他力念仏で「いのち」をみつめる
 
               龍谷大学名誉教授 浅 井(あさい)  成 海(なるみ)
一九三五年、福井県に生まれる。一九六八年、龍谷大学短期大学部講師に奉職。一九七○年、龍谷大学短期大学部助教授。一九七五年、龍谷大学文学部助教授。一九八○年、龍谷大学文学部教授。一九八七年、龍谷大学文学研究科教授。その間、入試部長・宗教部長などを経て、現在は、龍谷大学仏教文化研究所長。文学博士。福井県敦賀市浄光寺住職。二○一○年六月逝去。
 
ナレーター:  今日は、「他力念仏でいのち≠みつめる」と題しまして、龍谷大学名誉教授の浅井成海さんにお話頂きます。私たち人間にとって、年を重ねて老いていくいのちをどう生きるか。また病気をどう乗り越えていくか。そして死をどう受け止めるかが大きな課題であり、仏教では一番の問題とされています。仏教で「老・病・死」を取り上げているのは、まさに他人事ではなく、私たち自身が自分のこととして、真っ正面から見つめなければならない課題だからです。浅井さんは、「病気は健康と一つに考え、死は生きると一つに考えることが大切である」と言います。若い頃、肺結核で療養生活を送った浅井さんは、長い間悩み苦しんだ後、病気から逃げるのではなく、病気と向き合うことで「他力念仏」に出会ったと言います。病気と向き合うことで理解できたという仏の教えについて、浅井さん自身の体験を通してお話頂きます。浅井さんは、一九三五年(昭和十年)福井県生まれ。龍谷大学大学院の博士課程を修了。福井県敦賀市(つるがし)の浄光寺(じようこうじ)の住職と龍谷大学の教授を兼ねてきました。そして去年からは所属する宗派の教学伝道研究センターの所長を務めています。それでは「他力念仏でいのち≠みつめる」。浅井成海さんのお話です。
 
浅井:  華やかな桜の季節も終わり、心落ち着いた日々が続くようになりました。今年は三月の終わりになっても寒い日が続き、もう各地で桜の便りが聞かれます頃、雪のたよりも聞かれて、不純な気候が続きました。学年末より新学期の季節になると、いろいろ思い出が多く、四十数年前のことになりますけれども、高校の教員をしていた頃が思い出されます。教員をしていた頃は、大学院を終わって、更にドクターコースに進みながら勉強しながら教員をしていました。私にとっては大変大切な時代でもあり、青春の思い出の時代でもあります。前年の十二月頃より授業に行くと、咳が止まらず、どうしてだろうと思って近所のお医者さんに行くと、「風邪です」との診断で、安心しながらも、〈どうしてだろう、どうしてだろう〉と思っていました。新学期では、高校での集団検診があります。私は新しいクラス担任が決まって、さあこれから張り切っていろいろなことをしていこうと思っていた頃でしたので、保険医の先生が真剣な顔をして私のところへ来られ、「浅井先生、この間の集団検診の結果が良くないのです。両肺が曇っているのです。さらに精密検査が必要です。その結果次第では、入院して長期療養に入って頂く必要があります」とのことでした。私は、それを聞いて大変不安になりました。〈この先どうなるのだろう。長期療養というけれど、どのくらいだろう〉などと、いろいろな思いをめぐらしました。長女が生まれてまだ二歳頃でした。再検査の結果は悪く、長期入院ということで、大阪府高槻市の国立療養所に入りました。何年療養する必要があるのか、とても不安な気持ちで療養所への坂道を歩きました。妻が入院のための荷物を持って送って来てくれました。療養所の入り口近くに大きな目連の木があり、真っ白で大きな花を咲かせていました。私は、不安な気持ちで坂道を上りながら、とてもその目連の花が印象に残っています。これから先どうなるのだろうかという不安な心を持ちながらも、その目連の白の美しさが目に沁みました。今まで立ち止まって自然の美しさに心を止めたことはありませんでした。最初の頃は重症患者ということで、個室に入り、絶対安静が続きました。朝九時頃より十二時頃まで安静の時間があり、途中で一回休憩がありました。そのような折に家内が買って来てくれた植木鉢の花に水をやりました。小さな鉢ですが、精一杯の力で花を咲かせます。今までは忙しい忙しいの生活ですから、向こうばかり見ての生活です。この仕事が終わったら次の仕事、その仕事が終わればまた次の仕事と、四季の移り変わりやあらゆるいのちの中に私は支えられているのだという、そういうことも忘れていました。またこんな思い出があります。個室で療養しておりますので、夜など安静の時間、静かに外の様子を聞いておりますと、嵐の夜など風が激しく吹いてきますと、それぞれの庭木がザワザワザワザワと音を立ててしっかりと大地に根を張って、その風に負けないように堪え忍んでいる音が聞こえてきます。ああ、それぞれの樹木が精一杯力を尽くして風に負けないように生きているのだなということを、その音を聞きながら思うことができました。病気をして安静の生活を送る中で立ち止まる生活であり、辛い生活であるかも知れませんが、しかし立ち止まって足下を見つめる生活の中で、いろいろなことを教えられました。生かされていることをお教え頂きました。一年十ヶ月に及ぶ療養生活でしたが、それは私にとっての大きな経験だと言い得ましょう。今、私は、ささやかな若き時代の体験を通して、生かされていることをお話致しました。人生の挫折はさまざまです。長年連れ添った伴侶を失うこともあります。絶望的な大病をすることもあります。絶対大丈夫と信じていた人に裏切られるということもあります。長い人生ではもう生きられないという挫折もあります。そのような時でも、生かされているのだという生き方をお教え頂くことは、どうしたらよいのでしょうか。親鸞聖人の最晩年の和讃「正像末和讃(しようぞうまつわさん)」の中に、
 
