道元禅師は心をどう見たか
 
下関市功山寺住職、京都大学名誉教授 有 福(ありふく)  孝 岳(こうがく)
一九三九年、山口県生まれ、京都大学文学部哲学科卒、同大学院文学研究科哲学専攻、博士課程修了。奈良教育大学助教授、名古屋大学助教授、京大教養部教授を経て、総合人間学部教授。一九九二年「カントの超越論的主体性の哲学」で東大文学博士。二○○三年定年退官、名誉教授、東亜大学客員教授。
き き て             金 光  寿 郎
 
ナレーター:  今日は、下関市功山寺(こうざんじ)住職で、京都大学名誉教授の有福孝岳さんに、「道元禅師は心をどう見たか」というテーマでお話頂きます。聞き手は金光寿郎ディレクターです。
 

 
金光:  今日は、道元禅師が、人間の心をどういうふうに見ていらっしゃったのかということを中心にお伺いしたいと思うんですけれども、私、以前『正法眼蔵』というあの難しい本を初めて読んだ時にビックリしたのは、「仏道をならふといふは自己をならふなり」自己を習うというのが仏道だ、とおっしゃっている後に、「自己をならふといふは自己をわするるなり」というんで、これビックリして、「あれ、自己を忘れてどういうことになるのか」と思ったんですが、その辺は先生、どういうふうに考えたらよろしんでしょうか?
 
有福:  「仏道を習うというは自己を習う」これは禅宗―仏教も「本来の自己を究める」とか、「己事究明(こじきゆうめい)」とか申しまして、それは素直に受け入れられる文章ですけども、次に「自己を習うというのは自己を忘るるなり」という、これは私たちが単純に「自己、自己」というても、大概はエゴイスティックな自己を持っていますので、「自己を否定する」という意味が、この「忘るるなり」ということで、道元禅師の弟子である懐弉(えじよう)禅師が、道元禅師の語録を記した『正法眼蔵随聞記(しようぼうげんぞうずいもんき)』の中で、「己見(こけん)」己(おのれ)の見解をやめよとか、「我見」とか、そういうふうにエゴイズムにとらわれた自己の思いを脱却せよ、ということが「自己を忘るるなり」ということですね。そういうふうにとれば、「自己を忘るる」というのは、絶えず人間の人生というものは、人間形成というのも、即ち自己形成というのも、そんな好きなことばっかりやっておったら伸びていかん。やっぱり嫌いなことでも一生懸命頑張って―「勉強」というのは、「強いて勉(つと)める」と書いてあるから、やっぱり自分が今以上の自分に向上していこうと思ったら、ある意味で「自己否定」自己を忘れて、別の次元の自己に上がっていくというか、次元を変えるというか、そういうことが仏道修行に限らず、どういう世界でもあるんじゃないかと思いますけどね。そこが「自己を忘るる」の深い意味ですよ。
 
金光:  現代だと、「長所を伸ばせ」ということで、本人が好きなことをできるだけやらせたらスクスクと人間伸びるみたいな、そういう考えが意外に蔓延しているような気もするんですけれども、それだと「自分の思いの枠の中でしか考えられない、行動できない」となると、一定限度が最初からあるようなことになるわけですから、それを越えた世界は、今おっしゃったように、我執を捨てて自己を忘るる世界に行かないと、もう一つ飛躍はできない、とおっしゃっているわけですね。
 
有福:  そういうことですよ。自分の好きなことをやるということだけでも、そう簡単には伸びていかないと思うんですね。必ず自己否定の局面がある、自己の向上のためには、そういうことでございますね。
 
金光:  じゃ、その時に、否定して、次にどういう方向へ行けばいいということなんでしょうか?
 
