仏教からみたイスラーム
 
                  大乗寺禅堂堂長 (あずま)   真(りゆうしん)
一九三五年、京都府丹波市の真言宗寺院に生まれる。一九五三年、徳島県の成満寺にて渡辺頼応に師事して出家。一九五四年、總持寺で修行。一九五六年、駒澤大学仏教学部禅学科に入学。一九六○年、同学部卒業、同大学院進学。一九六二年、同修士課程修了し、駒沢学園女子中学校教諭に就任。一九六四年、大乗寺山主松本龍潭に嗣法。一九七七年、山口県弥勒寺住職となる。一九八二年、駒沢学園学監に昇任。一九八五年、山口県松兼寺住職に転任。一九九○年、女子中学校・高等学校校長に昇任。一九九五年、駒沢女子短期大学長・駒沢女子大学学長に就任。二○○二年、同学長を退任、名誉教授となる、大乗寺山主に就任。二○○三年、大乗寺専門僧堂堂長に就任。二○○四年、善寳寺僧堂師家を兼任。
                  き き て  金 光  寿 郎
 
ナレーター:  今日は、金沢市の大乗寺(だいじようじ)山主(さんしゆ)で大乗寺専門僧堂堂長の元駒沢女子大学学長東髏^さんにお話頂きます。テーマは「仏教からみたイスラーム」で、日本の仏教とイスラム(世界三大宗教の一つである。原語であるアラビア語ではイスラームと発音される)との関係を中心に話して頂きます。聞き手は金光寿郎ディレクターです。
 

 
金光:  「仏教からみたイスラーム」というようなことで、東先生が約二十年前ですけれども、まだ平穏だったシリアのアレッポ(シリア・アラブ共和国の北部にある都市。トルコとの国境に近い。人口は1999年現在約170万人で増え続けており、ダマスカスに次ぐシリア第2の都市である)で、仏教についての講演をなさったりした時に、向こうのイスラムの文化、あるいはイスラムの人たちに、一種のカルチャー・ショックを受けられたというようなことで、それからお帰りになってイスラムの文献なんかを集めてご研究になったというようなことを伺っておるんですが、その時のカルチャー・ショックと言いますか、向こうでのご様子から、その後のご研究の経過なんかを含めて、お話を頂けないかと思いますが。
 
