ただ、共にいることを
 
                陸前高田市 正徳寺住職 千 葉(ちば)  了 達(りようたつ)
                陸前高田市 正徳寺坊守 千 葉(ちば)  寿 子(ながこ)
                き き て      浅 井  靖 子
 
ナレーター:  今日は、「ただ、共にいることを」と題して、岩手県陸前高田市(りくぜんたかたし)正徳寺(しようとくじ)住職の千葉了達さん、寿子さんご夫妻にお話頂きます。陸前高田は、二年前の東日本大震災で未曾有(みぞう)の被害を受けました。津波の被害を免れた正徳寺は、被災直後から庫裏(くり)を開放し、避難所として五ヶ月近く、地域の人々の拠り所となりました。市の職員でもある了達さん、そして寿子さんが如何にその日々を過ごされたのか、伺います。聞き手は浅井靖子ディレクターです。
 

 
浅井:  お訪ねすると、歴史のあるたたずまいのお寺でいらっしゃるんですけども、東日本大震災直後から五ヶ月ですか、ここを避難所として運営されたということなんですけれども、地震に続く大津波がありましたが、その時はお二人はどのようにしていらっしゃったんですか?
 
千葉:  私は、その時市役所にいましたので、市役所前にある公園に逃げてから、警報が出たので、避難所を廻る係でありましたから、車で移動して、この周囲までやって来たということになります。防災無線で「防潮堤を波が越えた」という放送もあった後は、防災無線すら聞こえなくなったので、どうなったんだろうなと思いながら、すぐお寺の近くにある避難所扱いになっているところに行ったんですけれども、今度はそこももう既に波が来ていて流されているというふうな状態でしたんで、そこからは避難誘導にかかって、波もけっこう近くに来ていたんですけども、それもあまり関係ないようにしながら、お爺ちゃんお婆ちゃんが坂道を上って来るのを手伝って上にあげたりとか、そういうことをやっていました。今考えると、波までの距離は十メートルそこらしかなかったと思いますね。
 
浅井:  そうですか。
 
寿子:  私は、その地震が起こった時には、家におりました。これは咄嗟に津波が来るなぁって。一番気になったのは息子のことで、ちょうど海沿いの道路を帰って来ることになっていたので、地震が収まって、すぐに車で迎えに出ました。それこそほんとに海沿いの道路を歩いているところに、子どもたち六人、こう蹲(うずくま)っているのをそれぞれ迎えて、今度上の子どもたちを迎えに、小学校の方に向かいました。迎えに行った時点では、まだ津波が来ていない時だったんですけども、「大津波が来る」という防災無線がプツッと切れて、切れたなぁと思っていたら、サワサワサワっと波が入って来るのが見えて、そこからばあっと高台に逃げようと、最後私、学校の門を出ようかなという時には、もう水がシュンと上がって来ているような状態だったので、間一髪というとこだったと思います、今考えると。
 
浅井:  避難所として、お寺の庫裏を開放しようというふうに思われたのは、みなさん避難誘導して、その日のうちのことでいらっしゃいますか?
 
千葉:  庫裏を開放しようということは、災害が起こる前から考えてはいたことなので、当日は百五十名ぐらい避難者がいらっしゃったんですけれども、そこの人たちがいったん逃げた高台の公民館ではとても入りきれないと。貸してほしい、というような申し出がありましたので、これについて私はすぐ決断して出すようにしました。
 
浅井:  先ほど庫裏を拝見したんですけれども、八十畳ぐらいの大広間と、十二畳ぐらいのお部屋二つですか、かなりの広さがあると思うんですけれども、百五十人の方がいらっしゃるというのは、それは?
 
千葉:  大広間も全部埋まりましたし、その縁側部分ですね、廊下の部分も使うということになります。
 
浅井:  その夜はどんなご様子だったですか?
 
