平和学からの問いかけ
 
          明治学院大学・青山学院女子短大講師 豊 川(とよかわ)   慎(しん)
一九七七年生まれ。関西学院大学神学部、トロント・キリスト教学術研究所大学院修士課程(M.W.S. in political theory)、アムステルダム自由大学哲学部修士課程(M.A. in Christian Studies)修了。現在、明治学院大学、駒澤大学、東京基督教大学、青山学院女子短期大学非常勤講師。キリスト教学、西洋哲学、政治思想、平和学専攻。
          き き て             浅 井  靖 子
 
ナレーター: 今年は、戦後七十年、この番組でも折に触れ、この節目を見つめる番組を放送してまいります。今日は、「平和学からの問いかけ」と題して、明治学院大学や青山学院女子短期大学などで講師をお務めの豊川慎さんにお話頂きます。豊川さんは、キリスト教学、宗教哲学がご専門。関西(かんせい)学院大学神学部を経て、オランダのアムステルダム自由大学で哲学を学ばれました。帰国後、「平和学」という新しい学問分野に取り組まれ、キリスト教の立場から、平和とは何か、如何に平和をつくり出すのか、などを研究しておられます。聞き手は浅井靖子ディレクターです。
 

 
浅井: 豊川さんは、「平和学」がご専門ということなんですけれども、この「平和学」というのはどんな学問なんでしょうか?
 
豊川: 「平和学」という学問は、「平和とは何か、そして平和を如何に実現するのか」ということを探究する学問的な分野であります。国際関係論―政治学、経済学、社会学などの社会科学の境界線を越えて新たな学際(がくさい)(研究などがいくつかの異なる学問分野にまたがって関わる様子)的な分野として、一九五○年代に誕生しました。何故一九五○年代に誕生したかと言えば、第二次世界大戦が終わって、その後人々は平和を希求したわけですけども、新しく米ソの間で、核開発競争がどんどんどんどんとエスカレートし、そういう中で再び平和が脅かされる、そのような状況の中でほんとに平和をもう一度考えるということが、いろいろな学者の間で言われるようになりました。
 
浅井: 一口に平和と言っても、平和をどう捉えるかというのは、凄く難しいと思うんですけども、平和学の中でどのように捉えられているんですか?
 
豊川: 従来「平和」と言えば、戦争のない状態。「平和と戦争」というものが二項対立的(にこうたいりつてき)に捉えられてきました。ローマの格言に「平和を欲するならば、戦争に備えよ」、そういう言葉があったように、戦争と平和というものが、二項対立的に捉えられてきましたけども、ノルウェーの学者にヨハン・ガルトゥングという人がいて、従来「戦争か平和か」というふうに二項対立的に捉えられてきましたけども、そうではなくて、むしろもっと広く「暴力と平和」それが対になる概念として捉えられるべきだと。つまり暴力がない状態こそが平和だと論じ、暴力という概念、幅広くガルトゥングは用いました。「直接的暴力」(direct violence)、そして「構造的暴力」(structural violence)という概念を用いたわけですけども、戦争や武力紛争、テロ、そういった直接相手に危害を加える形態の暴力、それを「直接的暴力」というふうに言いました。それが今まで戦争か平和かということで捉えられてきたものですけども、それよりももっと広く「構造的暴力」、つまり貧困であるとか、経済格差であるとか、差別の問題であるとか、人権侵害であるとか、社会の中に何か構造化されている、そういった暴力形態、それをも問題にしなければ真の意味で平和ということは言えないんだ。それをガルトゥングという人は提起した。それによって平和学が使わなければならない、平和学が使う領域というものが非常に広くなっていったわけです。沖縄の基地の問題や原発の問題、またヘイトスピーチ(hate speech:人種、宗教、性的指向、性別、思想、職業、障害などの要素に起因する憎悪(ヘイト)を表す表現行為とされる)など構造的暴力という観点から捉え直すことが平和学からの問いとしてあるわけです。つまり平和学が問うているのは、戦争や紛争など直接的暴力のない世界を目指すと共に、構造的暴力のない世界をもめざし、暴力の連鎖を生み出している構造的な歪みを矯正することにあると言います。
 
浅井: 豊川さんは、今、三十代でいらっしゃると伺ったんですけれども、戦争を知らない世代から生まれた、ほんとにまったく戦争を知らない世代と言えると思うんですけども、その方が何故戦争や平和の問題に関わるようになられたんでしょうか?
 
