釈尊の最期
 
                大谷大学名誉教授 吉 元(よしもと)  信 行(しんぎよう)
一九四○年大分県生まれ。大谷大学文学部卒業(仏教学)。大谷大学大学院文学研究科博士課程(仏教学専攻)単位取得。日本学術振興会奨励研究員などを経て、大谷大学文学部教授。
                き き て    金 光  寿 郎
 
ナレーター:  今日は、大谷大学名誉教授吉元信行さんに、「釈尊の最期」というテーマでお話して頂きます。聞き手は金光寿郎さんです。
 

 
金光:  今日は、吉元先生に、ブッダ釈尊の亡くなられる前の最期の旅を記録した『涅槃経』についてお伺いしたいと思ってお邪魔しているわけですが、吉元先生は、京都の大谷大学の先生時代から―というよりも、むしろキリスト教のホスピスに対して、仏教ビハーラが出来上がったその最初のスタートの時から、そちらの方に関係さなっていらっしゃいますし、それからその後も仏教学者の立場からだけではなくて、終末期の患者さんを看取ってこられた看護師さんたちとご一緒に『ブッダ最期の旅』の経典を、何回もお読みになっていらっしゃるということで、そういう立場からお釈迦様の最期の旅を、どういうふうに読まれるようになったか、その辺のところを中心に一、二聞かせて頂ければと思うんですが。
 
吉元:  そうですね。先ほど『涅槃経』というふうにおっしゃいましたけど、『涅槃経』には二種類ありまして、「原始経典の涅槃経」、それから「大乗経典の涅槃経」というのが大きく分けてありますけど、私が取り上げているブッダの最期の旅の『涅槃経』は、原始経典の方の『涅槃経』で、パーリ語で書かれた『マハー・パリニッバーナ・スッタンタ』と申します。その経典が、実は釈尊の最晩年、八十歳になって当時のマガダという国の都「王舎城(おうしやじよう)」というところから最期の旅に、三百キロぐらいの最期の旅に出掛けられる。その道中の様子を事細かく阿難(あなん)尊者が付き添いながら描写していくという、そしてその旅の途中で亡くなる。そのちょうど六ヶ月ぐらいの間なんですけど、その間のことを書いた経典が『ブッダ最期の旅』という中村元(なかむらはじめ)先生が訳しておられます。私は、大谷大学で原始仏教を専攻しまして、そして勿論原始経典をやったわけですけども、その中でもこの最期の旅に一番惹かれたわけであります。それは釈尊の最期の旅の様子が事細かに書かれていることと、その時に説かれた教えがどうも釈尊の最晩年の本音が吐露(とろ)されていると言いましょうかね、途中で病気にもなるし、老いて弱ったということの弱音も吐くし、さらに病気になって血便の出るような病気もするし、水が欲しい、欲しいというところもありますし、亡くなる時まで、その辺が人間釈尊が、細かく描写されている。最も素晴らしいというか、そういうことがきちっと書かれた経典が、この経典で、私は非常にこの経典に惹かれたわけです。
 
金光:  しかもそれで「苦しい、苦しい」「困った、困った」で亡くなられるわけじゃ勿論なくて、
 
吉元:  その度毎に仏弟子たちを、今度逆に労りながら、ご自分も介護されているんですけど、介護されながらも、介護する比丘(びく)たちに労りの言葉、いろいろまた教えをたれて、そういう両方の関係ですね、それが素晴らしい釈尊の生き様が描かれております。
 
金光:  その中で看護師さんなんかと一緒に読まれて、こういうことに自分は感動したというか、そういうところがあったらまた具体的な形でちょっと教えて頂けませんでしょうか。
 