千葉:  電気がなかったので、お寺ですから蝋燭等はありましたから、蝋燭点けて、暖房器具もその時のためにですね、電気を使わない古いものをとっていましたので、そのストーブと点けて、後みなさん身を寄せ合いながらラジオを聞きながら、ほんとに度々ある余震に怯えながら過ごしたような形になります。食事を作るための台所は、もともと真宗では御講という制度があって、毎月みなさんお集まりになって食事を摂る機会があるんですけども、けっこう広い台所が用意してありますし、そこにはプロパンガスもありましたし、水については自家水道があったのと、簡易水洗のトイレでしたから、まあ災害のために作ったわけではないんですけども、対応できるような施設ではあったかなと思います。
 
寿子:  その時には、とにかく先ず家で保管している米はみんな出して、周りの被災していない地区の方々が、お米を持ち寄ってくださったので、それも使って、五升炊きのガス釜があったのでおにぎりを作りました。地区の被災していない周りの方々もお手伝いに来てくださって、その当時百五十人というような人数だったんですけども、数が数えられなかったので、とにかくおにぎりを配って人数を数えようということで、
 
浅井:  そうしたら百五十人ほどいらっしゃった。
 
寿子:  はい。
 
浅井:  ちょうどこのお寺のすぐ下のところまで波が来ていたと伺ったんですけれども、その波でご自宅を失われたりというような方がほとんどでいらっしゃったんですか?
 
千葉:  やはりご自宅を失われた方もいらっしゃっていましたけれども、やはり地震によって一人でいると恐いということもあって、一晩過ごされたということもあります。どれほどの規模の被害が起こったのかというのは、判りかねた部分もあります。ですから正直そこから五ヶ月も避難所をやるとも考えていなくて、とにかくその晩一晩過ごせるだけのことはなんとかしようかと。
 
寿子:  そうですね。また歳取った方がけっこういましたし、後これこそ生後十五日という赤ちゃんがいたんですね。その子が大丈夫かというのが先ず気になったのと、それこそその日の夜はビックリするぐらいこう静かだったんですね。まあ大人たちは勿論そうなんですけども、子どもたちもけっこうな人数いたんですけども、やっぱり誰も何も言えないというか、そんなような切羽詰まったような雰囲気だったのかなとは思います。
 
千葉:  瓦礫と瓦礫がぶっつかる音とか、そういったものは夜まで聞こえていました。後は避難している方たちからは、「人の声も聞こえるな」とかと、そういうのもあったので、流されている人なのか、それとも孤立してしまった方からの声なのか、そこはわからないんですけども、ほんとそこでシーンとしながら耐えるしかないということで、それだけ一晩過ごしたような形です。
 
浅井:  結局それが五ヶ月に及ぶ避難所の始まりだったわけですけれども、どのようにされたんですか?
 
千葉:  みな逃げるにしても、何をするにしても、一纏めというか、集団で逃げなければいけなかったので、私たち家族を含めて庫裏の中で避難者と一緒に生活しながら一緒に食事を摂って、また話を聞きながら生活していたような形になります。
 
浅井:  それがもう一つ別にご自宅もあるわけですね。そこに暮らすというのではなくて、その庫裏のみなさんのところにいらっしゃったということですか?
 
千葉:  そうですね。やはり避難されていた人たちに、「私たちは自宅があるから知りません」という格好で、「ご自由にお使いください」という形で、別な建物の中で生活していくというのではいけないんじゃないのかなということと、後は物理的なものとして、蝋燭を使いながらいましたので、その余震が酷くて、倒れたり何なり、また火事になったりというのも、建物を預かる身として難しいところもありましたので、やはりその場で、近くでという考え方をその当時はとっていましたね。やはり家を無くしたり、親戚を亡くしたりした方たちの、できる限り側にいた方がいいのかなと。その当時はそんな深く考えての行動ではないんですけれども、その場にいるということをとりましたね。
 
寿子:  子どもたちの同級生も避難して来たということもあったので、私も住職もいろんな対応があって、正直自分の子どもたちにかまっていられないというところもあったので、友だちと一緒にいれば少しは気が紛れるのかなというところもありましたし、残念ながらこういう災害というのはまたあるかも知れないということもあったので、子どもたちにやっぱりこういうことを肌で感じさせたいというところがありました。庫裏の方でみんなと一緒にいるということにしました。
 
浅井:  その翌日からですね、みなさんどのように過ごしていらっしゃったんでしょうか? で、お二人にとっての役割というのはどういうものになられたんでしょうか?
 