東:  私は、日本の仏教の僧侶であると同時に、四十年間に亘りまして、幼稚園から大学までの仏教主義の女子教育の総合学園におきまして、中学校、高等学校の校長、あるいは女子大学の学長を務めまして、仏教学の研究、坐禅の実習、あるいは教育一般、あるいは学園の経営の三部門にわたって関わってきたのでございます。今、おっしゃいましたことでございますが、平成八年の夏、シリア・アラブ共和国、いわゆるシリアの古い都アレッポへまいりました。アレッポの国立アレッポ大学との学術交流同意書を取り交わすためにアレッポ大学の学長さんと文書を交換致しました。このアレッポ大学に学術交流の日本センターというのがございまして、ここが主催して、私が、「日本社会における仏教の軌跡」という講演を行いました。そのことはシリア五千年来の歴史的な大事件ということだそうでして、シリアの新聞・テレビが大きく取り上げて頂きました。私は、エジプトのカイロからシリアに入りましたが、生まれて初めて接するイスラム圏の景色と言い、食べ物と言い、風土と言い、大変な違和感を覚えました。また同時に改めてイスラムに対する驚きとか、興味も覚えました。そういうように生まれて初めて接するイスラムに対する認識の無さを自覚した次第であります。私は、帰国しましてから手当たり次第にイスラムに関する書物や資料を集めました。千冊、二千冊にもなるだろうと思います。しかし私は、中東のことは、殊にアラビア語は全くできませんので、その範囲内のイスラムに限定せざるを得ないということになります。私は、しかし日本イスラム教会というのがございまして、そこの会員でもあります。そして私は、平成十四年に、『日本の仏教とイスラーム』という著書を出しました。それはそれとして、この度私は、「日本の仏教と日本のイスラーム」仏教と言いましても、曹洞宗という宗派でございます。曹洞宗と言いましても、これを日本に開いた道元禅師は、「曹洞宗(そうとうしゆう)」という宗名を称えてはいけないと。「仏祖正伝の法」というべきである、ということをおっしゃっているのでありますが、私はこの日本の仏教と日本のイスラムとの関係について、過去にいろんなところで何度もお話を申し上げてまいりましたが、まだまだご存知ないお方が多いことのように思われますので、繰り返しになりますけれども、ここで申し上げてみたいのであります。今から百年以上昔のことになりますが、明治、つまり一九○五年であったと思いますが、忽滑谷快天(ぬかりやかいてん)いうお方が『怪傑マホメット』(明治三八年発行)という本を書かれております。忽滑谷快天(戦前の仏教学者、曹洞宗の僧侶、文学博士、曹洞宗大学の学長も務める:1867-1934)という人は、明治二○年、曹洞宗大学林(現、駒澤大学)を出て、さらに明治二十四年に慶應義塾大学文学部にお入りになり、明治二十六年十二月に卒業しておられますから、まだ福沢諭吉先生のご存命の時代に、慶應義塾大学で学ばれたということになります。この忽滑谷(ぬかりや)先生は、曹洞宗の命令によって三カ年ヨーロッパへ、向こうの教育とか学問の視察ということで出掛けられておりますが、この忽滑谷先生に『怪傑マホメット』という本がございます。この本は、日本でマホメット(イスラム教の開祖。正しくは「ムハンマド」と発音。アラブ人で、アブラハム、モーセ、イエスに続く最後の預言者とされる。歴史上の人物としてのマホメットは、宗教家であると同時に政治家であり、ある時は軍事指揮官でもあった)の伝記としては四番目に出来上がったものでございます。明治近代化の主潮の中で、早くもそのムハンマドの伝記というのは、仏教界、あるいは曹洞宗界の代表的な学僧である忽滑谷快天先生によってなされた、忽滑谷先生はいわば我が国の「マホメット伝(ムハンマド伝)」研究の先覚者というべきだと思います。しかしながら、その後もですが、私が知る限り誰一人この書物を取り上げて教化した人はおりません。ですから忽滑谷先生は、せかっく『怪傑マホメット』伝をお書きになりましても、百年以上棚ざらしになったまま今日に至っておるということでございます。当時の曹洞宗は、ムハンマドなんかに何の興味も関心もない。また忽滑谷先生の著書を評価する能力にも欠けていた、といった方がいいかも知れないというふうに、私は思うんでございます。その『怪傑マホメット』という書物でございますが、その特徴を申し上げますと、一つは、この当時は、「イスラム」のことを「回教(かいきよう)」とか、「ホウェイホウェイ教」とか申しましたが、その回教(イスラム)は、キリスト教、仏教と並ぶ三つの世界の三大宗教である。そういうふうに忽滑谷先生は見ております。今日風にいいますと、イスラムを国際的な視野から、世界的な視点から公平に見ようとした、というふうに考えるのでございます。「イスラムとキリスト教と仏教とは、同じレベルの世界三大宗教の一つだ」というふうに、今なら何でもないことでありましょうけども、今から百年以上前に、「回教」とか「ホウェイホウェイ教」などと言っても、日本人は知りません。知りやしません。「キリスト教と仏教と回教とは、世界の三大宗教だ」なんて言ったって、大した意味がなかったのかも知れませんけれども、しかし忽滑谷先生のお考えは、非常にその点で高い見識を持っておられたというふうに思うのであります。もう一つ、この『怪傑マホメット』という書物で申し上げたいのは、忽滑谷先生は、ムハンマドをただイスラムの教祖だけと見ないで、非常に多面的な能力のある預言者として、政治家として、軍人として、あるいは族長として、多面的で、従って矛盾を持っている一人の人間、一人のアラビア人としてのムハンマドを捉えようとしたところが、私は非常にユニークだと思います。