有福:  「仏道をならふといふは自己をならふなり、自己をならふといふは自己をわするるなり」、その次の文章は、「自己をわするるというは万法(まんぼう)に証せられるなり」と書いていますけども、この「万法」万(よろず)の法というのは、なかなか漠然としていますが、私はこのように考えています。私たちは生きるということも、あるいは学問をやっても、何やっても、何らかの法則、何らかの原理、何らかの規則、これに従って生きていかなければ、あるいは行動していかなければ、考えていかざるを得ない。そういう、とにかく特定の「これだ」ということではないけれども、とにかく守るべき規則、従うべき規則と、それに従わなければ人間そのものが生きていけないという、そういう人間の依るべき法則。そしてそれだけではなく、仏教ですから、万法というのは、自然界のあらゆる法則も含んだ意味での万法ですね。だから漠然としていると言えば、漠然としているんだけども、しかし生きていくためには、考えていくためには、必ず原理原則に従って行動せざるを得ない、考えていかなければいけない、と思いますね。要するに普遍的真理というものに順わなければ上手くいかないということがあると思う。これを「万法」と言われる。中国人だったら「天」だとか、「道」だとか、これだって漠然としていますけども、普遍的な真理概念だと思いますね。それを仏教というのは、「ダルマ(法)」と。すべてのダルマを「万法」と言ったわけです。私は、西洋哲学をやっているから、もっと広げて申しますと、ギリシャ人の最高の価値原理は、「エロース(「真・善・美」「地位・名誉」「富」「体力と容貌」などに向かう人間の本来の動き)」ですが、インド人は「ダルマ(法)」ですね。中国人は「道」でしょう。こういう中の一つが「万法」ですよ。それぐらい重要な概念でありますね。
 
金光:  そうしますと、私なりにこういうことも含まれるのかと思うのは、例えば人間は、お腹が空くと食べる。但し現代の人は、食べ過ぎてメタボとか、如何に痩せるかというのが非常に流行(はやり)ですけれども、これは要するに食欲に委せて食べ過ぎるというのは、正しい食事の法に合っていないと。
 
有福:  そういうことですね。
 
金光:  だからそれは控えないとだめだ。それに比べて禅寺の雲水さんの食事というのはお粥とか非常に質素なもので、沢庵とお粥ぐらいで、それでしかも何年も過ごして修行するということは、食欲よりもむしろ集中して努力する方向が別にあるということなんでしょうか?
 
金光:  私はそういう場合、特に仏教のもう一つ重要な概念―「中道の概念」があるんです。つまりこれは中道をほんとに行こうと思ったら、『般若心経』で「摩訶般若(まかはんにや)」大きな智慧というのがあるけど、大体中道を初めて哲学的に根拠付けたのがナーガールジュナ―龍樹菩薩が『中論』という本を書いていますね。「中道」を行くためには、「色即是空」の「空」というのがわからないといけない。執着心があったら、中道を行けません。その場合、中道ということをよく間違うのが、「いい加減こと、中途半端なことが中道だ」と思っているけども、そうじゃなくて、例えば食べる量でも各自めいめいにとって適切な量があるんですね。これが本当の「中道」です。「それしかない」というとこが。それでそういう知恵も必要ですね。『般若心経』の「摩訶般若」大きな智慧のほんとの意味は、実践しようと思ったら中道でいくと。そこが中途半端やいい加減じゃいけませんよ。だからほんとの中道は、昔からヨーロッパでも「黄金の中道」と言っています。一番の黄金だと。黄金の中道がベストであると。中道と同じ概念でギリシャ哲学者のアリストテレスは「中庸(ちゆうよう)」と言っている。それから中国人の書物の中に『中庸』というのがあります。仏教は、「中庸」と言わず「中道」と言いますね。そういう知恵も必要なんじゃないでしょうかね。
 
金光:  それで「万法に証せられる」ということは、そういう「正しい適切な道」を知りなさい、それに従っていきなさい、ということをおっしゃっているわけですね。
 
有福:  そういうふうに理解していけば、間違いないんじゃないですか。
 
金光:  ただ現実に日々いろんな現象が、私たちの周りには渦巻いているわけですけれども、その中で「万法に証せられる道を選ぶ」というのは、これはなかなか難しゅうございましょうね。
 
