人生を支える仏教
 
                  真言宗智山派管長 宮 坂(みやさか)  宥 勝(ゆうしよう)
一九二一年、長野県岡谷市生まれ。一九四八年、東北大学文学部印度哲学科卒業。一九五○年、東北大学大学院修了。高野山大学助教授、高野山大学教授、名古屋大学教授を歴任。一九八五年、名古屋大学名誉教授。一九八七年、智山伝法院院長。一九九九年-二○○七年、真言宗智山派管長・総本山智積院化主。二○○一年、種智院大学学術顧問。二○○五年、後七日御修法大阿、真言宗長者。岡谷市照光寺長老。二○一一年遷化。八九歳没。
                  き き て    金 光  寿 郎
 
ナレーター: 慈雲尊者(じうんそんじや)(江戸時代後期の真言宗の僧侶:1718-1804)の仏教を取り上げた「人生 を支える仏教」をお聞き頂きます。お話は、前真言宗智山派管長宮坂宥勝さんです。聞き手は金光寿郎さんです。
 

 
金光:  今の時代は、「末法を迎え」と言いますか、「末法も末法」非常に日本の様相な んか見ていますと、ほんとに「戒」なんかどこかへ消えて、隠れてしまっているんじゃないか、というような気さえするわけでございますが、こちらの智山派の方では、「十善戒(じゆうぜんかい)」の実践を今進めていらっしゃるというようなことで、「十善戒」と申しますと、勿論お釈迦様以来でございますが、二百年ほど前に亡くなられた慈雲尊者が、「十善戒」についての法語をお書きになったり、それから「人となる道」というようなもので、非常に一般の人にも感化を与えてくださった、ということを承っているんですが、今のような日本の情勢の中で、管長さんは、どういうふうに「十善戒」を受け取って、信者の方たちにお伝えになっていらっしゃるのか、日頃の考えをお聞かせ頂ければと思うんでございますが、よろしくお願い致します。
 
宮坂:  慈雲尊者という方は、これは尊称でございまして、お名前は「飲光(おんこう)」と、江戸時代中期から後期にかけての真言宗の高僧の方でございます。只今お話がありましたように、『十善法語』あるいは「人となる道」というような、多くの仮名法語―仮名交じりの仏教書でございますね、これは一般の方を対象にして書かれたものでございますけれども、「十善戒」ということを非常に強くお称えになられたわけですね。時代が時代だったということもありますけれども、殊に文化(ぶんか)、文政(ぶんせい)―化政(かせい)(年号の文化・文政の併称)時代は、大変世の中が経済的に豊かでございました。その豊かな半面に世の中が乱れておったように思われますですね。現在とややちょっと似たところがあると思います。その一番乱れた点は、一般の人々がこの道徳、あるいは倫理というものについての感覚がもうほとんど無くなってしまった。ご存知のように田沼時代というのもございますけれども、田沼意次(たぬまおきつぐ)(江戸時代後期、幕閣において老中の田沼意次が幕政を主導していた時代である。年代としては明和4年(1767年)から天明6年(1786年)までの約20年間、または宝暦期から天明期と理解されている)ですね、これは幕府の老中でございますけれども、大変ないろいろな事件がございました。それは要するに賄賂政治というふうに言われておった時代でございますが、現在と非常によく似ていると思うんですけどね、金銭感覚に対してはまったくゼロと言ってもよかった時代だと思います。そういう世の中が乱れておった時代、そしてまた仏教界も「戒律(かいりつ)」というものを、一般的に言えば日常倫理とか、あるいは生活倫理と言っていいと思いますけれども、一口に「道徳」ですね、本来の形のものとしては「十善戒」という教えがございますけれども、仏教界もなかなかそういうようなところまでは手が届かないと申しますかね、素行が大変疲弊しておった、そういう時代に「十善戒」が慈雲尊者によって説かれたわけでございます。
 
第一、慈悲(じひ)、不殺生戒(ふせつしようかい)(あわれみぶかい心をもち、生命を損なわない)
第二、高行(こうこう)、不偸盗戒(ふちゆうとうかい)(かたく節操をまもり、ひとの領分を侵さない)
第三、浄潔(じようけつ)、不邪淫戒(ふじやいんかい)(身をきよらかにして、よこしまなことをしない)
第四、正直、不妄語戒(ふもうごかい)(心を正直にして、嘘をつかない)
第五、尊尚(そんしよう)、不綺語戒(ふきごかい)(志を高くかかげて、ことばを飾らない)
第六、柔順、不悪口戒(ふあつくかい)(柔軟な心をもち、ひとをののしらない)
第七、交友、不両舌戒(ふりようぜつかい)(交わりをたいせつにし、仲間われをおこさせな)
第八、知足(ちそく)、不貧欲戒(ふとんよくかい)(分限をわきまえ、むさぼらない)
第九、忍辱(にんにく)、不瞋恚戒(ふしんにかい)(よく忍耐して、腹をたてない)
第十、正智(しようち)、不邪見戒(ふじやけんかい)(正しい智恵にしたがい、偏見をもたない)
 