千葉:  私は、三日目に物資が届いて、食事も配給というか、スタートしたので、その際からは市役所職員ということもあって、その災害本部の方に詰める形にはなったんですけども、それまでの間は、やはり女性は避難されていた方たちの食事も面倒みなければという思いが強かったのか、みなさん食事を作るために、三食いろいろ活動されるわけですね。そのために、例えばお水が必要だとか、さまざまな必要なものを揃えたりという活動をされていて、男性はどちらかというと、自分たちのご自宅の跡を見に行って、瓦礫となっているのを眺めて、思い出の品物などを拾って来たり、または帰って来てからですね、縁側とか、そこで背中を丸めながら凄いガッカリしたような形で座り込んでいるというような状態でした。目の前のものとか、家とか、他のものが無くなって、自分が何をすればという「その何」が見つからなくて、呆然としていたようでしたので、それまで男性にもお仕事がほしいなと思いまして、外に火を焚けるような仕組みを作って、「朝起きたら火を燃やしてお湯を沸かせるようにしてください」というのをお仕事の一つとしてお願いして、そこからだんだんと少し、じゃそこから動こうかということに前向きになって頂くことができたのかなと思います。
 
浅井:  千葉さんが市役所職員としてのお仕事に戻られると、後は運営は奥様の方に、
 
寿子:  はい。そうですね。十日ぐらい戻らないという時間がありましたので、
 
浅井:  ご住職がね。
 
寿子:  時間はほんとに私の責任だと言ったら変なんですが、留守の間切り盛りをしなくちゃいけないというか、みなさんといろいろ話し合ったり、決めていくことがいっぱいだったので、それはけっこう大変な時間でもありました。ここに避難して来たみなさんは、うちのご門徒でない方が、初対面の方がほとんどだったんですけども、やっぱりみなさんどちらかというと、「お世話になっている」というような感覚でしたので、決めてもらうというか、「ここはこうしましょう」とかというような話が出るのがいいのではと思っていたので、「じゃ、これはこうしましょう」とかという、ちょっと後押しをするように努めました。
 
浅井:  みなさん、ほんとに命からがら逃げて来て、それで何とかおにぎりの一つを食べてという、そういう時期がだんだん落ち着いてこられると、別の課題も出てくるかも知れませんけれども。
 
寿子:  そうですね。最初のうちは「ほんとに生きているだけでいい、食べるだけでいい」と言っていたのが、やっぱりだんだんだんだん「お風呂にも入りたいな」とか、「じゃ服だってちゃんとしたのを着たいな」とか、どんどん変わっていくわけですよね。そういうのもあったんですけれども、まあ私たちも、歯ブラシが一番最初頼んだ時も、人数分なんか到底揃わない。ほんとに数ちょっとずつしかこないので、
 
浅井:  歯ブラシというのは、やっぱり重要なものなんですか? その状況だと。
 
千葉:  まあ日常を取り戻すという意味では、顔を洗ったり、歯を磨いたりということがとても重要なんだと思うんです。歯磨きがしたいという思いは、みなさんお持ちなんですけども、数が何せ揃わないので、渡したとしても不公平な処理をしてしまうので、うちの坊守は数が揃うまで渡さないということを決めてやったようですね。
 
寿子:  誰かに渡って、誰かに渡らないという状況というのは、やっぱりお互いに辛いことなので、とにかくみんなに揃うまでという。余所では歯ブラシ一本、下着一枚で、今まで仲良くお付き合いしていたお隣同士だったのに、もう疎遠になってしまう、というようなことも聞いていましたので、そういうことにならないように、という配慮は致しました。私たちなんかは母屋があるので、まったくないわけではないんですが、みなさんとほんとに同じで、みなさんに歯ブラシが渡るまでは、私たちも歯磨きはしませんでしたし、ほんとに同じような状況をみんなと一緒に一つひとつ乗り越えていったということはあります。
 
千葉:  「歯ブラシ一本で、何もそんな」と思われる方もあるかと思いますけども、同じ立場でいるというと、悩みも吐き出し易いというのがあるかと思うんです。「あの時一緒でこういう思いをしたね」ということから、その後のことも含めて、一緒になって悩んだりとか、そういうことができる。今となっては、そういう思いを聞ける立場に、私たちあるんだなということを感じます。
 
浅井:  一つひとつ一緒にいるとか、その「ともに」ということが、ご自身の中に背景にあったものもおありだったんでしょうか?
 
