聖書によむ「人生の歩み」K死・永遠
 
         関西学院大学名誉教授・東京女子大学元学長 船 本(ふなもと)  弘 毅(ひろき)
 
ナレーター:  聖書によむ「人生の歩み」その十二回「死・永遠」、お話は関西学院大学名誉教授で東京女子大学元学長の船本弘毅さんです。
 
船本:  この年度は、「聖書によむ人生の歩み」をテーマに、人生のいろんな場面で聖書は何を語り、私たちは聖書から何を聞くことができるか、ということを共に考えてきました。そして最終回を迎えることになりました。まだ多くの課題が残されていますが、次の機会に譲ることとして、今月は「死・永遠」をテーマにご一緒に考えたいと思います。「死」ということを考える時、思い出すいくつかの言葉があります。作家の三浦綾子(みうらあやこ)(女性作家、小説家、エッセイスト。 結核の闘病中に洗礼を受けた後、創作に専念する:1922-1999)さんは、晩年「私にはまだ、死を迎えるという大問題が残されている」とよく語っておられました。言うまでもなく、「死」は大きな、そして重い課題であります。『徒然草(つれづれぐさ)』の中で兼好(けんこう)(吉田兼好。鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての官人・遁世者・歌人・随筆家)が、「死は前よりしも来らず、かねて後(うしろ)に迫れり」と述べているのは有名です。「死」はうしろから、すべての人に忍び寄ってきます。日野原重明(ひのはらしげあき)(医師・医学博士。一般財団法人聖路加国際メディカルセンター理事長、聖路加国際病院名誉院長、上智大学日本グリーフケア研究所名誉所長、公益財団法人笹川記念保健協力財団名誉会長、一般財団法人ライフ・プランニング・センター理事長、公益財団法人聖ルカ・ライフサイエンス研究所理事長:1911-)先生が、母校の関西学院で学生たちに向かって、「私は内科の医者だから、今まで多くの方の死に立ち会ってきた。そしてつくづく思うことは、死は本人が考えているより必ず先に来るということです」と語られた言葉も、私は忘れることができません。死は間違いなくすべての人に訪れてきます。「一番確実な統計は、生まれてきた人間は百パーセント死ぬ、ということだ」と言われています。死を避けて通ることは、誰にもできないのです。しかもその死は、本人が思っているより先にやってくるとすれば、私たちはこの問題と正面から向き合い、直視することを求められているということになります。そして死と向き合うということは、どう生きるかという、生の問題と向き合うことでもあると思います。トルストイの有名な民話に、『人はなんで生きるか』というのがあります。天使ミハイルは、一、この人間の中にあるものは何か。二、人間に与えられていないものは何か。三、人間はなんで生きるのか、という三つの問いの答えをさがすために、天から地上に落とされました。礼拝堂の後ろに死んだようになって壁にもたれて座っていたところを、通りがかった貧しい靴屋のセミョーンに助けられ、その家に連れて行かれ、靴屋の仕事を学びながら、店を手伝っていました。一年の年月が経った頃、ミハイルの腕は評判となり、彼ほど丈夫に手綺麗に靴を作るものは、この界隈にはいないという噂が広まり、注文が殺到するようになり、セミョーンの収入は増えていきました。ある冬の日のこと、彼の店に三頭引きの箱橇(はこそり)に乗ってやってきた毛皮外套に包まった立派な旦那が、今まで見たこともないような上等の皮を持ち込み、「一年ぐらい履いても、形の崩れない、縫い目の切れない長靴を作れ」と命じました。ミハイルは、その怒鳴り散らす旦那の背後に、死の天使が立っているのを認めたので、彼は長靴ではなく、スリッパを縫い始めたのでした。それに気付いた主人のセミョーンは、「おまえ、こりゅいったいなんということをしてのけたんだね? おまえはわしをとんでもない目にあわせてしまったよ!旦那は長靴を注文していったのに、おまえはいったい何を縫ったんだ?」と、小言を並べ始めるや否や、さっきの金持ちの旦那に就いて来た若い下男がやって来て、「帰り道で旦那は死んでしまった。長靴は要らなくなってしまった。死者に履かせるスリッパを作ってほしい」と言ったので、ミハイルは仕上げたばかりのスリッパを彼に手渡した。そして彼は、神から与えられた三つの課題のうちの一つ、「人間に与えられていないものは何か」を悟ったという話です。死は必ず訪れますが、それがいつかは人間には知ることを許されていないのです。このことは、人間にとっては恐怖ですから、そこから逃げだそうとするさまざまな試みが、古来繰り返されて来ました。ギリシャ人は、霊魂の二元論を用いて、体は死を迎えても、魂は不滅であり、死によって霊魂は肉体を離れて天の世界にいくのだと考えて、死の恐怖から逃れようとしました。ヘレニズムの神秘宗教は、人間は死後完全に神と合一すると考える。また東洋思想の中には、来世を思うことによって、死の恐れを克服することを説くものもあります。あるいは不老不死の薬を求めて、主人のために僕(しもべ)が世界の各地を訪ね求めたというようなことも起こりました。それでは聖書は、死をどのように理解しているのでしょうか。これまで何度もお話してきましたが、聖書は、「人間は神によって創造され、生命の息を吹き込まれて生きる者となった」と語っています。そして聖書は、二元論の立場には立たず、人間は霊魂と肉体の統一体であると考えています。ですから聖書によれば、死は肉体のみのことではなく、霊と肉からなる人間全体が消失するということであり、悲しく辛いこととして受け止められています。「ヨハネによる福音書」は、愛するラザロの死を前にして、イエスが涙を流されたと記しています。
 