ムハンマドをいわゆる宗教家としての面から見る見方は、その後もずっと続きますけれども、この忽滑谷先生のように、いろいろの角度からムハンマドを見ていく。宗教家のみならず、宗教家以外のムハンマドの特長というものを見ていく多面性を持っている上に、そこには矛盾がある。矛盾と言っても、それは単なる矛盾ではなくして、多面性を強調する意味合いを持った矛盾なのであります。それからもう一つ申し上げておきたいのは、忽滑谷先生はこんなふうに言っております。「自分は仏教徒であるけれども、どんな宗教でも、その宗教は真理を説いている筈だ。だからムハンマドやイスラムについても、公平と寛容の態度で対応しなければならない」。そういうふうに読者に呼び掛けまして、しかも「自分は、ムハンマドやイスラムに尊敬の念を抱いておる」。こういうふうに明言をしておられるのであります。次に申し上げておきたいのは、東京の駒澤大学に「回教圏研究所」というのがあったのでございます。「回教圏」というのは、つまりイスラム圏のことであります。その「回教圏研究所」これは駒沢大学の教授でありました大久保幸次(おおくぼこうじ)(東京外国語学校を経て東京帝国大学東洋史科専科を卒業。その後外務省および日土協会(現在の日本・トルコ協会)により派遣された先のトルコで知り合った徳川家正(駐トルコ特命全権大使)の資金援助を受け、回教圏研究所を設立:1887-1950)という人が始めました。昭和十三年に設立されております。おそらく察するところ、当時駒沢大学の学長であった忽滑谷快天(ぬかりやかいてん)先生が、「大久保先生というのは、トルコ語の先生でございますけれども、駒沢大学のトルコ語の教師として招聘されたのであろう、というふうに推察されます。この大久保幸次先生を中心にして、「回教圏研究所」というのができあがるのであります。勿論今はありませんけれども、しかし今日では、「回教圏研究所」という存在すらご存知のない人が多いのではないでしょうか。この「回教圏研究所」というのは、我が国のイスラム学のその後の母胎になっていくのであります。いろいろな方が、この「回教圏研究所」の研究員でいらっしゃいます。鏡島寛之(かがみしまかんし)(曹洞宗の静岡県・泉竜寺の住職でもあった。「回教教理」「各国におけるコーランの翻訳」という抜群の大論文をの遺している:1912-1946)、井筒俊彦(いづつとしひこ)(文学博士、言語学者、イスラーム学者、東洋思想研究者、神秘主義哲学者。慶應義塾大学名誉教授。日本で最初の『コーラン』の原典訳を刊行し、ギリシア哲学、ギリシャ神秘主義と言語学の研究に取り組み、ギリシャ語、アラビア語、ヘブライ語、ロシア語など二○ヶ国語を習得・研究し、後期には仏教思想・老荘思想・朱子学などを視野に収め、禅、密教、ヒンドゥー教、道教、儒教、ギリシア哲学、ユダヤ教、スコラ哲学などを横断する独自の東洋哲学の構築を試みた:1914-1993)、竹内好(たけうちよしみ)(中国文学者。文芸評論家。魯迅の研究・翻訳や、日中関係論、日本文化などの問題をめぐり言論界で、多くの評論発言を行った:1910-1977)等々勝れた人たちであります。こういう方々が、その後の日本のイスラム学のリーダーとなって活躍されるんであります。「回教圏研究所」は夏になりますと「夏期回教圏講座」を開きます。機関誌で『回教圏』というのを定期刊行する。そして『概観回教圏(がいかんかいきようけん)』という書物も出します。また大久保先生没後は、『コーラン研究』などという本も出しているのであります。このように「回教圏研究所」というのは、仏教系のこの駒沢大学にできました。そして大いに活躍をしたのであります。しかしながら駒沢大学の出身者としては、必ずしもこれに注目する人は多くなかったんではないかというふうに思うのでございます。そういう中で、鏡島寛之という人、この人が各国におけるコーランの翻訳というものを出しております。この人は、曹洞宗の寺の住職でありますが、「各国におけるコーランの翻訳」という論文を書いておられます。これは四百字詰め原稿用紙で二百六十五枚ほどに及ぶ大論文であります。大体コーラン(クルアーン)即ちこれはアラビア語で書いてある。「アラビア語はもっとも完璧な原語である。アラビア語以外の言葉にコーラン(クルアーン)を翻訳するということは間違っている。それは翻訳ではなくて、もう既に解釈である。他の国の言葉に置き換えるということは翻訳とは言わない。それは一つの解釈になる」そういう考えをイスラムの人たちは持っているようでありますけれども、しかし一体コーラン(クルアーン)はどんなものか。日本語しか知らない者に取りましては、日本語で訳したものを見ないとわからないのでありますけれども、各国のクルアーンを翻訳、それは十二世紀から始まっているのでありますが、その十二世紀頃のラテン語の翻訳語が全部この鏡島寛之先生が調べ上げまして、それぞれの訳の特徴、また欠点、またその影響等々について述べておられるのであります。これは昭和十二年に論文が完成しております。昭和二十五年鏡島先生の没後に出版されているのでありますが、なんと昭和十二年の時点で、ドイツ語、オランダ語、フランス語、英語、イタリア語、ロシア語、スペイン語、トルコ語、中国語、ベンガル語、ジャワ語、ハワイ語、マレー語、それからエスペラント語、それぞれに翻訳されましたクルアーンを集めまして、それらを読解しまして、今申し上げましたように、それぞれの共通点、相違点、あるいは特徴、欠点等々を述べておられるのであります。