子供のための仏教
 
               大阪市生野区速成寺前坊守 青 柳(あおやぎ)  田鶴子(たずこ)
               き き て        金 光  寿 郎
 
ナレーター:  今日は、「子供のための仏教」というテーマで、大阪市の速成寺(そくしようじ)前坊守(ぼうもり)・青柳田鶴子さんにお話を頂きます。青柳さんは、大正十五年(一九二六年)のお生まれ、お寺で育って、毎週日曜日に開かれる日曜学校を手伝っているうちに、仏法の広い世界を知りました。そして小さな子どもたちにも、見えないものを見る目、聞こえないものを聞く耳を持つ仏の子になってほしいと思うようになり、小学校低学年の子どもたちが多かった日曜学校で、仏法を易しく話すようになりました。昭和五十五年には、日曜学校代表者として正力松太郎賞を受賞され、日曜学校でのお話が本になって出版され、版を重ねます。その後地域の子どもたちの数も減り、日曜学校もお休みになりましたが、今もこの本を自費で復刻して知人に配っている篤志家(とくしか)もお出でになるそうです。今日は大人も子どもも、男性も女性も平等に救われるという仏教を、青柳さんが子どもたちにどのようにお話になったのか、お伺いします。聞き手は金光寿郎ディレクターです。
 

 
金光:  今日は、「子供のための仏教」というようなことで、青柳さんが、今は現役を退いていらっしゃるようですけれども、昭和の時代に日曜学校で子どもさん相手に日曜学校で仏教のお話をなさって、それをいろんな方のお勧めもあって、本になって出ているわけですが、それを拝見しますと、仏教の大事なところは、やっぱり易しい言葉で書いていらっしゃるというので、もう一度昔のことを思い出してお話して頂いたらと思ってお邪魔しているんですが。
 
青柳:  恐縮です。
 
金光:  感心しましたのは、一般にみな幸せになりたいと、お正月なんかにお寺さんやお宮さんにお詣りして、幸せになりますようにとか、ということで、お願いするお詣りが多いんじゃないかと思うんですが、幸せというのは、どういうことかというのをご説明になっていらっしゃるのが、なるほど、そういうことかと思ったことがあるんですが。
 
青柳:  「ありがとう」と思う心がたくさん起こる人ほど幸せだなと思うんですけど。
 
金光:  これどうすればだんだんそのように気が付くようになられるんでしょうか。何でも当たり前と思っていると、思うようにならないし、これがもしなかったらどうだろうかと。今ある現実というものを、だからよく見なければいけないということなんでしょうけれども、その辺のところはやっぱりいきなり日曜学校で子どもさん集めて、そういう話が出てきたわけではないわけでしょ。やっぱり長い間に子ども向けの話というのは、こういうふうにしたら、というふうにお考えになったんじゃないでしょうか。
 
青柳:  前からやられた方のお話を聞いたりしている間に、当たり前のことが当たり前でなかったな、有り難いことやったな、ということが気付くんですけど。
 
金光:  これやっぱり何かなんかのことで、例えば子どもさんに伝えるのには、こういうことを教えなければいかんとか、なんかきっかけというものがあったわけじゃないですか。
 
青柳:  そうですね。いつもなんともなく過ごしていることが、考えてみたら有り難いことだったなあというのに気が付くんですけど。
 
金光:  本人が気が付いてみたら、どうということはないんでしょうけども、それがそこまでがなかなかそう簡単にいかないでしょうね。
 
青柳:  そうですね。やっぱりお話を聞くということが大事だと思うんですけど。気が付かないことに気が付いてくると思うんですけど。
 
金光:  ただ自分が気が付かないことに気が付くというのは、最初はあまり嬉しくないんですよ。耳が痛いことも聞かなきゃ自分の思っていることを言われて、自分だと同じだと思っているだけでは新しいことには気が付きにくいと思うんですが。
 
