親鸞聖人からの手紙 @親鸞聖人の生涯と「御消息」
 
               武蔵野大学名誉教授 山 崎(やまざき)  龍 明(りゆうみよう)
一九四三年、東京都生まれ。一九六六年、龍谷大学文学部仏教科真宗学専攻卒業。一九六八年、龍谷大学大学院文学研究科修士課程真宗学専攻修了。一九九三年、武蔵野女子大学文学部助教授。一九九八年、武蔵野女子大学文学部教授。二○○二年、武蔵野大学仏教文化研究所所長(二○○三年校名を「武蔵野大学」に変更)。二○○五年、武蔵野大学大学院人間社会研究科教授。龍谷大学、駒沢大学講師。現在、武蔵野大学名誉教授、世界宗教者平和会議日本委員会理事、同平和研究所副所長、仏教タイムズ社代表取締役社長、法善寺前住職など務める。
 
ナレーター:  「親鸞聖人からの手紙」第一回。このシリーズでは、十二回にわたって親鸞聖人が弟子たちに書いた手紙―「御消息(ごしようそく)」を読んでいきます。親鸞聖人は、三十五歳の時、師であった法然への弾圧事件によって越後に流罪となりました。許されてのち、四十二歳の頃から関東に移り住み、およそ二十年に亘って、その地の人々に専修(せんじゆ)念仏の教えを説きました。その後京都に戻り著述活動に励みます。現在残っている手紙は四十三通、「御消息」と呼ばれています。親鸞聖人が、晩年京都から関東の念仏信徒に宛てて書いたものがほとんどです。それぞれの手紙に込められた親鸞聖人の思想のエッセンスを、現代に生きる私たちに向けて解きほぐして頂きます。お話は、武蔵野大学名誉教授の山崎龍明さんです。
 