私は部外者でありますから、私は見る限り、我が国でこれほどコーラン(クルアーン)を研究したクルアーンの翻訳語を研究した人は、後にも先にもいないのではないか、と思うのです。論文を執筆するに当たりまして、その資料をどこから、どういうふうに集められたのか。どのように解読されたのか、驚くほかないのであります。しかしこういう鏡島寛之先生の各国におけるコーランの翻訳というようなものが、関係の辞典、その他書物にほとんど全く紹介されていないということは実に残念なことでございます。それから次に申し上げたいのは、曹洞宗の竜穏寺(りゆうおんじ)というお寺とイラン大使館との関わりについてでございます。竜穏寺というお寺が埼玉県の越生町(おごせまち)というところにございます。今も勿論ございます。この竜穏寺は東京慈恵会(じけいかい)医科大学の前に正松寺(せいしようじ)という大きなお寺がやはり曹洞宗でございますが、このお寺とも関わりもあるお寺でございます。この竜穏寺の関わりもあった土地が三百坪とも六百坪とも言われておりますが、明治元年に明治維新の廃仏毀釈令(慶応4年3月13日(1868年4月5日)に発した太政官布告(通称「神仏分離令」「神仏判然令」)、および明治3年1月3日(1870年2月3日)に出された詔書「大教宣布」などの政策によって引き起こされた、仏教施設の破壊などを指す。神仏分離令や大教宣布は神道と仏教の分離が目的であり、仏教排斥を意図したものではなかったが、結果として廃仏毀釈運動(廃仏運動)と呼ばれた)で取り壊されまして、土地は国有財産と没収されまして、その後イラン、イスラム共和国の大使館所有となって現在に及んでいるということでございます。ですから曹洞宗の竜穏寺というお寺とイラン大使館とは非常に関わりが深いということになるわけでございます。それから次に申し上げておきたいのは、イスラム教徒の墓地―霊園が山梨県の塩山市(えんざんし)の文殊院(もんじゆいん)という曹洞宗のお寺の一角にあるということであります。これは昭和四十四年に開設されました。もう既に数十年を経ております。私はそこへ直接伺ったことはないんでございますけれども、ご住職と文通を致しました。そしてその文殊院の古屋正明(ふるやしようみよう)というお方といろいろ情報を取り交わしたわけでございますけれども、このご住職のお考え、それから文殊院さんの檀信徒の方、それから地域住民の方々のご理解とご協力、そういうものを得まして、昭和四十四年にイスラム教徒の方々のお墓ができあがったと。今はもうほんとに満杯になりまして、さらに拡張をせざるを得ないような状況になっているそうでございますけれども。エジプトのカイロにアズハル大学という大学がございます。イスラムの人たちに言わせれば、「世界で一番古い大学だ」とこう言っておりますが、私どもから言いますと、日本の綜芸種智院(しゆげいしゆちいん)(829年に空海が庶民教育や各種学芸の綜合的教育を目的に、藤原三守から譲り受けた京都の左京九条の邸宅に設置した私立学校といわれている)という弘法大師の開いた私立の学校がございます。これが、私は世界で一番古い大学になるんじゃないかと思いますが、それはそれとしまして、そのアズハル大学の総長さんアフマド・オマル・ハシム(エジプト人)という先生がこんなことをある雑誌に書いておられました。「日本人には、国内に住むイスラム教徒への理解が足りないのではないか、と思ったことがある。例えば死者の弔い方一つにしても、イスラムの習慣に対する認識が足りない。ムスリムは死ねば身を清めて埋葬されなければならないが、ある在日のムスリムは非イスラム的に火葬にふされるのではないかと、とても心配していた」。そういうことが書いてありました。私は大体雑誌や新聞に投書したり、投稿したりすることは、先ずない方なんですけれども、この時はどういうわけか、その雑誌の出版社へ連絡致しまして、「そんなことはありませんよ。ちゃんと山梨県の塩山市の曹洞宗の寺院の文殊院というところに、イスラム教徒専用の墓地がありますから、それをアズハル大学の総長さんに是非伝えて欲しい」ということを申し上げましたら、「すぐ必ず致します」ということでありましたので、やや安心した次第でございます。最後にもう一つ申し上げておきますが、曹洞宗を中心にした日本の仏教とイスラムとの関わりで「シャンティ国際ボランティア会」というのが曹洞宗にございます。ボランティア関係でございますが、カンボジアのボランティアの活動の報告、その中にイスラム教徒の村へ宗教の違いを超えた支援を曹洞宗青年会が行った。これはカンボジアのイスラム教徒の村に学校がないので、そこへアントン小学校というのを、曹洞宗青年会が作った、ということが出ております。宗教の違いがありますから、どうなんだろうか、ということが、現地の人にも、それから曹洞宗青年会の人たちにも心配があったようですけれども、時の曹洞宗青年会の会長さんは、特にイスラム教徒だとか、仏教そういうことを拘らないという考えで、小学校を作ることができたとこういっております。そういうことでございまして、私は最初申し上げましたように、日本の曹洞宗と日本のイスラムと非常に深い関わりをもっておる。日本のイスラムと日本の曹洞宗といくつかの接点を持っておりますから、このことをきかっけにして、お互いの立場の違いを認め合いながら、しかもその違いを超えて、お互いに共存・共生・共栄していって、世界の平和に寄与したい。そういうことが、私は今一番大事なことではないかと、そんなふうに関している次第でございます。
 
