波あとに 椿咲くいのちの道を
 
               宮城県南三陸町上山八幡宮禰宜 工 藤(くどう)  真 弓(まゆみ)
一九七三年、宮城県南三陸町生まれ。短大卒業後、東京の福祉施設勤務を経て、古里にUターンした。実家は父親で二四代目となる鎌倉初期から続く神社・上山八幡宮。東日本大震災では神社と家族は無事だったが、自宅は全壊。避難所生活を体験後、二○一一年九月から南三陸町に隣接する宮城県登米市南方町の仮設住宅で夫、長男と暮らす。始めて約一五年になる五行歌では、震災支援者への感謝を込めた作品がCDになったり、自作の絵を添えて絵本「つなみのえほん」を出版したり、歌人としても活動する。宮城大学地域連携センター復興まちづくり推進員。南三陸町志津川地区まちづくり協議会公園部会副部長。
               き き て          大 福  由 喜
 
ナレーター:  今回は、「波あとに椿咲くいのちの道を」と題して、宮城県南三陸町(みなみさんりくちよう)上山八幡宮(かみのやまはちまんぐう)禰宜(ねぎ)の工藤真弓さんにお話を伺います。工藤さんは、神職を務める上山八幡宮は、南三陸町志津川(しづかわ)の町を見渡せる高台にあります。東日本大震災の津波で、工藤さんは、家族と共に仮設住宅に移り住みました。その後復興計画が進む中、神社のお祭りなどで、町の人々と広く交流のあった工藤さんは、町民の声を聞き、復興のためのアイディアに繋げていく「復興まちづくり」推進員にならないかと声を掛けられました。今「南三陸 椿ものがたり」として、あらゆる世代の人々が共に町の未来を思い描く活動となっています。聞き手は大福由喜ディレクターです。
 

 
大福:  今、 「復興南三陸 椿ものがたり」という形で、「物語」という言葉を、工藤さんは使われているんですけど、物語というのはどういう力があるんですか?
 
工藤:  やっぱり「物語」って、こういろんな人が登場する中で、いろんな人の口を伝わって、今に繋がっているというのは、物語の力だと思うんですけど。五十年前に、この神社は、実は低地部にあったんですね。三百年ぐらい低地部で人々を護っていたんですけども、昭和三十五年にチリ地震津波があって、五メートルぐらいの津波が来た時に、お宮は浸水してしまったんですね。水が上がって濡れてしまったので、町で神社のことを守っている方々が考えて、その山に移築したんですね。その移築の話を、私は亡くなった祖父からズッと聞いていたんですけど、「一晩で丸太の上にお宮を載っけて、一晩で坂を転がして山の上へ上げたんだよ」というのを、もうちっちゃい頃から聞いていて、それが凄くイメージとして残っていて、なんか昔からズッと繋がって口伝えで言われているものって温かいなって思うんですよね。
 