吉元:  そうですね。実は看護師さんたち、お医者さんたちともそうですけども、読むようになった経緯を、最初にお話した方が分かり易いんじゃないかと思うんですが、私は今先ほど言いましたように、原始仏教を大学で専攻し、昭和三十八年(一九六三年)に大学院に入ったんですが、大学院に入ったと同時に更生保護施設と言いまして、そういう犯罪者の施設で仕事をしながら大学院に行ったという、そういうことがありまして、ちょうどそこで私は、仏教と社会福祉の問題に直面したわけで、まさにそういう犯罪前歴者という社会福祉の谷間にある人たちに、この仏教が必要であるということに気が付いて、特にそこで私は、仏教と社会福祉に興味を持ったわけです。そういう論文なんかも書いたりしていたんですけども、ちょうどこれは一九八五年ですか、田宮仁(たみやまさし)先生という淑徳(しゆくとく)大学の出身で、仏教大学の社会事業研究所に勤めておりました。その先生が私のところの研究室に来まして、そして「仏教のホスピスを作りたいけど、どういう名前にしたらいいだろうか」と、こういう相談に来ましたんで、一緒に考えて、そこで「ビハーラにしよう」と。「ビハーラ」は、「精舎(しようじや)」いわゆる寺院・僧院という意味なんですけど、「安らぎの場所、憩いの場所」というような意味もありますし、「ビハーラにしよう」ということになりまして、それで田宮先生が一九八五年にこのビハーラを提唱して―実際文章として提唱したのは一九八六年ですけども―そのすぐ直後に「京都ビハーラの会」という会を田宮先生が作りまして、私もそのメンバーになり、そこに看護師さん、看護短大の先生とか、心理学者とか、そういうその看護関係者と勉強する機会をもったわけです。何をどういうふうにビハーラの理論を構築するに当たって、どういう勉強しようかと、そういう相談を受けましたんで、私は先ず「これは釈尊のターミナルステージを記録した経典である『大パリニッバーナ経(マハー・パリニッバーナ・スッタンタ)』が一番良いと。中村先生の訳で読もうじゃないか」と、こういうことでその京都ビハーラの会で仏教大学の四条センターで月二回ぐらいやりました。かなり度重なる機会でしたけど、輪読会をやりました。その時に私がビックリしたのは、釈尊の最期の旅という、私が専門で読んでいた読み方と、看護師さん―その当時はまだ看護婦でしたけど―看護師さんそういう人たちとの目の付け所が全然違う。そういうところ見比べて、あれっ!と。私は、今まで専門書として読んでいたその経典が、なんとこれはさっき言いましたように、「釈尊のターミナルステージの記録である」という読み方ができるということに気が付き、そしてまさにこれは釈尊に対するターミナルケアの記録であり、また逆に釈尊が周りのターミナルケア―病気になったりした時に看護されながら、周りの比丘たちや在家信者たちにまたいろいろ説法している。なんかそういう素晴らしい経典であるということに気が付いたんですけどね。で、この「ターミナルステージ」ということを、ちょっと申し上げておいた方がいいと思うんです。というのは、いわゆる現代医学の方で、「ターミナルステージ」という言葉が使われますけども、これはいろんな説もあるけども、普通「前期、中期、後期、末期」という四つに、いわゆる癌末期の患者さん辺りは、後で分けるんですね。その「前期」が、大体亡くなる六ヶ月前から三ヶ月ぐらいまでを「前期」と言い、それから亡くなる三ヶ月前から―これは逆算してですけどね―三ヶ月前から一、二週間前までを「中期」、そして一、二週間前から二、三日前までを「後期」という。そして二、三日前から亡くなるまでを「末期」という。そういう分け方を普通するんですね。それでちょうど四つの時期に、ターミナルステージとしては、お医者さんや看護師さん辺りは、その四つの時期に同じぐらいの力が、どう言いましょうか、だんだん圧縮されてくるんですけどね、一番最期の末期は、特にこの二、三日に力を傾けて、その患者さんに対応しなければならない。前期の方はまだそんなにたくさん異常的な力を傾けなくていいわけです。というような、そういう大体四つの時期に、同じくらいの力が振り向けられる。釈尊も、私は、これ釈尊の六ヶ月ぐらいの旅で、その旅の出発の頃が、ちょうど前期に当たると思うんですけど、それは仏教教団が滅びないための「七つの教え」を説いてから出発するんで、私がいなくても、仏教教団が繁栄するための教え、これを「七不退法(しちふたいほう)」というんですけど、その教えを説いた後に旅に出るんです。だから私は、この六ヶ月前に釈尊は、「自分はもうあと命が長くない」ということを予知していた、とこういうふうに思います。だから私は釈尊のターミナルステージは、この出発の時、六ヶ月ぐらい前であろうと。そういうふうにして、今度この経典をターミナルステージとして考えると、ちょうど釈尊の場合は、亡くなる六ヶ月前から三ヶ月前までが「前期」で、三ヶ月前から―釈尊の場合は、二、三日前になるんです「中期」が―二、三日前までが「中期」で、そして「後期」は、二、三日前から一日前ですね。そして「末期」が、最後の一日と。どうもそういうふうに、ちょっと普通のターミナルステージと違うんですけども、その経典を見ると、ちょうど分量が、ちょっと前期、中期が長いんですけども、やっぱり日にちも長いですから。けども、大体「前期、中期、後期、末期」というふうに、で、末期の一日がもの凄く長いんです、この経典が。そのように釈尊のターミナルステージという捉え方が先ずできます。
 
