鉄棒を超えて―ヴィクトール・フランクルからのメッセージ―
 
                 大阪府立大学 山 田(やまだ)  邦 男(くにお)
一九四一年生まれ、京都大学大学院教育学研究科博士後期課程中退。大阪府立大学教授を経て、同大学名誉教授。哲学的人間学・人間形成論専攻。フランクルの著書の訳出を通じて、その思想の紹介に努める。
                 き き て  浅 井  靖 子
 
ナレーター:  「鉄棒を超えて―ヴィクトール・フランクルからのメッセージ」と題して大阪府立大学名誉教授で、現在羽衣(はごろも)国際教授の山田邦男さんにお話頂きます。聞き手は浅井靖子ディレクターです。
 

 
浅井:  ヴィクトール・フランクル(Viktor Emil Frankl、オーストリアの精神科医、心理学者:1905-1997)と言いますと、『夜と霧』というアウシュビッツの強制収容所体験を書いた本で知られている精神科医、そして哲学者でいらっしゃいますね。山田先生は、フランクルの著書を多く翻訳され、晩年のフランクルにも実際にお会いになったということですね。
 
山田:  はい。そうです。亡くなられる約半年前に二度お目にかかりました。その時、先生は既に九十二歳という大変なご高齢でしたけれども、頭は非常にシャープな方でした。そして世界的に大変有名な方だったわけですけれども、お人柄は大変温かくて謙虚で細かな心配りをしてくださるということで大変強い感銘を受けました。
 
浅井:  今日は、「鉄棒を超えて」というタイトルでお話を伺おうと思うんですけれども、このところですね、「どんなに努力してもどうせムダなんだ」というふうにこう思わせるような社会状況が深刻になってきていてですね、例えば自暴自棄に陥った人が他者を傷つけるとか、そういう事件も相次いでいます。こんなある種の絶望が支配的な時代にどう生きていけばいいのか。それをフランクルの立場からどのようなメッセージを頂けるかということで、お話を伺いたいと思うんですけれども。
 
山田:  フランクルさんは、半世紀以上も前になるわけですけれども、アウシュビッツを初めいくつかの強制収容所を体験したわけですね。結局その中で「絶望的な状況の中にあっても、尚且つ人間を支えるものがあるんだ」ということに気が付いて、そこからその体験から「生きる意味」というものを、自分の哲学とか、あるいは精神医学の中でそういうことを仕事とした人ですね。現代は非常に豊かで自由な社会のわけですから、そういう社会とナチスの「この世の生き地獄」と言われたような強制収容所とが、どういう関係にあるのか、というふうに疑問に思われるかも知れませんけれども、ある種の絶望が支配的になっている時代状況と、そういう点ではどこか共通性があるかも知れないと思うんですね。格差社会とか、喪失社会と言われる中で、多くの人が鬱屈した気分を溜め込んでいるということですが、こういう気分というものは、フランクルさんが言われる「実存的空虚感」というものですね。
 
浅井:  実存的空虚感?
 
山田:  ええ。そうです。つまり自分が今ここに生きているということに、充実感とか、生き甲斐というものがあまり感じられないという、そういうどこか虚しいという感じですね。
 
浅井:  その空虚感というのは、その格差社会の中で、いわゆる負け組だから感じるものなんでしょうか、それとも勝ち負けに関係なく、時代全体が抱えている空気だと言えるんでしょうか?
 
山田:  フランクルさんは、時代全体が抱えている空気として考えていまして、フランクルさんはこれを「時代精神の病理である」というふうに言っています。ですからいわゆる勝ち組とか、負け組ということに関わらないで、人生をそもそも「勝ち・負け」という基準でしか考えられないような、そういう生き方とか、人生観そのものに問題があるということですね。
 
浅井:  なんでも「勝ち・負け」という基準でしか考えられないという状況ですけれども、そういう状況に陥っているのは何故なんでしょうか?
 