「十善戒」の一つひとつにつきましてお話を申し上げればよろしいんですが、私はやはり現代の世の中で一番大事なのは、「不殺生」ですね。生き物のいのちを大切にして傷つけ殺したりしてはいけないということですね。これが第一番目でございます。そしてまた八番目に「不貪欲(ふとんよく)」というのがございますけど、これは私どもの欲望というものは限りがございませんですね。「まだ欲しい、まだ欲しい」と、そういう欲望というものをどこかにやはりセーブしなくちゃいけませんです。自己を制御(セルフ・コントロール)が利かなくなると大変なことになりますね。今は非常にこの世の中は、一般的には物が豊かになってきておりますけれども、しかしその豊かさと反比例して、私どもの心が大変なんか貧しくなってきてしまったんじゃないかというような気が致します。それはやはり物を欲しがるという気持ちを、これはやはりどこかで抑えないと野放図に欲望を解放していれば、人間の精神というものがまったく貧弱なものになって―「貧困(ひんこん)」というように言ったらいいかと思いますけどね―なってしまいます。そこにやはり目を付けたのが慈雲尊者でございます。それともう一つ最後に「不邪見戒」ということを説いております。これはやはり今日大変大事なことだと思いますね。一口に申しますと、間違ったものの見方とか考え方をしてはいけないということ。真実はただ一つでございますので、その真実を究めるためには自分の心を正さなくちゃいけませんですね。そういうところからして「不邪見戒」という戒を、慈雲尊者は大変大事なものとして、特に力を尽くしてお説きになっております。そういうところから致しまして、「人となる道」という仮名本をお書きになっております が、この「人となる道」という題名が、私は大変大事だと思いますですね。まあ「人道(じんどう)」というように言っておるのはそれでございますけれども、どうすれば人となることができるかと。ここが十善戒の要になるところではないかと、こういうふうに思うわけでございますね。「誰でもみんな人じゃないか」と、それは確かにそうですけどもね。
 
金光:  現代だと「何をしようと、人間は人間で」というふうな考え方があるようですが、それでは本当の人にはなれないということでございますね。
 
宮坂:  そうです、そうです。ですからやはり慈雲尊者が、一番やはり強調致しましたところは、この「十善戒」をきちんとその通りに行っておるならば、それが本当の人になる道であるということを説かれております。
 
人の人たる道といふはこの十善にあるぞ。人たる道を全(まつた)くして賢聖(けんじよう)の地位にも到るべく、高く仏果(ぶつか)をも期(ご)すべきことなり。この道をうしなへば、鳥獣にも異ならず。木頭(ぼくとう)にも異ならぬなり(『十善法語』不殺生戒の冒頭の文言)
 
人となる道を全うすると、聖人君子の地位にも至ることができる。そしてまた高く仏果(ぶつか)(仏の悟り)の世界にも入ることができる。もしこの人の人となる道というものを失ってしまえば、鳥や獣にも異ならないし、木頭(ぼくとう)(切り株)にも異ならないと。そこまで言葉を尽くして言っているわけですね。ですからそれは「人ではないんだ」と、一口に言えば、そういうことになっちゃうわけですね。ここは私は大変大事なところではないかと、こういうふうに思います。いろいろ十善戒については細かくお説きになっておりますが、例えば「不殺生戒」に致しましても、私の、自分のことを「自己」と、こういうふうに申しますね。ところが、他の人のことは「他己(たこ)」と、他の己と書きますけども、「他己」というふうに言っています。ですから「自分」と、それから「他の人」という区別ではなくて、例えば十人そこに人がおれば、十人の自分がおると同じである、というように思わなくてはいけないと。ここが大変大事なところですね。自分が尊いいのちを頂いて生かされておる。他の十人の人もみんな自分と同じいのちを持っておるということですね。そういう点からしますと、自分も他の人もまったく同じでございますので、「十人の自分がいると同じだ」というように思わなくてはいけないと。これは大変なことだと思いますね。「十人の人が実は自分だ」という。それは「共通のいのちというものによって生かされておる」というその点でございますね。
 