千葉:  そうですね。親鸞聖人が―後世の創作とは言われていますけども(親鸞聖人は弘長2年11月28日、京都で九十年の波瀾万丈の生涯を閉じられた。親鸞聖人の御遺言が『御臨末の御書』として今日に伝えられている)おっしゃった言葉の中に、
 
一人居て喜ばは二人と思うべし、
二人居て喜ばは三人と思うべし、
その一人は親鸞なり。
 
というお言葉がありますけども、やはり喜びだけではなくて、悲しみも含めて、今回の場合だと、震災で辛い思いとか、大事な方を亡くした思いとか、そういった場合、悲しい思いについてもそこに一緒にいるよということが言われているのではないかなと、私は思うんです。ここを終えた時に、布教するという形は取りませんでしたけども、私たちが、態度とか、そういう形で表さなければいけないものなんではないかなと考えていました。
 
浅井:  それでもあんまり布教みたいなことはするつもりはなかった、とおっしゃったんですけども。
 
千葉:  ただ一般的なお話とか、物を無くした、人を亡くしたというお話については、一ヶ月経った時に、集団で葬儀を、それまで亡くなったと判断された方は行ったんですけども。
 
浅井:  このお寺でですか?
 
千葉:  そうですね。その際に避難されていた方たちも一緒に本堂でお詣りすることがあって、その時には「こういう思いなんだよ」ということで法話を致しましたけども。
 
浅井:  どんなお話をされたんですか?
 
千葉:  家の宗派の八代目に当たる蓮如(れんによ)上人が書かれた『御文(おふみ)』という御門徒さんに宛てたお手紙があるんですけども、その中に「白骨の御文」というのがあってですね、人間は朝元気でいても、夕方にはそれこそ途中で亡くなって白骨となってしまうかも知れない身なんです、ということを一節で書かれているんですね。その震災当日、朝送り出した人が帰って来なかったという方が、参列されている方の中にたくさんいらっしゃるわけです。ですから、あの時がもし戻るんであれば、喧嘩したまま朝送り出すんではなく、ちょっと違う言葉の掛けようもあったんじゃないか。もしこれが最後かも知れないと思ったらば、その人に掛ける言葉というのは自然と異なってくる。ただ誰しもその日が最後だというのがわからないので、私たちは、もしかしたらこれが自分の命最期かも知れない言葉を相手に掛けているのかなということですね。やはり考えながら生きて行かなければけないんじゃないか、ということをその場では申しました。私も、その日同僚をたくさん亡くしましたので、ほんとに「御文」の言葉ではないですけども、朝挨拶を交わしたその方がもう二度と声を聞くことのないということは、ほんとに失われたものの大きさというのが、時が経つにつれてほんとにじわじわと心に響いてくるものなんですね。私も法話しながら、ちょっと涙ぐんだりしながらですね、喋ってはいるんですけども、実際人も亡くし、避難されている方は、家も無くし、思い出の品々も無くしという中で、これからどうしようかという、こういう肩寄せ合って避難所にいるという中でですね、勿論ぶっつかり合いも中で起きることもあるんですけども、また同じような震災が起こった場合に、自分の命もそうだし、相手の命もいつ失われるかわからない中、一時(いつとき)の感情によってぶっつかり合うよりは、もっといい方向に向かうような形に受け取って頂ければなあという思いもあって話をしたんですが、うちの避難所の中では大きなトラブルとかはなかったので、ご理解頂けたのかなという思いもあります。
 
浅井:  そういうふうにしているような避難所ということなんですけども、いわゆる普通の避難所とは違う状況というのもあったんですか?
 
寿子:  そうですね。よく言われたのは、「避難所の中に衝立(ついたて)がない」ということは、みなさんがそれぞれ自分のスペースを作るために段ボールとかいろんなので衝立をして、自分の場所を確保しているような映像がよく流れたりもしましたけど。
 
浅井:  囲って自分のプライバシーを、
 
寿子:  外から方々が、全然こう仕切りがないというか、あ、言えばそうなのかなという。来たみなさんは、「全然他の避難所の雰囲気が違う」って。「衝立がないし、凄くみなさんがオープンというか、お互いにコミュニケーションがとってもよく取れている」ということを驚いていましたね。
 
千葉:  それは多分一緒に子どもたちがいたせいもあるかも知れません。子どもたち、同級生も含めて、大広間の真ん中でみんな寝ていたものですから、そこにそういう衝立を置かないで、子どもたちが遊びながらですね、布団で寝てしまうのも含めて、大きな部屋の中で家族みたいに生活しながらですね。
 
浅井:  子どもたちをみんなが見守りながらという感じなんでしょうか?
 