大福:  お宮が人々を見守り、またその氏子さんや人々もお宮を守って
 
工藤:  お宮を守ってくれたという。震災後、助かったお宮にお詣りに来る方がいらっしゃっている。お賽銭箱に一円入っていたり、あとお酒が上がっていたり、唯一残った拠り所としてやっぱり人が胎内回帰(たいないかいき)じゃないですけども、またお母さんのお腹の中に立ち帰って戻って落ち着かせて、また一つまた生まれ出るみたいな、そういう場所でもあると思うんですね。縋りたい思いというのがやっぱりあの当時はあったと思うので、そういう場所として残ったというのは、上に上げて頂いたその五十年前の方々に感謝するし、神様もきっと何かしら感じながら、この町をずっと護り続けてきたような気がするし、有り難い一言かなと思うんですね。お互いにお互いを護り合うというのもそこに入っているかなと思うんですね、その物語の中に。うち神社が五社あるんですけど―五つの神社を受け持っているんですね―本務社(ほんむしや)が上山八幡宮で、あと兼務社(けんむしや)という四つの神社があって、荒島(あれしま)神社という―荒島(あれしま)という島があるんですけども、その島の神社の氏子さんをやっていたおじさんなんですけど、その方が亡くなってしまったんですね。その方ってお祭り男で、凄く盛り上げ上手で、それまではあんまり派手なお祭りじゃなかったんですけど、ある時にちょっと盛り上げようというふうになってからは、夜に夜神楽を港で奉納するんですけども、その設えを全部自分で担ってくださって、私が神主になって、父と一緒にお祭りに参加するようになった時に、まだ神主として一年目二年目の時とかに育ててくれた氏子さんというか、私のことを温かく迎え入れて、育ててくれたんですよね。その中心にいた方だったので、そういう繋がりが凄く深かったんですよね。その方が一回逃げたんですよ。浜にいる方で、漁師さんなので、当たり前のように、すぐそういう時には逃げるんですね。それでそのおじさんのお母さんですね、お母さんが車椅子だったので、志津川病院の上の方に避難させてあげて、自分はそこに居たら助かったんですね、多分上の方だったらば。けど何でかお家に戻っちゃったんですよ。何か取りに行ったのか、なんかもう一回戻ったら流されちゃったんですね。その方のことをいつも思っていて、漁師さんなので、海と向き合っているからこそ、神の恵みに感謝してというのは、もう畏れを感じてみたいなのは常にあった方なので、笑顔は常にあったので、大変な時でもね。そういうなんかそれまでのおじさんのお笑顔みたいなのが、そういうのが出てくると、悲しいなというのは、ずっと悲しいですけどね。でもきっと空の上では、今頃豪快に笑っているような気もするんですけど。でもほんとにアッという間に、さっきまで凄くエネルギッシュ(energish:活力にあふれているさま、精力的)にお祭のことを話していた方が、なんで海にもって行かれなくちゃいけないのかなって。海の神様になったのかなって、というふうに思うことで落ち着かせるしかないんですけど。そのおじさんだったら、喜ぶかなとか、どうかなというのはよく思いますよね。でもきっと応援してくれているというか、支えてくださっているような気がするんですよね。なんか津波の紙芝居を作って、みなさんにお伝えしているんですけど、読む前には必ずお祈りをして、その方々に、「その日のことを伝えます」ということを伝えるんですよ。そうすると、きっとお空でね、紙芝居を読んでみなさんに伝えている光景が見れるんじゃないかなと思うのと、やっぱりそこで忘れないでみなさんのいのちの大事さとか、尊さとかを、自分のこととして還元していけばいいかなって。お祈りになるかなと思うので、毎回私はその日に戻るということを繰り返すんですけど。で、「それを読んでいて悲しくならないんですか?」って、小学生とかに質問を受けたりすることもあるんですけど、悲しいけど、その悲しかったということを思い出すのに意味があると思うので、こう進んでいくためにはやはりそれを受け入れるということが手前にないと、次ぎに行けないと思うんですよ。それを見なくちゃいけないですけど、そこから目を反らして、なんとなく有耶無耶にしちゃうと、ほんとに受け止めた力にはならないと思うので、次の力を生むためには必要な気がするんですね。だから息子とも津波のことを―あんまり小さい子とはそんなこと話さない方がいいかも知れない。だけど、よくよく喋っていましたね、その津波の体験の話を。そういうことによって彼の中で、〈でも神様はこう思ったんじゃないか〉とか、〈故郷はでもあるんじゃないか〉とか、次ぎに行けるわけですよね。そうしないと、多分トラウマみたいになって、ズッと悲しかった思いがボヤッとした形で残るというふうになっちゃうと思うので、やっぱり悲しみをちゃんと受け止めるためには、泣いたり、話したり、伝えたりというのは、もしかしたら私のためにもなったのかも知れないんですけど。津波の話とかをみなさんにする時には、いつも涙が出るんですけど、亡くなった方々のいのちの積み重ねをこう抱いて、こう一つ乗り越えた時に、自分の鼓動と重なって一緒に生きたという、そういう瞬間をたくさん自分の中に作っていくことで、私は供養ということをしたいなと思うんですけど。
 
大福:  今、「南三陸椿ものがたり」、いろいろな仮設の方とお茶会をしたり、いろんな方の話を聞いたりして、ほんとに世代を問わずいろんな方の声を聞いて、それを具体的な町づくりのビジョンにしていくということをされていますけども、もともとのきっかけはどういうことだったんですか?
 