山崎:  「親鸞聖人からの手紙」という題で、十二回お話をさせて頂きます。よろしくお願い致します。親鸞聖人って、どんな方ということがありますので、先ずごく簡単ですけど、最初に親鸞聖人の九十年の生涯について申し上げておきたいと思います。幼くして母親が亡くなりまして、その後父親とも別れ、九歳の時に仏教の根本道場であります比叡山に上られます。およそ二十年間比叡山で仏道修行に励まれます。比叡山では常行三昧堂(じようぎようざんまいどう)という、これは不断念仏僧と申しまして、念仏の声をどんなことがあっても絶やすことのないという場にあって、二十年間過ごされます。二十九歳の時に、どうしても自らの求める方向と異なることを、自分は学んでいるんではないかという思いから、比叡山を親鸞聖人は降りられます。そして今で申しますと、京都の丸山公園の辺りに庵を結んでおりました法然上人(ほうねんしようにん)の下に通われます。それまでの二十年間の比叡山での学びとまったく違った、いわゆる百八十度違う仏教の学びを、法然上人との出会いによって、親鸞聖人は始められるわけであります。およそ六年ほど経ちますと、念仏弾圧事件というものが起こりまして、法然上人及び門下は、四人の僧侶は死罪、数人は流罪(るざい)―遠島ですね―流罪になるという念仏弾圧事件が起こりまして、親鸞聖人は、越後―新潟の上越というところに流罪になられます。越後は大変当時は雪深いところでありまして、冬の越後は実に厳しい環境の中で、「聖人ハ配所ニ五年ノ居緒ヲヘタマヘテノチ帰洛」とありますから、五年間越後に滞在されてから、およそ四十二歳の頃に関東に移られます。何故関東であったのかということにつきましては、学者によってさまざまな説がなされておりますけれども、奥さん(恵信尼公。越後頸城の豪族三善為教の娘といわれている)の三善家(みよしけ)の飛び地―領地があったから関東に行かれたのであろう、という説が一般的になっていると言われます。関東でおよそ二十年間、親鸞聖人は滞在をされるわけであります。そこで多くの念仏者が生まれてくるわけで、親鸞聖人の門下になるわけですが、二十年間その中で、例えば親鸞聖人の伝記なんかによりますと、宗教上の考え方の違いから親鸞聖人を無き者にしようと考えた修験道の行者、山伏の弁円(べんねん)という方がおられたようであります。しかし親鸞聖人と弁円さんが話を重ねるうちに、結果的にはその弁円さんが親鸞聖人のお弟子になられて、明法房(みようほうぼう)という名前のもとに、親鸞聖人のところに帰依をされるということも伝記に見られます。そしてその関東時代二十年間経ちまして、およそ六十二歳の頃に親鸞聖人は京都に帰られます。自分のことを何も語ることのなかった親鸞聖人ですから、何故関東なのか、ご自身は語っていらっしゃらない。何故京都へ帰られたか。これも明らかではないんでありますが、いずれにしても、関東から京都に六十二歳頃に移られたという事実は疑うことのないところであります。そして京都に六十二歳頃に帰られましてから、およそ六十二歳から七十六歳ぐらいの間、懸命な勉学、そして七十五、六歳の頃から、大変執筆活動を旺盛にされるという、そういう時間的な移り行きがあります。そして八十四歳の時に、私は、「晩年の悲劇」とこう言っているんですが、お子さんの善鸞(ぜんらん)という方を、親子の縁を切るという、いわゆる善鸞義絶事件ということが起こりまして、「いまは親といふことあるべからず、子とおもふことおもひきりたり。三宝・神明に申しきりをはりぬ。かなしきことなり」今日限り親と思わず、子とも思わず、このことを三宝神明に申し上げた、という手紙が残っておりまして、親子の縁を切るという悲しい出来事がありました。これもご一緒にお手紙を読んで行く中で、少しずつ学んでまいりたいと思います。そして九十歳で聖人は往生を遂げられる。これが簡単に申し上げる親鸞聖人の九十年の生涯でありました。当時は今と違いまして、九十歳というのは大変な長寿でありました。長寿であるということは、同時に大変な苦しみも多くあるということにほかなりませんから、親鸞聖人の九十年の生涯というのは、まさに波瀾万丈の生涯であったんではないかと、このように考えております。特に今申しました関東二十年間の生活の中では、大変な天変地変、あるいは地震ということに伴う飢饉で餓死する人が多くあったということもありまして、それは大変な苦労があったことが想像されます。代表的なことで一つ申しますと、「三部経千部読誦(さんぶきようせんぶどくじゆ)」という言葉がありまして、これは関東の農民たちがバタバタと餓死して亡くなって逝かれる。目の当たりに見た親鸞聖人は、〈私に一体何ができるだろうか〉こう思われて、三部経(三部経とは『大無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』)、これは三つの親鸞聖人が大事にされたお経ですが、三つのお経を千回読もう。こういう志を立てられた。しかし数日しましてから、お経はそういうものではないと気づかれて、そしてお経を読むことをお止めになられた。