金光:  私なんか拝見すると、病気がだんだん悪くなって、その旅で生涯を終わられるというのをわかって読むもんですからね、「ああ、そうか。だんだん悪くなられたんだなあ」という程度の読み方でいくわけですけれども、やっぱり実際患者さんが弱っていかれるのを見ている看護師さんの読み方というのは、またその辺がご体験の中から感じられる言葉も当然出てくるわけでございましょうね。
 
吉元:  特に感じたのは、釈尊が、ヴェーサーリーというところで安居(あんご)に入るんです。ちょうど三ヶ月ほどしてからですね。
 
金光:  割合お好きなところだったようですね。
 
吉元:  「ヴェーサーリーは楽しい。ウデーナ霊樹の地は楽しい」とか、そういう大好きなところで、知り合いも多かったんです。そのヴェーサーリーで、ちょうど三ヶ月ぐらいになるんですけどね。その時にまた病気になるんです、三ヶ月目に。その病気を克服した時に、「今から三ヶ月後に、私は入滅するであろう」と、そういうことを予告するところがあるんですね。それはまあ悪魔が出て来て―悪魔というのは死魔ですね―死を意味する悪魔だと思うんですが―悪魔が出て来て、「もういい加減に入滅しなさい」と。その時に釈尊は「私は三ヶ月後に入滅するであろう」と。その言う前が面白いんですよ。さっきおっしゃった「ヴェーサーリーは楽しい、ウデーナー霊樹の地は楽しい」こう楽しさを連発する、そういう時期が、実は看護師さんらが扱っている患者さんたちに、ちょうど後で考えて見ると、「亡くなる三ヶ月ぐらい前に、非常に身体が快方に迎え、その現実を賛美するそういう時がありますと。釈尊もおそらくそういう時ではなかったんではなかろうか」と、こういうことを言うところがありますね。
 
金光:  実際に終末期の患者さんに何人も会って、看護なさっていると、生きた普通の人も、そういう時期があるという裏付けで、もう一度読み直されるわけですね。
 
吉元:  そうですね。
 
金光:  それはやっぱり学生たちを教えておられる先生は、そういうことに気が付いていらっしゃらない?
 