豊川: 二つのことをお話したいと思います。一つは、私の祖父の戦争体験というものが、私が平和というものに深く関心を持つようになった一つの大きなきっかけでありました。祖父は、関西学院大学を卒業した後、召集を受け、そしてフィリピンのネグロス島(Negros:フィリピン中部のビサヤ諸島にある島で、フィリピン4番目の大きさの島である)というところに行って、そこで敗戦を迎えました。祖父は陸軍の航空隊に所属して、フィリピンで終戦を迎えたわけですけども、捕虜収容所で捕虜としての生活を送りました。クリスチャンであったために、「マレーの虎」と言われた山下大将(山下奉文(やましたともゆき)。陸軍軍人。第二次世界大戦当時の陸軍大将。太平洋戦争の緒戦において第25軍司令官としてマレー作戦を指揮。日本の新聞は、その勇猛果敢なさまを「マレーの虎」と評した:1885-1946)や、洪思翊(こう・しよく)(日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。日本統治下の朝鮮出身の日本陸軍軍人としては、王公族として皇族と同等の優遇を受けた李垠中将と並び、もっとも高い階級に昇った。太平洋戦争(大東亜戦争)後、戦犯としてフィリピンで処刑された:1889-1946)中将などの絞首刑にも立ち会うという経験もしました。戦争を直接経験したが故に、その悲惨さを身をもって知っていました。その祖父から、戦争の愚かさ、そして平和の尊さ、そのことを聞いてきたということが、私が戦争の問題、また平和の問題ということに関心を持っいる大きな一つの理由であります。
 
浅井: お爺さまは、ズッとそれまで戦争体験ということを、ご家族には伝えてこられた方だったんですか?
 
豊川: いいえ。母は祖父の戦争の話をほとんど聞かなかったそうです。自分の子どもに語るには、あまりにも生々しい戦争の記憶であり、語りたくないという思いがあったことと思います。二世代を越えて、孫の世代になって漸く語ることができるということがあるのだと思います。二つ目の点ですけども、「日蘭(にちらん)和解の会」、私がオランダに留学していた時のことをお話したいと思います。「日蘭和解の会」という対話集会に参加しました。オランダは、インドネシアを長い間植民地としていました。そのインドネシアに日本は進攻して行ったわけです。その際、民間のオランダ人の多くも拘留されて、日本軍から酷い扱いを受けました。そのような経験を持っているオランダ人の方々と日本人との対話集会に参加しました。私はその時、ご高齢のオランダ人の男性の方から、非常に厳しい言葉を投げかけられました。「あなたたち、若い者たちは、私たちがどれほど酷い扱いをされてきたのか。歴史の教科書から学んでいないのか」そのように詰問されたわけです。自分が如何に歴史を学んでいないかということに恥じ入ると共に、未だ憤りや怒りを内に抱えておられる方々が多くおられるということを知りました。慰安婦にされたオランダ人女性についても、私はほとんど知りませんでした。戦後世代の責任として歴史を学び、それを心に刻み続けなければならないという思いにさせられました。戦後七十年を経ても、癒えることのない傷を心に負っている方々が、今尚多くおられるという現実を目の当たりにしました。「戦後世代の戦争責任とは何か」ということを改めて考えるきっかけとなりました。対話集会の中で、当時のいろいろな話を聞いて、「ほんとに申し訳なかった」という思いになりました。そのことを私は伝えました。すると、「いいですよ。あなたたちの世代には直接的な責任はないのですから」と。「しかし是非何故私たちが、どのような扱いを受けたのか、それを知って、苦しみを知ってほしい」というふうに言われました。何か赦されるような思いになりましたし、赦し、そして和解というのは、このような直接的な対話の中から生まれるのだ、ということを感じたわけです。世代は違うけども、今現に苦しんでいる方がおられて、その方を前にして、私は赦しの言葉を語り、そして許される。そういう思いを感じた。それが戦争の問題、平和の問題ということに関心をもっている一つの大きなきっかけでありました。
 
浅井: 日本とオランダの間で起こった不幸な歴史のことは、ご自身としてはあまり習った記憶はなかったんですか?
 
