東国の親鸞聖人
 
                 筑波大学名誉教授、真宗文化センター所長 今 井(いまい)  雅 晴(まさはる)
一九四二年、東京生まれ。一九七七年、東京教育大学大学院文学研究科博士課程修了。筑波大学教授、アメリカ・プリンストン大学・コロンビア大学客員教授、筑波大学大学院教授等を経て、現在、筑波大学名誉教授、真宗文化センター所長。
             き き て            金 光  寿 郎
 
ナレーター:  今日は、筑波大学名誉教授で、真宗文化センター所長の今井雅晴さんに「東国の親鸞聖人」というテーマでお話頂きます。今井さんは、日本中世史の研究がご専門で、筑波大学在任中は水戸市(みとし)にお住まいでした。今井さんはこの利点を活かして、関東時代の親鸞聖人の足跡を訪ね、探訪の結果を文献資料と付き合わせて、多くの伝承に彩られた親鸞聖人の実像を追求してきた方です。聞き手は、金光寿郎ディレクターです。
 

 
金光:  今日は、筑波大学で長い間日本仏教史、殊に中世の仏教史がご専門で、教えていらっしゃった今井先生に、東国時代の親鸞聖人のことについてお伺いしたいと思うんでございますが、今井先生は、水戸市の河和田(かわだ)近くにお住まいで、そこは有名な『歎異抄(たんにしよう)』の著者だと言われている唯円(ゆうえん)さんが住んでいたところで、今もその唯円開基の報仏寺(ほうぶつじ)というお寺があるそうですが、その利点を活かして随分東国に住んでいた親鸞さんのお弟子二十四輩(にじゆうしはい)―二十四人の高弟たちということで、随分広い範囲でお弟子さんがいらっしゃったようですが、その辺の史跡を丹念にお歩きになって、しかもご専門の文献の方からも裏付けを取られて、で、いろんな伝承が伝わっている親鸞像というものを、「親鸞聖人の実際はこういう方でしたよ」ということを発表なさっているので、時間が短いですけれども、その範囲でお話を聞かせて頂ければと思うんですが、先ず最初に越後に流罪になって、そこで随分苦労なさったと。泥田の中で働かされたというような言い伝えもあるようでございますが、実際は新潟の方でお調べになると、その辺はどういうことだったんでしょうか?
 
今井:  そうでございますね。三十五歳の時に流罪になって越後に流されたと。確かにそれはその通りでありまして、今おっしゃったように随分いろいろ苦労されて、泥田の中で額に汗をし農作業ということだったと思うんですが、私は親鸞聖人が越後で苦労されなかったとは思っておりません。大変苦労されただろう。但し生活上の苦労というのはあまりなかったのではないか、そういうふうに考えております。叔父さんの一人でありました、日野宗業(ひのむねなり)という方が越後の国司(こくし)(越後権介(えちごのごんのすけ))になられましたし、ですからその叔父さんのお世話で随分楽な生活を、それからかなり長い間見過ごされていたと思うんですが、当時貴族乃至貴族に準ずる方の流罪というのは、生活はとても楽だったんだそうです。田圃に入る必要もなくて、経済的にも恵まれていた。但し長い間の若い頃の吉水草庵の師匠の法然上人・先輩・同輩の存在という恵まれた環境から切り離されて―奥さんがいらっしゃるんですが、それは別として―たった一人で越後で学びの生活をされると。これは苦しかっただろうと考えております。
 
金光:  殊に法然上人のお弟子さんたちは、当時の日本でもっとも優秀な人たちを、しかもいろんな階級の人がいっぱい集まって、そういう中で仏法の問答、あるいは聴聞をなさっていたようですから、それが一人だけ、あんまり知らない地方へ流されるというと、精神的な意味での、いわば新しくリセットするか、自分の頭の中を整理されて、仏法のことも味わい直されるという、そういう面ではご苦労があったと思いますね。
 
今井:  そうですね。
 
金光:  それからそこでは六年ですか、流罪になって越後にいらっしゃったのは?
 