吉元:  三ヶ月って、何のことかなと思ったんですけども、実際に釈尊がその三ヶ月前にそういう時があったんであろうと。ちょうどヴェーサーリーという場所だったんですね。
 
金光:  それでヴェーサーリーへ行った頃は、「前期」ということでございますね。
 
吉元:  前期の終わりですね。
 
金光:  「ここはけっこうでいいところだ、いいところだ」とおっしゃるのは前期の終わりであると。
 
吉元:  前期の終わりで、前期と中期のちょうど入れ替わるところなんですね。それがちょうどヴェーサーリーが三ヶ月前の時なんです。
 
金光:  で、中期に入ったということは、体調も少し変わってきたということですね。
 
吉元:  ええ。その時に、中期の始まりという時に、病気になるんですね。死ぬような病気になる。で、阿難尊者が狼狽えるほどの病気に―痛い病気ですね。何かどっか痛む。もの凄く苦痛に苛まれる、そういう時期。それを釈尊は、「命行(みようぎよう)(ジービタ・サンカーラ)」いのちの行(ぎよう)という、そういうエネルギー(気力)で克服致します。それで命行を留めるというふうにもいうんですけどね。その留めた後に、実はちょっと弱音を吐くような説法をするんですけど、そこのところを読んでみますと、
 
さて、尊師が雨安居(うあんご)に入られたとき、恐ろしい病いが生じ、死ぬほどの激痛が起こった。しかし、尊師は心に念じてよく気をつけて、悩まされることなく、苦痛を堪え忍んだ。
そこで、尊師は元気を出してこの病苦をはね返して、生命の衝動(命行)を留めていらっしゃった。
すると、尊師の病苦は治まった。
 
こういう。それで病気を克服するんです。ところがその直後なんですけども、阿難が心配して、釈尊の病気を大変心配したと。「わたしは、身体がこわばっておろおろしました」と、こういうふうに告白するんですけど、その阿難尊者に次のような説法を致します。
 
阿難よ、わたしは老い朽ち齢(よわい)をかさね老衰し、人生の旅路を通り過ぎ、老齢に達した。わが齢は八十になった―八十で亡くなったというのは、ここでわかるんですけどね―譬えば古ぼけた車が革紐の助けによってやっと動いて行くように、恐らくわたし(如来)の身体も革紐の助けによってもっているのだ。
しかし阿難よ、如来があらゆる思惟の対象を心に留めることなく、一部の感受作用を滅し、思惟の対象のない精神の統一に達して住する時に、阿難よ、その時如来の身体は安穏となる。
 
如来というのは原始仏典では、釈尊自身のことをご自分で「如来」と言っております。それでこの老境に達したことを言った後、この後ちょうど老いの克服の道ですね。要するに精神統一です。「あらゆる思惟の対象を心に留めることなく」というふうに言いますから、精神集中によって、この自分の老いを克服する。こういうことを説きます。この時かなり弱っていたと思います。
 
金光:  有名な「牛車のたとえ」で、革紐でやっと繋がっているって、自分の身体はそうだというのは、弱音としては相当なもんですものね。
 
吉元:  そうですね。
 
金光:  しかもそれを克服されるわけですね、その時には。
 
吉元:  それは一部の感受作用と、これ多分老いたいろんなことによって、いろんなイメージをありますね。いろんなイメージが湧きまして、それを精神統一によって退けて、そして「精神統一によって自己を住する時に、この私の身体は安穏となる」。こういうふうにこれはやっぱり老いの克服の道の一つだと。
 
金光:  そこからは、その後また旅に出られるわけですか?
 
吉元:  ところが、そこに有名な教えが説かれているんですね。その今いう「思惟の対象のない精神統一に達して住するにはどうしたらいいか」。
 
金光:  それが聞きたいですわね。
 
吉元:  それが実は、「自灯明法灯明」という教えなんです。
 
金光:  自らを灯火とし、法を灯火―法を頼りにすると。ここに出てくるんですか。
 
吉元:  はい。だからこれは重要な「自灯明の教え」というのは、私は、「老いの克服の教えである」と、こういうふうに捉えてもいいと思うんです。そういう場所に出てきます。ただ原始経典は「灯明」でなくて、「島」という、
 