これは親鸞聖人の奥さまの恵信尼(えしんに)さまがお手紙の中に明らかにしているところであります。ですけど、〈念仏者である私が、実に困窮している農民たちの前に立った時に、私に一体何ができるだろうか〉という強い志を持たれたということが、私は大変尊いことであろうということを考えているわけであります。そして関東の二十年間の生活から、親鸞聖人が京都へ帰られた後、大変な信仰の混乱と言いましょうか、信心の混乱が関東で起こりました。実はそういう関東の教えをめぐる混乱が、多くの親鸞聖人の手紙を、今回私たちが拝見することができるということになると思うんであります。ですから親鸞聖人のお手紙というのは、そのほとんどが「関東の念仏者の疑問に対して懇切丁寧に書かれたお返事である」と言っても過言ではないと思われます。ですから私たちは、その親鸞聖人のお手紙を拝見することによって、関東の人たちがどう教えを理解していたか、ということが、お手紙からハッキリしてまいります。異なった教えをキリスト教の世界では「異端(いたん)」と言いますけども、仏教では「異義(いぎ)」とか「異解(いげ)」と言います。「異端」とか「異義」という烙印が押されると、もうそれはそのまま徹底的に排斥されることがあります。しかし私は、宗教というのは、往々にしてそういう異なった理解を生み出しやすいものではないか、ということをこう考えるんです。それで私はただその「異義」とか「異解」というものを一方的に排除するんでなくして、その異義を通して新しい教えを学ぶ糧にするということが大切なことではないか、という思いを持っております。みなさんはこの辺に対して如何でしょうか。親鸞聖人が、お手紙の中で関東の念仏者たちに多くのさまざまな角度からその誤りを正すというようなお手紙がたくさんあるということを今申しました。一般的には、親鸞聖人のお手紙は、現在四十三通残っております。その中で十一通が真筆(しんぴつ)ですね。真蹟(しんせき)と言いましょうか、真筆が十一通ほど残っております。八百年前のお手紙が、これだけたくさん残っているということも、私は大変希有(けう)なことではないかなと思うんであります。『歎異抄(たんにしよう)』という書物にも、「おのおの十余箇国のさかひをこえて」というように、関東からはるばる十いくつの国を越えて、京都の親鸞聖人のもとに信心の疑問を問い質しに来られたという記述がありますように、相当関東の地で、私は信心をめぐる混乱状態があったんではないかということを考えておくことが大切だと思います。その手紙ですが、親鸞聖人のお手紙は、七十九歳の時のお手紙が最初のお手紙でありまして、八十八歳の時のお手紙が最後のお手紙―これは日付の記載されたものを前提として考えた時に、七十九歳から八十八歳ということになっているわけであります。その他は記述のないものもたくさんあるわけであります。取り分け、また何回目かで申しますが、私が大変感銘を受けましたのは、八十八歳の時の親鸞聖人のお手紙であります。私の事で恐縮ですが、京都に勉強にまいりましたのが十八ですからあ大変若かったんですが、どうしてもなかなか仏教の勉強に身が入らなかったんですね。しかし一年経ち二年経ちまして、二十歳の頃だったと思いますが、大学の講義で親鸞聖人の書簡―手紙の講義がありまして、その講義に触れた時に、私はこの親鸞聖人最後の八十八歳のお手紙、このお手紙の内容に触れて、私は実はハッと驚くものがあったんですね。これは大変私に影響を与えたお手紙ですから、また後に詳しく申し上げたいんですけども、多くの方々が飢饉その他で悲しい亡くなり方している時に、そのお手紙が、「しかし仏さま方の教えは、人間は、いつ、どこで、どのような死に方するかわからない。しかしそのことと、救いそのものとは直接的に関係がない」という、こういう手紙でありました。それは原文で申しますと、「善信―これは親鸞聖人のことですが―「善信(親鸞)が身には臨終の善悪をば申さず」という言葉でありました。その大事なお手紙、私はハッと驚かされたことが思い出しております。それから私としては少し仏教というものを前向きになって考えるようになったという思い出があるお手紙が、この八十八歳の時のお手紙であります。四十通の手紙を、内容的にちょっと考えますと、一つは、教えに対する理解の違い。そこからは争いが起こります。「争論」それが一つですね。それから二番目としては、教えに対する質問への返信―お返事ですね―これが二つ目でありましょう。三番目は、これは建長八年という時代ですが、先ほど申しました親鸞聖人八十四歳の時の、善鸞さんの義絶に関する、善鸞の異義に関する、あるいは義絶状と言われるものに関する、こういう三つに私は手紙を分類することができると思うのです。少し詳しく申しますと、一つは、「一念多念(いちねんたねん)の争い」というものがあったようであります。「一念」は、一つの念仏。「多念」は、多くの念仏と書きます。「一念多念の争い」ですから、〈念仏は一度称えれば良いのか〉〈いや、多く称えなければいけないのか〉という争論ですね。