豊川: そうですね。中学、高校の歴史の教科書の中で、深く学んだ記憶はありませんでしたし、また大学に入っても、歴史を学んではきましたけども、深い関心を持った学びということはしていなかったです。
 
浅井: そうすると、今も痛みを抱えて生きている方々が、目の前におられるということが、凄くご自身にとっても重い体験でいらっしゃいましたですか?
 
豊川: 直接的な私たちの世代に戦争責任はないとは言え、過去に日本が犯したその帰結ということには、私たちは責任を負わなければならない。そういうことを感じましたし、また申し訳ないという、ただただその思いというものが素直に湧き起こってきたというのはありました。
 
浅井: それはお爺さまもまた戦場におられたという、そのお話を聞いておられたことも戦争体験を語る方々との出会いには意味があったんでしょうか?
 
豊川: そうですね。戦争には 被害の側もあれば、加害の側もあって、その両方の側面というものを教えられた気がします。
 
浅井: 豊川さんが、学問的にも基盤を置いておられるのは、キリスト教なんですけども、そのキリスト教というのは、私たちは、平和を旨とする宗教であるというような印象を持っていますけれども、でも一方でやっぱりキリスト教の世界でも戦争が繰り返されてきたという歴史がございます。そのキリスト教の世界での戦争、あるいは平和というのはどのように捉えられてきたんでしょうか?
 
豊川: 『新約聖書』の中には、イエスの教えに、「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」(マタイによる福音書5章44節)と、そういう平和主義の教えもあります。歴史的に言えば、キリスト教には、大きく分けて二つの戦争観があります。一つは、平和主義(pacifism)の伝統です。もう一つは、正当な戦争、あるいは正しい戦争(justwar)と言われる考え方です。どちらの考え方も、聖書を典拠にしています。「平和を実現する人々は幸いである」(マタイによる福音書5章9節) というイエスの言葉が聖書に記されていますけども、如何にして平和を実現するのか、ということをめぐって、言い換えればキリスト教は、戦争することが許されるのか、という問題は、キリスト教の初期の頃から今日に至るまで絶えず議論されてきました。キリスト教の歴史において、三世紀頃までは平和主義であったと言われています。キリスト者は、ローマ帝国における兵役を拒みました。それはイエスの平和の教えの上であるということが一つ。もう一つは、兵役に就くと軍隊において、ローマ皇帝を神として崇拝することが強いられたため兵役を拒んだわけです。迫害を受けるけれども、初代教会のキリスト者たちは、兵役を拒むことができたわけです。当時のキリスト者は、ローマ帝国全体からみると、少数派(マイノリティ)でした。皇帝ネロを初め、歴代のローマ皇帝たちはキリスト者を迫害しました。しかし決定的な変化が訪れます。それはローマ皇帝のコンスタンティヌスが、キリスト教に改宗し、そしてキリスト教が公認されるようになり、その後キリスト教がローマ帝国の国教になったということです。これによって新たな問題が生じるようになりました。つまりローマ帝国における兵役の責任、そしてキリスト者としての信仰を、どのように調定するのかという問題です。今までは少数派であったために、外部からローマ帝国を如何に守るかということは、キリスト者たちにとって、主な関心ではありませんでした。しかしローマ帝国が、キリスト国家となったため、絶対平和主義の立場ではない戦争観が生じてくることになります。それが正しい戦争(justwar)と言われる考え方です。このローマ帝国の末期に生きたアウグスティヌスという思想家は、正当な戦争について名論していますが、彼は、「合法的な権威、正当な理由、そして正しい意図があれば、その戦争は正しいと言える」と考えました。このような戦争観は、中世の時代トマス・アクィナスという神学者によって、さらに詳しく論じられるようになりました。十六世紀当時のローマカトリック教会を批判し、宗教改革が行われるようになりましたが、宗教改革以後のキリスト教会の戦争観は、中世から続く正当な戦争が主流の考えであり続け、平和主義の立場は、西洋のキリスト教の歴史において少数派だったのです。
 