山田:  そうですね。これは非常に歴史的背景があって、簡単には言えないことなんですけれども、一言で言えば、「超越的な価値」とか、「絶対的な価値」ですね。例えば昔から「神」とか「仏」とかというふうに言われてきたものが、もう信じられなくなっているという、ニヒリズム(Nihilism:虚無主義―この世界、特に過去および現在における人間の存在には意義、目的、理解できるような真理、本質的な価値などがないと主張する哲学的な立場である)ですね、ですからそういう結果、人間は自由というものを手に入れたわけですけれども、その半面において絶えず不安の中に置かれる。例えば「死」という問題ですね、この問題を解決するというのは、かつては宗教であったわけですけれども、その宗教がもはや信じられないということになりますと、人間は「生」を無意識的にせよ、自分が生きているという、その足下に絶えず死の不安を抱えて生きていくと。そしてこの不安から遁れるために絶えずいろんな欲望を追求するというふうなことですね。ますます欲望とか相対的な価値を追求せざるを得なくなるという、そういう悪循環というようなものが、今起こっているような気がしてならないですね。そこでそういう悪循環というものから如何にして抜け出すかという、そういう課題が現代の最大の、と言いますか、のっぴきならない差し迫った課題になってきているというふうに言っていいんじゃないかと思うんです。
 
浅井:  そうしますと、現代に生きる人々が、そういう相対的な価値に目を奪われないで、それを超えるような価値観なり、人生観というものに気が付くためにどうすればいいのかというところを、フランクルはどんなヒントを与えてくれるんでしょうか。
 
山田:  そうですね。例えばそれを考える一つの手掛かりとしまして、フランクルさんは、座標軸の考え方というものを提案していますので、それをご紹介したいと思いますが、その場合座標軸の「横軸が人生に於ける成功と失敗」というような両極の軸ですね。これは勝ち負けと、「勝ち組」とか「負け組」とか、そういうのがこの横軸になります。この横軸に対しまして、その横軸に垂直に切り込んでくる縦軸があって、これは「人生の意味の充足」ということと、その対局の「絶望」という、それを両極とする軸ですね。
 
浅井:  「人生の意味の充足と絶望を両極とする縦軸」ですね。
 
山田:  そうですね。こういう座標軸で考えますと、例えば「右下には、人生に成功したけれども、内面的には絶望している」という、そういうあり方が考えられます。それからまたその反対に、「左上には人生に失敗したけれども、内面的には充足している」という、そういうあり方というものも考えられるわけですね。強制収容所では、それまで人々がもっていたすべてのものですね―つまり「地位」とか「名誉」とか「財産」とかという、そういうものもすっかり奪われてしまって―文字通り「裸の実存」と、フランクルさんは言っていますけど―「裸の実存」になってしまったわけです。つまり今申しました横軸の価値がすっかり奪われてしまって、まったく無意味になってしまったんですね。ですから「成功か失敗か」という横軸だけの価値観しか持っていない場合には、そこで絶望に陥ってしまうということになります。しかしこの時ですね、恩寵と言いますかね、突然横軸に対して垂直に切り込んでくるような出来事というものが起こるということがあったわけですね。例えば一日の強制労働を終えた後ですね、ふと空を見上げて見ると、夕陽が真っ赤に空を染めている。それを見て誰かが「世界って、どうしてこんなに綺麗なんだろう」と言ったというんですね。それで私どもの日常でもそうなんですけれども、例えば鳥が囀(さえず)る、花が咲く、赤子が泣くというふうなことですね。そういうごくありふれた出来事のうちに横軸を超えたと言いますか、垂直の価値観に気付くということが、これは大いにあり得ることだと思います。
 
浅井:  それは絶望的な状況にも関わらず、アウシュビッツ強制収容所の中では、その何かの美しさにもう思わず立ち尽くしてしまうというんでしょうか、そんな瞬間が起こり得たということなんですか?
 
山田:  はい。それがつまり横軸に対して、縦軸が垂直に切り込んでくるということで、横軸から縦軸への価値観の転換というふうなことが起こったと、そういうふうに一応言っていいと思うんですね。
 
浅井:  その夕焼けの美しさでもって、人生の充足という意味での軸がフッと立ち上がってくるということなんですか?
 
山田:  そういうことですね。それでそういうふうなことがどうして起こるかということなんですけれども、それが起こるには、横軸だけの価値観で生きていくということのある種の限界のようなものに、どこか気付いているということが必要かも知れませんね。実際、今の横軸社会に生きづらさを感じている人が非常に多いと思うんですけども、これは幸か不幸かと言いますか、縦軸の価値に気付く一種の土壌のようなものが準備されていると、見方によってはそういうふうに言えるんじゃないかと思うんですね。いわば前のめりに生きている、そういう歩みから一歩退いて足下を見るというふうなことですね。その時、一輪の花の美しさとか、ちょっとした人の愛とか、優しさとかということに触れると、そういう縦軸の世界が突然目の中に飛び込んでくるというふうなことがあるかも知れませんね。
 