千葉:  宿題をやっているのも、食事を食べるのが遅いのも含めて、みなさんに見て貰えながら生活していましたね。
 
浅井:  連休ぐらいになってくると、避難所からお仕事に行かれる方も増えてこられたということなんですけども、そうなってくるとまただんだん様子も変わってきて、
 
寿子:  そうですね。特にやっぱりお仕事に行くようになったりとかというところでは、食事の支度というか、賄いの方が切実な問題になったとは思うんですね。また特定の方たち、ここにいる人たちに負担がかかってしまって、仕事に行く人たちは朝行って、夜にしか帰って来ませんので、不満が出てきたというところがあったので、お話合いをもって貰ったんですけども、他のところではやっぱりその話し合いが上手くいかなくて、きっちり当番制にしてしまったというところもあったようなんですけども、まあうちではもうちょっと緩やかに、先ずいる人たちがとにかく三食準備と片付けは手伝いましょう。後はお互いにお互いの予定を把握しましょう、というお話を纏めて、みなさんでホワイトボードに予定を書きましょう、ということにしました。「私は午前中います」とか、「一日居ません」とかと書いてあると、じゃ、ここに居るこのメンバーでやりましょうとか、あとまあお仕事に行っている人たちも、ここの仕事も手伝いますとか、やっぱりお互いに自分ができることをやろうという雰囲気があったので、納得ができるというところがあったので、後はもう書かなくても、お互いのコミュニケーションで最後まで大きなもめ事もなくて終わりました。
 
浅井:  それぞれのご事情が変わって、いろんな暮らし方にも差ができてくるわけですよね。何かをいつも一緒にしていなければいけないとなると、そうじゃない時にどうやって私たちは人間同士としてわかり合えばいいんだろうかとか、あるいは悲しみを共にすればいいんだろうかということが、ある壁にぶっつかっちゃう気がするんですけども。
 
千葉:  そうですね。やはり「分からない」ということの方が、より不満を深める。家を無くして、お寺を避難所として生活していて、その中でなんとか自分の生活を取り戻そうと仕事に出る人もいれば、年齢的にお仕事できない方は、この避難所の中のことをやっていらっしゃる方もいれば、どなたも「今自分にできる精一杯のことをやっているんだ」ということが、お互いにわかれば、そういう思いを共有するということに繋がるんだと思います。
 
寿子:  「みなさんが」というよりも、私自身の友人でも亡くなった方もいて、仕事に当たっていたんですけども、気持ちの中の折り合いがなかなか付かないというところもあったんですけども、自分ができることを一つずつやっていくのが、この自分の心も癒やされていくし、やっぱり自分が今これできそうだなということを、一つひとつやっていくのが凄く大事だなって思ったんですね。それぞれみさなんが、自分のできる役割を見つけて、それを一つひとつやっていくことによって日常を取り戻していく。そういうのが凄く大事なんじゃないかなというのを感じました。
 
浅井:  みなさんが抱えていらっしゃるいろんな苦しみや悲しみを、ご住職として聞くというか、そういうような機会も多かったんでしょうか?
 
千葉:  そうですね。やはり行方(ゆくえ)不明のままで捜しているご家族の方からは、周りのご親戚とかからですね、「今まで見つからないのであれば、葬儀も早くした方がいいんじゃないか」という話を頂いて、ご自身は望みを掛けたいと思いがあるので、「葬儀をしたくないんだけども、一体どうしたらいいのだ?」ということで相談を受けたことがあります。
 
浅井:  その時はどのように?
 
千葉:  そうですね。「真宗では、お亡くなりになった方というのは、もうその時点で「阿弥陀様の元で極楽に往生されて、何不自由ない生活をされている」という教えですので、「今、もし亡くなっていたとしても、何不自由ない生活をされている仏さんのことではなくて、自分が納得できた時に、葬儀を行えばいいんじゃないのか。親戚の方には、住職からそういうことを言われたから、私は待ちます、ということを話していいからね」という説明はしましたね。まだ捜したいとか、まだ望みを掛けたい、という思いが、もう凄い強くあるんですよ。先ず第一に考えるべきは、目の前にいる人の思いであって、目の前の方を第一にお話するというのが、住職としての立場なのではないのかなとは思っていました。
 
