無分別≠ニの出会い
 
                    東京大学教授 丸 井(まるい)   浩(ひろし)
一九五二年、東京都生まれ。一九七六年、東京大学文学部印度哲学印度文学科卒業、同大学院修士課程、博士課程修了後、文部省給費留学生としてインド・プーナ大学サンスクリット高等研究センターに留学およびインド哲学仏教学、比較思想学の世界的巨匠、中村元博士創設の「財団法人東方研究会」専任研究員を経て、一九九二年、東京大学文学部印度哲学科助教授、一九九九年、東京大学大学院人文社会系研究科教授。
                    き き て  成 田   由 美
 
ナレーター:  今日は、「無分別≠ニの出会い」と題して、東京大学教授で、中村元東方研究所常務理事の丸井浩さんにお話頂きます。丸井さんは、インド哲学が専門で、特に分析的な思考を追求するニヤーヤ哲学について長年研究されてきました。ところが近年ニヤーヤ学哲学とは対照的な、もう一つのインド哲学の流れ、仏教でいう無分別の思想に強く惹かれるようになったと言います。丸井さんと無分別の出会いはどんなものであったのか、お話を伺います。聞き手は成田由美ディレクターです。
 

 
成田:  今日は、東京大学教授の丸井浩さんに、「無分別との出会い」と題してお話を伺います。よろしくお願いします。
 
丸井:  よろしくお願い致します。
 
成田:  それでは今日のテーマである「分別」「無分別」というのは、どんなものなのか。日常の用語で「分別がある」とか、「あの人は無分別だ」なんていうようなことを言いますけれども、それとは多分ちょっと違う意味を持っていると思うんですけど。
 
丸井:  多分「分別」という言葉は、元々仏教由来の言葉であるということを、一般の方はあまりごく意識しないで使われている言葉だと思うんですけども、一般に仏教用語というのは、たくさん現代の日本語の中に入り込んでいるということはよく知られていることなんですけども、大体概していうと、「無」が付いている方が「良い意味」ですね。例えば有名なのは、「無学」という言葉があるんですよね。そして 「有学(うがく)」という言葉があるんです。学が有ると、学が無いと。「有学(うがく)」というのは、日常的にも使われていないと思うんですけども、「有学」というのは、まだ学ぶべきことがある段階の人を「有学」と言って、「無学」というのは、もう既に学ぶべきことがない聖者の段階という意味が、本来の意味なんですよね。ですから「私は無学でね」なんていうのは、「私は悟っているんだよ」ということになるわけですよね。それと同じように、この「分別」というのも、「分別がある」という「有分別(うふんべつ)」、それから「分別がない」という「無分別」ですね。これが日常的に使われているのとはまったく逆で、「物事をこう分け隔てるというこの働きは、誤った智の働きである、迷いの智の働きである」というんですね。しかし、我々は日常的には分け隔てて生活しているし、それが正しい考え方だと思っていますよね。例えば「善悪」、それから「美しい・醜い」―「美醜(びしゆう)」、あるいは「正しい・間違っている」―「真偽(しんぎ)」ですね。それから「苦しい・楽しい」とか、あるいは「お金がある・無い」とか、「名誉がある・無い」とか、こういった分別―ものを分け隔てるという。象徴的には二つの対立しあうようなものを立てて、それでどちらかを選び取っていくということ。私、考えてみると、子どもの時に言葉を習得していく時に、親が子どもに、「これは犬だよ。これが牛だよ。牛ではないよ。これが犬で、これが猫で」って、必ず一つひとつの言葉を教えていく時には、牛と呼ばれるもの、犬と呼ばれるものと、そうでないものというふうに区別立てて言って、それで言葉を教えていくということ。それを一つ考えてみても、我々は、この言葉を使ってものを考えるという時には、「ものを区別立てていく」ということが基本なわけですよね。しかし仏教では、そういうふうにして「区別をするということは、誤った見方なんだ」というんですね。こういうふうに教えるわけですね。取り分け、分け隔てるということの根本として、この迷いの根本としては、自分と自分以外のもの―他者、あるいは自分と社会、自分と自然世界とかですね。この分け隔てていくということが間違っているというですね。ここが一番分別、誤った見方だという時の最大のメッセージなわけですけれども、しかし当時は、私はどちらかと言えば西洋哲学に半分ぐらい関心があって、割と分析的にものを考えることが哲学だと思っていたので、非常にここのところはショックだったし、なかなかわからないままきたというのが正直なところなんですよね。
 