浅井:  ということは、成功、失敗という意味というか、水平の横軸では、自分自身の身は絶望的であるというふうに思える困難な状況に置かれていたとしても、先ほどおっしゃってくださった自然の美しさであったり、あるいは人の愛や優しさということを通して、その縦軸の価値というものに気付いていくというか、そういうことができるということなんですね。
 
山田:  そうですね。それでフランクルさんが挙げている例でちょっと申したいと思うんですけども、これは強制収容所の中で生きられたある若い女性のことなんですが、この人がいうには、その人は、「自分はかつて甘やかされた。ブルジョア生活を営んできた」と。これはつまり今の横軸の生き方だと言っていいと思いますけども、「そういう自分の、かつての生活に精神的な深みがもたらされた」というふうに言ってですね、
 
浅井:  「困難な状況であっても、精神的な深みが得られた」と女性は言うわけですね。
 
山田:  ええ。それでこういうことを言うんですね。収容棟の板壁の隙間から、カスタニエンの樹の頂きと言いますか、天辺のところが板壁の隙間から見えるわけなんですけども、そのカスタニエンの樹が、その女性にこう呼び掛けるというんですね。「私はここにいる、私はここにいる。私は永遠のいのちだ」と。フランクルさんはその時、非常に呆気にとられて、この女性はもう譫妄(せんもう)(外界からの刺激に対する反応が鈍り、錯覚・妄想・麻痺などを起こす意識障害)状態に陥っているんじゃないかな、というふうに思ったりもしたんだそうですね。だけどともかく彼女は言ったわけですが、水平軸に対して、それに垂直に「永遠のいのちというふうな超越的な光が差し込んできた」ということですね。この女性はそういうふうに「大いなるいのち」と言っていいと思いますけれども、そういう「大いなるいのちと共にある」ということに気付くことによって、現実の過酷な絶望的な生活の中にあっても、「大いなる充足を感じた」ということです。そういう意味でフランクルさんはこの話を紹介されていたと思います。
 
浅井:  目に見えるものだけではなくて、何か別の世界に目を転じた時に感じられてくる充足のようなものがある。今おっしゃって頂いたような「永遠のいのち」とか、「大いなるいのちと共にある」ということというのは、どこか宗教的な世界のような感じがするんですけども、フランクルは「そうした眼差しの転換をもたらすものが宗教だ」というふうにおっしゃっているんでしょうか?
 
山田:  そうですね。勿論宗教もそうなんですけども、今の例のようなことも含めてなんですけども、日常的なものの根底に、宗教的なものが隠れている、というふうにいうべきではないかと思いますね。フランクルさんは、「日常」ということを非常に重視していましてね、水平軸から垂直軸への転回ということとよく似た考え方として、こういうことを言います。それはつまり「人生の意味についての問いの観点の転回」―ちょっと長たらしい言葉ですけども、
 
浅井:  「人生の意味についての問いの観点の転回」ですね。それはどういうことなんでしょうか?
 
山田:  それは一つは、「自分は人生から何を期待できるか」という観点ですね。これは「自己中心的な観点」と言っていいと思うんですけれども、簡単に言えば、「人生から何を得ることができるか」という、そういう観点だと思います。そういう観点を百八十度転回してですね、逆に「自分は人生から何を期待されているか」という観点に転回すると、それは今申しました「人生の意味についての観点の転回」ということですね。人生を成功か失敗かという、先ほどから出ている観点というのは、それは結局人生とか世界の自分の欲望を実現するための手段としてしか見ていないということではないかと思いますね。そういう観点から人生を見た場合には、成功した人であっても、失敗した人であっても、遅かれ早かれいずれ人生に絶望するのではないかと思うんですね。というのは、先ほど申しましたように、そういう相対的な価値観では、どこまでも「孤独」とか「不安」とか「空虚感」というものが付きまとってきて、「本当の充足」とか「安心」とかというものはなかなか得られないんじゃないかということだからですね。
 
浅井:  それは、例えば何か人と比較して何かの欲望を持ったとしても、それは絶えず欲望との追いかけっこで充足されることはないと、そういうことでしょうか?
 