青柳:  やっぱりお寺でいろんなお話を聞いている間に気が付いてくると思うんですけど。
 
金光:  その辺でやっぱりお寺でご自分で聞かれたことを消化した形で子どもさんにも話していらっしゃるでしょうけれども、例えば「四つの食べ物」というようなことを書いていらっしゃるとこもあるんですね。「四つの食べ物」の場合は、「口だけではない食べ物がある」と書いていらっしゃいますね。
 
青柳:  耳から入ったり、目から入ったり、身体から入ったり、いろんな入り方があると思うんですけど、気が付かずにそれを頂いていると思うんです。
 
金光:  それもちょうど纏めてくださっているのを拝見すると、月毎に分けて書いて配列してあるんですけども、九月のところに「四つの食べ物」のお話をされたというのが載っかっているわけですが、そのすぐ前に「嬉しいこと」というのがあって、「もしそれがなかったらと考えると、嬉しいことが見つけやすいんだ」というふうに書いていらっしゃいますが、口から入る食べ物というのは、これは誰でもすぐわかりますけれども、目から入る食べ物というのは、例えばどんなことだとか、目から入るというのは、人がいろんなことをなさっているのが、それは、
 
青柳:  善いことをなさっているのを見たら、「あ、自分もああいう善いことをしたらいいな」という気持ちになりますから、目から入ることですね。
 
金光:  耳から入るというのは、これは仏法の話のことなんかおっしゃるわけですね。
 
青柳:  そうですね。善いことをした人のお話を聞いたり、感心するお話が耳から入る善いことですね。
 
金光:  それと同時に、そういうものが自分の心に染み込んでくるという、心まで響かないと、心の食べ物にはなかなかなりにくいと思うんですが、やっぱり普通は心の食べ物なんてことを考えませんでしょうから、心の食べ物というような心の問題になってくると、なかなか自分で自分の心を見るというのはなかなか難しいんじゃございませんか。
 
青柳:  それで、そういうお話を小さい時に聞いてくださっていたら、心の目が開いてくるんではないかなと思うんですけど。
 
金光:  やっぱりその心の目が開いてくると、それはお話を聞いた時だけではなくて、日常生活で目にすること、耳にすることなんかについての受け取り方も変わってくるもんでしょうか。
 
青柳:  一度そういうお話を聞いてくれたお子たちは、思い出してくれると思うんですけど。
 
金光:  いろんな出来事をそれぞれの境遇の中でみなさん大きくなったらおありになると思うんですが、やっぱりそういう出来事を受け取る受け取り方というものが変わってきますでしょうね。
 
青柳:  小さい時にそういうお話を聞いた人と聞かない人とでは変わってくると思うんですけど。
 
金光:  「布施」という言葉がありますけれども、日本語でいうと「施し」になるでしょうか、そういう「施し」というのは、これは普通は物を与える。お金とか物を差し上げることを施しというわけですが、言葉の方の施しとか身体の施しというものもあるわけですね。
 
青柳:  そうですね。
 
金光:  「施し」も、こういうのも施しなんだよ、と書いていらっしゃる。なかなか気が付かないところも書いていらっしゃるんですが。
 
青柳:  善い話を聞いたら、それは耳の施しになりますね。善い行いを見たら目の施しになると思うんです。
 
金光:  そういう施しを自分もすることができるということは、話を聞いている時と聞いていない時では随分違いますでしょうし、お話を聞いて、そういう施しというのは、やっぱり繋がりができる。それこそ今で言う「絆」ができる非常に貴重なチャンスだという気もするんですが。
 
青柳:  小さい時に、そういうふうなお話を聞いた人と、全然聞かない人とでは大人になって違ってくるように思うんですけど。思い当たることがいろいろ聞いた人には出てくると思うんですけど。その時はそんな気は全然なくて、お話していますけど、考えてみたら、大人になってヒョッとしたら思い出してくれているんではないかなという気はします。
 