金光:  なんか原語だと両方の意味があるんだそうですね。
 
吉元:  原語では「ディーパ」という言葉で、「島」と「灯明」という二つの意味もある。これは漢訳では「灯明」というふうに訳されているんですが、
 
金光:  「自灯明」「法灯明」の漢訳の言葉が、わりに一般に知られているから。
 
吉元:  それは日本に伝わってきましたから。「島」も「灯明」も、要するに「頼りになるものである」という意味です。
 
金光:  ニュースなどを見ますと、ガンジス川は雨期になると、酷い大海になる中に島がぽこんと。
 
吉元:  「島」といっても厳密には「島」よりは、「洲」の方が正確な訳し方です。この「洲」というのはいわゆるガンジス河などの大きな河の中にある「中洲」のことで、大洪水でも決して水没することのないところ、それが「洲(ディーパ)」なんです。中洲は頼りになるところなんですね。
 
金光:  だから喩えとしていうと、人間がいろんな欲望に流されている中で、流されないで済む場所という。それが法であり、自分であるという。そこのところで自分をしっかりした生き方ができるという、そういう実践の方法まで説いていらっしゃるわけですね。
 
吉元:  私が、インドにも十回以上行きましたけども、あのガンジス川を渡るちょうどパトナ(往時のパータリプトラ)というところで八キロぐらいあるんですけどね。その間に中洲があります。中洲には椰子の木が生え、農家があり、もう人が住んでいるんですよ。ところが雨期に行きますと、何にもないんです。もうごうごうと水が流れていると。これは僕は、インドにしょっちゅう行っている人から聞いた話ですけど、村に住んでいる人は、雨期になるとパトナの駅前で路上生活をする。そこで荷物担ぎしたり、そして乾期になるとまた戻って来て、そうしたらここに肥えた土が待っている。そこで農業する、そういうことなんですけどね。それども沈まない場所があるんですね。そこが頼りになるところという。その「自灯明の教え」というのが、原始経典ではどうなっているかと言いますと、
 
それ故に、この世で自らを島とし、自らをたより(帰依処)とし、他人をたより(帰依処)とせず、法を島とし、法をよりどころ(帰依処)として、他のものをよりどころ(帰依処)とせずにあれ。
他のものをよりどころとしないでいる人々がいるならば、かれらはわが修行僧として最高の境地にあるであろう。
 
こういうことをいうんです。これは「主体性を持ちなさい」ということですね。ただ主体性も、必ず自らを島とし、自らを帰依処とし、他人を帰依処とせず、
 
次に、
 
法を島とし、法を帰依処とし、他のものを帰依処とせず、
 
だから「法に基づいた自ら」ということですから、必ずしもこれは「自力の教え」ということではなくて、要するに「法に基づいた主体性を持ちなさい」と。それはさっき言った、「思惟の対象のない精神の統一に達して住する、その生き方」を説いているので、非常にここは先ほどの老いの告白と連動した教えなんですね。その後です、
 
ヴェーサーリーは楽しい。ウデーナー霊樹の地は楽しい。ゴータマカ霊樹の地は楽しい。七つのマンゴーの霊樹の地は楽しい。バフプッタ霊樹の地は楽しい。サーランダダ霊樹の地は楽しい。チャーバーラ霊樹の地は楽しい。」
 
そういう霊樹というのは、「チェーティヤ」と言いまして、鎮守の森のような場所です。そういう釈尊がいつも過ごされたそういう場所が楽しかったと、こういう連発するんです。
 
金光:  でも、それでそういう予告をなさった後、また旅に出られるわけですね。
 
吉元:  出ます。その後の旅が、死の予告を致しますね、それで今度釈尊は、
 
わが齢は熟した。
我が余命はいくばくもない。
汝らを捨てて、わたし行くであろう。
わたしは自己に帰依するこれをなしとげた。
 
さっきの「自灯明の教え」ですけど、それを成し遂げた。
 
汝ら修行僧たち(比丘ら)は、怠ることなく、よく気をつけて、
よく戒めをたもて。
その思いをよく定め統一して、おのが心をしっかりまもれかし(まもられよ)。
この教説と戒律(法と律)とにつとめはげむ人は、生まれをくりかえす輪廻をすてて(生の輪廻を追って)、苦しみも終滅するであろう」と。
 