今井:  滞在は満七年ということです。
 
金光:  その後、普通現代の人だったら、罪が赦されて、「どこへ行ってもいいよ」と言われると、自分の馴染みの京都へ帰って、馴染みの人たちと話をするような考えが起こると思うんですが、何でそれまであんまりご縁のなかった東国―常陸(ひたち)とか、あの一円の方へ行こうとお考えになったのか、その辺は今井先生はどうお考えでしょうか?
 
今井:  やっぱりその七年間の間に、信心と申しますか、信仰の念仏の信心の境地を深められて、さあこれを人々に伝えたいというのを決心されたようですね。で、京都へ戻ってもいいんですけれども、私の考えでは、また弾圧されるかも知れませんし、新しく興ってきました武士の都であります鎌倉、更には関東の人たちに教えを伝えたいというふうに考えて、関東を目指されたと、私は考えております。
 
金光:  やはり幕府が鎌倉にあって、しかも関東武士が非常に当時の日本の政治情勢の中では優勢になりつつあるという、そういう状況も京都からのそういう叔父さんが国司でいた、あるいはその一族の方なんかも、ご縁の方もいらっしゃるでしょうから、そういう情勢も情報としてはある程度は新潟の越後の方にも伝わっていたと考えた方がいいんでしょうね。
 
今井:  おっしゃる通りだと思いますね。今日鎌倉時代の情報の伝わり方というのは、今日の私たちが思う以上に各地に早く伝わっていた気配があります。やはり鎌倉の武士、あるいはその周りにいる方々は、言ってみれば時代の最先端をいっていたんだろう。そこの人たちに自分の考えを伝えたいということだったと考えております、私は。
 
金光:  それでそうは思われても、あまり知人なんかいないところだと、一人で、しかも野の聖(ひじり)みたいな一人で乞食(こつじき)生活をしなが伝えるなんていうのは、これはとてもじゃないけど、大変だろうと思うんですが、その辺のとこはどういうふうにお考えでしょうか?
 
今井:  そうですね。かなり現在に至るまで、「親鸞聖人は野の聖だ」というふうに思われてまいりましたが、でもそうではなかったと思われます。と言いますのは、関東へいらっしゃった時に、貴族出身の女性であります奥様と、
 
金光:  恵信尼(えしんに)さんですね。
 
今井:  そうです。それから後、十歳に満たないお子さん、合わせて四人でいらっしゃるわけですから、とても明日の食事もわからないような旅はできないだろう。必ず関東で迎える方がいらっしゃったに違いないと、私は考えております。
 
金光:  その方の特定もできたわけですか?
 
今井:  はい。今風に言いましたら、栃木県の大豪族でありますところの宇都宮頼綱(うつのみやよりつな)という方が迎えられたんだろうと。この方は鎌倉幕府の中の有力者でもありますし、あるいは四代にわたって宇都宮家の奥様は、京都の貴族の出身ですので、鎌倉と北関東と京都に勢力を持っていたんですね。しかも宇都宮頼綱(うつのみやよりつな)は、親鸞聖人より五歳若いんですけれども、法然上人のお弟子さんだと。最晩年の有力門弟ですので、言ってみればお互い知っていたんだろうと。関東で教えを弘めたいという話を聞いて、どちらが先に手紙を出したかわかりませんけれども、宇都宮頼綱が、「それなら私のところへいらっしゃいませんか」ということで迎えられたんだろうと考えております。
 
金光:  じゃ、いきなりお一人でぶらっと行って、家族連れでぶらっと行って、「ごめんください。私はこういう者です」ということではなかったと。
 
今井:  常陸国笠間郡稲田郷の稲田(いなだ)草庵に長い間いらっしゃるんですけど、そこの領主と言いますか、昔ですから、最上位の領主が宇都宮頼綱(うつのみやよりつな)ですので、頼綱を無視してそこに住み着くこともあり得ないだろうと。そうすると、そういった面からも頼綱に迎えられて、親鸞聖人のご一家が関東へいらっしゃったと。安心して関東へ移ったということかと思いますが。
 
金光:  先生のお調べになったのを拝見しますと、親鸞さんが稲田草庵にいたということですけれども、それは稲田神社のほとんど境内にあったということなんですか?
 