金光:  その頃の子供会の「誓い」というのがありまして、
 
一、私たちは仏の子どもになります
二、私たちは正しい教えを聞きます
三、私たちはみんななかよくいたします
 
というのがあるんですが、いずれも大事なことですし、これも仏法の教えの大事なところが、ちゃんとそういう中に入っているわけですが、一番最初に、「私たちは仏の子どもになります」という。これはどういうふうに説明なさっていました。子どもというのは親から生まれている。それでこういう説明もなさったらしいというか、忘れていらっしゃるかも知りませんが、「仏は心の親である」と。「身体の親は父母である」と。「身体の親が父母だ」というのは、これは誰でもわかるんですけれども、「心の親が仏さんだ」という説明。これはそうなんでしょうけれども、それに気付いて貰うというのは、なかなかこれは一生の仕事かも知れませんけれども。でもちゃんとそういう「心の親というのに気が付きなさいよ」ということをお考えになっているから、こういう言葉が出たのかなと勝手に想像するんですけど。やっぱり仏の子というのは、大分その頃は日曜学校でもあるし、そういうことをなんとか子どもさんにわかって貰おうとお考えになったんでしょうね。
 
青柳:  そうですね。もともと仏さんのような善い心を持ってるもんだということをわかってほしいなと思いましたけど。
 
金光:  そういうことに気が付くと、虐めの問題なんかも出てこないんでしょうけども。
 
青柳:  本当ですね。
 
金光:  これはしかし仏の子どもということを、自分が「そうだ」と思えるということは、もう一つ自分というもの、自分のいのちがどういうものかと。今生きている「いのち」というものについての気配りというか、気付きがないと、なかなか仏の子とは思えないんじゃないかという気もするんですが、「二つのいのち」ということを話されることがあるんですね。一つは、今生きている動物にしても、みなそれぞれ生きて一生生まれて亡くなるというのを「いのち」と思っている人が多いと思うんですけども、そういう形として現れているいのちを掴まえるのも確かにそれはいのちですけども、もう一ついのちがあるというふうにおっしゃっていますね。「二つのいのち」ということをおっしゃっていますが、そういう掴まえられるいのちをそういうふうな働きとして、私たちに与えてくださっている働きが、見えないいのちとして働いてくださっているんではなかろうかと。それを「仏さん」という言葉でおっしゃっている。真宗でいうと、「阿弥陀さん」という、その働きがもう一つの本当のいのち、私たちのいのちですよ、ということをおっしゃろうとしたのかなと思って拝見したんですが。
 
青柳:  その通りです。
 
金光:  これはしかしやっぱり相当自分というものがどういう存在であるかと。まあ確かに両親の元で生まれているわけですけれども、それだけではなくて、子どもから大きくなるのには、いろんなものを食べたり、いろんな教えを聞いたり、学校で習ったり、いろんなことを全部結果として自分と思っているものになっているわけですけれども、その辺のところを気が付くことができると、今生きているという、生きていることに対する認識も、大分変わってくるような気がするんですが。私、こういう言い方があるんだなと思ったのは、大体「何のために」というのがあるんですよね。「何のために人間で生まれているのか」「あなたは何のために」という。これ聞かれたら即座に返事できる人はなかなか少ないんじゃないかと思うんですが、そのことを子どもさんにおっしゃっていることを、記憶なさっているのか、「何のために」。その「誓い」と一緒なんですけれども、「私たちは仏の子どもになります」という。
 
青柳:  仏の持っているような心の人間になりたいなという気持ちが、「仏の子どもになります」という言葉になっているんですけど。
 
金光:  やはり自分の心を先ず見ないと、人のことはすぐわかるんですけども、自分のことはなかなか気が付かない。
 
青柳:  そうですね。
 
金光:  自分の心の方に目が向かないと、自分も仏さんの子どもであるということには気が付かないということでしょうから、その辺のところをこういうことが問題としては毎回どっかにこれを何とかしてほしいというような気持ちで、いろんな表現になっているのかなと思いながら拝見したんですが。
 
青柳:  会の初めにその言葉をいうのは、改めて仏さんのような心の子どもになりたい、なってほしい、という気持ちから、その誓いの言葉を毎回言うんですけど。
 
金光:  いろんな例を挙げながら、そういう世界のことを知って貰おうと思ってお話になっていらっしゃるんですが、例えば「思い違い」というので、太吉(たきち)さんという農家の人の例と、それからまた別の人の例を挙げて説明されていますが、その農業の太吉さんという人は、自分の田圃が駅になるんで、高いお金で田圃を買って貰って、お金持ちになった。ところがお金持ちになったら幸せかと思うと、必ずしもそうでなくて、太吉さんの場合はどういうことだったんですか?
 