有福:  そうですね。私らは、道元禅師の門下生だから坐禅をやっておりますけどね。坐禅というのは、やっぱり中道の一つの実践で、普通私たちは、なんらかの地位を得て、金があるとかないとか、そういう価を付けていますよね、この世界は。だけど、私は、「いつもX軸とY軸の交点のゼロのところに返る練習だ」と。そうすると真っ新な気持ちになって、毎回再出発すると。そういう気持ちでいけば、もし間違っておったら原点に返る。坐禅は原点に返る練習をやっている。ゼロからの出発だ。ゼロというのは、ゼロと思うけども、無限大に活躍できる、ということですね。坐禅は、そういう実践というものを毎日やっていますんで、そういうネジを巻き直しながらやっている。間違えるのは、人間だったら当たり前のことですからね。やっぱりそういう確かめるということは必要ですね。
 
金光:  そういう意味では、「空」空っぽと書きますけども、坐禅の場合の中心にあるのは、何か考えるんじゃなくて、要するに空っぽになって、新しい日々、時々刻々、ゼロのところからスタートできる態勢を、いわば練習していると思ってもいいわけでしょうね。
 
有福:  先ず原点からの再出発。
 
金光:  そうすると、スタートであり、どこでも、どんな時でも、その姿勢で生きていけば、仏さんの世界と繋がりますよ、ということになるわけでしょうか。
 
有福:  例えばお釈迦さんが悟りを開かれて一番初めに説かれた「八正道(はつしようどう)」八つの正しい道があります。
 
一、正見(しようけん)―正しい見解、人生観、世界観。
二、正思(しようし)―正しい思惟(しい)、意欲。
三、正語(しようご)―正しいことば。
四、正業(しようごう)―正しい行い、責任負担、主体的行為。
五、正命(しようみよう)―正しい生活。
六、正精進(しようしようじん)―正しい努力、修養。
七、正念(しようねん)―正しい気遣い、思慮。
八、正定(しようじよう)―正しい精神統一、集注、禅定(ぜんじよう)
 
敢えて「正」正しい、と書いてあるんですね。
 
金光:  「正見」正しい見解であり、「正思」正しく思うであり、「正語」正しい言葉であり、全部「正しい」が付いていますね。
 
有福:  「正」が付いていますね。非常に良いと思いますけどね。
 
金光:  それが結局「中」ということと同じことでしょうね。
 
有福:  「中道」と「正道」と。これがまた「王道」ですよ。私はそう定義しています。
 
金光:  それが「正」という字が付いているということは、なかなかそこへ「中道」の「中」のところで、「八正道」の一番最初は、「正しく見る」という言葉ですけども、自分の都合の眼鏡で見ると、「正しく見ていない」ということになるわけですね。
 
有福:  そういうことがしばしばあるから、絶えず原点に返って反省し直すというか、我々人間のできることは、立ち返って反復して、また再出発する、これしかないと思う。再生ですよ、人生の再生ですよ。やっぱりそういう気持ちを持っておくということですけどね。自惚れず、あまり僻まず、坐禅の姿勢で、これを正道であり、中道であるという、そういうことを思いながら生きていくというかね。
 
金光:  私、時々考えるんですけどね、人間誰しもそうだろうと思うんですけれども、自分でそういうふうになろうと思って設計したわけじゃないのに、こういう身体として生まれてきて、何か見るとそれについて反応するように出来ていますね。
 
有福:  そうですね。
 
金光:  だから、そこには無意識のうちに、子どものころからの見る我執というか、自分の都合のいい目でしか見られないような成長の仕方をしているということに、ある時気が付くと、今おっしゃった、そういう見方をとにかく一度止めて、ゼロのところからもう一度自分という存在を見直すと。自分が見直せてくると、周囲の景色も多少変わって、色眼鏡が取れると、いろんなものがすっきりよく見えるということに、また世界が広くなるという点がありますでしょうね。
 
有福:  それは必ず開けてきますね。今まで「井の中の蛙大海を知らず」のようなところが誰にもあると思うんですよ、癖がありますから。土管でも泥が詰まったり、腸の中も頭もいろいろ溜まっていますよ。それがいつも時々、坐禅のような原点に返る練習をしていると、それが割と垢に染まらずにいけるんじゃないかと思うんです。
 