山田:  そうです。そこで「観点の転回」ということが必要になってくるわけですが、この観点の転回を行うことによりまして、「自分は、人生から世界から何を期待されているか。自分が世界に対して何をなし得るか」という観点に立つことになります。この観点に立った時に初めて本当は「人生の意味を見いだすことができるんだ」と。これがフランクルさんの基本的な考え方なんですね。たとい人生に失敗しても、その自分に呼び掛けてくるものがあると。これは「あらゆる物が呼び掛けてくる」と言っていいと思いますけども、例えばそれは家族であったりする場合もありますし、仕事であったりする場合もありますし、あるいは 自然だったりする場合もあります。それから神とか仏という場合もあると思います。そういうふうにともかく自分以外の他の何ものかが自分に呼び掛けていて、それに自分が応答するのを待っているということですね。フランクルさんが挙げている例で申しますと、これは強制収容所の地獄の苦しみの中で、それでも自殺せずに済んだ人として、例えば自分の愛する子どもが待っているとか、あるいは自分が生涯を懸けて取り組んできた仕事が完成を待っているとか、そういうことに気付くということですね。「子ども」とか「仕事」といったものからの呼び掛けというものがあって、「自分はそれに応える責任がある」ということを言うんですね。その「呼び掛け」とか「責任」ということを自覚することによって、そういう人たちというのは、強制収容所の苦しみの中で耐え抜いた、最後まで生き延びたということができるようになったわけですね。それは極端なそういう苦境の中にあっても、生きる意味というものを、そういう人とか仕事から与えられたからだということです。生きる意味というのは、そういうふうに自分の内からでてくるものではなくて、他のものから与えられるのだ、と、フランクルさんは言うんですね。
 
浅井:  それはその自分の側からばかり見ていた世界とか人生ではなくて、世界の側から見られていたり、あるいは向こうからやってくるものに気付いていく、そういうことなんでしょうか?
 
山田:  そうです。そのことに気付くということが観点の転回ということになりますね。フランクルの本に『それでも人生にイエスと言う』という講演集があるわけですけども、そのことを講演集の題名をもじりまして「それでも人生はイエスと言う」というふうに言い換えたらどうかなと、私は思うんですね。つまり自分がどれほど人生に絶望したり、あるいは人生を投げだそうと思っても、その人生や世界の方が、自分を見捨てていないのだと。人生や世界の方が、自分にイエスと言っているんだと、そういうふうに自分に呼び掛けているということですね。その観点の転回ということが行われた場合に、そこで初めて「人生の価値」とフランクルさんは呼んでいるわけですけども、三つの価値ということを挙げています。
 
浅井:  観点の転回ということが起こるということで、価値が出て来るということですね。
 
山田:  そうですね。それが前提となると言っていいと思いますね。人生の価値として三つ挙げています。それは「創造価値、体験価値、態度価値」ということなんですけども、ごく簡単にご説明さして頂きますと、「創造価値」というのは、たといどんな小さなものであっても、心を込めて何かを作り出す、創造するということを通して生まれてくる価値です。それから二つ目の「体験価値」というのは、人の愛とか、自然の美しさなどに触れる、そういうものを体験するということですね。世界から自分が受け取るということによって体験される価値ということで「体験価値」と言っています。それから最後の「態度価値」なんですけども、これはなかなか難しい、理解し難い価値ではあるんですけども、簡単に申しますと、変えることができない運命に対して、自分がどのような態度を取るかという、そこから生まれてくる価値だと言うんですね。その観点の転回というものが成就された場合には、人間は生きている限り、つまり最後の息を引き取るまで何らかの意味を実現したりする可能性というものを有しているんだというふうに、フランクルさんは強調します。この可能性というのは、自分がどんなに人生に失敗しても無くなるということはない。最後の最後自分にできることが何一つ無くなったとしても、その状況に対してどのような態度を取るかということ、それを決める自由というものが人間には残っていると。だから最後の最後まで絶望に落ちることがないのだということを、フランクルさんは自らの強制収容所体験を通して確認したと、そういうことですね。
 
浅井:  そのような運命を引き受けるということは、いわゆる現状肯定と言いますか、どんなに状況が酷くとも、その状況にいる人の心掛け次第なんだという、そういう考え方がありますけれども、そういうこととは違うわけですか?
 