青柳:  お金が一番望みだと思っていたら、そのお金のために身を潰すことになってしまうんですね。元の人間ができてなかったら、お金のために身を潰すことになりますし、貧乏でも心がしっかりしていたら、
 
金光:  そうですね。お金が貯まっても、その使い道が世のため人のために使えるようなお金でなくて、自分の欲望を満足させるためだけの使い方だと。
 
青柳:  身を潰してしまいますね。
 
金光:  その可能性の方が強いでしょうね。世の中には、お金を基準において考える人もけっこう現代は殊に増えているような気がしますが。
 
青柳:  かえって多いですね。
 
金光:  それと同時に、良い学校へ行って、良い会社に入ってというような、良い家庭を作って幸せに暮らしました「目出度し目出度し」という方向にいきたいと思っている人がけっこうお出でになるようですけれども、やっぱり良い学校へ行って、良い会社に入ると、それが即ち幸福かというと、必ずしもそうではないようで、またその例などを挙げていらっしゃるようですね。これは七月の中に入っている言葉ですけれども、「心の病気」ということで挙げていらっしゃるんですね。ということは、そういう近視眼的なものの見方しかできないのは、自分の都合だけ考えるこれは心の病気でありますと。お金のことしか考えられないのは、「欲張り」という病気であるというようなことをおっしゃっているんですけども。人間の心の病気でいろんな例を挙げていらっしゃるんですが、これは「貪瞋癡(とんじんち)」のことをおっしゃっているのかなと思って拝見したんですが、一般向けには「欲張り病」とか、「怒り病」とか、それから「すね病」と書いてある。「拗(す)ねる」ということね。そういうふうな「妬(ねた)み病」等々書いていらっしゃる。子どもさんに分かるように「貪瞋癡の三毒」なんていうのを分かり易くいうと、「欲張り病」は貪(むさぼ)りでしょうし、「怒り」は怒りでしょうね。すぐ腹が立つ。しかも自分の都合が都合良くいかないと腹が立つ。自分が悪くなくて、相手が悪いと。これもやっぱり病気のうちだというふうに。「拗ね病」というのがあって、やっぱり「拗ねる」というのはありますか。現実見ているといろんなケースがありますね。「妬み病」というのは、なんか自分よりも、他の人がなんか幸せになっていると、つい妬ましくなるみたいなことも勿論あるわけでしょう。そういうものは、その次の八月に、これは現在はあまり流行らないかも知れませんが、「恩」という。「恩がある」とか、「恩返しだ」とかの「恩」ですけど、「恩というものに気が付かない人がいる」というふうなことを書いていらっしゃいますけどね。「恩ということになかなか気が付かない」という現実が、何でも当たり前だと思ってしまいがちなもんですから、その辺のところがあるかと思うんですが、これについては、恩についてはどんなことをお考えになっていらっしゃったんですか?
 
青柳:  やっぱり気が付かないで、ご恩を受けていることがいっぱいあるという。気が付いてほしいなという気持ちでお話したんですけど。
 
金光:  なかなかしかし子どもから大きくなる間に、そういうことには気が付かないで大きくなっていますので。
 
青柳:  ほとんどがそうですね。みんな「当たり前」と思ってしまうんですけど、考えてみたらご恩だらけの中にいるわけです。
 
金光:  やっぱりそのことに気が付くのには、当たり前と思っている当たり前が、ほんとに当たり前かどうかということを、当たり前を外して、もう一度見直してみることができると随分新しい気付きも出てくるわけでしょうね。
 