今井:  現在と昔とは多少違うかと思うんですけれども、現在でも稲田神社は勿論ありまして、そこの大鳥居から稲田草庵の跡と思われるところは、たった三百五十メートルぐらいしかないんです。
 
金光:  そうなんですか。
 
今井:  稲田神社は当時の常陸国の七大神社―七つの大きな神社の一つで、とても広い領地を持っておりました。その面積もわかっております。しかも昔は神社と申しますのは、これも今日の常識とは違いまして、僧侶の方が圧倒的に多いんですね。九割方は僧侶。ですからお経の経典もあるし、で、その境内に稲田草庵があるということは、今から言えば変なんですけれども、地理的なことを考えますと、稲田草庵は稲田神社の境内で、しかも稲田神社の経典を読んで、親鸞聖人は勉強されたと言っていいと思います。
 
金光:  学界では「神仏習合」なんていう言葉があるようですけれども、全国至るところでお宮さんとお寺さんが同じ境内で住んでいて、別に「うちは神道で、うちは仏教で、うちは何宗で」ということは、当時なかったようですね。
 
今井:  なかったんですね。
 
金光:  ですから、そうすると、稲田神社に仏教の経典があってもまったくおかしいことはないわけで。
 
今井:  神社とお寺・寺院がはっきり分けられましたのは、明治の初めの廃仏毀釈、それ以前はまったく一緒になっていましたので、それは教理・教学、詳しく言う方は違うんだと言われても、一般の方々は一緒だったということだと思います。
 
金光:  そうですね。それで二十四輩(にじゆうしはい)―二十四人の高弟の方々のそれぞれの勢力範囲というのを拝見すると、茨城県は勿論稲田のあるとこですから、その近辺にいらっしゃる方のところへは、親鸞聖人も足を運びになるのは楽だと思うんですが、随分お歩きになった範囲が広うございますね。
 
今井:  そうですね。大体調べますと、そういった有力なお弟子さんの住んでおられたところは、大体わかっておりまして、そうすると、稲田を中心にした半径四十キロ圏内にほとんど入りますので、四十キロというと、一日に大体歩ける距離だと思いますので、親鸞聖人が朝稲田の草庵を出て、夕方まで歩いて、夕方目指すところで念仏の会を開いて、泊めて頂いて、翌朝稲田に帰られると。勿論それ以上に遠くへいらっしゃったこともあるんですけれども、大体そういうふうなところに教えを弘められたと考えています。
 
金光:  じゃ二十四人のお弟子さんたちのところというのは、昔の足が健脚だったといっても一泊二日の行動範囲の中で、みなさん住んでいらっしゃった。但し信仰上は、白紙の方ばっかりということではないでしょうから、そこへ行ってお念仏というのは、というのを―有名な熊谷直実(くまがいなおみ)(平安時代末期から鎌倉時代初期の武将)というような方が、のちに出家して法然上人の門徒となり、仏教に帰依されたということは有名なことですけれども、まったく念仏を知らなかった人たちばかりということではないと思いますけれども、どういう形で親鸞聖人の教えを聞く人が増えたとお考えでしょうか?
 