金光:  どうもありがとうございました。確かにおっしゃるように、違いを、宗教の両方のいろんな宗教の違いを取り上げて話をすると、これは一致しないのが当然でございますけれども、少しでも共通な点があると、その辺の相互理解のきっかけにすることが可能ではないかというふうに思うわけですが、先生がお書きになった本の終わりの方にですね、「禅とスーフィズム」というのがございましたですね。この「スーフィズム(イスラームの神秘主義)」というのは、鈴木大拙先生なんかも、最初は神秘主義というようなことで、禅と共通点があるとこうおっしゃっていたのが、晩年は「禅思想の解明上ひどく誤解させる恐れがあることに気付いたからである。禅は白昼の光のように明々白々である。すべてが開け放たれており、隠されたもの、暗いもの、曖昧なもの、神秘なるもの、あるいは神秘化するようなものは何一つない」というんで、「一切禅にはそういう神秘がないんだ」ということをおっしゃっておりますが、東先生が、「禅とスーフィズム」ということで項目を立てて、共通点とかなんかいろいろピックアップされたんではないかと思いますけれども、その辺のところではどういう感じていらっしゃいますでしょうか。
 
東:  私の感じるところでは、いわゆる「スーフィズム」というのは、仏教、就中(なかんずく)禅の影響を受けてできたものだと思っております。「スーフィズム」は、特に中東というよりも、ずっと東の方ですね、インドを中心にしまして、その界隈からズーッと東の方のイスラムの間に広がっていったというふうに、私は思っております。
 