青柳:  そうですね。気が付いてみたら、ご恩の中。ご恩いっぱいの中にいる自分だなということがわかって、自分が幸せな気分になるんですけど。気が付かない人は不足とか不満だらけの中にいるような気がします。
 
金光:  その辺のところに気が付くと、あれ!こういうことも見えてくるのかなというふうに思えたのが、例えば十一月にあります「三人の天使」というのがありまして、お釈迦さんがお弟子さんに、「あなたたちは三人の天使に会ったはずだ」と言われて、「えっ!会ったことがありません。記憶がありません」と答えたら、「そんなことはないだろうと。病気で苦しんだ人に会っただろう。病気で苦しんだ人というのはあなたもいずれこういう病気になることがあるんですよ、というのを教えてくれる天使でありますと。それから「白髪でしわしわで腰曲がりの年寄りに会ったことはないか」と。「いやあります」と言ったら、「これは自分も、あなたたちも、いずれ白髪になったりしわしわになったり、腰曲がりの年寄りになったりすることを教えてくださる天使であります」。三人目は、「亡くなった人を見たことはないか」と。「いのちを失った人というのは、いずれあなたもいのちを失うんですよ、ということを教えてくれた天使であります」と。そう言われてみると、確かに天使という言葉でピンとこなかったのかも知れませんけれども、そういう人をみても病気の人を見たら、気の毒だと思っても、自分がなるとは思わないし、年寄り見たら、みんな年寄りにはならないつもりでいますから。そういう年寄りも、自分が将来そうなるんだということを教えてくださる人だ、というふうに見えるようになると、随分違ってくるんでしょうけどね。というようなことを若い頃おっしゃっているわけですけれども。
 
青柳:  そういう目を持ちたいなという思いですけど。
 
金光:  「平均寿命」について書いていらっしゃるんですね。これも「平均寿命」というのは、確かに統計的に、現代の日本だと、男性が八十、女性が八十六、七か忘れましたけども、それが平均寿命だというふうに言われると、あ、自分の歳と比べて、まだあるとか、自分は超えているなとか、そういうことを考えるのが普通でしょうけれども、それは平均寿命であって、自分の寿命とは関係がないとおっしゃっているんですね。これはやっぱり仏法で一番大事なのは、「いま、ここで自分というものがどうか」ということで、そこのところみることによって寿命の考え方が変わるということをおっしゃっているんですね。「今が臨終だ」ということをおっしゃっている。
 
青柳:  「いつでも、今が臨終と思って生きない」という。
 
金光:  いのちというのは、今の瞬間ですから、昔こうだったとか、先になるとなんとかなるだろうというのは、頭の中で考えていることであって、今の現実のいのちが状況というのは「今この瞬間」のことであります。
 
青柳:  まったくその通りです。
 
金光:  しかも「今の瞬間」の中に過去のこともあれば、未来への種もあれば、そういう含みの上での今現在。だから固定したものではなくて、刻々と移り変わるそういういのちを与えられている自分で、しかもそのことは、自分が、大人も子どもも仏さんの子どもだということに気が付くかどうかというのが一つの大きなポイントのような気がしますけれども。
 
青柳:  おそらくその通りです。
 
金光:  でも子どもさんに教えるというのは、かなりいろいろ考えますでしょう。
 
青柳:  教えるという気は全然なかったですね。一緒に遊ぶという気持ちで一時間あまりを週に一回過ごしたんですけど。まったく子どもたちと一緒に遊ぶという気持ちが初めから終いまで。
 
金光:  そうですか。
 
青柳:  はい。お話を聞かすという時は全然なかったですけど。みんなが遊びに夢中になってくれたら一番成功したなと。
 
金光:  それはそうですね。「煩悩の林にいて、融通無碍ならん」ていうのがありますけれども。
 
青柳:  その通りです。
 
金光:  ほんとに悠々と遊戯の気持ちでそういう生活ができると、生きているということはほんとに楽しいことになるんじゃないかと思いますが、どうも有り難うございました。
 
     これは、平成二十七年六月二十八日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」で放送されたものである