金光:  そういう詰まっているものが流されていく、そういう大掃除の意味もあるわけですね。
 
有福:  そうですね。大掃除ですよ。
 
金光:  それでもう一つ気になるのは、『正法眼蔵』の中に、心を「心不可得(しんふかとく)」というのがありますね。心は掴むことができないというか、でも心はやっぱりあるじゃないですか。
 
有福:  そうですね。
 
金光:  それなのに、「心不可得」というのは、これは何をおっしゃろうとしているのかなという気がするんですけれども。
 
有福:  心というものは、眼で見ることも耳で聞くこともできない。これは形がない。掴めない。無いように見えるけども、不可得に見える。感覚的対象にはならないもの、それにもかかわらず、そのような感覚を働かせ、思惟作用の主体となるものが「心」と呼ばれている。心は見えないけども、いつも働いている。要するに、働きのみがあるということね。それで『金剛経』の中に「過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得」ということが出てきている。
 
金光:  徳山というお坊さんと老婆との問答で有名ですね。
 
有福:  道元禅師はこぴっどく徳山をやっつけていますね。「心不可得」というのは、心というものは、働きだけあって、結果だけしかないから、不可得ですけれども、同時に「不可得」ということは、あんまりそういうものを掴まえたり、執着したりすることから解き放されるという意味ですね。例えば達磨さんが、二祖慧可との問答が有名である。慧可が達磨大師に、「私は、心が未だ不安であります。どうか私のために安心させてください。」と。すると達磨は、「それではおまえさんの心をここへ持ってきなさい。安心させてあげるから。」と答えました。 二祖は、「その心を探しているのですが、とんと見つかりません。」と言いました。 達磨は「さあ、もうちゃんと安心させてあげたよ。」と言いました。そういうふうに多くの場合、私たち人間凡夫というものは、悩まんでもいいことで悩んでいる場合があるから、そういう不必要な苦悩というものはほっとけと。
 
金光:  でもさっきおっしゃっていた「中(ちゆう)」の正しい法則というのに気が付くと、なんだ自分はつまらんことを考えていたな、ということにも気が付くということが生じてくるんでしょうね。
 
有福:  その筈ですけどね。悩まんでもいい、つまらんこまいことに拘っておったなということよくありますよ。
 
金光:  そうすると、坐禅をして、何か善いことを、もしこれを掴んだら間違いがないというようなものを、坐禅によって得たい、掴まえたいと、思ってやると、これは正しい坐禅の方向にいかないわけですね。
 
有福:  初めは誰でも何か得たいと思うけれども、そんな欲がない方がいいですよ。
 
金光:  「万法に証せられる」ということは、要するにいろんなものすべてが、自分のエゴがなくなると、すべてのものとの自分の関係というものがよく見えてくるということにもなるわけですね。
 
有福:  そうですね。
 
金光:  例えば普通そんなこと何も考えませんけれども、食べるものにしたって、今の世の中、日本だと世界中のものが来て、それを食べることによって、自分の身体が維持できているという、そういう中で生かされているんだということに気が付くだけでも、食べるものに対する考え方が変わってきますでしょうね。
 
有福:  そう思いますね。我々人間は、両親を初めとして人間によって生かされているだけでなく、もっと多くの自然によっても生かされている。地震でも、津波でも来たらひとたまりもない事態なんですけども、よく考えると、ほんとに自然の恩恵というのをたくさん受けていますね。そういうことにも気が付かないといかんですね。
 
金光:  自然を人間の都合でこういうふうにしたら便利になるだろうということだけで、どんどんその方向に進んでいると、思いも掛けないところで、予想もしなかった想定外のことがいっぱい出てくるという、そういう現実があるわけですから、正しく見ていると、そういうこともあるんだということも当然考えなければいかんということになるわけでしょうね。
 
有福:  そうですね。また多分人間というのは、及ばざるものですから、どれだけ準備していても想定外のことに出っくわすけどね。いろいろな方々が―偉い政治家の方でも、時々自殺までいかれる方もいらっしゃるというのは、そんなものぐらい乗り越えていかなければね、罪になるなら罪を受けたらいいや。それから自己を改革してやってほしいですね。
 
金光:  ということは、自分はこうやって生まれて、こうやって大きくなって、これだけのことをやっているという、そこの目線、視野だけで考えていると、行き詰まりということも考えるかも知れませんけれども、もっと広い目で自分がどういう世界に生まれて、どういうところで育って、しかもいろんな働きの中で生かされている―生きているんじゃなくて、もう一つ生かされているという点に気が付くと、またそこで新しく考え直すチャンスというか、今まで気が付かなかった生き方も一方踏み出し方が違ってくるような気がしますが。
 
有福:  とにかく広い気持ち広い心を持たないといけませんよ。自分だけの小さい法によって、自らの首を絞めてはいけませんよ。
 
金光:  形あるもの、形ないもの、すべてが万法の中に入るわけでしょうから。しかし仏教というと、現代の若い人なんかだと、俺の生き方には関係ないと思っていらっしゃるかも知れませんけれども、本当は非常に今与えられている地球、この宇宙の中で生かされている人間というのは、どの程度の存在であるかということに新しい目を開く道でもあるわけですね。
 
有福:  そうですね。今、割と多くの欧米人が坐禅する人も多いです。日本人がかなわんと思っているような『正法眼蔵』みたいなものも、ドイツ語も、フランス語も、英語にどんどん翻訳されています。京都大学で勉強しに来たドイツ人が、『正法眼蔵』で博士論文を書いています。私が審査しました。もうそういう時代ですよ。
 
金光:  しかし、現代の日本人にも直せないようなところがあるのに、ちゃんとその辺のところも含んだ上でドイツ語、フランス語、英語とか、そういう方向に直すような人がどんどん出てきているということですか。
 
有福:  そうですね。時代は動いていますよ。
 
金光:  日本には九百年ぐらい前の時代にできた、いわば宝物みたいなものがある。
 
有福:  そうですね。
 
金光:  あれは難しいからと言うんで、ちょっと奥の方に閉まって置くんじゃなくて、現代の人たちが生きる参考になるものが、あそこには必ずあるというふうに思えると、随分違うでしょうけれども、自分には関係ないと思ってしまうと、勿体ない話ですね。
 
有福:  そうですね。ドイツの知人でも、カントなんか難しいから読まないという人もおる。場合によっては、日本人の方がカントを良く知っているという場合もあるわけです。それと同じくらい逆に『正法眼蔵』を彼らの方が知っているという。
 
金光:  先生は、カントを勉強していらっしゃったから。ドイツ人も、カントあたりを読まないような若い人もけっこういるわけですね。
 
有福:  それはいますね。
 
金光:  『正法眼蔵』の中で、道元さんがおっしゃっている言葉で、こういうのを実践したらいいんじゃないかとお考えのことがございましたら、ご紹介頂けませんでしょうか。
 
有福:  そうですね。道元禅師が『典座教訓(てんぞきようくん)』の中で「三つの心」―「大心(だいしん)・喜心(きしん)・老心(ろうしん)」ということを言っています。「大心」は大きな心ですから、小さいことにわざわいもされず、偏見や党派根性を乗り越えた普遍的な心である。「寛大なる心」というかね、細かいことであたふたしないということにも繋がっていくと思います。「喜心」というのは、例えば他人(ひと)が出世したら悪口ばかりいうんでなく喜んであげるという。人が善いことをしたら喜んであげる。それが「喜心」でしょうし、「随喜」という言葉もありますね。他人のために事をなすことを喜ぶ心。もう一つの「老心」というのは、「老婆心」というか、非常に細かいことにいろいろ気を付けて、優しい心を持っているという。
 
金光:  それは組織の中で動いている人たちみんなに通ずる心ですね。別に料理の方に限らず、
 
有福:  会社の人間に、特に当て嵌まるんじゃないですか。
 
金光:  そうしますと、ほんとに短い時間で今日お話を伺ったわけですけども、先ずはそういう意味では、生きている間に新しい世界に目を開かせて頂くというのには、非常に役に立つ本だということが、今日のお話で感じさせて頂いたので楽しみに、また時々開けてみようかと思います。どうもありがとうございました。
 
     これは、平成二十七年二月十五日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」で放送されたものである