工藤:  そもそも「椿で町づくりしようかな」と思ったのは、震災の二年目の春にあるお婆さんが教えてくれたんですね、私に。「真弓ちゃん、あのね私が元気でいるうちに、町できるかわからないけど、もし町に何か植えるんだったら、椿の木を植えなよ。椿の木は波に強いし、波に強くて残ったから、津波に強い木を植えるといいと思うんだ」って。「でもこんなお婆の話、誰も言わないでね。誰も信じないから」と言ったんですね。それで、私、それ聞くまではわからなくて、椿はあったけど、生き残ったということはわからなくて、実際見たら、津波がその川を遡上(そじよう)して山の方まで入って、本来入らないと思ったところまで波が来たので、杉が全部立ち枯れてしまったんですね。一列目の杉がかなり立ち枯れて、茶色くなっていて、これまで波が来たよというのを色を変えて教えてくれていたんですけど、その間に種から落ちてゆっくり根深く根を生やして自生していた椿は生き残ったんです。塩水が当たったのは、その根っ子の上の一部だけで、本来の一番重要な先の根のところには、塩水が届かなかったんです。杉と杉が立ち枯れていて、その中で椿は生き残って、その年に花も咲いたんですよ。次の年も花を咲かせて。で、そのお婆さんが言ったところから、いろんな人たちのところにその話を広げていくんですけども、そこで〈南三陸椿ものがたり≠ニいう復興のあり方があるといいな〉というふうに思って、で、積み重ねをする中で、先ずその物語を、「椿は生き残ったんだ。塩水に強くて、生き残ったんだ」というお話を弘めるだけで、一年間かけてじっくり弘めていったんですけど。よっぽど私よりか、お婆さんたちの方が椿のことは詳しかったんですよ。三陸沿岸は椿がたくさん自生しているもともとの所だということと、それこそ津波が来る五十年前ぐらいまでは、油絞屋(あぶらしめや)さんがあって、みんなで自分の家の近くの山から椿の実を拾って、油絞屋さんに届けて、油を絞めてもらって、頭に使ったり、板の間に使ったりとか、いろんな用途で使っていたんですって。で、その椿の思い出を聞いたんですね。その中であるお婆さんは、「落ちた椿を紐を通して首飾りを作って遊んだんよ」とか、「蜜を吸ったら美味しいんだよ」とかというお話を教えてくれて、そんなに豊かなものが内包されているんだという。それまではやっぱりポトンと落ちるから、あんまり縁起が良くないという。あとはちょっと地味ですよね。そういうマイナスのイメージがあった椿が、実はいろんな可能性を持っていて、そもそも根っ子がそんなに強くて、それを避難道にして植えたら、未来の子どもたちがその木を目指して逃げれば助かることができるんじゃないかな、というふうに、どんどん物語が広がっていったんです。それを一枚の絵を描いて、それを「こうしたらこうなる」ということを先にやっちゃったように描いたんですね。で、避難道を作るとか、子どもたちの教育に使うとか、産業に結び付けるとか、あと観光に結び付けるとか、いろんな切り口でできるかも知れないということを絵にして、今の季節だったら何ができるのかなというふうに、今度は椿に合わせて展開していったんですね。普通の自生している椿は、二、三年土の中で黙ってしていて、それで漸く芽を出すので、そのくらいのゆっくりさがないとほんとの椿物語にはならないな、と思ったので、先ずは急がない。ゆっくり丁寧にやっていくという。椿で何ができるかとか、椿でできるのかとか、そこの初めから一緒に作っていく活動をずっと続けているんですね。町に合ったもの。木を植えることで少しでも懐かしかったり、この町らしい未来って作っていけると思うので、それでその一つに椿というのは、なんか歴史がある花ですよね。そういう歴史のある花をもって、新しい未来を作れば、懐かしい未来ができるんじゃないかなと思うので、なんか新しい未来だと、違和感があるというか、誰が作った町なんだろうとなっちゃうと、住む時に居心地がよくないと思うんですね。懐かしかったらそれだけで、人はホッとするので、要所要所に昔の片鱗というか、懐かしさが刻まれているんですよ、この町は、となると、公営のお母さん方も住みいいというかね。あとは子どもたちもこの町の子どもたちとして育っていけるかなと思うので、懐かしい未来を目指して椿を植えるという感じですね。
 
