というのは難しい言葉ですが、つまり「無我」とも言いますけれども、「独立した自分というものはない」ということですね。仏教の言葉なんですけれども、またこんなこともおっしゃっていまして、その「無自性」のことなんですが、「この世に人の手柄などというものはないんだ。すべて御陰様でなんだ」と、こういうふうなことをおっしゃって、私は、この「御陰様」という言葉に、ほんとに救われる思いがしたんですね。
 
浅井:  私たちが、今生きているということは、自分だけの力だけではなくて、自分を生かす太陽や空気や水や食物や他の人々や、生きとし生けるもののお陰で生かされているという、そういう相互の関係のことを「御陰様」と、
 
江角:  「御陰様」は、先ほど言ったように、「空」とも言われておりまして、「空」は、先ほどから言っておりますように、要するに「見えないいのちに通ずる」わけですね。「空とは見えない命のことである」と、こういうふうに考えてもいいんですけども。
 
浅井:  先ほどの「見えない命」というのは、時間を超えて脈々と繋がっているいのちのエネルギーのようなものを、見えない一つのいのちって、おっしゃっていたかも思うんですけども、もう一つの面ではお互いに生かし生かされている。
 
江角:  そうですね。「お互いに生かし生かされている―相互依存」と言いましょうか、「共に生きている」と言いましょうか、そういうふうな空間的と言いましょうか、そんな世界を同時に含んだものである、というふうに考えられますよね。
 
浅井:  それはまた見えないいのちは持っている世界というか、意味であると。
 
江角:  そうですね。その世界が、だから時間的な側面、あるいは空間的な側面というか、それ全部含めて見えない命というものが、その中に全部入っている。だから「御陰様」ということを、御陰様ならしめている存在と言いましょうかね、それが見えない命であって、宇宙の摂理と言いましょうか、あるいは宇宙の真理みたいなものじゃないでしょうかね。それは科学の真理を大きく含んだ仏教の真理の世界であるように、私は思っております。
 
浅井:  それは時間的に言えば、光であったり、物質であったり、そして今私たちとしてという人間に結び付いていくという、そういう歴史的な繋がりが脈々とありますよね。「今ここ」というふうに考えると、
 
江角:  生かされているというふうに、お互いがお互いで生かされている、そんな存在で。
 
浅井:  それも見えない命の一つの局面であると。
 
江角:  そうですね。そういうふうなことを端的に「御陰様」というふうにおっしゃって、〈なんるほど、そうだな〉ということを、非常に深く教わったんですね。そんな出会いも、この娘が見えないいのちとなって、私たちにしてくれたのかなと思ってね、非常にその辺のところは何か感謝しているというと変だけども、感謝していますね。
 
浅井:  お嬢様が亡くなったことを縁にして、見えるいのちだけでなく、見えないいのちの世界が見えてきた。
 
江角:  そうですね。
 
浅井:  というふうになると、どういうことを江角さんご自身にもたらして?
 
江角:  一つは、「見えるいのち」というのは、この私たちの肉眼で見るわけですね。ところが「見えないいのち」というのは、心眼、つまり心の眼で見ていく世界なんですね。で、今日ここにお出で頂いたんですけども、とってもいお天気でしたよね。これはわざわざここ島根県の仁照寺まで来て頂くのに都合がいいように、まあ亡き娘がほんとに良い天気にしてくれたんじゃなかろうかと。そんなふうに常日頃から何かというと、亡き子のことを思うんですよ。だから生前それほど話していなかったんですけども、娘が亡くなってから、娘といろんな形で話しているんですね。これは不思議なもんですけども、そんな世界が出てくるんですね。それが眼には見えない命の世界の一つでもあるかと思うんですね。一種の観ずるというんですかね、グッとそんなものがパッと思えてくるそんな世界がありますよね。仏教で、「亡き子は善知識」という言葉があって、「善知識」というのは、先達というか、指導者というか、教えをなされるお方という言い方がありまして、その通りかなと思っていまして、亡くなった当時の悲しさから抜けてきた一つの世界、つまりそれは「亡き子は善知識」といって、亡き子をあがめる世界が出てくるんですよ。それも一つの見えないいのちの世界じゃなかろうかと思うんですね。
 
浅井:  今日はどうもありがとうございました。
 
     これは、平成二十二年二月七日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」で放送されたものである