イエスは、彼女(マリア)が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤(いきどお)りを覚え、興奮して言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは、「御覧なさい。どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。(ヨハ十一・三三―三六)
 
旧約聖書の「詩編」三十編の十節には、
 
わたしが死んで墓に下(くだ)ることに
何の益があるでしょう。
塵があなたに感謝を捧げ
あなたのまことを告げ知らせるでしょうか。
 
と記しており、死によって人間と神の交わりは絶たれ、神に感謝と讃美を捧げることができなくなると考えていました。「ヘブライ人への手紙」の九章二十七節には、
 
人間には、ただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている
 
と明記されています。さらに「ローマの信徒への手紙」の六章には、「死は人間の罪の価いである」という叙述が見られます。
 
あなたがたは、罪の奴隷であったときは、義に対しては自由の身でした。では、そのころどんな実りがありましたか。あなたがたが今では恥ずかしいと思うものです。それらの行き着くところは、死にほかならない。あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。(ロマ六・二○―二三)
 
神から離れ、おのが道を生きようとする罪の人間は、肉に従って生きる者であり、その人間は死ぬしかないと、パウロは明確に述べているのです。しかし、注目すべきことは、聖書は死を、罪の払う価いであると厳しく受け止めつつも、死によって、一切が終わったとは考えていないということです。人間は死んだのち、裁きを受け、やがて復活にあずかります。そして、死んで甦られたキリストの支配のうちに置かれるということを語っています。ですから死は肉体の破れであり、人間は自分に頼ることをやめて、死者を復活させてくださる神を頼りにするものとなるのです。生においてと同様、死においても、イエス・キリストが、わたしたちの主であることを信じる者となるのです。そして、パウロは「フィリピの信徒への手紙」一章の二十節以下でこう語っています。
 
これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。こう確信していますから、あなたがたの信仰を深めて喜びをもたらすように、いつもあなたがた一同と共にいることになるでしょう。(フィリ一・二○―二五)
 
獄中の捕らわれの身として、生と死を見つめたパウロのこの言葉は、キリスト教信仰における「死の問題」に一つの光を当てていると思います。パウロはここで、この世を去って、キリストと共にいることが、わたしにとって今、望ましいことだと率直に語っていますが、そのことは、死の彼方に、終末の希望の国・ユートピアとでも言うべき場所が保証されていると言っているのではありません。パウロは、信仰に生きるということは、目に見えるものに頼らず、信仰によって歩むということであり、大切なことは、キリストにある命は、肉の命と死を超えた、将来に向かって開かれたものであると語っているのです。キリスト教信仰に生きるものにとって、死がすべての終わりでないと言えるのは、しかし実際キリストは、死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂(はつほ)となられたのです、という信仰があるからです。ですからパウロは、フィリピの信徒たちに、わたしはイエス・キリストを知ることのあまりの素晴らしさに、今まで頼りにしていたすべてを失っても、それを塵(ちり)芥(あくた)のように見ています、と語った後に、今、わたしは獄中にありながら、「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」と強く望んでいるのです。キリスト者に与えられ、今も私たちの中に働き続ける聖霊は、「霊の初穂」(ロマ八・二三)と呼ばれ、キリストの復活と聖霊は密接に結合しています。そして、わたしたちの本来は死ぬべきからだも、聖霊によって生かされることによって、生きる者とされるというのです。パウロは「ローマの信徒への手紙」八章十一節でこう述べています。
 
もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。
 
キリスト者は、いわゆる霊魂不滅といった考え方によってではなくて、聖霊によって生かされている者として、今、イエス・キリストの復活の時と、やがて神によってもたらされる終末の時との間を、信仰と希望と愛を持って、キリストに聴き従って共に生きるものなのです。私にとって確実なことは、今、目の前にあること、自分の手で触れることの出来るもの、自分の意志で自由に処理することの出来るものだけであり、将来はどうなるかわからないと考える人が最近特に多いようです。現世主義・刹那主義などと呼ばれる風潮が、わたしたちを取り囲んでいるようです。望みや夢の持ちにくい時代の中で、これはある意味では避けられないことなのかも知れません。そういう時代の中で、終末とか終末論とか言われてもピンとこないと思う人が多いかも知れません。しかしキリスト教信仰においては、終末の時を考えることは、非常に重要な意味を持っています。それはやがて良い時がやってきて、大いに楽しめるだろうと、漠然と待つということではなく、終わりの時は審判の時であり、しかし同時にそれは救いの日として理解されています。
 
神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」
 
アルファ・オメガは、ギリシャ語のアルファベットの最初と最後の言葉が組み合わせれたものであり、神が初めであり、終わりであるという考え方は、預言者のイザヤに既に見られ、「ヨハネの黙示録」の二十二章十三節では、イエス・キリストについて、そう述べられており、歴史の完成者である神のすべての目的が、キリストにおいて初めから終わりまで全うされることが語られています。これは終末の日にキリストが再臨するという考え方と結び付いて、初代教会では弟子たちは、マラナタ(主よ、来たりたまえ)という祈りを祈り、それを日常の挨拶として称えていたと言われています。ですから終末を思う信仰は、初代教会の信仰において重要な位置を占めていたと言えます。イエスの教えてくださった祈りとして、「主の祈り」を私たちは絶えず祈っていますが、その中には「み国を来たらせたまえ」、「み心の天になるごとく地にもなさせたまえ」という祈りがあります。ここには歴史を支配し、一切のことをご自分の計画の中に入れたもう、生ける者と死せる者との主である神への信頼、その実現者としてのイエス・キリストの再臨を待ち望む、終末の信仰が言い表されています。イエスが、天にあげられる時、弟子たちに「祈って待ち、約束のものを受けなさい」といわれました。弟子たちは、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねると、イエスは、
 
父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。
 
とお答えになられました。終わりの日がいつかは、私たちの自由になる時ではないし、神の定められる時であり、私たちは信じて待つほかないのです。そしてこの希望と愛を持って生きることが、私たちには求められています。終末の希望は、個人の期待や望みではなくて、あるいは民族的な野望や欲望でもなくて、イスラエルの民としての希望として、聖書では語られています。
「死・永遠」というテーマを、聖書からいわば教理的に学んできました。少し難しい教理であったかも知れませんが、最後に「詩編」の九十編に聴きつつ、このテーマをさらに深めてみたいと思います。「詩編」は、旧約文学の白眉をなすものであり、イスラエルの民の信仰の結晶であると言われています。民族や人種や年齢を越えて、全世界の人々に愛読されてきた文書であるといっても過言ではないでしょう。ユージン・ピーターソンという牧師であり、大学の講師も務めた方の『詩編とともに祈る三六五日』という瞑想と祈りの本を共訳で出したことがあります。幸い多くの人々が、本書を用いて毎朝祈りの時を持っておられます。ピーターソンは、この本の前書きの中でこう記しています。
 
人はだれでも何かについて祈ります。祈りは最も人間らしい行為であると言えます。
わたしたちは神の声によって、また神の声に向き合うようにつくられました。神の声に耳を傾け、応答することは、人間の最も人間らしい行為です。わたしたちは祈る時、最もわたしたちらしくなるのです。
真実な自己に満足できないでいる者たちは、祈りを深めることを求めます。そしてこの「詩編」はその宝庫になることでしょう。
 
「詩編」は、一五○の詩からなっていますが、この中で最も広く親しまれているものの一つは、九十編です。こんな言葉で始まっています。
 
主よ、あなたは代々(よよ)にわたしたちの宿るところ。
 
「宿るところ」と新共同訳聖書が訳したところを、文語訳、口語訳、フランシスコ会訳の聖書は、いずれも「すみか」と訳しています。「すむか」は人間にとってどこよりも安らぎを覚え、くつろげるところです。たとい狭くて乱れていても、そこがその人にとって一番落ち着けるところであり、安心できる場であると言えるでしょう。旧約聖書が書かれた時代の人々にとっては、「すみか」は単に安らげる自分の家であるのみではなくて、自然の猛威や獣の襲撃から身を守る「とりで」「城」という意味も持っていたことでしょう。それは「生命を守る場」であり、「人の生を支える場」でもありました。「詩編」の中には、神を表現する多種多様な言葉があります。「創造者」「全能者」「王」「主人」と言った伝統的な用法に加えて、「詩編」には「わが岩」「わが城」「わが隠れ家」と言った、あなたとわたし、われと汝の関係で、神を捉える表現が多く用いられており、そこに「詩編」の特色をみることができると思います。そして神の前には、人の一生はなんと短く儚いものであるかを認めて、
 