大福:  ほんとにみんな笑顔で復興会議をしているみたいですね。
 
工藤:  それって土台に懐かしさがあるからだと思うんですよね。どっか知らないところへ連れて行かれて話をするんじゃなくて、知っている懐かしい自分の家とかに居ながら話しているような感覚になるんじゃないですか、椿という思い出が共通にあるので。「それが実は今からの復興に役立つんですよ」と歌ってあげるのも嬉しいと思うし、あら、おらが役に立っているんだというふうに、こんな年寄りだけどねって。役割って大事だなと思うんですよね、何歳になっても。ちっちゃい子には種を削る役割があって、大きいお兄さんには苗木を植える役割があって、お母さんたちにはその思い出を語る役割があるんですよね。みんないろんな色の役割があるのがいいなと思って。多分そういう役割がないと、復興して落ち着く町を待っているという。待っているだけの時間だと、文句が出るわけじゃないですか。明日、いつ死ぬかもわからないのにみたいな。まだなのかとか、遅すぎるとか、この町は遅すぎ、どこどこの町はもう早いとか比較するんですけど、それって待っているだけだからそう言うんですね。でも実際に種を植えて避難道を作りましょうとかの一員になって参加すると、〈あら、いつ出るんだね〉というふうに、待つ意味が変わってくるというか、何かやっていれば、ちゃんと目標があって、ゴールを目指して待つわけだから。〈私が生きている時でなくても、椿の避難道できればいいな〉って、想像にまでいくわけですよ、八十六歳のお婆ちゃんが植えたりするとね。「私の力で一本でも残せれば」というんですけど、きっかけをこちらで作るだけなんですけど、今や私じゃない人の方が、「椿の避難道、椿の避難道」と言って、おばさんたちがいるぐらいわかりやすいですよね。避難道を作る。それを椿で作る。何か手芸のものを売って、苗木代を集めるとか、お母さん方の得意な分野なんですよね、育てるというのは。
 
大福:  なんか町づくり復興という、守るってくれるコンクリートの何かで守ろうとか、防潮堤とか、そういうことが先ず話題にあがりますけど、椿が植えられている道で、いのちが救われる避難道を造ろうというふうに伺うと、なんかそこに笑顔があるような、そんな気がしますね。
 
工藤:  そうですよね。なんか「より固く、より強く」というよりかは、むしろ「より柔らかく」の方が護れると思いますね。みんなどんどん強固に強靱化するじゃないですか。でも本来この国って、日本という国って、もっと柔らかかったと思うんですよね。波来たら「いなす」とか、「流れる橋を造る」とか、もうちょっと自然に添(そ)って生きていたのが、この国の良さだったと思うんですけど、どんどん固めて固めてって、外からの攻撃から身を固めるような感じで、自然から自分たちを護るという手法だと、適わないのにそれをやっているのは凄く虚しいなと思ったりもするんで、それはそれでありつつも、もっと柔らかく自分の中にもっていないと、ずっとぶつかり合って生きていかなくちゃいけない気がするんですよね。ただ「交(か)わす」とか、「いなす」とか、「受け入れる」とか、「包み込む」とか、「溶かす」とか、なんかもっと柔らかい手法の方が、実はより強いものを生み出す気がしますね。そういう意味では、椿は柔らかくしてくれる、復興の道程を。いのちの道なんだけど、強い道なんだけど、そう思わせないというか、あと時間をくれる。すぐにも咲かないし、「そんなに早く出ないよ」と教えてくれたり、それが我慢して待つ時間じゃなくて、わくわくして待つ時間になるんですよね、椿の苗が育っていく時間が。
 