成田:  では、インド哲学というのは、分析的な部分と分析的でない部分と両面あるということなんでしょうか。
 
丸井:  そうですね。先ほど無分別の考え方もそうですけども、仏教以前からある思想として「ウパニシャッド」がある。「ウパニシャッド」というのは、よくインドの最古の哲学だと言われますけども、ウパニシャッドのメッセージが、「自分とこの世界とが一体である」と。これを日本の仏教学者である高楠順次郎(たかくすじゆんじろう)(明治-昭和時代前期の仏教学者:1866−1945)先生が、「梵我一如(ぼんがいちによ)」と言われている。「梵(ぼん)」というのが、世界の本質のようなもので、「我(が)」というのは〈われ〉で、それが一体であるという。これがウパニシャッドの思想の根本だとされていますけども、先ほど言った「無分別」という考え方も、「自分と他者が一体である」とか、「自分と世界が一体である」とか、これが無分別のあり方の非常に根本の重要な部分だと言われているので、よく似ているんですよね。この傾向というのは、一つのインド思想の流れで、まあ一般に神秘体験とか、日常的なものの考え方を乗り越えていく、そこに真実の世界があるという、こういう思想の傾向が一方にあって、もう一方が、この論理的にものを考えて分析していくという傾向で、この二つは、二大潮流としてインドの思想の中にあって、それがお互い完全に分かれ合っているんじゃなくて、両者が論争し合いながら、分析する智のあり方と、それを乗り越えていく智のあり方と、その両面を抱えながらインドの哲学思想は発展しているのかなと、そんなふうに纏めることができるかも知れませんね。私は、そういった論理的な思考を今日(こんにち)も続けているんですけども、ただある時期からヒョッとしてこのウパニシャッドの「梵我一如(ぼんがいちによ)」の思想や、あるいは仏教の「無分別」の考え方というのは、今日の時代状況の中で、重要なメッセージがそこに含まれているんじゃないかなと思い始めたのは、四十過ぎてから、ほんとに随分遅いことなんですけれども、いくつかきっかけがあったんですけれども、一つは、ある本との出会いなんですね。もう亡くなられたんですけれども、前田利郎(まえだとしろう)先生という方が、私がかつて武蔵野女子大学というところに所属していて、その時の同僚で、現在武蔵野大学なんですけれども、その前田利郎先生は、毎日新聞社の記者をなさっていた方なんですが、彼が私に一冊の本をくださって、それは一九九二年に出た『情報化社会を疑う眼』という本でございまして、彼は、一九七○年前後に生まれた若者たちの思考や行動をつぶさに観察して、彼らを育てた情報化社会の実像を明らかにすること、そこに非常に関心を持っておられて、それで尚且つそのような情報化社会で生きていくためには、どうしたらいいのかと、そういう問いを立てて、このご本に書かれているんですけども、文字通り情報化社会の中に生きたこの新聞記者が、若者を見て、おかしいなと思うようになった。それは情報が多ければ多いほど、どうも若者は自分をこう知らせたくない、あるいは知られたくない、あるいは知りたくないという、こういうメンタリティー(mentality:精神作用、心理作用)を若者が持っているという。これが、彼が分析した結果なんですよね。で、その本の最後の方には、「自然とのコミュニケーション」とか、というタイトルの付いたチャプター(章)があって、それで文学作品がたくさんちりばめられているんです。彼は実はもともと文学者になりたかった。ただ親に反対されて新聞記者になったという面があって、そこにたくさん美しい文学の言葉や詩がちりばめられていて、その中にある一つの詩が紹介されている。それは星野富弘(ほしのとみひろ)さんという有名な詩人でいらっしゃいますけれども、高崎でもって中学の体育の先生をやっていて、体操をしている間に、事故に遭ってしまって、首以外はもう全身が動かないんですね、麻痺した状態。そういう中で詩を書いていくという、そういう活動を始めるようになった。その中に出てきた詩が、なんと「自分は世界と一体となるというのは、どういうことなのか」という、それをフッと私に教えてくれた詩だったんですね。その一つが、「菜の花」と題する詩で、
 