金光:  「自己」という字は「自らの己」と書きますし、今おっしゃった「他己」というのは「他の己」と、「己」は共通なんですね。
 
宮坂:  そうです。共通なんです。
 
金光:  それを「己」というのを、自分だけではなくて、他の己まで含めると「大きないのち」というふうに捉えると、〈あ、そういう大きないのちによってみんな生かされている〉という。そういう感覚が自然に出てくると、簡単に人を殺したり傷つけたりということはできなくなってくるということでしょうね。
 
宮坂:  そういうことですね。これは昔からよく仏教では「同体大悲(どうたいだいひ)」(仏さまの心を「同体の大悲」という。私たちはつねに自分と他人や他の命を区別しますが、仏さまはすべての命を自分と同じ命として見ることができる)と申しますけれども、体一つです。十人おっても十人の方はみな仏さまのお慈悲によって生かされておるんだと。そうしますと、自分のいのちが大変大事で掛け替えのないものであると同じように、他のすべての人々も同じであると、こういうようにちゃんと認識しくちゃいけないという、そこが大変大事なところだと、こういうふうに思います。ですからもう少し厳しく申しますと、これは絶対あってはならないことなんですけども、人を殺すということですね、これについても素晴らしい教えを説かれておりますね。もし「何故人を殺すことがいけないか」というと、自分が殺される立場に立った時に、果たして相手の人の命を奪うことができるか、と。これはまったくその通りだと思いますね。自分が殺される立場、ここは同体大悲だと思います。同じ命を持ってるものではないか。だから相手を殺すということは、端的に申しますと、「自分で自分を殺すと同じことだ」という、まったく共通のいのちという基盤の上に、自分も他の人たちもおるわけですので、そこまで説かれているということは、私は大変大事な、または尊いこと。今の私どもはちょっと気が付かない、そういうことを聞きますと、ハッとしますね。
 
金光:  そういうところに気が付く度に、自分を取り巻く世界が広く豊かに見えるようになると思いますね。
 
宮坂:  そうですね。ですから人間関係だけでなくって、草や木に至るまでですね、これも慈雲尊者は大変素晴らしいところだと思いますけど、自然科学者が説いていると同じようなことですね、例えば鳥は羽毛に包まれておると。これは自分で自分の身を護っておるんだと。私どもだったら着物を着ているわけですね。ちゃんと鳥も着物をきておると。自然の生き物はみんな生きておる。人間とまったく同じだと。これはほんとにその通りだと思いますね。鳥とか獣すべてのものが尊いいのちを持って生きているわけですね。懸命に生きているという自然の姿というものを、もっと人間はしっかりと認識しなくちゃいけないと。ですから人間だけが生きているんではなくて、あらゆるいろいろな命を持っているものが、この世界には住んでおる。そしてそれはお互いに持ちつ持たれつですね。そこから非常に大事なことがあると思うんですけれども、例えば人間は自然の中に生かされておるものであると。この大自然を大切にしないといけない。今日の自然破壊の問題が起こっていますね。仏教では、本当に草や木に至るまで、あるいは小さい虫に至るまで、みんな私ども人間と同じ命を通わせておる。ただ形が違うだけであると。そういうように言っておりますけど、まったくその通りだと思いますね。これは〈いのち〉というものを―今「人命の尊重」とかということは非常に強調して申しておりますが―小さな虫とか、草や木に至るまで、ずっと視野を広げて、そして同じいのちを持って生かされておるんだという、そういうところまではまだ生命観は徹底していないんじゃないかと、こういうような感じが致します。それが今自然破壊に繋がったり、地球の温暖化というような非常に困った結果をもたらしておるのは、すべてとは私は申しませんけど、やはりそういうところが一つの大きな原点になっているんじゃないかと思うんです。自然に対するものの考え方ですね。
 
金光:  そうですね。人間が自由に使っていいものとして自然を見ておりますから、現在は割に温暖化とか、そういう自然の緑が無くなって、砂漠化が進んでいるというようなことで、一種の自然の側からの警戒警報と言いますか、危ないんじゃありませんかというのを、そういうところで人間に教えてくださっているような気がするんですね。
 
宮坂:  まったくその通りですね。自然がそれこそ人間に何か警告を発しているというような感じが致しますね。それでこれは人間の罪業だと思いますね。自然が非常に正直ですよね。そういうようなことをして自然のいのちというものを、人間が無闇矢鱈に傷付けたり奪ってしまうということが、結局人間に今度は跳ね返ってくるわけですね。大自然の復讐です、しっぺ返しということですね。
 