大福:  復興と言った時に、急がれる面というのを、目の当たりにしながら、その時間軸がちょっと違ってくるというか、
 
工藤:  五十年後を考えているんです。今今(いまいま)じゃなくて。今今(いまいま)を考えなくちゃいけない世界もあるので、それは勿論有り難いと思うんですけども、一方ではそのくらいのスパンで見る感覚のものがないと、逆に不安なんですよね。だから今私が見届けられるとは思わなくとも、いずれ五十年後のこの町の誰かが、ああ、五十年前にお宮を丸太に載っけて助けてくれた人と、私は会わないですけども感謝するように、その「五十年前の誰かが椿を意識的に植えてくれたんだね」とかって言ってくれれば良いんであって、その時に津波が来て、そこに逃げればそれで充分なんで、目標は五十年後なんです。五十年間何かしらの活動でそれを繋げていきたいなと思っているから、子どもたちが物語には絶対必要。どんどんいろんな新しいものが、人の手によって生まれれば生まれるほど、隣のものよりこっちの方がいいかなとか、大人になればなるほど、それが比例的に増えていくじゃないですか。如何に物が多くて、美しくて、立派で、強くて、固くてみたいな、そういうところなんだけど、津波で全部根こそぎ持って行かれて、ぐちゃぐちゃになった町の中に、浮かび上がって見えるものみたいなのがあったような気がするんですよね。ほんとに大事なものって「これなんですよ」というか、それでいったら本当の美しさとかというのは、土の底にある根っ子みたいなもんで、見えないけど、実はそこが大事だということを、私たちは上の風景だけで全部判断してしまうから、「そうじゃないよ」ということを教えて貰った気がするんですよね。子どもたちを見ていて思ったのは、山があって、海があって、空があって、という豊かさなんですよね。だから津波があって、町も壊れたんだけど、そこから壊れたオモチャを拾えるし、洗えるし、また使うとすぐ思えるというか。それが壊れたからダメなんじゃなくて、壊れたオモチャとして愛しめるというか。それが震災後の子どもたちの行動の中に見えたんですよね。泣くとかじゃなくて、探す、洗う、また使うみたいな。大人はそこまで追いつかないじゃないですか、被災直後はですね。でも、子どもたちは歌ってたし、ピアノ弾いてたし、ビスケット分け合っているわけですよ。何でかなと思ったんだけど、それはやっぱりもっと違う場所を見ながら生きていたという。あの瞬間の後でさえですね。それがこう大きい揺るがないものというか、普遍的なものの豊かさを起源に生きている時代だからできたのかな。大人になってくると、そうじゃなくて、物質化してくる、豊かさが。じゃなくて、見えない風とか、光とかの豊かさを、子どもたちはよりわかるから、大人より強かったような気がしますね、子どもたちの方が。その子どもたちの想像力に支えられていた気もしますね。そういう感覚を持っていないと、こういう天災が起こった時に、人は多分もうダメだみたいな、そこから立ち上がるのに凄く時間は掛かると思うんですけど、一方ではそういう世界があるんだということを、いつもの平和な時に思っていた方が、天災はいつ来るかわからないので、その時に自分が乱れるのを少しでも防いでくれるというか、感覚になるんじゃないかなと思うんですよね。両方の目線を持っていることというのは凄く大事。だから子どもといると、凄い教わることがたくさんあります。震災から九ヶ月が経った時に、南三陸の志津川から四十分離れた内陸のところの仮設住宅に今も住んでいるんですけど、そこから保育所に通って―一年目の十月ですね―通っていた時に、車の中で、「お母さん、ゆうすけにはねぇ、こわれたふるさとがあるんだよ、志津川!」と言ってくれたんですよ。トンネルの中の真っ暗な中で言ったから凄く覚えていたんですけど、みんな故郷(ふるさと)壊れたということで始まっていたんですね。九ヶ月間ずっと悲しいけど、いろんな方々の支援を有り難く受けて過ごしていたんですけど、息子はその時点で、もうあったというんですね、ただ壊れただけでね。「故郷(ふるさと)はあるんだよという。もう一回確認してね」という感じで言ってくれた時に、トンネル抜けて町に着いて見たら、空もあるし、山もあるし、川も海もあるわけですよね。そういうところをやっぱり見れば、また違うよということを、息子の声を借りて、神様は教えてくれたのかなというふうに思うような気がして、そういう目線がそれまではなかったかなという。神職をしていて、祈るというのが仕事で、ずっとやってきたんですけど、なんか本当の祈りの力というのは、震災後にみんなに教えてもらったというか、いろんな方々が祈ってくれたから、いろんなものが落ち着いていってとか、何かまた希望が生まれてというのは、祈りの力だと思うんですよね。祈るということが、実は凄く何かを生み出す力を持っているだというのは凄く実感したので、活動にしても、そこにどれくらい祈りが籠もっているかによって、それが永遠性をもつか、その場限りで終わるかというのは、祈りのなんか深さだと思うんですよね。きっと何か未来まで繋がるものになるかなというふうに。
 
大福:  本当に大変な震災という出来事があって、「椿ものがたり」のもとに懐かしい未来、町を造っていこうとされている工藤さんにとって、椿というのは何を教えてくれたもの?
 
工藤:  本当の「美しさ」とか、「強さ」とかというのは、秘めているところにあって、たくさん悲しいことがあっても、でもいざという時には、人を助ける力になるというもの―私は「椿だった」という。他の人にはまた違う大切なものというのはきっと生まれたと思うし、それ信じたいなって思っています。
 
大福:  今日はどうもお話ありがとうございました。
 
 
     これは、平成二十七年五月三十一日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」で放送されたものである