わたしの首のように
(くき)が簡単に折れてしまった
しかし、菜の花はそこから芽を出し
花を咲かせた
 
わたしもこの花とおなじ水を飲んでいる
おなじ光を受けている
強い茎になろう
 
これだけの詩なんですけども。要するに、眼の前にある菜の花が、茎が折れてしまったのに、その後力強く水を吸って、また芽を出して花を咲かせたという。その花を眺めながら、私もこの花と同じ水を飲んでいる、という形で、単にその菜の花を、自分とは違う単なる草花として見ているんじゃなくて、それを自分の問題として引き取って、菜の花が頑張っているから私も頑張ろう。強い茎になろうという、こういう生きる力を貰っているということで。ただこれが菜の花と星野さん自身が一体となって、そして一体となった結果、どうなるかというと―つまり一体となるということは、自分のある種孤独から解放されて、そしてその孤独から解放されて、ある種自分を、自分の苦しみから解放された、その後に自分が力を貰うという。ここが一旦自分を離れて、しかしそれが結果的には自分の生きる力を貰うという。これが一つの星野さんとの出会いになってですね、その後彼の詩をいくつも読んでいくうちに、その中で私がわからなかったような仏教思想のメッセージ、今日お話する「無分別」もその一つなんですけど、それを分かり易く教えて貰ったかなということなんです。もう一つ二つ、無分別に関わる詩について紹介させて頂きますと、これは「まんさく」、そして「同じ大切」という副題が付いている詩がございます。
 
「まんさく/同じ大切」
 
暗いより明るい方を
遅いより早い方を
静けさよりにぎわいを
 
いつから片方ばかり
求めるようになって
しまったのか
どちらも同じ大切
 
今の現代社会の中でもって、暗いのより明るい方、遅いよりもより速く、そして静かで寂しいよりも賑わい―雑踏ですね―そういったことを挙げながら、いつから片方ばかり求めるようになってしまったのか。どちらも同じ大切。先ほど分別の時には、例えば「美しい・醜い」とか、「正しい・間違っている」とか、必ず両極端をあげて、そしてどちらかを選び取ると。これが分別の働き方だと。しかしそれが間違っているよと。すべては平等であるよ、というふうな言い方をしなければならない。それが無分別なわけですね。どうしてそれが間違っていて、どうして平等に見るというのが正しいのかというのは、この詩を通じていくと、何か私どもが先ず片方ばかりに偏ってしまっていて、どちらかが善くてどちらかが悪くてという、こういう形で選び取っていくということが、どこか生きる生き方―生き甲斐ですね、それを見失っているんじゃないのかな、ということに繋がるお話と理解することができるかと思います。もう一つ、読ませて頂きます。「ヤツデ/冬に咲く花」こういう詩がございまして、
 
「ヤツデ/冬に咲く花」
 
夏に咲く花があり
冬に咲く花がある
どちらがしあわせなどと誰にも言えない
 
走る人がいる
自転車の人がいる
車椅子の人がいる
 
最後は自分なわけですね。で、この詩を通じていきますと、物事を区分けするということ、比較するということが当然入っているわけです。比較しながらどちらが善いとか、悪いとか、ある基準をもって選び取ると。しかしこの比較していくということは、星野さんにとってみたら、健常者に比べて自分はまったく身動きができない。惨めだという思いをおそらくされた。しかし自分が惨めだという思いをされる、その根本をたずねた時に、その違い―走る人がいるのに、自分は車椅子だ。で、惨めだという、そういう気持ち。おそらくきっとそれは堪え難い思いがあったと思うんだけども、それを解放する。そういう自分の苦しみから解放するといった時に、区別立てて、どれもがそれぞれの意味があるという。それぞれに意味があるということと、みんなが同じということとは、それは違うかも知れませんけれども、みんなそれぞれ大切。先ほどの詩ですと、「どちらも同じ大切」という。このものを分け隔てていくということが、人と自分とを切り離し、そして自分の立ち位置を、その中で尺度を決めていくという、この思考方法が、人と人との間を分け隔てて、そしてそれが生きる生き甲斐ということからみて、どこか生き甲斐を失っていくような、そういう狭苦しい、そういうあり方に繋がっていく、それが間違っているんだよという。結局何で分け隔てて、ということが間違っているのかというのは、生き甲斐とか、生きるということの根本から離れていく怖れがあるという。それが仏教でいうと、今度はすべてでないと思いますけども、少なくとも私が、無分別の考え方というものについて、フッと思わされた大きなきっかけは、彼のこうした詩なのかなと思いますね。
 