浅井: その「正当な戦争」という概念がある以上は、戦争はなくなりませんし、平和が訪れることはないのではないかというふうに思うんですけれども。
 
豊川: アメリカにおける同時多発テロ以降、特にこの「正義の戦争」、あるいは「正当な戦争」という概念が、アメリカの神学者、アメリカの教会でも非常に多く論じられるようになりました。誤解を招かないように一点注意しておきたいと思います。「正当な戦争」という理論は、ヨーロッパ中世から近年にかけて、さらに詳細に論じられるようになりましたが、それは何か戦争それ自体望ましいものとして肯定していく、理解していく、そういう理論ではなくて、むしろ戦争に歯止めを掛けるルールというものを設けて、何が正しくない、何が正しいか、ということを明確化するために、そのような意味で「正当な戦争」という概念が、だんだんと近代以降政治化されてきたわけです。
 
浅井: それは限定的な手段としてやむを得ない時に限定しようとする方向に進んでいったということですか?
 
豊川: そうですね。例えばそれは最後の手段ということでなければなりませんし、戦争が始まってしまった場合にあっても、戦闘員と非戦闘員は識別されなければならない、とされています。またこれらの虐待などを禁じたジュネーブ条約なども遵守されなければならない。それらが今日「正当な戦争の条件・基準」として挙げられるものです。当然ですが、この「正当な戦争」という考え方には、多くの批判があります。この戦争が正しいと判断するのは一体誰なのか。ほんとに正しいと言えるのか。戦争に正しいも、正しくないもないのではないか、という批判です。また広島、長崎の原爆、そして無差別爆撃などは、従来の戦争観それ自体を一変させたと言われます。古代や中世の時代の戦争と近現代の戦争とでは、その規模や威力は桁違いですし、特に核兵器が使用されると、戦闘員と非戦闘員の区別は不可能になります。今日、戦争は原則として違法ですが、それでも「武力行使」という名で戦争が行われています。武力に訴えるという考えにならないためにも、正当な基準を用いて戦争批判ということを行っていくことが重要ではないかと考えています。つまり如何なる正当な戦争もあり得ない。また歴史を振り返ってみても、そうであったというふうに思います。憲法九条が骨抜きにされていることが指摘されますが、日本は戦争放棄と戦力の保持を憲法に規定した唯一の国であることの意義、これをいくら強調してもし過ぎることはないのではないか、というふうに考えています。
 
浅井: 日本でも第二次大戦の時には、キリスト教会が戦争にどう向き合うのか、というのが問われたという歴史があったかと思うんですけれども。
 
豊川: 残念ながら、日本のキリスト教会は、戦争に協力した歴史があります。国家に迎合したわけです。天皇を中心とする国体の中にあって、キリスト教は迫害と弾圧を受けてきた歴史がありますので、キリスト教会が、教会という組織を守り生き延びるためにも、戦争協力はその時代にあってはやむを得なかった、という見方もあります。その時代に生きたキリスト者でなければわからない感情や思いもあるに違いありません。しかしキリスト教会が戦争協力をした事実に変わりはありません。どのような戦争協力であったかというと、例えば戦闘機を国に奉献するために、教会で献金を集めました。また日本のキリスト者の指導者たちは、植民地であった朝鮮のキリスト者たちに、神社参拝することを求めました。「神社は宗教に非ず」という理由で、神社参拝は国民的な忠誠を表すための一つの行為であると考えられた時代にあって、愛国心や忠誠心が求められたキリスト者は、積極的にそれを示しました。また朝鮮のキリスト者にもそれを求めたわけです。戦後二十二年を経て、一九六七年に「第二次世界大戦における日本キリスト教団の責任についての告白」という告白文が出されました。戦時中に戦争遂行に協力したその過ちを認め、罪責告白を行いました。少し引用するとこう書かれています。
 
まことにわたくしどもの祖国が罪を犯したとき、わたくしどもの教会もまたその罪におちいりました。わたくしどもは「見張り」の使命をないがしろにいたしました。心の深い痛みをもって、この罪を懺悔し、主にゆるしを願うとともに、世界の、ことにアジアの諸国、そこにある教会と兄弟姉妹、またわが国の同胞にこころからのゆるしを請う次第であります。(第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白)
 
この罪責告白から半世紀近く経とうとしていますが、一応その罪を認めたら終わりということではなく、戦後世代は二度と同じ過ちを犯さないよう、戦争罪責の問題を私たち時代の課題として引き受ける必要があると思っています。
 
浅井: 戦争というのは、やっぱり政治体制とか、あるいは国家の選択というところから起きてくるということがあると思いますけれども、それを国家や、あるいは政治体制の問題にするだけじゃなくて、私たち一人ひとりが平和のためにできることがあるとしたら、それはどういうことだというふうにお考えでしょうか?
 