自分は寿命は限りがあるけれども、しかしどうか気を付けて頑張れという説法をして、ヴェーサーリーを後にするわけです。いろいろあるんですけどね、下痢をしながら、
 
尊師は言われた。「さあ、阿難よ、われらはクシナーラーに赴こう」と。
「さあ、阿難よ。お前はわたしのために外衣を四つ折りに敷いてくれ。わたしは疲れた。わたしは坐りたい。」
「さあ、阿難よ。わたしに水をもって来てくれ。わたしは、のどが渇いている。わたしは飲みたいのだ。」
 
脱水症状ですね。
 
金光:  酷い下痢が続くと脱水するでしょうから。
 
吉元:  その時いろいろあったんですけど、結局水を飲んで、さらに先を急ぐ。その途中にまたカクッター川(現在のガギ川:川幅二十メートルほど)という川があって、その川で沐浴をする。熱があったようで、熱の出る下痢ですね。カクッター川の水で熱を冷まし、その水を飲んで、そしてさらに先に行く。これ以上動けないというところに、サーラの林があって、二本のサーラの木(沙羅双樹)の間に、北を枕に横になる。それ以降もう動けないわけですね。だからこれが私は「危篤」というふうに言うんですけどね。動けなくなる。けども、説法だけはする。これは凄いと思います。ところが最後に、阿難が泣き出すんですね。もう釈尊が亡くなるという。それで戸の横木に寄りかかって号泣した、という本に書いています。「ああ、わたしは、まだこれからまなばねばならなぬ者であり、まだ為すべきことがある、ところが、わたしを憐れんでくださるわが師はお亡くなりになるだろう、と思って、阿難が号泣するんです。それに対して、
 
「やめよ、阿難よ。悲しむな。嘆くな。阿難よ。わたしは、あらかじめこのように説いたではないか、―すべての愛するもの・好むものからも別れ(好ましい者から別れ)、離れ、異なるに至るということを(異なった存在になるということを)。
 
阿難を慰め、その後にいろいろあるんですけど、阿難を褒めるところがあるんですね。「阿難が説法すると、みんな楽しくなる。阿難がいるだけでもみんな楽しくなる。阿難というのは、そんな素晴らしいお弟子なんだよ」と、こういうふうに阿難を褒め讃えるところがあるんです。だから釈尊は、阿難を叱ったこともあるし、今のようにもう褒め讃えることもあったと、そういうところがありますですね。
 
金光:  そうやって伺っていると、途中随分省略して頂いたわけですけれども、一つひとつのシーンがもっている意味というのは、表面的なところだけではわからない。その時その時でやっぱり人生のいろんな場面に遭遇している人が読むと、その人の遭遇した場面から受け取れる新しい意味みたいなものも感じることができる経典であるということが言える気がしますね。
 
吉元:  そうです。ただ平面的に読んでいるだけではなくて、釈尊を人間として捉えて、またこの経典は―普通経典というのは、教えを伝えるためのものですから、まさかターミナルステージの記録だと思って、経典編纂者は編集していませんから。でもそういう看護師さんあたりと一緒に読みながら、そういう人間釈尊としての読み方をしていくと、で、このターミナルステージの記録として読んでいくと、今までに見えなかったところが見えてくると、そういう読み方ができますね、この経典は。
 
金光:  勿論そういう読み方も含まれているわけですけれども、同時に仏教の大事な教えが随分圧縮された形で最期の最晩年に、ちゃんと述べられているということですから、何回も何回も読み返すと、またそれなりの味わいを感じることができる経典であるというふうに伺いました。どうも有り難うございました。
 
     これは、平成二十二年二月二十一日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」で放送されたものである