浅井:  結局、みなさんが仮設に移られるまで、それまではここは閉じない、ということで五ヶ月になった、ということなんですけども、
 
千葉:  そうですね。閉める直前辺りには、家族みたいな感じで、子どもたちもほんとお爺ちゃんお婆ちゃんの年代の人たちと仲良く話をしながらいることができるというのは、まあ子どもには無理を強いたんですけども、非常に良いことだよな、と思いました。まあ私も小さい時に、ご門徒さんの家々を廻る際にですね、「次はあなたにお経を読んで貰うから」ということで可愛がられて生活していましたので、今まで支えて頂いた方たちに、逆に私たちが支える立場となるということは、お互い様というか、そういう中でお寺が何百年も続いてきたということもありますので、自然とそうしなければいけないのかなというのはちょっと感じていましたね。
 
浅井:  そういうある一つの役割を果たせたということなんですかね?
 
千葉:  そうですね。家(うち)が開山して四百年ちょっと経っていますけども、何回かそういう震災とかあったでしょうし、そういう中で悲しみも苦しみも、そして喜びも一緒に共有できる場として、今までそういう下地があったからなのかなというのは感じますね。岩手県の詩人でもある宮沢賢治(みやざわけんじ)の「日照りの時は涙を流し、寒さの夏はおろおろ歩き」という一節があるんですが、震災の時に、一緒にいるというのも、何かに突き動かされて一緒にいるだけで、そうするしか後方法がないというか、それしかできないというのが強くあって、ただ一緒にいて、何となくまた笑顔が見えるようになってきたかなとかというふうに、ちょっとした喜びを感じながら、まあ居ただけなんですけどね。
 
浅井:  今日はどうも有り難うございました。
 
(参考)
蓮如上人(浄土真宗)「白骨の御文章」(蓮如上人の撰述した御文の五帖目、第十六通「白骨」)
 
白骨の御文章
それ、人間の浮生(ふしよう)なる相(そう)をつらつら観(かん)ずるに、おほよそはかなきものはこの世の始中終(しちゆうじゆう)、幻(まぼろし)のごとくなる一期(いちご)なり。されば、いまだ万歳(まんざい)の人身(にんじん)を受けたりといふことを聞かず。一生過ぎやすし。今に至りて誰(だれ)か百年の形体(ぎようたい)を保つべきや。我や先、人や先、今日とも知らず、明日(あす)とも知らず。遅れ先だつ人は本(もと)の雫(しずく)(すえ)の露よりも繁(しげ)しといへり。されば、朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて夕(ゆうべ)には白骨(はつこつ)となれる身なり。すでに無常の風来(きた)りぬれば、すなはち二つのまなこたちまちに閉ぢ、一つの息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて桃李(とうり)のよそほひを失ひぬるときは、六親眷属(ろくしんけんぞく)集まりて嘆き悲しめども、さらにその甲斐(かい)あるべからず。さてしもあるべきことならねばとて、野外に送りて夜半(よわ)の煙(けぶり)となしはてぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。あはれといふもなかなかおろかなり。されば、人間のはかなきことは老少不定(ろうしようふじよう)のさかひなれば、誰(たれ)の人も早く後生(ごしよう)の一大事を心にかけて、阿弥陀仏(あみだぶつ)を深く頼みまゐらせて、念仏申すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
 
意訳
人間のはかない人生をよくよく考えると、この世の中でおよそはかないものは、あっというまに迎える人生の最期である。いまだかって万年も生きたという話を聞かず、一生は早く過ぎるものである。現在でも百年を生きることは難しい。自分が先になるか、人が先になるか。今日とも明日とも知れない命で、遅れる人早く亡くなる人は、木の葉の露、雫の数よりも多い。そうであるならば、朝元気であった者が、夕方には死んで骨になるかもしれない。  無常の風が吹いたら、たちまちのうちにまぶたは閉じ、呼吸も停止して、顔色がむなしく変って赤みを失う。そうなれば家族・親戚が集まって歎き悲しむが、蘇生効果はない。さてすべき事をしなければというわけで、遺体を野外に送り、夜中に火葬をして煙となれば、わずかに白骨のみが残るだけである。これはあわれというよりもおろかなことである。ではどうしたらよいかというと、人間のはかない命は老若の順とは限らないので、誰もが早い時期から死後の生の大事を心にかけ、阿弥陀仏に深くおすがりして、念仏すべきである。恐れ多いことよ。恐れ多いことよ。
 
 
     これは、平成二十五年三月三日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」で放送されたものを、平成二十七年二月
     二十二日に再放送されたものである