豊川: 戦後七十年の今年、戦後和解、また歴史和解について、多くの議論がなされています。国レベルでの和解が求められていますが、歴史認識や戦後補償の問題など、さまざまな問題があります。近隣アジア諸国との和解を、真の意味での友好関係を築いていくためには、私たち一人ひとりが自分自身の課題として平和について考えることが必要ではないでしょうか。平和の実現を考える場合、取り組みべき、そして考えるべき課題があまりにも多くありますので、私たちには何もなし得ないという無力感に襲われる場合があるかも知れません。しかし私たちは、何もかもすべて行うことはできないけれども、何か一つのことだけでもコミット(commit: 関係すること。参加すること。かかわり合うこと)することはできると思いますし、少なくとも関心を持つということはできます。自分のことのみ関心をもつのではなく、他者の痛みや苦しみに対する共感、そのことに対する関心が重要ではないでしょうか。他者の存在に心を開くということです。自分とは異なる他者と共に生きるとはどういうことなのか。また共に生きるためには、何が求められているのか。その前提にあるのは、「他者の存在を認める」ということだと思います。苦しんでいる、そして虐げられている、差別されている人々が、現にいるのだという認識。それに他者の苦しみや痛みに対する共感が求められています。私はそれが和解のプロセスの前提になければならないと思います。和解ということに関して、簡単に言えば、それは仲直り―関係の回復です。自分たちの過ちを認めて、それに対する悔い改めの思いが表明されることで初めて許しの言葉を語ることができますし、そして他者に許され、また許すことによってのみ和解というのが可能なのではないかと思うのです。
 
浅井: その「和解」とか、あるいは「他者を思う」、あるいは「許し」という問題ですね、これは多分に宗教的な世界が大事にしてきたものだというふうに思うんですけれども。
 
豊川: 「許し」という概念は、キリスト教の中心的な考え方でもあります。「和解」というものが、何か自然発生的になされるのではなくて、和解に至るためのいくつかのプロセスがあって、そして漸く和解へと至るというふうに思います。一つは、悔い改めということ。つまり自分の罪を自覚していなければ、悔い改めの気持ちは決まりません。自分の側に、罪意識、また何をしてしまったのかという、その加害の意識というものがなければ、悔い改めの思いというものが当然出てこないわけです。自分の中に悔い改めというものがあって、初めて今度は「許し」というものが語られるというふうに思います。例えば聖書の中には、イエスが十字架につけられた時の言葉、「父よ、彼らをお許しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです」そういう言葉があります。イエスの言葉です。イエスは復讐や怒りではなく、許しを語りました。しかしながら「許し」というのは、忘却ということではないと思います。過去の過ちというものを水に流してしまう、そういうことではなくて、決して忘れない、それでも許されている。そのことが何よりも大切だというふうに思うのです。更には「他者」ということが考えられなけらばならないわけです。自己に他者の場を設ける。他者性というものを如何に考えるのか。苦しんでいる、そして戦争で傷付いている、そういう人たちに対する思いというものがなければ、和解というのは関係性の回復でありますから、他者に対する感覚、他者への思い、それが何よりも重要だというふうに思います。さらに記憶の癒やしということが必要ではないかと思います。戦争で多くの苦しみを持っている、傷を負っている、その人たちの傷がだんだんと癒やされることによって、そのことによって和解というものに至るのではないかというふうに思うのです。和解には長期的な時間を必要としますし、更には忍耐というものも必要とされるわけです。世代を越えたそれは継続的な課題であるというふうに言えるかと思います。先ほど祖父の話をしましたけども、当事者と加害者双方が和解ということに至れば、それは理想ですけども、しかしながら語り得ないそういう場合もある。そういう時を経ないと癒やされない傷というものがあって、初めて癒やされていく。そういうことを考えるならば、和解というのは世界を越えた継続的な課題ではないか、というふうに思うのです。
 
浅井: 豊川さんご自身、オランダにいらっした時に、痛みをもって生きていらっしゃるオランダの方と出会われて、日本に帰って来られて、直接オランダの方たちとではないんですけれども、今平和のためにその和解ということでなさっていることがあるそうですね。
 