議論であります。こういう争いが随分関東で熾烈にあったことが、お手紙から想像されます。親鸞聖人は、念仏というのは、阿弥陀仏の教えに出会ったことからもたらされる喜びの言葉であるから、「一回でいいとか、多く称えなければ救われないという性質のものではない」ということが、お手紙の中から読み取れるわけであります。あるいは当時の関東の念仏者たちを大変混乱させました、言葉で言いますと、仏教語で「造悪無碍(ぞうあくむげ)」というんですが、「造悪無碍(ぞうあくむげ)の争い」これは簡単に申しますと、「心貧しき、心悪しきものが悪なるものを先ず救うというのが、阿弥陀仏の本心ならば、じゃ、どんな悪いことをしても構わないではないか。どんな悪いことをしても構わない。造っても構わない」。こういう異義であります。それに対しまして、如何なる悪を持ったものも救う、あるいは先ず悪なるものを救うという教えがあるからと言って、無理に好んで悪を造るということは、それは仏法に志しのないもののことである、というようなことが、お手紙の中に見られますけども、これはどうも相当関東の念仏者の中で多く広まったようでありまして、そのことに対する疑問を京都の親鸞聖人のもとにお弟子が送られた、そのお答えが親鸞聖人のお手紙であります。あるいは私は、「如来と等しい」という、こういう言葉がお手紙にあります。それは親鸞聖人は、「人間というのは、悲しいかな、欲、怒り、人を嫉(そね)む、人を妬(ねた)む―こういう煩悩と言いますが―煩悩だらけの私たちなんでありますけれども、そういう私たちでありながら、阿弥陀仏の教えを頂いて生きる真の念仏者は如来と等しいと。阿弥陀如来ということですね。そういう煩悩だらけの私が、阿弥陀如来と等しい人生を生きるものであると。また弥勒菩薩がいらっしゃいますが、弥勒に同じということを、お手紙の中で述べていらっしゃる。それは実体としては、煩悩そのものの私であるけれども、阿弥陀如来から賜る信心によって、真なる信心に基づく生き方をするものは、如来と等しく、あるいは弥勒と同じと言われるような素晴らしい生き方をすることができるんだという、こういうお手紙なんかも私にとっては大変魅力的なものの一つであると、こう申し上げてもよろしいんではないかと思います。取り分け親鸞聖人の言葉は、先ほど「造悪無碍」ということで申しますと、『歎異抄』の第三章に、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という言葉がございます。「善人は救われるんだから、悪人は尚更のことである」という、この言葉が大変誤解されて、〈悪は思うさまに振る舞うべし〉というような、先ほどの誤った信仰理解が生み出されてきたんではないでしょうか。そのことにつきましては、親鸞聖人は、あらゆるところでお手紙の中で、その誤りを非常に厳しく指摘をしておられます。そして親鸞聖人の仏法は、「他力の仏法」と言いますけども、この「他力」というのは、「自力とは自分の努力、他力は人任せ」というふうに誤解されますけども、決してそういうことではなく、「自力」というのは、我が身を頼み、我が心を頼み、我が力を励むですから、どこまでいっても主体は自己になります。ですから自力。その延長線上に悟りを求めていく。これを「自力の仏道」と言ってもよろしいでしょう。「他力」というのは、親鸞聖人は、他力というのは、他の力ということではなくて、阿弥陀仏が悪なるものをなんとか救いたいという願いを起こされた。その願いを頂きながら、願いと共に生きる。その仏教者を他力本願に生きるものとして、しかしその他力というのは、ですから他の力ではなくして、阿弥陀仏が私たちを誤りなき救いの世界へ導いてくださる、という教えの働き、とでもいうんでしょうかね。それを親鸞聖人は、「本願他力」と。親鸞聖人自身は、あまり「他力本願」という言葉は用いておりませんで、文献を見ましても、むしろ「他力本願」でなくして、「本願他力」という言葉を多用している、ということがあります。そしてこの「自力」と「他力」という言葉を使います時に、親鸞聖人は、この「自力」と「他力」という言葉を使うその場は、どういうところかというと、それは人間が仏になるか、なれないか。あるいは人間が救われるか救われないか、というその言葉に対して、自力と他力ということを言うべきであるという、そういうお言葉なども見ることができます。それは「往生の根機に他力あり、自力あり」とこう書いてあります。「往生の根機」ですから、私たちの迷いを超えて、悟りを得る、あるいは救われるという、その道を求める人々の中に、それが往生の根機に―機は、これは人間のことでありますから、救いを求める人間に二つある。それが他力というものであり、自力というものである、とこういうふうに述べられております。少しあちこち行って恐縮ですが、先ほどちょっと申しました「念仏者は、如来に等しい」ということを申しますと、お手紙の第十一通のところに、こういう言葉が見られます。
 