金光:  それはそこまで見通して物事というか、自然を見たら人間がやっていることが見えてくると、それが正しい見解ということになるわけでございましょうね。
 
宮坂:  そうでございますね。やっぱり人間中心主義ですね、現代人は。ですから自分が生きていてさえすればいいと、そういうものの考え方ではなしに、もう一度やっぱり大自然の中に生かされているんだという、そういう原点に戻らないといけないんじゃないかと、こういうように思います。勿論科学が発達すれば大変便利な世の中になりますけどね、科学というものは、私はプラス面が多ければやっぱりマイナスの面も大きいというように思います。この頃は、「縄文時代人にもっと学べ」と、大変良いことをおっしゃる方もおられますが、慈雲尊者は、「縄文時代の人に学べ」とは申しておりませんけどもね、お釈迦さんが説かれた戒律ですね、生活規範、それが今大変乱れておると。何とかしなくちゃいけないと。ハッキリ申しますと、「正法律(しようぼうりつ)」です。「正法律」というのは、簡単に言えば「釈尊に帰れ」ということなんですね。「釈尊に帰れ」ということは、今のこの乱れた日本の道徳感覚がまったく欠如してしまった、世の中が大変乱れていると、そういう時代にもう一度やはりこの戒律を復興しなくちゃいけない、ということが、そもそも「正法律」を提唱した一番大きな原因なんですね。それを極めて簡単にというか、一般の人もよくわかるように説いたのが、『十善法語』ですね。
 
金光:  お釈迦様が亡くなられる前に、「自灯明(じとうみよう)・法灯明(ほうとうみよう)」自らを頼りとし、法を頼り としなさい、とおっしゃったというふうに聞いておりますが、今、自らを頼りとする、その「自ら」というのは、自分の欲望を頼りにするということではなく、お釈迦様がおっしゃった「自ら」とは違うんじゃないかと思いますが、もう一つ「法を頼りにしなさい」と、その慈雲尊者がおっしゃる「正法」ということなんでしょうけれども、法というものについての感覚が乱れてきているというか、あまりダルマ(法則・真理)というか、そういう目に見えない、そういう法についてはあんまり気にしない人が多いようでございますね。
 
宮坂:  これは私はやはり近代教育の影響も大きいと思いますね。慈雲尊者の『十善法語』などを見ますと、この宇宙の天体がちゃんと軌道を回っておる。三六五日すれば一年経つ。これは地球が太陽を一周するだけですけどね。他のすべての天体も、そういう具合に決して軌道から外れていないと。きちんと自然界は自然の摂理(せつり)の通りに動いておると。他のすべてもやはりそうであって、春夏秋冬―秋には落葉しますが、来年の春を控えて、また小さな芽が出ておると。もう時を問わずに、すべてのものが、そういうように次の準備をしておると。これはほんとに素晴らしいことであると。これは「自然の摂理」というように、慈雲尊者は申しておりますけれどもね。人間の社会でもやはりそうであって、きちんとそういう軌道を踏み外さないようにやらないというと、これはとんでもないことになります。それはやっぱり自然から学ぶということだろうと思いますけどね。ちょっと現代人とは、こう感覚というか、視点が違うんじゃないかというような気がしますね。あくまで人間中心主義ではないわけで、
 
金光:  人間の大宇宙に占めている位置は、中心的な存在ではありませんよと。生かされているというその事実に目を向けると、もうちょっと人間は謙虚になった方が、生き方としてもっとゆったりと生きられるんじゃないかと。
 
宮坂:  そうです。おっしゃる通りだと思いますね。
 
金光:  「十善戒」戒律というと、なんか非常に窮屈な気が一般にするんではないかと思いますが、でもお話を伺っていると、そうではないということですね。
 
宮坂:  そうです。これは、例えば「不殺生戒」にしても、「生命尊重」という現代では 言っておりますが、要するにいのちあるもののいのちを傷つけ奪ってはいけないと。人を殺してはいけないと。これは最大の罪悪で、あってはならないことでございますが、むしろ日々の生活で私ども普通に生活をしておれば、自ずから十善戒に適っておるというように、私は思いますですね。
 
金光:  それが最初におっしゃった「貪(むさぼ)り」―「貪欲(とんよく)」それに乗っかってしまうと、か えって不自由な目に遇うようなことになってくるわけですね。
 
宮坂:  確かにそうですね。でもそのことが非常に現代の我々はもう少ししっかりわきまえなくちゃいけないというように思いますですね。
 
金光:  そういう意味では、学校教育なんかの問題もすべて絡まってくると思うんんですけども、「根を育てないと木は大きくならない」ということを、もう亡くなられたけど、東井義雄(とういよしお)(兵庫県豊岡市但東町生まれ。小学校教師として村を育てる教育を実践。ペスタロッチ賞、平和文化賞、小砂丘忠義賞、文部省教育功労賞受賞:1912-1991)先生なんかおっしゃっていましたけれども、「十善戒」というようなものは、いわば人間としての根っ子を養うもの、そこのところを抜きにしていくらいろんな科学知識を注入しても、いろいろ便利になって、情報がいっぱい自由に取り入れられるようになっても、足下が根付いていないとひっくり返るだけじゃないかというような気がするんですけども、
 
宮坂:  ほんとにその通りだと思いますですね。それでは「根は何か」というと、これはやはり「道徳・倫理」であり、もう少し申しますというと、倫理道徳を超えた世界、目に見えない「宗教の世界」というふうに申し上げたらいいかと思いますんですけどね。そういう倫理道徳から宗教の世界へという目に見えない大きな世界ですね。私どもは普通は目に見える世界だけが、これが世界だというように思っておりますけどね。これは現代人の傲慢だと思いますね。もっと目に見えない世界の方が広い。無限大だと思います。そこにやはり気が付かないというと、なんか宇宙の中心が人間だ、というように錯覚を起こしちゃうんですよね。私は、そこが現代人の大きな問題じゃないかというように思いますですね。一方においては、非常に科学が素晴らしい進展を遂げておりますだけに、かえって非常に精神が貧しくなってしまう。
 
金光:  慈雲尊者は、倫理・道徳を取り上げて説いていらっしゃるわけですけれども、その取り上げていらっしゃるその目線の奥の方には、そういう大きな仏さまの働きというか、そういうものを勿論目に入れながら話してくださっているということですね。
 
宮坂:  そうです。「不殺生」殺してはいけないということはですね、「何々してはいけ ない」という、すぐ禁止的な表現からして大変厳しいというか、「あれしてはいけない、これもしてはいけない」というように受け止めがちですけども、実は慈雲尊者は、それを全部言い換えておりまして、例えば「不殺生」という場合には、これは「慈悲」―慈悲の心だと。何故人を殺してはいけないか。それは慈悲の心がないから殺すと、こういうことになるんだと。その点非常に分かりやすいですね。「仏心」言い換えれば仏さんの心だと。
 
金光:  それが我が心の中で働いていると、殺すというようなことはできなくなる。
 
宮坂:  ええ。絶対できませんですよね。
 
金光:  それは「嘘を付く」ということも同じことでしょうね。
 
宮坂:  すべてそうですね。
 
金光:  やっぱり同じ生かされている人を騙すということは、「他人(ひと)を騙す」だけでなく て、下手をすると「自分自身を騙す」ことでもありますね。
 
宮坂:  おっしゃる通りですね。自分を騙しておるんですよ、実はね。その点は、慈雲尊者はとても素晴らしいと思うんですよ。すべて自分に戻して、そしてまたそのことをちゃんと伝えておりますね。
 
金光:  仏法の場合は、よく「信心」ということは、勝手に自分で思い込むことだ、というふうに言われるような場合もあるようですけども、どうもそうではなくて、それこそ「邪見(じやけん)」間違った考えを持たないで、正しい事実を見ると。正しい事実を知る。それによる知恵によって動いている。その方が、人生は大らかに大きな道を歩いている。
 
宮坂:  そうです。私は、「気が楽だ」と、こういうように言っておりますけどね、そう いうように思いますね。
 
金光:  慈雲尊者の場合は、常にそういう大きな仏さまの〈いのち〉というか、そういうものを視野に入れながら、一般の人に分かり易く「殺すな、盗むな、邪な男女関係はダメだ」と。要するに全部生きる道を狭くしているということになるわけですね。
 
宮坂:  そういうことです。ですが慈雲尊者はやっぱり非常に大きな無限大の宇宙空間というような、普通ちょっと私どもの意識に上らないようなものを、よく譬えにしておりますね。それはよくわかりますね。
 
金光:  やはり人間の心もそういう大きな、それこそ意識も届かないような、そういう大きな仏さまの慈悲とか、智慧の中に生かされていると。
 
宮坂:  そういうことですね。そうしますと、私ども非常に「慈悲の心」とか、「仏心」 仏の心と申しますと、ちょっと難しい、ちょっと手が届かないように思うんですけどね、慈雲尊者の説いていらっしゃる言葉を読んでみますとよくわかるんですよ。胸に落ちますね。
 
金光:  それだけ日々実践の中で取り入れられるそういう言葉が多かったということでございますね。
 
宮坂:  そう思いますね。
 
金光:  そうも有り難うございました。
 
 
     これは、平成十八年四月に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」で放送されたものである