金光:  そうしますと、仏教の場合も長い伝統がありますけれども、アショカ王の時代には随分今の中東の方にまでインドも広がっていったようでございますし、いろんな仏教の遺跡もガンダーラとか、いろんなものが残っておりますが、そういうところにやっぱり向こうのイスラムのムスリムの人たちの、しかも「スーフィズム」というか、非常に神と一致する方向に修行するようなグループの人たちも、けっこう住んでいたように書いていらっしゃいましたけれども、その辺になってくると共通点もあるようでございますね。
 
東:  そうなんです。
 
金光:  なんか頭を剃って、汚い着物を着て、乞食(こつじき)で生活するとか、なんか雲水の方の修行と似たようなところがあるのかなと思うんですが。
 
東:  そうなんです。仏教の坊さんとよく似た生活態度を持っておったということを、私は何かの本で読んだことあります。また私の本を読んで頂いた朝日新聞社教育総合研究センターの方が、非常に珍しい面白いことを書いておられます。それはどういうことかと言いますと、「イスラムと仏教との接点」そういうことについて、「エルサレムのジャカールという方―この方はイスラムの聖職者ではないようでございますけれども、そのジャカールという方にエルサレムに行きましてお会いになって、「仏教とかイスラムというのをどういうふうにお考えか」とお尋ねしたところ、ジャカールという方は、一言のもとに、「イスラムとブッダの言葉は同じものである」と喝破したお姿を思い浮かべた、と、こういうふうに言っておられます。これは珍しい一例だと思いますけれども、しかしいずれにしましても、繰り返し言いますが、仏教とイスラムというもの、日本から共存・共生・共栄の方向へ向かって努めていきたいと。しかし日本人は、イスラムのことについては、あまりにも知らなすぎるんではないか、というふうに感じて、これから我々も関心をもって向かっていかなければいけないんじゃないかなというふうに、繰り返し思っている次第でございます。
 
金光:  今でもテレビのニュースなんか見てますと、あっちでもこっちでも戦争だとか、あるいは殺人だとか、そういう意味でのムスリムの人たちを強調しているように思われると、これは実際の向こうの、最初に東先生がシリアにいらっしゃった時に感じたような、非常に穏やかな人の心の広い方が、文化の中に息づいて生きているという、そういう世界とはあまりにも懸け離れておりますので、もっと本来的なところを日本の人ももっと知るように努力されると、その辺のイスラムのムスリムの人たちに対する考え方も、自ずと違ってくるんではないかなというふうに、先生のお書きになった本などを拝見して、そう思ったわけですが、今日はありがとうございました。
 
     これは、平成二十七年三月一日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」で放送されたものである