今井:  よく長い間ですけども、関東地方は荒野であると、荒れ地であると。収入もほとんどないと。そこに住んでいる人たちは、言ってみれば原始的な生活であって、無知蒙昧(むちもうまい)と言いますか、しかし実際のところ歴史的に調べますと、そうではなくて、今関東地方は豊かなところ、特に親鸞聖人がいらっしゃった稲田があります常陸国はとても豊かなところということがわかります。ですからそこに住んでいる人たちが、まあ無知蒙昧ということはあり得ないだろう。全国的に同じぐらいには教養もあっただろうと。そういったところでは、必ず従来の、例えば『法華経』の信仰ですとか、親鸞聖人の念仏とは違いますけども、念仏の信仰、あるいは観音、地蔵、その他いろんな信仰があったに違いないと。そこでどのようにして親鸞聖人が教えを弘められたかということについては、やはりこういうことかな、と思うんですけども、一つは、頭から相手のことを否定して、「あなたの信仰は違う、間違っている」と、ではなかっただろう。先ず相手の生活なり、信仰を広く受け入れたうえで、そのうえでご自分の信仰を説くということを、どうもされた気配があります。やはり人間は、頭から相手から否定されると、ムッとするんだろうと。それからもう一つは、どんな場合もそうだと思うんですけども、教義を前面に押し出したのではなかなか上手くいかなくて、その場合には相手の教義を説く方の人格なり、生活なり、こんなにいい生活を、こんなに家庭生活を送っておられるのか。その点では親鸞聖人に奥様の恵信尼さまがいらっしゃって、どうもよい家庭関係、あるいは良いご夫婦であった気配があると、私は考えているんですけども―私だけではなくて、みなさまがそう思っていらっしゃるんですけど―そうしますと、そのようなよいご夫婦、あるいは子どもさん数人を育てていらっしゃる。どうもその背景に信心の念仏があるらしいというところで、お話を聞いてみようというふうになったのかと思いますので、私は二つ原因があって、一つは、相手を否定しない。頭から否定することはしない。もう一つは、ご家庭、それから親鸞聖人自身のご性格と申しますか、そういったものにみなさんが感動された、ということかなと思っております。
 
金光:  それはやっぱり教義で押してこられたら、もっともだと思っても、自分とは縁のない世界の話みたいに受け取られますでしょうし、
 
今井:  縁のない世界ですね、確かに。
 
金光:  それで当時としては珍しく聞く人は在家の人ですけれども、説く人が珍しい―妻帯して、肉食妻帯でお説きになると、坊さんという特別な階級の人ではなくて、自分たちと身近な共通の生活をなさっているという意味で、最初は面食らうかも知れませんけれども、馴染みが出てくると、随分親しく感じられる。親しい人みたいに思われるんじゃないかという気もしますが、先生のお書きになったので、「僧に非ず、俗に非ず」ということですけれども、「僧に非ず」ということは、坊主ではなかったと。いろんな親鸞聖人のお像なんかを拝見すると、お坊さんの坊主頭というか、そういう髪が伸びているのは滅多にないようですが、その辺はどのようにお考えでしょうか?
 
今井:  僧侶は、「結婚してはいけない」という戒律がある。しかし親鸞聖人は、二十九歳の時に、観音菩薩のお告げを頂いて、結婚してもいいんだと。結婚してもいいだけではなくて、結婚することこそ極楽への確実な道だということを、京都の六角堂の観音菩薩にそういうお告げを頂いたと。ですからなんとなく恥ずかしげに結婚して、「奥さんが、これこれこうだ」というんじゃなくて、堂々と、むしろその方がいいんだと。そうしますと、一般の方々も、「あ、そうか」と。もう一つは、姿・格好ですけども、流された時に、僧侶としての身分を取られてしまいましたので、親鸞聖人はそれに反発して、いいと。それなら僧侶ではない。かと言って完全な俗人でもないわけですから、で、それを示すために頭の毛を、僧侶でしたならば剃っている。俗人でしたら髷(まげ)を結んでいるんですね。それでもない、いわば中間のおかっぱ、おかっぱの姿でずっと越後、関東を過ごされただろうと。それは漢字で表すと、「禿(とく)」という字―禿(はげ)ですね。「はげ」と辞典では書いてありますが、鎌倉時代は「禿(とく)」というのは、おかっぱ状況を申しましたのです。それで自分は何も知恵がない、知識もない、愚かな人間だという意味で「愚禿(ぐとく)」ということを一つ名字に付けました。ですから「愚禿」というのは、お念仏一つしか知らないおかっぱの私だと。数は少ないんですけども、茨城県を中心に致しまして、そのような髪の毛を伸ばした親鸞聖人の坐像・映像が残っております。これこそまさに東国の親鸞聖人のお像と、私は考えていいと思っております。
 
金光:  それでお伺いしたいのは、一方では一般向けの話をなされながら、有名な『教行信証(きようぎようしんしよう)』という非常にいろんな経典の引用文がいっぱいの念仏信心の如何に正当であるかというのを、お経を中心に論証されているような著書のようですけれども、関東の未開のところで頭の中にあるものをある程度纏められて、それで京都で経典に付き合わせて完成された、というようなことをおっしゃる先生方もいらっしゃるようですけれども、今井先生はその辺のところはどういうふうにお考えですか?
 