成田:  やっぱり仕事をしたりしておりますと、どうしても、例えば当然のように、何かを比較する。何かを善し悪し区別し判断し、何かこう評価していくというような見方にどうしてもなっていくと思うんですけれども、そこは必要な部分もあるんだけれども、それが生きる全体ではないということなんでしょうかね。
 
丸井:  少し別の角度からお話さして頂きますけども、私がインド哲学を勉強していく中で、大きな転機というか、自分にとっても大きな意味を持つ出来事としては、インド留学というのがございます。一九八○年から八六年にかけて留学したということが、私の中にはいろんな大きな変化をもたらしたんですけど、その一つが、日本に暮らしていた時に如何に自分が気付かないまま、いろんな情報に動かされているんだなということを気付いたのが、大きな一つの経験だったですね。何がインド留学でそう思ったかという大きなきっかけは、日本からお手紙頂くわけですね、いろんな方から。そうすると、当時は俗にいうロス疑惑とか、あるいはグリコ森永事件という、そういう二つの出来事が、どの手紙を見ても必ず書かれているんですね。多分今日もそういった次から次へといろんな事件があり、それがマスコミを賑わし、そしてある時は必ず人々がそれを話題にするということで、当時よりも今の方が次から次へといろんな奇怪な事件が起こったり、戦争があったりということがあると思うんだけれども、それをフッと見て、生きるということは、情報というものに非常に動かされて影響を受けている。勿論情報を受ける際にそれぞれの理由はあるだろうけども、しかしここまですべての人たちが、この二つの事件に神経が集まってしまうというのは、とっても異常じゃないかなということですね。それを思い始めて、先ほどの無分別の話にしても、「分別」というのは、ものを分け隔てる。分け隔てる基準があるわけですね。あるいは言葉も代々伝わっている言葉使いがあって、その言葉使いが、ある分け隔てる考え方の前提にあるわけですけれども、仏教でもそういった分け隔てるという心の働きは、ズーッと昔から心の中に刷り込まれている、「分別の罠」みたいな言い方することがありますけれども、押し被せていく。物事を理解する時には、そういう分別の予め心の中にインプットされている網のようなものを押し被せて、それが如何にも正しいと。客観的に正しいとか、事実として正しいとか、こう思い込んでしまうと。実はそれは心がつくり出しているもので、心が作り出しているものは、自分一人が勝手に作り出しているんじゃなくって、代々そのような分け隔てるようなものの見方が織り込まれていて、私たちの心に共通して織り込まれている何かがあるというこの考え方で、それが先ほどの日本の方々が同じような内容のことを手紙で言ってきて、しかもそれが如何にも自分が生きている世界の中で、それは非常に大きな出来事としてあるんだという受け止め方をされているわけですね。それが重なり合ってきて、やっぱりただ中にいると気付かないけれども、外に出ていくと、必ずしも生活する中でもって、二つの出来事がどうしても自分の生活の中で欠かせない情報であるのか、ニュースであるのかどうかということは、ちょっと離れれば考えられる。ロス疑惑というのは、日々生活するうえではそんな大きな意味を持たない筈のものなんですね。もっとたくさん大きな意味を持つものがある筈なのに、しかしみながそれを話題にしていることでもって、それが如何にも世界でもって大きな出来事であるというふうにして、勘違いしているという言い方が正しいのかどうかわからないけれども、左右されていると。だからそれが分別の網というものと繋がるのかなという、そんな体験がインド留学している時に気付いて、今日のお話に通ずるかなと思うんですね。
 
成田:  日本からインドを見たことで、日本にいた時の自分は気が付かなかった自分の姿が見えたということですね。
 
丸井:  そうですね。自分の、これが哲学するということの意味が通ずると思うんです。物事を根本から考え直すとかいうことで、根本から考え直すということは、普段自分で意識していなかったものを掘り下げていって、それで気付いていくという気付きという、そういうことと通ずるのかなと思うんですね。
 
成田:  そういう意味で丸井さんの方からではなくて、ある種無分別の方から丸井さんの方に気が付いてきたという感じがお話を伺って感じたんですけども、そういうことで丸井さんが受けた影響というのはどんなものなんでしょうか。やっぱりそれ以前に考えていた考え方とは変わってこられたことというのはあるんでしょうか。
 