山田:  いわゆる精神主義と言いますかね、ちょっとそういうこととは違うと思います。変えることのできるものにつきましては、フランクルさんは、「運命」とは言わないですね。そういう変えることのできるものについては、それを変えるように人間は努めないといけないと。今の世界には、至るところに非人道的なことが行われていますね、フランクルさんは、そういう状況を肯定するということとは全然違います。しかしそういうこともありますけれども、他方では、さっきも申しましたけれども、どうしても変えることのできないものというのがあるわけですね。例えば自分の過去はもう変えることもできないわけです。しかしこれはできるわけですね、つまりその過去の出来事に対して、自分がそれをどう現在受け止めるかということですね。それは現在の自分の決断に掛かっているわけです。それから未来ということですね、いつか、例えば未来によって自分が死ぬということも、これは変えることのできない運命に属していると思いますけれども、これにつきましてもそれに対して自分の態度を変えるということは可能だと思います。それも人間の自由だと思うんですね。これもフランクルさんが挙げている例ですけれども、ある末期癌の患者さんなんですが、自分は明日死ぬだろうということを予見した方がおられたんですね。その人は、それでどうしたかということなんですが、死の前日に主治医に対してこう言ったというんです。「今夜に打って貰うことになっているモルヒネの注射を、もう昼のうちに打っておいてください。そうしたらあなたもわざわざ私のために夜中に起き出して来なくても済むでしょうから」と言ったというんですね。このお話を、フランクルさんは紹介しまして、「これが典型的な態度価値の実現なんだ」と。目立たないちょっと心使いなんだけれども、そこに凄いその人の働きがあるんだということを言っています。「態度価値」というのは、そういう運命に対して自由な態度を取るということを通して実現されるということですね。こういう「自由」とか「決断」といったことですけども、それがまさに人間の実存の本質をなしていると、これもフランクルさんが非常に強調している点だと思いますね。
 
浅井:  強制収容所というのは、勿論人間が努力をして、そのような非道なところを無くすということができる、運命とは違うことですけれども、あの時点でのフランクルにとっては強制収容所の中で生きなければいけないというのは、ある囚徒の動かしがたいことだったということですね。
 
山田:  ええ。その中に置かれたそこでは逃亡するとかということも、鉄条網を張り巡らしてあって、忽ち感電死してしまうだけなんですね。
 
浅井:  そうすれば、その中でどのようにそこで生きるかという態度を自分が決断するという自由を、
 
山田:  その場合に、自分に対して呼び掛けている何かがあると。さっき子どもの例だとか、仕事の例を申しましたけども、そういうものの呼び掛けに対して、自分が応えるという責任があるという、そのことを自覚するということによって、その状況を持ち堪えることができたと、フランクルさんは言っているわけですね。
 
浅井:  そういう人間に最後まで許された「自由」とか「決断」というものなんですけど、それはどんなものでもいいということではなくて、先ほどからおっしゃっているように、それは人生を成功か失敗かというような水平軸にとらわれたそういう価値観から解放されて、人生の意味の充足という垂直軸への価値に転回しなければならないということなんですね。
 
山田:  そうですね。ですから「自由」と言っても、それが「何に向かっての自由か」ということが大事なところですね。フランクルさんは、自由ということで、「何々からの自由」と「何々への自由」ということをいうんですけども、「何に向かって、何への自由か」ということが大事だと思うんですね。ですから自由だから何をしてもよいとかね、好き勝手なことをしてもいいというんじゃなくて、人生なり世界なりからの呼び掛けというものに対して、それに応えるという自由ですね。それは今おっしゃられたように、水平軸から垂直軸への転換ということで開かれてくる自由だというふうに言ってもいいと思います。そういうふうなことはなかなか簡単にはいかないことなわけですけれども、特に現代では伝統的な宗教というものが、かなり力を失ってきているという状況があって、言い換えると水平軸的な考え方が支配的になっているということで、そう簡単にいかないということはあるかも知れません。
 
浅井:  宗教が力を失ってきている現代だという話なんですけども、でもまあフランクルは、「それでも人生はイエスと言う」という言葉のように、どんなことがあっても、たといあなたが人生に絶望したとしても、「それでも人生はあなたにイエスと言っている」という、「人生からも」という言葉で、何らかの超越的なものからの眼差しとか呼び掛けとか、そういうものを語ろうとしているということでしょうか?
 
山田:  そうです。そのことを宗教では、「超越者からの催し」とか、仏教では、「回向」とか言っていると思いますね。ただそういうふうな宗教的な言葉を使わなくともですね、例えばここに花が咲いているとか、幼子が母親に微笑みかけているとか、そういったことが、すべて本当は自分を超えた大きないのちからの呼び掛けであり、回向であるというふうなことではないかと思うんですね。ですから自分が息を吸ったり吐いたりするというのも、それは生きているからで、この生きているという事実は、大きないのちの働きがなくてはあり得ないことだというふうに思うんですね。例えば今まさに自殺しようとしている人でも、心臓が動いてくれているということですね。それは「生きていてくれ」という大きないのちからの呼び掛けではないかと。それがつまり「それでも人生はイエスと言う」ということの証ではないかというふうに受け取るということですね。そういうことじゃないかと思います。
 
浅井:  今日はどうもありがとうございました。
 
     平成二十年七月六日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」で放送されたものである