如来の作願(さがん)をたずぬれば
苦悩の有情(うじよう)をすてずして
回向(えこう)を首(しゆ)としたまいて
大悲心をば成就せり
 
とあります。阿弥陀如来が、あらゆる人々を救いたいと、願いを起こされ、その起こされた理由は、大きな挫折の中で、もう生きられないと座り込んでしまう私のために、必ず救う、乗り越えられる南無阿弥陀仏と念仏の行(ぎよう)を完成してくださり、その苦しみを乗り越えていくことのできる道を工夫してくださったのです。如来様の大慈悲心の働きによるからであります、と讃えられます。一時的な挫折ではなく、もうどうにもこうにもならない挫折に対して、それを乗り越える道のために、「南無阿弥陀仏」と呼び声となり、それを聞かせて頂く中で、如来様の大慈悲心が念仏の行となって、今私のところに働き掛けてくださっているのです。「苦悩の有情」苦しみを抱えて生きとし生ける人々という意味でありますが、大いなる働き、ただ念仏申す生活の中で、その私のために生かされることをお教え頂きます。人生の挫折の厳しい事実は、どうにもこうにもならない事実です。しかし乗り越えられる阿弥陀様の大慈悲心の「南無阿弥陀仏」と働き掛けてきてくださるそのお名前を、「南無阿弥陀仏」と聞かせて生き抜いていく歩みをお教えくださるのです。そのお念仏の心を頂くことによって、今まで気付かなかった大いなる働きの中にあることを知らせて頂きます。そのお心を頂けば、ものの見方や考え方が変わってくるのです。NHKの出版社より『60歳のレブレター』という本が七冊出版されています。どのような苦しみ悲しみを体験した人のご夫婦が、「ありがとう」と乗り越えてきた事実を纏めたものです。その中の一文を次に読ませて頂きます。埼玉県、中根さん、五十六歳の文章です。
 
二十年前よね。
三十八歳で脳梗塞で倒れ、手足が動かない。息を吹くことも、話すこともできない・・・。自分の思いを伝えられず、ただ私の目を見ているだけ。
死んだほうがいいと思ったよね貴方は。
でも私は、六歳と四歳の子供達のためにはその目がほしかった。壁に寄りかかっているだけでもいい。子供達の成長を喜んで見ていてくれるあなたの目がほしかったの。
おかげで子供達はやさしく育ったでしょう? 貴方が歩きやすい新しい家を建ててくれ、同居して仕事を手伝ってくれる息子。
すぐ飛んできて、貴方を立たせてくれるやさしい男性と結婚した娘。
かわいい孫もでき、今こんなに倖せじゃない。
貴方だって努力して半身マヒの身体で仕事をし、父親として家庭をささえてきたじゃない。
貴方も辛かった、私も大変だった・・・。
でも生きていて良かったでしょう?
ささえてくださった、たくさんの人達に感謝しながらもうしばらく、静かに暮らしましょうよ。
生きていてくれて、本当にありがとう。
(中根幸子 埼玉県滑川町 五十六歳)
 