丸井:  先ほど自分のことを一旦忘れて、自分の苦しみのからを拘らないで忘れて、心を開いて、他者なり―星野さんですと、例えばそれが目の前にある菜の花だったりする。そこから最終的には自分で生きる力を貰うと。これは私なりにこういった無分別―自分と他者との区別を立てないで、結果的にそれが自分にかえってくるという。私なりの譬えでいうと―私は泳ぐのが不得手で、ズッと大人になるまで息継ぎなしで泳げるけど、息継ぎするともう沈んでしまうということで、ズッと苦手意識があって、ただもう生まれつき負けず嫌いなので、二十過ぎて三十近くになって、いや三十過ぎてだったかな、水泳教室に通って、それで四種類の泳ぎを全部マスターするまで頑張ったんですけども、泳げるようになるというのは、こういうことなんだなって、自分の身をもってわかった経験があるんだけども、泳げる人にとって、当たり前のことなんだけれども、泳げない時というのは、水と闘っているんですよね。それで沈まないように、沈まないようにするにはどうしたらいいかというと、必死になって手足をバタバタバタバタやると。でも泳げる人というのは、まったく逆でバタバタしないわけですよね。これを無分別の話に繋げると、要するに水に身体を預ける。水に身体を預けることで、水が身体をなんとか支えてくれる。水と闘っちゃいけないですよね。これがもしかすると、私たちの心のあり方、あるいは思考の仕方の時に、自分自分と自分を守ろうという、で、他者と自分を分けてということが、他者が水だとしますと闘いになるわけですよね。これが結果的に自分を強くしているのかという点を考えていくと、むしろ自分を預けるとか、自分を忘れるとかということが、かえって後になってみると、自分を強くしてくれるとか、自分が他者から生かされるとか、こういう方向性があるのかな。そんな多分こういうのはパラドックス(paradox:逆説)の真理というのかな、逆説的な真理というので、無分別智というのも、多分逆説的な真理に当たるんじゃないかと思うんですね。日常的には物事をこう分け隔てて考えていかないと生きていけないんじゃないの、というのが、しかし分け隔てていくと、結局自分が孤立していくよ、とか、自分というものが生きる力を失っていくよ、みたいな。だから一旦自分を忘れて物事を分け隔てのないようにして見ていったものが、最終的には自分を支えてくれるんだよ、みたいな―少し乱暴な言い方かも知れないけれども、やっぱり案外ですね、大事な真理とか、事実というのは、パラドックスがある。逆説的かなということが、その後この無分別の自分なりの出会いから発展してきたようなところがあるかも知れないですね。
 
成田:  現代はその逆の方向にどんどん細かく細かくいろいろな形で、昔はなかったような情報も増えていますし、あるいはインターネットであったり、この先もっとなんか別なツールが出てきたりしますけれども、それにしても人間が生きる時の力をいうのは、そういうところであまり変わらないということなんでしょうか。
 
丸井:  多分二つ基準があってもいいんじゃないかと思うんですよね。つまりこうものを分け隔てるということは、例えば私たちそれがなければ生きていけないですよ。しかしそれ一辺倒になっていくことによって起こる弊害というのは、明らかにあると思われます。今日充分お話できなかった面があるかも知れませんけども、そうするとそれを補完する考え方というのが、無分別というのが一つじゃないかな。こう分け隔てないで、自分を解放していくという、この二つのバランスを取っていく。どちらかというと、現代の思想傾向というのは、物事を割と一つの基準からみようとするとか、あるいは完結して全てを語り尽くそうとする。おそらく科学的な思考の一つの特徴だとは思うんですけれども、それによって見失われているもの、見落とされているものというのはたくさんあって、取り分け生き甲斐―何のために生きるのかといった時に、冷静に考えれば、私たちのいのちがいずれ終わるということは、誰しも考えればわかることで、誰も永遠に生きることはできないわけですよね。そうすると、何のために生きているのかということが、自分の中で完結するとすれば、死をもってすべてが終わると。それは生き甲斐としては何なのかという、この問題に突き当たるわけですよね。やっぱり自分を基準にして、すべてを考えてきた時の見解というものは冷静に考えれば、誰でもわかる。ただ頭の中だけで考えていくよりは、やはり心を柔らかくして、自分の殻のようなものを解放していく。そのために無分別からというものは何か、私の場合ですと、詩を通じてそういうことに気付きがあったわけですね。何かきっかけとなる気付きというものが、きっと日常の中にちりばめられていると思うんですけれども、そこにこう心を解放して、どこか余裕を持たせておいて気付く、そういうものに出会うということが大切なのかなぁって思いますね。
 
     これは、平成二十七年五月十七日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである