仏の智慧で心のケア
 
                    龍谷大学教授 友 久(ともひさ)  久 雄(ひさお)
一九四二(昭和一七)年、兵庫県姫路市生まれ。神戸医科大学(現神戸大学医学部医学科)卒業。神戸大学大学院医学研究科博士課程(精神神経科)修了、医学博士。重症心身障がい児施設枚方療育園医長を経て、一九七四(昭和四九)年京都教育大学助教授。この間、浄土真宗本願寺派(西本願寺)の日曜学校や仏教青年会(Y.B.A.)に属し、乳児院や養護施設の慰問(ボランティア)を続ける。京都教育大学教授、京都大学客員教授・非常勤講師を経て、二○○二(平成一四)年より龍谷大学教授。京都大学医学部附属病院医師、京都教育大学名誉教授、本願寺派布教使。
 
ナレーター:  今日は、「仏の智慧で心のケア」と題し、医学博士で龍谷大学文学部教授の友久久雄さんにお話頂きます。友久さんは、精神科医としてさまざまま悩みを持つ人たちのカウンセリングに当たってきました。一方で二十年ほど前には、得度し、僧侶の資格も持っています。その友久さんが、八年前から取り組んでいるのが、仏の智慧を心のケアに活かす仏教カウンセリングです。悩みを持つ人に仏の教えを提示して、より深く問題の本質に向き合って貰うことで、解啓プセラピー(グループカウンセリング)のことをいう。パストラル・カウンセリングはカトリックの「懺悔・告解」の歴史とは異なるものであり、人間の原罪による罪深さを強調するのではなく、カウンセリング技法と宗教的博愛(慈愛)の融合による「支持・保証・指導・癒し」を与えていこうとするものである)」と言って、パストラル(pastoral)というのは、「僧侶」という意味なんですけども、日本語では「牧会カウンセリング」と言いますが、そのようなカウンセリングがもともとのカウンセリングでありました。人の悩みの内容を大きくわけで、私は二種類に分けられると思っています。一つは、日常生活上の悩みで個人個人の悩みです。例えば職場とか学校とか、そういうふうなところでの対人関係、あるいは進学や結婚、そういうふうなことで、すべて人が持つような悩みです。もう一つは、人間は何のために生きているか、死んだらどうなるかという悩みで、これは人間として生来性に持つ悩みで、すべての人が持つ人類共通の悩みだと考えています。この中で日常生活上の悩みは、先ほどの言いましたカウンセリングによって解決するということになりますが、人間は何のために生きているか、死んだらどうなるのかという悩みは、人間の能力では解決できない悩みで、人間を超えたもの智慧で解決する、と私は考えています。一般的な言い方をすれば、これを宗教的な関わりと言います。カウンセリングでは、自分の悩みを通して、あるべき自分に気付くこと、これがカウンセリングでは中心になります。もっと詳しく言いますと、自分の悩みが深まり、自分の経験を再検討する。そして深い自己洞察をする。そして人の前でつくろっていた自分、即ち被っていた仮面に気付き、その仮面を脱ぎ捨てるということが大きな仕事になり、そして仮面を脱ぎ捨てることによって、あるべき自分を見いだし、自己の実現を促していくと。その結果人間としての成長が期待できるわけです。カウンセリングでは、人間としての成長は望めますが、人間の真の問題、例えば先ほど言いました、何故自分は生まれてきたのか、何のために生きているのか、死んだらどうなるのか、などの真の問題は解決できません。人間を超えたものの智慧がなければ、この真の問題は解決できないと、私は思っています。この人間を超えたものの智慧がなければこの真の問題は解決できないと、私は思っています。この人間を超えたものの智慧に目覚めるためのカウンセリングが、仏教カウンセリングだと考えています。カウンセリングに仏の教えを取り入れ、問題解決を促していくということになろうと思います。「仏教カウンセリング」という言葉は、一九六四年藤田清(ふじたきよし)先生が初めて著書でお使いになった用語です。現在では西光義敞(さいこうぎしよう)先生の「真宗カウンセリング」、あるいは浄土真宗本願寺派、いわゆる西本願寺が取り組んでおられる「仏教ホスピス」などがあります。仏教カウンセリングの目的というのは、仏の教えを通して、人生の目的、意義、死の問題などを解決し、心の安定を求めると考えています。私が、カウンセリングにおいて仏(ぶつ)の智慧の必要性を感じるようになったのは、四十を越える頃、いわゆる不惑の年齢になって生死の問題が常に気になっていた時のことです。ある夜、ふと目を覚ましてじっと天井を見つめている時でした。何故か徐々に呼吸が大きく深くなっていきました。それが頂点に達した時、吐く息と共に「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」が口から飛び出しました。このようなことが何回か起こりました。この体験が、私を、人間を越えたものの智慧、即ち仏の智慧に目覚めさせてくれました。この体験後の私には、特別のことが起きたわけではありませんが、何のために生きているのか、死んだらどうなるのかという、根源的な不安が取り除かれ、「あるがまま、今のまま」が受け入れられるようになり、今ここに生きていることの喜びや生かされていることの感謝の念をより強く感じるようになりました。また日常生活においては、怒りや腹立ち、愚痴や貪(むさぼ)りなどの心は相変わらずありますが、以前に比べればその根もとが断ち切られたような感じで、心の表面に「あ、また出てきたなあ」と感じられる程度で、心の底から怒りや腹立ちなどの感情が出ることは無くなりました。このような私の体験から、解決できないことを悩みとされている相談者には、人間の本源的な問題を解決することの必要性と自らの体験を通したそのための方法を伝えていくことの重要さを感じています。お寺の法座では、一対複数という形でお話をされますが、カウンセリングはそれぞれの人の悩みを、個々の悩みを一対一で聞いていて、それに対して指導していくという形になります。いわゆるカウンセリングという傾聴ではなく、仏への目覚めの方向へ積極的に指導していくということが、仏教カウンセリングの大きな仕事であると思います。カウンセリングは、西洋から始まったものであり、西洋的な自我と日本のような東洋的な、あるいは仏教的な無我との接点であると、私は考えています。仏教カウンセリングは、現在のところまだ確立されていませんが、これまでの私の経験の中から、自分ではどうしても解決できない悩みを抱えた人に行った仏教カウンセリングについて述べてみたいと思います。本人の希望により、人物が特定できるようなことは勿論、本意を変更しない範囲で表現を変えたことをお断りしておきます。あるお母さんは、子どもさんを亡くされて悲嘆にくれて、カウンセリングに来られました。最初はそのお気持ちをお聞きするだけで、何回も何回もお母さんの悲しみに添っていくという時間を取りましたが、様子を見ながら、「もっともお母さんが、心が癒やされるのは、どんな時でしょうか?」とお聞きすると、「仏さんに手を合わせている時です」という答えが返ってきました。この時、「仏さんとは、子どもさんですか?」と聞きますと、「そうである」というハッキリした答えは返ってきませんでしたが、「違います」とも言われませんでした。そこで「子どもさんが亡くなっておられても、子どもさんがお母さんの心にはおられるでしょう。それが仏さんの心なのですよ。私たちは自分で解決できない問題が起きた時は、人間を超えた智慧を感じることがあるのですよ。お釈迦さまはそのようなことを私たちに伝えるために、人間と同じ体になり、同じ言葉を使い、私たちに知らせるためにこの世にお出になったのですよ」とお伝えします。「今、お母さんは一人で苦しんでいると思っておられますが、実はお母さんと一緒にお釈迦さんも苦しんでおられるのですよ。だから決してお一人ではありません。これからもそのような気持ちでお寺やこちらで話を聞いて頂ければと思います」というような話をします。私は、このような場合、「心を開いて聞いてくださいね」と願いながら、カウンセリングが続けています。このように、お母さんの心を開いて頂くためには、数年の時間が必要な場合が多くあります。仏教カウンセリングは、すべて基本的には年単位だと考えて頂いた方がいいと思います。また別のケースですが、自分の病気を医者から告白され、その内容が不治の病であるという方があります。この時最初は絶望的になられますが、自分の人生を振り返り、自分の人生は何のためのものであったのかと嘆かれることがよくあります。この嘆きをしっかりと受容し、落ち着いてこられるまで、いわゆるカウンセリングを続けます。そして今までの生き方、即ちこの世にばかり目が向いて、自分の生き方や死について、考えたことのない生き方に、反省が生まれるようになると、「私たちで解決できない問題を解決してくださるのが、仏さんであり、智慧と言っています」と説明をします。「しっかりと仏さんの話を聞いてください。必ず仏さんがあなたを救いとって助けてくださいます」ということを伝えます。「そういう経験をされたのが、お釈迦様であり、親鸞聖人なので、お釈迦様や親鸞聖人の歩かれた道をしっかり聞いてください。こういうふうなのを我々は〈追体験(ついたいけん)〉というんですよ」というふうなこともお伝えすることがあります。最後に中学生の男子の不登校を主訴として来所された四十歳代の母親の例です。お母さんは、最初彼の問題点ばかりを指摘されていましたが、カウンセリングが進むにつれて、息子の問題行動の原因は自らにあることに気付かれて、今まで避けて通ってきた夫との意見の不一致にも真っ正面から取り組みまれ、またその結果、両者の関係が安定し、協調的になると共に、子どもの不登校も解消されたという例です。そしてカウンセリングが終結後、一年半頃して、姑とのトラブルで再び来所されました。しかしこの時、カウンセリングにおける自己への気付きと、夫からのサポートにより問題は解決されました。しかしその二年後、医学部を卒業し、研修医である自慢の娘が父親と同年齢の男性と駆け落ち同然の家出をしました。母親は必死で心当たりを探しますが、手掛かりはなく、如何に自分が娘のことを知らなかったのかを思い知らされます。数ヶ月後、娘は一人で家に帰って来ましたが、その家出の原因には、父親が娘と同年齢の女性と不倫をしていたことにあると、娘が言い、まったくそのことを知らなかった母親を軽蔑の眼で見るようになりました。混乱した母親は、カウンセリングで得た自信を喪失すると共に、カウンセリングに懐疑的となり、新興宗教に助けを求めるようになりました。しかしそこでも問題は解決されず、万策尽きて、再びカウンセリングに助けを求め来所されました。お母さんの言葉です。「もう頭の中は堂々巡りで、夫の顔は見るのも嫌ですし、家族の誰とも顔を合わせたくないですが、家にいて顔を合わせないわけにもいけませんし、本当に地獄です。先生、なんとかしてください。私、どうすればよいのですか。いろいろ考えましたがよくわかりません。私の場合、息子、姑、娘、主人と家族全員が次々と問題を起こし、どうして私のところばかりこんなに問題が起きるのだろうかと、死んでしまいたいぐらいです」と、自分の心境を語られました。これに対して、私は次のように答えました。「人間は何でも自分の思いや考えで解決しようと思っていますが、自分の考えで解決できるのは、この世の中ではほんと一握りの表面的な出来事だけです。人間としての根源的な問題は、人間の能力では何一つ解決できません。カウンセリングでは人間としての成長は望めますが、人間の根源的な問題は解決できません。人間とは何か。人間は何のために生まれてきたのか、などの人間の根源的な問題は、人と人との関係では解決できません。人と人を超えたものとの関係でなければ、問題は解決できません。私たち人間は、努力すればすべてのことが解決できると思っていますが、実際はそうではありません。生まれてきたのも、死んで逝くのも、ご子息の母となられたのも、すべてが自分が選んだものではありません。自分の努力でもありません。人間を超えたものの智慧によるわけです。その人間を超えたものの智慧を、私たちは〈仏さん〉とか〈阿弥陀さん〉とか呼んでいます。私たちは、自分の眼や耳など、いわゆる五官を通して感じることしか信じられません。そこで仏さんは、仏さんの話をよく聞く人に、人間の智慧を超えた仏の智慧を持って、私の心と体の中に飛び込んできてくださいます。この体験を〈覚知(かくち)〉、即ち〈悟り〉と言い、浄土真宗では〈一念の信〉と言います。人間は、この体験をすることで、否応なしに仏さんの智慧を信じさせられるようになります。もしお母さんがこうなれば、自分が何のために生きているのか。仏さんから知らされますから、今ここに生きていることの大きな喜び、生かされていることへの感謝の念が自然に湧き出てくるようになります。そうなると、今のお母さんの問題も、具体的には解決されていなくとも、解決されたということになります。お母さんの智慧よりも、もっともっと大きな仏の智慧に包まれて、娘さんやご主人の問題も、お母さん自身の問題も解決すると思いますよ」と私が言いますと、お母さんは、「疑ってすみませんが本当ですか? 今すぐ信じろと言われても」と言われ、「私は、〈信じなさい〉と言っているのではありません。私たち人間の能力では、仏の智慧を信じることはできません。敢えていえば、信じさせられるような体験をしてください、ということです」と、私が話をすると、お母さんは、「仏さんのお話を聞いてみようかな、と、ちょっと思うようになりました」とおっしゃってくださいました。「そうですか。娘さんやご主人ばかりだけではなく、仏さんのこともちょっと考えてみてください。しかしこれは考えてもわかりませんから、何のために生まれてきたか。何のために生きているのか。死んだらどうなるのかという疑問を持って、お寺さんなどで仏さんの話を聞くようにしてください。この今のお母さんの悩み、すなわち娘さんとご主人のことがきっかけで、本当にお母さんが仏さんに目覚めて、人間の根源的な問題が解決されたら、娘さんとご主人は、お母さんにとっては仏さまですよ」と言いました。話はまだまだ続くわけですが、お母さんは、その後お寺に法話を聞きに行きながら、カウンセリングを続け、人間の根源的な問題に目を向けられるようになると、心の平穏を取り戻すようになられました。このように日常の悩みが深くなると、その悩みの解決は、人間ではなく、人間を超えたものの智慧によることが必要だ、と指導していくことが、仏教カウンセリングの一つのあり方であると思います。人間の根本的な問題は、私たちの能力、即ち人間の知恵ではわかりません。それがわかるのは、人間の能力を超えた仏さんだけです。だから仏さんの言われたことを、即ち仏教で言えば、お釈迦さんの言われたことです。悟りを開いてすべての真理を体得されたお釈迦さんの話を聞いて、自分は何のために生まれてきたのか、問題を解決しなければなりません。人からいくら教えられ導かれても、真の自分がわかるということはありません。表面的な自分は、カウンセリングを受けることでわかります。しかし自分で考えた望ましい自分というのは、表面的な自分であり、それは仮の自分で、真の自分ではありません。だから人間は何のために生きているのか、と問われれば、何も答えられないわけです。これはカウンセリングにおける相談する人と相談される人との関係で考えた自分だからです。真の自分は、人間の知恵や能力ではわかりません。それがわかるのは、人間を超えた智慧、即ち仏さんの智慧だけです。だから我々は、仏さんから教えて頂く以外には、真の自分を知る方法はないわけです。お釈迦さんは、その仏さんの智慧を人間に伝えるために、仏さんが人間へと姿を変えて、我々と同じ体を持ち、我々にわかる言葉で伝えるために、この世に出てこられたのです。我々の悩みの原因は、煩悩と言いますが、自分の悩みの真の原因を知らないから、悩みが解決されないのです。真の原因を知るということは、本当のほんとうの自分を知るという意味です。だからここでいう真の自分、本当のほんとうの自分というのは、日常生活やカウンセリングでいう真の自分ではありません。真の自分を知るということは、何のために自分は生きているのか、死んだらどうなるのかという人間の根源的な問題がわかるということです。そして真の自分を知るということは、これらのことを考える智慧や能力は、自分にはまったくないということも知らされるという意味です。だからこの無智・無欲・無能の自分が、人間の根源的な悩みを解決するためには、人間を超えた智慧、即ち仏さんの智慧によって解決する以外には方法はないということです。この真の自分を知ることを「自己に目覚める」と言います。仏さんの智慧に触れて、自己に目覚めるわけです。この仏さんの智慧を知らされることを「仏(ぶつ)に遇う」とか「仏(ぶつ)に目覚める」と言います。過去をポジティブに見られるようになると、これからの将来もポジティブに考えられるようになります。過去をいつまでもネガティブで見ておられると、将来への見通しも出てきません。それ故、私は今までの嘆きをしっかりと受容すると共に、過去の生活をお聞きして、その中からポジティブな面を探し出すということに目を向けて関わっています。
 
     これは、平成二十三年四月十七日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」で放送されたものである