感動的な文章です。私の説明は要らないのですが、まったく動けなくなったご主人の目だけを支えとして、しかもその目に支えられて、お二人の子どもを育ててこられ、その苦労を乗り越えられました。最後の方で、「あなた、生きてきてよかったですね。多くの人に支えられてきました。多くの人たちに感謝しましょう」と語っておられます。特別に「お念仏の心」「阿弥陀仏のお慈悲の心」と、そのようなことは語っておられませんが、絶望的な中に、ここまで言い切れる生き方は、如来様の働きを受け取らせて頂きます。親鸞聖人のおっしゃる「如来の作願(さがん)」願いを受け取らせて頂きます。積極的な温かく強い生き方の中に、親鸞聖人のお教えくださる大慈悲心の働きを読み取らせて頂きます。絶望的に沈み込んでしまうこともあるけれど、今このいのちを賜って、今このいのちを生きることの有り難さを、「南無阿弥陀仏」と聞かせて頂きます。
もう一人、ご紹介させて頂きます。長い療養所生活の中で、私にとっては忘れることのできない方がお出でになられます。高畠とおっしゃる学校の先生をなさっておられた方であります。十五年も療養しておられました。腹膜という病気を拗(こじ)らせて、そして長年の療養生活をしておられました。十五年の療養の間、お母さんがバスと電車を乗り継いで、高畠さんに弁当を毎日運んで来ておられました。いつでも高畠さんの元気になるのを、心を込めて支えておられました。ある時お母さんに、「よく尽くされますね」と申し上げたところ、「なんとしてでも、この子がもう一度教壇に立って活躍をしていくように、できるだけのことを尽くしたいと思っております」とおっしゃいました。高畠さんは、重症のお方でありましたので、直接俳句の会に出て来られることはなかったのですけれども、俳句を作っておられました。私も少し元気になって動けるようになりましたので、その俳句会にも出て、そして重症で俳句の会に出席できない方々は、俳句だけを投句されます。その俳句を集めて、そして先生がお出でになられて句会を開きます。そういう会が毎月開かれました。その時、高畠さんの一句が大変感動を呼んで、みんな素晴らしい句だということで最高点になりました。その句は、
 
雪ふるや受けるのみなる母の愛
 
結核療養所は、冷やしてはいけないので、その当時は湯たんぽを入れて病室で暖を取るというようなことでありました。高畠さんの部屋は個室ですので、雪が後から後から降ってくる、それを見ながら、自分の一生を振り返られて、ただひたすら受けるだけの母の愛だったなと、そのように俳句で詠っておられるわけであります。何にも母親に返すことはできないという思いと同時に、〈お母さん、ありがとう。いろいろな大病はしたけれども、生かされております〉という気持ちを「受けるのみなる母の愛」という、この俳句の中で表現をしております。よく俳句を集めに行きますと、高畠さんは、親鸞聖人と唯円房(ゆいえんぼう)とが語られた『歎異抄(たんにしよう)』という本がありますが、それを読んでおられて、枕の下にその本を置いておられて、「浅井さん、『歎異抄』を読んでおりますよ」とお声を掛けてくださったことがあります。私が退院して間もなく、高畠さんが亡くなられたという訃報をお聞き致しました。しかし私にとっては、忘れることのできない思い出の一人ということになります。人生の挫折の厳しい事実は、どうにもこうにもならない事実です。しかし乗り越えられる阿弥陀仏の大慈悲心であり、南無阿弥陀仏と生き抜いていく愛にもお教え頂くのです。親鸞聖人は、また「智慧の念仏」ということをおっしゃいます。同じような「正像末御和讃」の中に、
 
智慧の念仏うることは
法蔵(ほうぞう)願力のなせるなり
信心の智慧なかりせば
いかでか涅槃をさとらまし
 
そのように御和讃になっております。智慧というのは、知識とは違います。知識はいろいろなことが解って、〈あれも解った、これも解った。もう私は仏教の心も充分理解しました〉と、むしろ頭を上げていく世界が知識の世界です。智慧の世界は、現実の厳しい事実にぶつかりながら、いろいろな原因や条件が噛み合ってくるならば、これは私が受け入れ、乗り越えていくのです。あらゆる網の目のような原因の働きの中に、私一人の力ではなかった、いろいろな原因や条件の中でその事実を見きわめ受け入れ、しかもその事実に潰されない、その事実に負けない、乗り越えていく、そういうみ教えに遇わせて頂くことが、智慧の念仏を得るということになります。しかし現実はなかなか厳しいので、その現実にどうしても押し潰されそうになります。押し潰されるのではなくて、仏さまの働きを聞かせて頂き、お念仏を聞かせて頂く中に、その事実を受け入れながら、その事実の中にまた大慈悲心の働きを頂いていくことになります。「仏さまなんかおられますか? こんな辛い悲しいことに出会ってもう生きられません」とおっしゃる方があります。自分の中に閉じ籠もらず、少し周りに目を向け、耳を傾けてみましょう。花があり、水があり、空気があり、あらゆるいのちに支えられています。しかも御仏の大慈悲心の働きを、私たちに伝えてくださった法然上人がおられます。親鸞聖人がおられます。私たちの先祖は、私の前を「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と歩いて行かれます。
 
     これは、平成二十二年四月十八日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」で放送されたものである