千年といえども御目(おんめ)には
昨日が今日へと移る
夜の一時(ひととき)にすぎません。
 
と告白しています。ここに使われている「夜の一時(ひととき)」という表現は、当時、夜を三つに分け、「初更(しよこう)」「中更(ちゆうこう)」「終更(しゆうこう)」と呼んでいた中の一つということですから、いわば夜の三分の一、本当に短いものにすぎないと言っているのです。しかし聖書は、たとい短く儚い人生であっても、それを適当に過ごせばよいとは決して言わないんです。その短さ、儚さの中に人間の罪を認め、神の裁きへと目を向けさせるのです。
 
あなたの怒りにわたしたちは絶え入り
あなたの憤りに恐れます。
あなたはわたしたちの罪を御前に
隠れた罪を御顔(みかお)の光の中に置かれます。
わたしたちの生涯は御怒(みいか)りに消え去り
人生はため息のように消えうせます。
人生の年月は七十年程のものです。
健やかな人が八十年を数えても
得るところは老苦と災いにすぎません。
(またた)く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。
(詩九○・七―一○)
 
人は何のために生きるのか、老苦と悩み多い人生に何の意味があるのか、この問いは、洋の東西を問わず、古来常に問い続けられてきた問いです。旧約聖書の「コヘレトの言葉」は、「なんという空(むな)しさ、なんという空しさ、すべては空しい」という言葉で始まり虚無的な思いが、全体に流れているのですが、三章では、
 
何事にも時があり
天の下の出来事にはすべて
定められた時がある。
生まれる時、死ぬ時
植える時、植えたものを抜く時
神はすべてを時宜(じぎ)にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。
(コヘ三・一―二、十一)
 
と語っています。聖書は、この世は滅び行く世でありながら、虚無に陥り、自暴自棄になるのではなく、すべてのことに時があり、「神のなさることは皆、その時にかなって美しい」と語り、人間に永遠なる神の前に立つことを求めています。弱い、はかない存在であるとしても、そのままで神の前に立つことがゆるされ、求められているのです。「詩編」九十編の中心をなすのは十二節ですが、新共同訳聖書は、
 
生涯の日を正しく数えるように
数えてください。
知恵ある心を得ることができますように。
 
文語訳は、「願わくは、われらにおのが日をかぞふることををしへて、智慧のこころを得しめたまへ」、口語訳は、「われらにおのが日を数えることを教えて、知恵の心を得させてください」、フランシスコ会訳は、「残りの日を数えることを、わたしたちに教え、知恵の心をわたしたちに得させてください」と訳しています。
「生涯の日」「おのが日」「自分の日」「残りの日」と少しずつ表現は異なりますが、私たち生きる「おのが日」「自分の日」は、「残りの日」であり、限りある日であるという思いを含んでいる点では一致していると言ってよいでしょう。人間の一生には限りがあり、人には限りある一回限りの人生しかない、そういう生を私たちは生きています。しかし、それだから、なるようにしかならないとして生きるのではなく、残された人生の一日一日として大切に生きることが求められているのです。それでは私たちは、その日をどのように数えれば良いのでしょうか。第一に自分の日を、自分の側からのみ見るのではなく、神の方から見ることが大切なのではないでしょうか。先ほど言いましたピーターソンは、「どのような瞬間にも価値があります。しかしそれは、私たちが自分の存在価値を発揮するため、あるいはこの世に自分の業績を残すために、常に忙しくしているという意味での価値ではなく、神があらゆる時を用いて、私たちを愛し、導き、正し、救おうとされているという意味での価値です」と述べているのは注目に値します。神に目を向けて、自分の日の意味を問うことが求められているのではないでしょうか。第二に大切なことは、私たちの生は、自分の権利、自分の自由になるものではなく、神から与えられ、許されているものだということを、しっかりと理解することです。さらに「詩編」は、それに続けて「知恵ある心を得ることができますように」と求めています。おのが日を数えることを教えてくださいという願いが、正しく自分の日を数えて生きる道へ導かれ、自分の栄光のためではなく、永遠を目指して生き抜きたいものであります。人は死に向かって生きています。しかし、主にあっては、それは希望に生きる歩みなのです。一日一日を主から与えられた大切な日として生き抜くものでありたいと心から願います。
 
     これは、平成二十七年三月八日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」で放送されたものである