今井:  確かに関東では書くのは無理だろうと思っていらっしゃる方とか、あるいは京都での勉強の時代にたくさんメモがあって、それを持っていらっしゃったんだろうという方もいらっしゃって、それは一概にして否定できないと思いますけども、しかし関東は割と西の方からの文化が黒潮に乗ってきますと、船で紀伊半島から房総半島まで三、四十時間で来れるという記録もあるんだそうです。それを越えて霞ヶ浦に入ればすぐ。つまり関東の大きな神社・寺院では随分たくさん経典があったと考えるべきだろう。それがそれこそ稲田神社ですとか、近くに十五、六キロなんですけども、大きな神社・寺院でありますし、筑波山神社といったものがありますし、あるいは常陸の国府(こくぶ)にも、国分寺・国分尼寺等もありまして、そういったところでの仏教書を基にして先ず作られたと。勿論それでは足りないのを、いずれ京都へ帰られてから、そこの穴を埋められたと思うんですけれども。一先ず京都の方で見ると、関東は随分田舎だ。確かにそうんですけど、関東に本はたくさんあった、仏教書はあったと考えるべきだと思っております。
 
金光:  大体お幾つぐらいの時から手を染められたとお考えでしょうか?
 
今井:  そうですね。はっきりわかりませんですけれども、五十二歳の時に、一先ず今日でいうところの板東本(ばんどうぼん)『教行信証』ができたということがわかっておりますので、やはり数年前からいろいろ準備をされていた。それは偏に京都で師匠の法然上人が、大いに専修(せんじゆ)念仏の教えを、従来の僧侶たちに批判されましたので、それに対する反論と申しますか、それをしたいというふうに考えておられたので、少しずつ準備をされたかと。そうすると、大体五十歳少し前ぐらいから具体的に始められて、五十二歳ということは、『教行信証』の中に年号がありますので、わかっておりますので、その頃かなと思います。
 
金光:  京都に帰られたのは、お幾つぐらいですか?
 
今井:  大体私は、六十歳の頃と。もう少し遅いという説が今までは強いんですけども、大体六十歳頃に―還暦ですので、還暦になりますと、故郷へ帰りたいものだという話もあるということを、前から小さな声で言っている方々もいらっしゃって、私もそうかなと思っております。
 
金光:  それから京都へ帰って三十年も、九十歳まで生きられるとは、当然思われていなかったでしょうね。
 
今井:  よく言われて、例えば『教行信証』を完成させるために京都へ帰られたんです。あるいは法然のお書きになったものを集めて、「西方指南抄(さいほうしなんしよう)」というんですけども、それを編纂されるためと。ただ六十歳の、その頃の平均寿命は四十二、三歳ですので、とてもとても大きな目的を持って行くことは、とてもできなかっただろうと思いますので、あまり京都に「これこれこういう目的を持って帰られた」と、親鸞聖人に期待するのは申し訳ないというか、お気の毒かなと思っているんですね。
 
金光:  そうですね。当時の平均寿命なんかを考えると、あと三十年の間にこういうことをなさりたいというのはちょっと無理でしょうね。そういう事実と、現在まで関東各地で残っている親鸞聖人という方は素晴らしい方で、その幽霊を退治なさったり、それから大蛇を退治されたりというような、いろんな人助け、あるいは奇瑞(きずい)というか、奇跡的みたいなことが伝承として残っているようですけれども、実際お歩きになった今井先生は、お調べになって、大まかなところどういう印象をお持ちでしょうか?
 