豊川: あまり知られていないかも知れませんが、神奈川県の保土ケ谷(ほどがや)に英連邦(えいれんぽう)戦没者墓地があります。英連合軍捕虜一八○○名余りの方々の墓地です。彼らは日本が戦時中にタイとビルマに結んだ泰緬(たいめん)鉄道の敷設工事(第二次世界大戦末期、日本陸軍がインド侵攻作戦遂行のため建設したタイ(泰)国とビルマ(緬間)、現在ミャンマァ、を結ぶ軍事鉄道これはタイのノンプラドックからビルマのタンビサヤに至る延長距離415キロに及ぶ蛛道で、1942年7月着工、翌年10月に完成した。英国など連合国捕虜6万8,000人とアジアなら連行された20万人とも30万人ともいわれる労務者(ロームシャ)がこの建設のため強制労働させられた。過労や栄養失調、マラリヤ、コレラ、などの病気、虐待などのため、連合国捕虜は1万3,000人、アジアの労務者は(正確には分からないが)約半数が犠牲になったという。この事実は「枕木1本ごとに一人の命が奪われた」と今も語り継がれ、日本軍が戦時中行つた残虐行為中最も凶悪なものとして「死の鉄道」の名で記憶されている)において強制重労働を課せられました。その後日本に移送され、日本の軍需工場や炭鉱でも重労働に従事させられた揚げ句、祖国に帰れず、この異国の地・日本で生命を奪われました。この保土ケ谷の英連邦戦没者墓地において、一九九五年八月五日、戦後五十年を機に始められたのが、英連邦捕虜追悼礼拝です。追悼礼拝の呼び掛け人の一人であった国際基督大学の斉藤和明(さいとうかずあき)(国際基督教大学名誉教授、故人)先生が、天に召される数週間前に起草した趣旨文には、追悼礼拝の土台となる八つの意味が記されています。
 
一、憎しみの消えない犠牲者と日本人との和解のきっかけが与えられるため
二、世界の恒久平和の実現を目指すため
三、怨恨と憎悪を克服し、過去の事実を直視し、日本の戦争責任を認識するため
四、戦争責任の罪を見据え、被害者に対して謝罪をするため
五、戦争に犠牲者たちの声を聞き、如何なる戦争に対しても反対の意を表するため
六、先の戦争で犠牲となった方々を追悼するため
七、戦争の記憶を継承し、戦争のない平和社会を次世代に引き継ぐため、
八、平和をつくり出すためです。
 
ユネスコの前文に次のような有名な言葉があります。
 
戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和の砦を築かねばならない。
 
私たちの心に平和の砦を築くこと、これが平和を実現していこうとする際に重要になると思います。歴史認識に起因する近隣諸国との外交的な軋轢が、近年ますます深刻化している状況の中にあって、和解による信頼関係の回復が大きな、そして重要な課題となっている今日、英連邦戦没捕虜追悼礼拝は、日本の戦争罪責を想起する場であると思っています。私自身が追悼礼拝の実行委員として、平和と和解について実行することを、我々一人ひとりに促す、そのような時でもあるというふうに考えています。戦争の記憶を継承し、平和の学習のフィールドとしても、追悼礼拝は大きな意義を有しています。若くして命を落とした連合軍捕虜一八○○名余りの人たちの墓誌に刻まれた言葉を一つひとつ読んでいくと、若くして命を失わなければならなかった、どのような苦しみがあったのか。二度と同じ過ちを繰り返してはならない。そういう強い思いに促されていきます。ヴァイツゼッカー元大統領が語ったように、戦後世代の私たちには戦争に対する直接的な責任はありませんが、過去に目を閉ざさず、過去を引き受けることに対する大きな責任があります。過去に何が起こったのか。その戦争の記憶を歪めずに語り継ぐこと、それが戦後世代の次世代に対する大きな責任だと思うのです。追悼礼拝を行うことによって、私たち一人ひとりが、過去に何があったのか。そして過去を想起し、今ここに生きる者として和解の働きというものを主体的にしていきたい、そのように思っています。
 
浅井: 今日はどうもありがとうございました。
 
     これは、平成二十七年五月三日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」で放送されたものである