浄土の真実信心の人は、この身こそあさましき不浄造悪(ふじようぞうあく)の身なれども、心はすでに如来とひとしければ、如来とひとしと申すこともあるべしとしらせたまへ
 
だから阿弥陀の法に生きる真実、真の信に生きる人は、この身ですから、肉体、身体そのものはまさに煩悩そのものであるけれども、教えを頂いているという一点においては、心は既に阿弥陀如来と等しければ、従って如来と等しいと申し上げるんだという、こんな言葉を親鸞聖人が述べていることも、私は注目をしておきたいと思うのであります。あるいは親鸞聖人は、
 
信心よろこぶそのひとを、如来とひとしとときたまふ。
 
という有名な大変よく知られた和讃という―詩のようなものですが、そういうものも見られます。これは大変誤解され易いことなんですが、親鸞聖人は、「信心喜ぶ人は、阿弥陀如来なのである」ということでなくて、「その心が如来と等しいのであって、この身はもう迷いの世界にいくことがない。もう退くことがない。不退(ふたい)の位という。必ず従って仏になる身に定まっているんだ。従ってそれは仏ではない。こういうことを親鸞聖人は念を押されるわけですね。中国の善導(ぜんどう)大師の「信心の人は、その心すでにつねに浄土に居す」。「居す」というのは、「真実のその法に生きるものは、この場で心は既に阿弥陀仏の悟りの境涯にいらっしゃる」という、そこに「信心の人はその心」というふうに書いてあります。こういうところが、親鸞聖人の「信心喜ぶその人を、如来と等し」という言葉で表現をされたんだ、とこう思います。私は、このお手紙もそうですが、関東時代のさまざまな異義ということを考えました時に、最後に申し上げておきたいと思いますのは、私は若い頃よく読ませて頂いた文芸評論家の亀井勝一郎(かめいかついちろう)(1907-1966)さん、大変私の好きな方だったんですが、亀井勝一郎さんが、こんなことをおっしゃっているんです。
 
宗教にとって、最大の敵は、必ずしも背信者や異教徒ではなく、誰よりも深く信じていると自認している信徒自身です。この危険について思慮しなければなりませぬ。
 
これは私は若い頃愛読した『愛の無常について』という本にこんな文章がありまして、若い頃私は大変惹き付けられた、宗教にとって最大の敵は、教えを謗る人だとか、異教徒だとか、そういうものでなくして、誰よりも深く信じている。つまり私は誰よりも深く信じている念仏者であるとか、信仰者であるという、その信徒自身にあるんだ、と。この危険性、私は信仰というのは、こういう危険性を常に持っているものだと思うんですが、この危険性について、思慮しなければなりません、と。亀井勝一郎さんはこうおっしゃる。もう一つ私が尊敬する仏教学者・霊山勝海(よしやましようかい)(1932(昭和7)年、広島県生まれ。1954年龍谷大学文学部真宗学科卒業、56年同大学院修士課程修了。京都女子大学文学部助教授、教授、同宗教研究所長、本願寺派司教、勧学。広島県安芸高田市法圓寺住職)先生が、ちょっと長いんですが、こんなことをおっしゃっている。
 
身に法衣をまとい、あるいは首に式章(しきしよう)をかけ、手に数珠をまさぐりながら称名念仏し、外見は完全無欠の信徒としての姿を示し、みずからもよき念仏者と思いこみながら、他の不信をせめ、強烈に教化者意識をもって人びとを導こうとする傲慢な人びと、こういうものが獅子身中の虫と指弾(しだん)されるものなのです。
 
こういうことをおっしゃいました。これは親鸞聖人が、「仏法者自身が仏法を滅ぼすこと」を喩えまして、それを「獅子身中の虫」というふうに表現されたことを、私は受け継いでのお言葉だと思うんですね。これは私自身も念仏者の一人として、生きている中で、私たちの中にある問題性と言いましょうか、信仰者における危険性のようなものを、私は言い当てた言葉であろうかと、このように私は理解を致しております。さまざまなことを考えますと、こういうことを私は一つ軸と致しまして、親鸞聖人の手紙の中に表れるさまざまな問題を、ただお手紙の解読でなくて、今の社会を生きる私たちが担わなければならない課題ですとか、方向ですとか、人間とか、いのちとか、そういうものを念頭に置きながら、親鸞聖人の手紙を十二回にわたってお話をさせて頂けたらと思っております。
 
     これは、平成二十七年四月十二日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」で放送されたものである