今井:  今のご質問は、特に現代にとりまして、とても大切なご質問だと思うんです。『教行信証』その他いくつかの親鸞聖人の「教義書」というのは、机の前に坐ってお書きになる時はそうだったんだろう。でも実際にいろんな方々と接する時に、教義を前面に押し出していたんではみんな聞いてくれない。それから一般の方々が仏教の教養がそうあるわけではない人が、圧倒的に多かったでしょうから、そうすると、先ず親鸞聖人は立派な方、私たちの病気も大蛇もみんな上手い具合に解決してくれたといったところで、教えが伝わっていったと思いますので、一時期そういう伝承というんでしょうか、言い伝えを否定する動きも、この第二次大戦後かなりあったんですけども、やはりそれは今の時点では考え直すべきだろう。数百年間、大蛇を退治したとか、その他幽霊を済度したとか、あるいは筑波山で筑波権現といろんな対話をして、まあ和やかに教えを伝えたということは、教義・教理からいうと変なんですけど、実際のところ何百年もそういった話が伝わってきたということは、とても大事なことだろうと思いますので、今日の課題は、親鸞聖人、あるいは他のその後を受け継ぐ方々の教義と日常の生活とどう結び付けて総合的に把握するか、それが今日の研究の課題だと思っております。
 
金光:  ただ、研究課題とおっしゃいましても、親鸞聖人ご自身が、「儂はどこそこで幽霊退治をした」とか、「大蛇をこうやって始末した」とかいうようなことは、ご本人がおっしゃったわけではないでしょう?
 
今井:  それはありませんですね。ですから今のおっしゃって頂いたお話は、やっぱり親鸞聖人の後の時代に作られたお話と考えて先ず間違いないだろうと思います。勿論その当時時代でも、親鸞聖人は関東にいらっしゃった時代の話が、噂が伝わっていく段階で、「親鸞聖人とはこんな人だ」と。「大蛇を退治された」と。しかし親鸞聖人がその話をお聞きになったら、「いや、そんなことをしていないよ」ということだと思いますが。
 
金光:  それと、先ほどのお話で、関東一円も平安時代以来の当時の信心というもの、信仰というものが、それぞれの流れの中で受け継がれていた人たちだろうと思いますけれども、そういうところへ入って、そういう昔の考え方を止めて、もうそれこそ専修念仏一つだけというふうに、全部がなったかというと、そうもいかないんじゃないか。信仰というのは、そう簡単にはいかんのじゃないかという気がするんですが、その辺の当時の人たちが、専修念仏の教えを親鸞聖人からお聞きになった時の受け入れ方というのは、どういうふうなものとお考えでしょうか?
 
今井:  先ほどちょっと申し上げた筑波山の筑波権現が出てこられるわけですけど、かと言って、そこで念仏を弘めることができたわけですけど、かと言って、筑波権現の信仰が消えてしまったかというと、まったくそういうことはなくて今日まで続いておりますし、あるいは田地方―今、栃木県の真岡市(もおかし)になっておりますけど―そこでは虚空蔵菩薩の信仰が大変強くて、宵の明星と一体になるそうですけど、そういう世界で念仏を受け入れて頂いたと。但し虚空蔵菩薩の信仰を受け継いでおります三ノ宮神社、それは依然と残っておりますので、私はこう考えているんですけど、それぞれの地方で、例外はあるとは思うんですけども、今までの信仰を続けつつ、そのうえに親鸞聖人の本願の念仏と申しますか、それを受け入れていった。それを親鸞聖人もご存知だったと。
 
金光:  それはそうでしょうね。
 
今井:  ですから、後になってから、本願の念仏だけだと強調するのはおかしいだろうと。
 
金光:  それが自然な当時の人たちの仏教なり神道なりに対する自然の受け入れ方というか、そういう形であったんだろうということは充分想像できると思いますが、随分今井先生はいろんな各地を、親鸞聖人のお歩きになった跡を訪ねていらっしゃって、それこそいろんな形でその土地の事情なんかを発表なさっていらっしゃいますので、これから私も少し勉強さして頂いて、もう一度東国の時代の親鸞聖人のことを調べていきたいと思います。どうも有り難うございました。
 
     これは、平成二十七年四月十九日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」で放送されたものである